砂漠のふたり

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13


 インターホンの鳴る音で、遠野は目を覚ました。あれだけ眠ったのに、だるさはなくならない。眠りすぎたのが悪かったのか。遠野は首を振ってみるが、頭の重みが増しただけだった。
 シーツの上の携帯を探り、時間を見る。もう夜中だ。――帰ってからだから、もうずいぶんと長いことベッドに潜り込んでいたことになる。遠野は自分で自分に呆れてしまう。
 インターホンは鳴り続けている。勧誘なら放っておこうと思っていたが、ここまで鳴らされるのなら違うのだろう。遠野はゆっくりと身を起こすと、はい、と返事をして玄関へ向かった。声が聞こえたのだろう、インターホンがぴたりと止む。煩わしさが消え、ほっとしながら遠野は玄関の扉を開き――固まった。
「マキセさん……」
 どうして。遠野が無意味に訊ねる前に、彼のほうが大きく息を吐いた。
「出てくれないかと思った」
「何で、ここに」
 漠然とした問いかけに、マキセさんはひとつ瞬きをした。
「理由が必要なのか」
 りゆう。問い返されて、遠野のほうが困ってしまう。遠野には、マキセさんとの間に何かしらを見つけることが出来そうになかった。
 もしかしたら、と昨日までなら思っただろう。マキセさんとの間に繋がるものを、遠野はさして苦もなく探り当て、彼に向かって微笑むことすら出来たかもしれない。
 だが今は無理だった。
「先に、電話とか」
「番号を知らない」
 ああ。遠野は呻く。そういえば、番号を教えあったりはしなかった。遊園地で一度、待ち合わせで不安になった際に訊こうとして忘れたきりだ。
 今思えば不思議だ。知らずとも、不自由を感じなかった。遠野は気づく。そうだ――朝も、夜も、ほとんどをマキセさんと過ごしていたのだ。
 まだ逢って間もないのに。遠野は思う。まだ、と思う。
「遠野?」
 泣きそうになったのを、遠野は顔を顰めて堪えた。
 不思議そうな困惑したようなマキセさんの顔を見ていると、腹の底から熱いものがこみ上げてくる。悲しみなのか怒りなのか。ごちゃ混ぜになって、判別もつかない。
 ひどく瞼が熱い。
「帰って下さい」
「遠野?」
「今日はもう、帰って下さい」
 感情を抑えているつもりなのに、声はぶるぶると震えてしまった。舌打ちをしたい気分で、遠野は三度「帰って下さい」と繰り返す。
「何故」
「今は貴方の顔が見たくない」
 見たくない。遠野は床に彷徨わせた視線で、マキセさんの靴を捕らえた。硬そうな黒の革靴に小さく泥が跳ねている。
「気にしているのか」
「何を」
「――交差点の」
 交差点。遠野はぐっと唇を噛み締める。
「何のことですか」
「気づいたんだろう」
「マキセさんと付き合ってた人のことですか」
 マキセさんは数秒黙ってから「そうだ」と頷いた。遠野は一度、目を閉じた。頭のなかを整理したかった。
 しかしマキセさんの存在感は大きく、どうやっても彼を目前に遠野が冷静になれるはずもなかった。
「遠野」
 名前を呼ばれるだけで、どうしてこんなに何もかもを受け入れてしまいたくなるのか。遠野には分からない。まだ、逢って間もないひとなのに。
 思えば、遠野はマキセさんのことを少ししか知らない。失恋したばかりだとか、あまり重くない煙草を吸うだとか。――それから、遠野は胸のうちで指折り数える。
 遊園地にもスーツで現れるようなひとであること。手持ち無沙汰になるとライターを弄る癖があって、酔うと年下にも敬語になる。それから――それから、失恋に、静かに涙を流すこと。
 足りないと思った。何もかもが全然足りない。砂漠に水を撒いただけみたいに。
 からからに干からびてしまう。マキセさんがそう言っていたことを遠野は思い出す。それは、今の自分のようにだろうか。どんなに水を撒いてみたって、砂漠のなか、ひとり佇んでいては決して潤うことはない。
 もっと、と遠野は思った。もっと必要だった。
 マキセさんの胸に片手で触れる。マキセさんは、その手を押し当てるように自らの手を重ねた。
 この大きな手が、ライターを弄び、時折ぱたりとテーブルに倒す。それが、気まずいとき、間がもたないときの癖なのだと知ったのは会話を交わして一日二日目だっただろうか。酷いことをされたのに、何故自分はマキセさんをするりと心のなかに入れてしまったのだろう――遠野は思う。思ってから違う、と首を振った。
 きっともう、あの頃には好きになってしまっていた。
 駅で見かける度、目を惹かれた。興味を持った。
 けれどあの日、その興味がもっと深いものに変わってしまった。あの日、ただただ涙を流す、マキセさんを見て。
「遠野」
 心臓の脈打つリズムに、耳を押し当てたいと思った。
 抱きついてキスがしたいと思った。
 何もかも足りない。
 好きになるには、と思っていた。好きになるには、何もかも、知らないことが多すぎると。
 でも違う。本当は、もうとっくに好きになってしまっていた。だから満たされないことが、こんなにも悲しくて苦しい。
「泣くのか」
「泣いていません」
 乾いた目尻を、マキセさんは親指で拭う。「泣きそうな顔だ」
「誰のせいですか」
「俺だ」
 きっぱりとした言葉に遠野は瞠目し、マキセさんを見上げた。
 マキセさんは眉尻を下げて、いつになく弱弱しい笑みを見せた。
「そうだったらいいと思っている」
「……何故」
「俺がお前を好きだからだ」
 重ねられた手を強くつかまれ、遠野は一歩後退さった。しかし取られた手の強さに、身動きも儘ならない。
 遠野、マキセさんが呼ぶ。深い黒の瞳が遠野を捉えている。視線を外せない。
「あのひとは……?」
「誰だ」
「昔の恋人」
 あのひとのことが、今でも好きなんじゃないのか。遠野は思う。例えば、名を口にするだけで微笑んでしまうくらい。一緒に暮らした部屋を捨ててしまうくらい。偶然の再会に、動揺してしまう――くらいに。
「昔は」
 マキセさんは柔らかく唇を緩め、別の手で遠野の腰を抱き寄せた。「昔は、確かに、あいつがいなくて生きていく意味が良く分からなくなったときも、あった」
 抱き締める腕に身を任せてしまえずに、遠野はマキセさんの言葉を聞く。「お前と初めて会ったとき、俺は、酷く渇いていた」
「からからに渇いて、飢えて――もうどうしようもなくなったところから、砂のように崩れて消えて、このまま空っぽになってしまうんだろうと思っていた。はじめと別れて、俺は、自分の存在が良く分からなくなった。はじめは、結婚して家庭を持ち、やがて子供を持つ。そしてその子供も、いつか家庭を持ち、子供に引き継がせていく。それが、この世のありようだと否応なく示されたからだ。だとしたら、と思った。だとしたら、俺は何なのだろう。何のために、こんなふうに生きているのだろうと。――そんなとき、お前に会った」
 マキセさん、遠野は知らず名を呼ぶ。マキセさん。と、何度も。
「お前の顔は、知っていた。よく駆け込み乗車をしているのを見た。いつもなら眉を顰めたくなるそれも、お前がちょこちょこしているのを見ていると、何となく気分が和んだ。声をかけられたとき――酔っていたから、定かじゃあないがな。変なやつだ、と思ったよ。こんな酔っ払いに、こんなところで泣いている変な男に優しくするなんて、変なやつだと。だがハンカチを渡されて、俺は嬉しかった。何故だか分からないが、とても、嬉しかったんだよ」
 遠野、マキセさんも返すように呼んだ。とてもいとおしそうに。
「あの朝も、どうしたらいいのか本当に分からなかった。怒るのも当然だ。許されないのも、当然だ。だが、許して欲しかった。お前と接する機会が、これでなくなるのを惜しいと思った。遊園地と言われたときは正直面食らったがな」
 だがそれも嬉しかった。マキセさんの目じりが、いつもより下がり気味に見えた。
「楽しかったよ。隣でお前が笑っていると、自分の胸が――心が、温かくなる。お前が隣にいると、俺はなんだか、ここにいてもいいんじゃないか。こうして生きていても、いいんじゃないか。そう、思える。なあ、遠野」
 あの日と――マキセさんの家に泊まったときと、同じ言葉に遠野は唇を噛み締めた。そうでもしないと、崩れ落ちてしまいそうだった。
「好きなんだ」
 マキセさんの言葉は、その指先と同じように真っ直ぐだ。少しの歪みもなく、遠野へと届く。痛みを覚えるくらいに。
 遠野の身体は震えた。遠野はマキセさんの目を見返す。同じくらい――マキセさんと同じくらい、真っ直ぐに届けばいい、と思った。
 マキセさんは一歩、退がった。その口がゆるりと開く前に、遠野は「嫌じゃない」と素早く言った。
「嫌じゃないんだ。マキセさん。俺は、」
 遠野はマキセさんが退いた一歩分以上に、踏み込んだ。身体は震えている。震えたままの腕で、マキセさんを抱き締め返す。
「俺は嬉しいんだ」
 震える指で、マキセさんの背広をぎゅ、と握りこんだ。「遠野」と呼ぶマキセさんの声も震えているように聞こえた。
 感覚も震えているのか。それとも、マキセさんも震えているのだろうか。
「俺は、マキセさんのことが好きだから、だから、嬉しいんだよ」
 途端にマキセさんに強く抱き締められ、遠野は息を詰まらせた。しかしそれさえも、嬉しかった。
 遠野、と耳元でマキセさんが呼ぶ。もっとずっと呼んでいて欲しい、そう思いながら、遠野は抱き返す腕に力を込めた。


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09.09.02


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