影踏みアリア 2
鞄の中には、三橋の忘れていったペンがあった。そのまま次に会うときまで持っていてもいいかと阿部は思ったが、妙に高級そうなペンのずっしりした重さに、誰かからのプレゼントかもしれないと思った。それがあの気の強そうな彼女だったら、三橋はさぞかし落ち込むだろう。だが、直接自分が呼び出して返すのも気後れがした。こんな時に思いつく男は一人しかいない。 一旦腰を下ろすと、それからなかなか立ち上がれなくて、阿部は座ったまま携帯をジーンズから引き抜いた。カチカチとボタンを押してしばらく呼び出し音を聞いていると、間もなく相手が出た。 『はい、もしもし』 「花井?」 『阿部か。なに』 「うん。今大丈夫か」 『大丈夫だけど』 「今日さ、…三橋に会った」 『…え、そうか。偶然?』 「ばったり。ビビった。あいつすげえ派手な彼女連れてんのな」 『おお、見たか。あれ有名だぞ、西浦硬式野球部内で』 「範囲せめーな。っていうか何、有名なのか」 『知らねえの阿部くらいだろ、…おまえ付き合いわりいんだよ』 「忙しんだよ」 『んー。そうな』 「花井、今度三橋に会うことあるか?」 『オレ?なんで?』 「時々田島に巻き込まれて三橋と三人で会うとか言ってたじゃん。あいつ相変わらずでさ、ちょっとしゃべっただけなのに忘れ物していったんだよ。今度飯食う時渡すからさ」 しばらく沈黙があってから、花井は小さく咳払いをして息を吸った。 『な、阿部さ。三橋と連絡取れよ』 「ンだそれ」 『全然取ってなかったんだろ。OB飲み会だって二回来ただけじゃねえかよ、副主将のくせに』 「都合合わなかったんだよ」 『阿部らしくねえって、そういうの』 「はあ?」 『おまえさ、三橋の一回生の時の調子とか知ってっか』 「一回で即レギュラーとかないだろ」 『そういうんじゃなくてさ、…。オレはおまえの事情も知ってたから何も言わなかったんだけどさ、一回生の秋にあった飲み会は、おまえら会わせるために開いたんだぞ』 「…何の話だ」 『それをおまえはろくにしゃべらねえしさっさと帰るし、三橋は三橋で隅にいて水谷に絡まれててさ。帰りに泉がキレて電信柱蹴ってたんだぞ。オレなんか受験中だったし』 「…」 『阿部の気持ち分かるとか言わねえけど、でも高校の時あんだけ面倒見といていきなり音信不通じゃ、三橋も戸惑うだろ。バッテリーじゃなくてもおまえらダチだろ普通に』 「高校の時構いすぎてたのはオレも自覚してるよ。コーチいたら本当はあんなんいちいちオレに言われなくても大丈夫だろ」 『そういうこと言ってんじゃねえよ!』 急に激昂した花井に驚いて、阿部は一瞬言葉を失った。 『…ごめん。ちょっと、オレ酔ってるわ』 「飲んでたんか」 『んー。いや、さっきまでな。もう帰ってんだけどちょっと飲みあってな』 「うん」 『…なあ。マジで、いい機会だし三橋ともっかい連絡取れよ。喧嘩したとかじゃないんだろ。オレやなんだよ。おまえらには散々振り回されたけどさ、でもこんな仲間同士で避けてるみたいなん、気持ち悪いよ。言わないだけで全員そう思ってっぞ。オレ何回おまえらどうなってんだって訊かれたかわかんねえ』 「…心配かけてたか。悪かったな」 『謝る必要ないだろ。とにかく阿部が預かったもんくらい阿部が返せよ』 「っか。だな。考えとくわ」 ぼそぼそと会話を交わして電話を切ってから、阿部はいよいよ本格的に落ち込んだ。 ―――――…オレは、三橋を、直視できんのか。 泉や巣山の試合なら、阿部は何度か見に行った。購読している野球雑誌にはプロに進んだ田島や榛名の情報が載っていたから、僅かなデータなりでもその様子を窺い知ることができた。それでも、三橋の情報だけはどうしても遮断してしまう。三橋の所属する大学の試合結果を数字で見るのがせいぜい、誰が登板しているのかも積極的に知ろうとはしなかった。原因も考えたことはない。ただ、自分は弱い、と思った。それを知るのが嫌で、三橋のことを考えないようにしていたのかもしれなかった。 実は何度か、阿部は三橋から連絡を受けていた。一回生の春と夏、卒業式から数ヶ月の間を置いて、食事の誘いと、練習試合を見に来ないか、という内容のメールが数回来た。どんな言い訳でそれらを断ったのか、阿部はよく覚えていない。甲子園まで勝ち進んだバッテリーは出会った時ほど意思疎通に不自由するわけでもなくなり、高校三年時にはかなり親密な友人同士になっていた。正反対の性質ながら困った時は助け合ったし、相談をしたりくだらない冗談を言い合ったりした。その関係を壊した一つの原因は間違いなく阿部の選択と態度で、それを受けた上で三橋の弱気な性格ではそれ以上食い下がることができなかったのだろう。三橋からの連絡は絶え、元より阿部からは連絡をしなかった。二人が個人的な話をしたのは、実際卒業式が最後だったのだ。 「…だっせえな、オレ」 阿部は掌で顔を覆って、ため息をついた。 のろのろと小さなソファに移動して、携帯のメール作成画面を表示する。もう一度盛大にため息をついてしまい、阿部は頭を振った。メールにはいい思い出がない。結局、直接電話をかけることに決めた。高校の時も、電話の方が怒鳴らずに済んで、会話成功率が高かった。それも一、二年の時のことだったが。 三橋は、たった一コール半で電話に出た。 『はっ、はい!』 「三橋?…今いいか?」 『はい!』 「…なんで敬語なんだ、おまえは」 『あ、阿部くん?』 「ん?」 『阿部くん?』 「何だよ」 『な、なに?』 「何なんだおまえ、それ」 ぶはっとつい阿部は吹き出して、肩の力が抜けるのを感じた。前はこのやりとりがまどろっこしくて声を荒げていたが、今は妙に懐かしかった。阿部が笑っているのを聞いて、三橋も微かに笑った。 「おまえ、変わってないな」 そう口に出して、阿部は納得した。阿部は、三橋が変わっているのが不安だったのだ。不安、あるいは不快か。 『…阿部くんは、髪が、短くなってた』 「あー。変だよな」 野球部やめてからのが髪短いなんて。と言おうとして、阿部は言葉を飲み込んだ。 『へ、変じゃ、ないよ!似合って、た』 慌てて継がれる三橋の台詞に、阿部は小さく笑った。 「サンキュ。おまえ、今日、店で忘れ物してっただろ」 『わ?わすれ?』 「ボールペン。青いの、高そうなやつ」 『え、う、待って』 阿部が耳を澄ませていると、携帯の向こうからごそごそと音がして、少ししてからばさっと携帯を耳に当てる接触音がした。 『な、ない!』 「だからそう言ってんじゃん!」 世紀の大発見のように叫ぶ三橋に阿部はまた笑ってしまって、その様子に三橋もつられて笑っていた。 「オレが預かってるから、今度返すわ。空いてる時あるか?」 『あずかって…て、阿部くん?が?』 「そう」 『そ、か』 「え?どうすんだよ?」 『あ、ご、ごめ、っじゃなくて、ありが、とう!』 「うんいいよ、ってかだからいつが空いてるよ」 『え、と…来週の…金曜は、六時…七時から、空いてる』 「あーそれならオレも大丈夫。どこで待ち合わせっか」 阿部は二人の大学の中間地点の大きな駅で待ち合わせる約束をして、電話を切った。三橋は阿部が切るまでずっと向こうで黙って待っていて、それも高校から変わっていなかった。そのことに気付いて、阿部は携帯を握る手にぎゅっと力が入った。電話を切る時、ボタンを押した親指がじりじりと痛むような気がした。すぐ後にかかってきた優子からの電話にずっと上の空で返事をしていて、なんか楽しそうだねと言って笑われた。阿部は自分でも、気分が高揚していると感じていた。そのことが照れくさくて、それでも嬉しかった。自分が何に気後れしていたのか、阿部は急にどうでもよくなっていた。そこにいる三橋は泣いていなかったし、怯えて震えているわけでもなかった。三橋は、元気だ。阿部はそう思って、息をついた。 |