影踏みアリア 8



 帰ったら連絡くれるって言ったくせに、と珍しく怒った声で優子から電話がかかってきたのは、阿部が三橋の家から直接大学に行った後のことだった。
 阿部は三橋と遅くまで話し込んで、三橋のベッドと向かい合わせになったソファーベッドにもぐりこんだ。おやすみと言い合って電気を消しても、お互いが起きているのが分かる。寝ろよ、阿部くんこそ、というやり取りを何度も繰り返して、結局途中から二人とも息をつめていた。何だかやけに楽しくて、ちっとも頭が眠ろうとしなかった。二人とも寝たふりをして、お互い相手の寝たふりに気付かないふりをしていた。頭を割るような目覚まし時計の騒音で目覚めた二人が、お互いの眠そうな顔に苦笑したのは今朝のことだった。
 だから、彼女から電話をくれと言われていたことなど、阿部はすっかり忘れていたのだ。普段そういう約束を反古にするようなことはまずないのだが、この日はそれどころではなかった。阿部は優子の声を、ものすごく久しぶりに聞いたような気がした。
 ごめん絶対に埋め合わせするから、本当にごめん、と電話口で謝り倒して電話を切ると、何故か無性に三橋に会いたくなった。それは高校時代の日常の再体験であり、懐かしい感情を自覚したことで新しい発見もあった。実験のふとした合間に、何かの物音に、誰かの囁き声に、阿部は三橋を思い出し、高校時代もそうして三橋のことばかり考えていたものだとおかしくなった。三橋のことを考えている時は心が凪いで、不思議に暖かくなった。今朝会ったばかりなのに、次に会う日が二週間も先だなんて到底信じられなかった。
 二日後の昼、学食に向かった時、隣で列に並んでいる影に三橋を思い出した。というよりも、あの懐かしい古びた学食にトリップしていた。阿部の隣で、ずらっと並んだカレーやうどんといった料理が運ばれてくるカウンターに目移りして、ふらふらしていた小さい頭と細い首。みはし、と話しかけそうになって、そこにいるのは優子だったことを思い出した。ひどく打ちのめされた気分になった。そこに三橋ではなく小柄の優しげな女性がいることに気付いた瞬間、はっきりと失望している自分に、愕然とした。
 もうごまかしきれないのかもしれない、と阿部はぼんやり考えた。高校時代は言い訳があった。二人はバッテリーで、その絆はチームの戦力に大いに関わるところだった。だから阿部がその関係を補強することを日がな一日考えていても、野球バカの一言で終わる話だった。
(でも、こんなのはおかしい)
 三年間連絡もしなかったチームメイトのことを、昼も夜も考えているなんて。

 その夜、阿部は院生の先輩の実験に付き合わされた挙句居酒屋に連行されて、それなりに飲まされていた。ぐらぐら揺れる廊下を辿って部屋に戻った時には、既に日付が変わっていた。台所に直行して水をかぶるように飲みながら、ずるずるとその場に座り込んだ。
 悪い人じゃないんだろうと阿部は思う。どちらかといえばお人好しで暑苦しいタイプの人間だ。この一週間ずっとぼんやりしていただろう阿部を気にかけて、休み前に飲んで愚痴ってすっきりしろという意図で引っ張りだしてくれたのだ。結局のところ、何もないですの一点張りの阿部が先輩の愚痴を聞いて終わっただけだったが。
「なに言えっつうんだよなあ…」
 ふうっとため息をついて軽く瞼を閉じると、今にも寝てしまいそうだ。言えないどころか自分でも持て余している気持ちを封じ込めるように飲んでしまったアルコールは、時間と共に効いてくるらしい。やばいベッド行かなきゃ、と阿部が睡魔と戦っていると、不意にジーンズに突っ込んでいた携帯が鳴り出した。やかましいそれを取り出すと、画面もろくに見ず通話ボタンを押す。
「…はい」
次の瞬間、阿部は自分の耳を疑った。
「…あ、あべ、くん?三橋で、す」
阿部はしばらく黙り込んで、何を言えばいいか分からず、うん、と言った。耳がじんわりと暖かかった。
「阿部くん、夜遅くに、ごめん…ね、寝てた?よね?」
「や、寝てねえ。ってか今台所で寝そうになってた。起きれてよかった」
「台所?」
「飲み行っててさ」
言いながら阿部は何とか立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ。
「だ、だめだ、よ!ベッドで、寝ないと!」
「ん、今ベッド着いた」
ふう、と三橋が電話口で息をつく。
「お前は何してんの」
「オレ…オレ、も、寝てる」
「明日も早いんじゃねえの。さっさと寝ろよ」
「う…」
三橋が黙り込んで、阿部は耳を澄ませた。今更ながら、三橋と話していることを実感した。自分はこんなにこいつと話したかったのかと思ったら、妙におかしかった。心がどんどん緩んでいく。
「…阿部、くん」
「うん」
「阿部くん」
「なんだよ」
「眠い?」
「ちょっとな。お前寝れねえの?」
「…眠い、んだけど、眠れない」
「おい、何だよそれ。お前また心配事あんのか。チームうまくいってるって言ってたじゃねえか」
「一週間、あんまり寝れてない」
「何なんだよ…何が」
「阿部くん、が、来てくれてから、寝れない」
阿部は不意をつかれて、黙り込んだ。抑揚のない三橋の声が、つまずきながら畳み掛ける。
「オレ、自分が、嫌だ。どんどん、わがままに、なる。阿部くん」
「…なに」
「あ、阿部くんに、会いた、い」

 その時、阿部はほとんど寝かけていた。ベッドは柔らかかったし、身体は疲れて酔いが回っていたし、耳にはずっと足りなかった三橋の声が満ちていた。三橋の声が不安定になるのが気にかかって無理に起きているというところだった。だから、聞き返すでもなく、何の躊躇いもなく、つるりと言葉を返した。
「…オレなんか、一日中お前のこと考えてんぞ。頭おかしいだろ」
 息を飲んで言葉を継げなくなった三橋がもたらした沈黙は、阿部がそのまま眠りに落ちるに十分過ぎる長さだった。


(…うるせ)
(…すっげえうるさい)
(なんだろ…マジで死ぬほどうるさい…うるせえ…)

 阿部の意識が浮上してきた時、狭い1Kの室内にはピンコンピンコン鳴る玄関の呼び鈴と弱々しく時々打たれる扉のドスドスいう音が充満していた。阿部はぎょっとして飛び起きて、慌てて立ち上がった。火災か事件だと思ったのだ。それで大股で玄関に向かうと、はいはいと言いながら急いで扉を開いた。
 そこにいたのは、下ろし損ねた拳を振り上げたまま硬直している三橋だった。
「み…おま…」
驚いたのは阿部だ。
(そういえばさっき、何か電話あったか?あれいつだ?…なんだっけ?)
阿部がほうけて考え込んでいると、三橋は予想していた拳が降ってこないので逆に不安になったようだった。
「ごっ…ごめ…う…」
二人揃ってぼんやり顔を見合わせていたが、先に阿部がはっとして時計に気付いた。午前三時半。顔色を変えて怒鳴りそうになり、ここがアパートであることを思い出した。
「ちょっと入れ」
三橋を狭い玄関に入れて扉を閉めると、そのまま阿部は脱力して入口に座り込んだ。
「マジでビビったぞ。…つか、何だよ。もう何から訊いたらいいのかわかんねえ…」
「ご、ごめんなさ、い」
「どうしたんだよ、めちゃくちゃ夜中だぞ」
「あ、あべく、しんじゃ、っかと」
三橋はふらふら玄関にしゃがみ込んだので、阿部と視線が同じ高さになった。阿部は呆れてため息をつく。
「死なねえよ」
「だ、って、急に黙って、電話切れないのに、呼んでも返事しない から」
「普通に寝ちまってた。…あー、ごめんな」
「オレ、は、はやとちり…」
「…いつもだろ」
三橋の俯いた目尻に涙が浮かんでいて、阿部は自然と手が伸びた。人差し指の腹でそっと拭うと、ほんのり温かい。驚いたように三橋の視線が上がって阿部のそれと交わる。途端に三橋の顔はくしゃっと歪んだ。
「え、」
気付くと、阿部は三橋にしがみつくように抱きしめられていた。








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