影踏みアリア 3
三橋との待ち合わせの日、阿部は少し早めに目的地に着くように大学を出た。 電車に乗ると、暮れかかった空を通すガラス窓に自分がうっすらと映っていた。黒いジャケットが闇に溶け込んでいる。阿部は自分の無表情につり革にぶら下がる姿を前に、ぼんやりと思い出していた。高校時代に、二人で出かけたことはあっただろうか。寝ても覚めても野球野球、休みはぶっ倒れて寝ているかデータ分析、たまに勉強。三橋とに限らず、誰かと個人的に遊びに行く暇自体がほとんど無かった気がする。 ―――うみのなか、みたいだ。 耳にふとよみがえった声に、阿部は閉じかけていた瞼をはっと開いた。 (低い振動音、薄暗い電灯、真っ暗な窓の外の闇に遠く浮かぶいくつかの電灯、ガラスの歪みに沿って伸びている顔、白いシャツ、柔らかい髪、屈み気味の姿勢) (三橋と、二人で電車に乗っていた) 阿部の脳裏に、さっと三橋の幼い横顔が通り過ぎた。あの日、阿部は三橋と隣町に何かを買いに行っていた。夜だったからミーティングの後か何かだ。二人でその時間帯だったのだから、部活関係の用事だったのだろう。どうして二人だったのか思い出せない。ただ阿部は三橋と二人で空いた電車に乗って、ぽつぽつ会話を交わしていた。三年の初夏。話が弾むというわけではなく、そうかといって別段沈黙が気まずいわけでもない。普段からそう騒がしいのが好きではない阿部は、この頃三橋と二人でいるのは気が楽だったように覚えている。三橋は何となく機嫌がよさそうにして、妙に行儀よく膝を揃えて窓の外を見ていた。 ―――なに見てんの。 ―――え。 ―――窓。何かあんの。 阿部がそう訊ねると、三橋は振り返ってこちらを見ていた亜麻色の瞳をするりとまた窓に向けて呟いた。 ―――うみのなか、みたいだ。 その独り言のような言葉に阿部は答えず、代わりに三橋を見た。三橋はぼんやり窓を見ていた。阿部は三橋の濡れたような瞳が、海のようだと思った。二人きりでどこか違うところに運ばれて行くみたいに、電車は奇妙に静かだった。 突然響いた到着アナウンスに、阿部は慌てて下車した。ぎりぎり背後で閉まった扉に息をついて、何となく小走りでホームの階段を駆け上がる。阿部が待ち合わせ時間きっちり五分前に改札を通り抜けると、切符売り場の端に、亜麻色の髪をした頭を俯かせた男が立っていた。薄いベージュの細身のジャケットがやけに似合っていた。 「三橋!」 呼ぶと、三橋は飛び上がるように顔を上げた。目で忙しく阿部を探して、阿部を見つけると、顔中をゆるませて笑った。 「阿部、くん!」 顔の具が全部流れていっちまいそうだな、と阿部は思って小さく笑いながら、三橋に駆け寄った。 ひきずっていた何かが急速に動き始めるのを、背後に感じていた。 とりあえず入った学生向けの居酒屋で、向かい合わせにテーブルについて飲み物を頼んでから、ようやく二人はまともにお互いの顔を見た。 「三橋、今日大丈夫なのか?」 「う、ん。朝練あるから、遅くはなれないけど」 三橋がちらちらと見上げたり目を逸らせたりするので、阿部は何だか気恥ずかしくなる。そうでなくても久しぶりで距離感が掴めない。ノリで飲み屋に入ったはいいが、話すことがあるのかと不安になる。 「久しぶり、だ」 三橋がそう小声で呟いて、俯いた。ああこいつも緊張してんのかと阿部はふと納得した。 「ほんと久しぶりだな。おまえの彼女見てびっくりした」 「あ、あれは」 三橋はぱっと赤面して顔を上げた。 「阿部くんだって、いた!」 「あー、…」 「うん」 「大学のコ?」 「そ、う。なんか、部活の先輩の友達だった」 「ふうん。連れが美人だっつってたよ」 「びじん?」 「うん」 「そう、なんだ」 「そうなんだって何だよ」 「…うん」 阿部は三橋が話しにくそうにしているので、それ以上追及しなかった。年上なのかな、とぼんやり考えた。 「あ、べくんは?」 「へ?」 「あの人」 「…あー。うん、大学の。学部違うんだけどな、友達の友達みたいな感じだったかな」 「長い?」 三橋がそういうことを訊いてくるのが新鮮で、阿部は年月の偉大さを実感した。 「長くもないな。一年くらい。三橋はどうなんだよ」 「…半年、くらい、かな」 三橋はまた俯いてしまう。僅かに沈黙が流れたところで、勢いよく生中が二つ運ばれてきた。何となく重い雰囲気を払うように、阿部はジョッキをあげた。 「まあとりあえず、再会に乾杯」 三橋も慌ててジョッキを持ち上げて、嬉しそうににっこりと笑った。 「乾杯」 酒が入ってしばらくすると、三橋はそれまでが嘘のように口の回りがよくなった。たどたどしいながらも、時間に追われるように話を重ねる。 現在は一人暮らしをしていること。大学も一人暮らしも初めは失敗だらけで大変だったこと。週に一度、心配症の母親が家事をしに来ること。彼女がそれを知ってから、一度も家に来ないこと。いとこ達の近況。時々会う田島と泉について。 三橋は何か話す度に、阿部が相槌を打つのを確認して頬を緩ませた。酒もあるだろうが、なかなか自分から話せなかった高校時代を思い出すと、阿部は三橋の成長を感じずにはいられなかった。 阿部くんは?と訊かれて、阿部はぽつぽつと近況を話した。やはり一人暮らしをしていて、今は大学院に入る勉強とバイトでぎっしりの生活だということ。研究室の変わった先輩の話。弟が関西の大学に行くと決めたので母親が取り乱して大騒ぎだったこと。花井がやたらと優秀で、海外留学の奨学金が貰えそうなこと。水谷のバカ話。 三橋はにこにこしながら、「すごい」「すごい」と繰り返した。 ジョッキで二杯回り、どう見ても強そうではない三橋がぼんやりし始めた時、阿部はそろそろ店を出た方がいいかと考え始めた。だから驚いた。話の切れ目で三橋が俯いたまま、はっきりした声で唐突にこう言ったのだ。 「阿部くん、オレ、キャッチボールしたい」 それまで不自然なほど、野球の話は出なかった。田島のトレーニングがどうのという話になっても、三橋は自分の部活について沈黙していたし、阿部も何も訊ねなかった。阿部はそれを三橋の気遣いだと思い、そのまま自分たちの距離だと感じていた。そして、いつかのバッテリーとしての近しさには、もう二度と戻らないだろうと。 「キャッチボール?」 「うん」 「今から?」 「う、ん」 「ボールあんの?」 「あ、ある!」 「あー、おまえいっつも持ってたもんな」 「うん、持ってる、よ」 「夜なのに危ねえよ」 「公園、なら、灯り…」 「マジでやりたいの?」 三橋はどうにも意志を曲げずに、また俯いて唇を噛んだ。何でそんな我慢してるような顔するんだか、と阿部は頭をかいた。今でもやはり、三橋のその表情は苦手だった。 「あー、店出んぞ」 「え」 「そこらに公園あんだろ」 阿部が伝票を掴んで立ち上がると、三橋も慌てて鞄を掴んだ。 「あ、ありがとう」 その台詞を阿部は背中で受けながら、黙ってレジに進んだ。 |