砂漠のふたり

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12


「今日はうちに来るか」
 食事の帰り道で問われて、遠野はぎこちなく頷く。週末だし、と自分に意味もなく言い訳をしながら。
 マキセさんと食事をするようになって、もう一週間ほどになる。マキセさんの家に泊まった翌日から、成り行きでそうなった。遠野もマキセさんも一人暮らしだし、マキセさんの食生活は大抵外食で賄われているので、その習慣はすんなりと遠野の生活に馴染んだ。
 遠野はちら、とマキセさんの横顔を見上げた。いつもと変わらない、一見不機嫌にも見える仏頂面。
 あれから――マキセさんの家に泊まった日以来、マキセさんはそういう意味で遠野に触れてこなかった。
 どうして。遠野は思う。あれは、やっぱり何か――気の迷いのようなものだったのだろうか。
 しかし何だかんだで、食事をしたり朝は相変わらず同じ電車だったりと親しくなっているのは確かだ。遠野は、まあいいか。と自分の思考に蓋をする。訊いてしまえば早く済む話だが、訊く勇気もない。それに、と遠野は思う。
 それに自分が、流されていない、とも、思えない。
 マキセさんと向き合うのに、自分の気持ちがきちんと固まっていないと遠野は感じていた。嫌いではない。きっと、マキセさんを好きだと思う。それはどんな意味を持ってなのか――遠野は突き詰めて考えていなかった。
「遠野?」
 遠野は急に腕をつかまれた。いつの間にか、マキセさんが立ち止まっている。きょとんと見上げたまま、遠野もつられて立ち止まった。
 マキセさんは前方を指し示す。「信号」
「え、あっ」
 横断歩道の信号は、赤になっている。どれだけぼうっとしていたのかと、遠野はばつが悪くなった。
「ありがとう」
「いや」
 マキセさんは仕方がないなと言いたげに微笑み、手を放した。
 あ。と遠野は思う。放してしまうのか。視線を感じたのだろう、マキセさんは苦笑した。「遠野」
「今日は変だな、お前」
「いつも変だって言うよね、マキセさん」
「いつも変だからな」
 マキセさんは低く笑う。遠野はむっとして見せるが、軽口が楽しかった。数週間前は、マキセさんとこんなふうに雑談を交わすなんて、考えられもしなかった。
 ――好きなのかも知れない。遠野はマキセさんの笑みに、唐突に思った。身体が強く突き動かされるような、浮遊感にも似た感覚。本当に、自分はマキセさんのことを好きなのかも知れない、と。
 遠野はマキセさん、と小さく呼びかけた。喧騒にかき消されてしまい、自分にも聞こえない程の小さな声。
 マキセさんにも聞こえなかったのだろう。返事がない。遠野はもう一度、今度はマキセさんの顔を見上げて口を開く。「マキセ、さん――?」
 語尾が上がったのは、マキセさんが酷く驚いた表情で、向かい側を凝視していたからだ。遠野の声も、存在も、届いていないようだった。
「はじめ」
 呟きは、先程の遠野に劣らず、小さかった。それでも、遠野には聞こえてしまった。
 遠野は呆然とマキセさんを見上げ、それから向かい側をぼんやりと見やった。何を見つけたのか――誰を見ているのか、その一言で、分かってしまった。
 歩行者信号のすぐ近くに立っている、マキセさんより少し年嵩に見える男が、やっぱり呆然とこちらを――マキセさんを見ている。
 ――ああ。遠野は思う。ああ、あれが、マキセさんの恋人だったひとなのか。
 遠野は立ち竦む。自分の力が自由にならず、動けなくなった。
 マキセさんの、恋人だったひとは、遠野から見てもとても綺麗な男の人だった。背がすらりと高く細い体躯。それでもひ弱な印象はない。
 優しげな顔。
 我儘な奴だった。マキセさんの言葉を、遠野は酔っていたけれどまだ覚えている。あの優しそうなひとが我儘を言ったのは、マキセさんが恋人だったからだろう、なんてどうでもいいことを考えた。
 マキセさんは動かない。じっと、彼を見つめたままだ。
 マキセさん、と遠野は呼びたくて、呼べなかった。喉が震える。
 そのひとの唇が、マキセ、と名を刻む。マキセさんがびくりと身体を揺らしたのが分かった。――もう駄目だ、と遠野は思った。遠野と出会ってからの時間よりも、きっともっと濃い時間をマキセさんはそのひとと過ごしたのだろう。そう感じられるくらい、切ない声音だった。少なくとも、自分には決して向けられない声と視線だった。
 もう、耐えられなかった。
 信号が青に変わる。同時に、遠野は踵を返し、駆け出していた。
 遠野。と後ろからマキセさんの声が聞こえたが、立ち止まることは出来なかった。ただこの場所から――あのひとを見つめるマキセさんから、逃げ出したくて堪らなかった。
 何処に行くのか考えることも出来ないまま、遠野はただただ、逃げた。


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09.09.01


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