砂漠のふたり

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 あ。――いた。
 満員電車のなか、一生懸命息を整えながら遠野は顔を綻ばせた。視線の先には、ぴしりとスーツを着こなした男が、不機嫌なのか地顔なのか、眉を顰めて窓の外を睨んでいる。
 大体一月ほど前から、遠野は朝、この不機嫌そうな顔を見るのが日課となっていた。
 この男を目にすると、なんだか背筋が伸ばしたくなる、重厚な存在感があった。不機嫌そうだが、不快感を与えない雰囲気があり、つい、何となく――具体的な理由はないけれど、目で追ってしまうのだ。見蕩れてしまう、とも、言える。
 とはいえ、遠野は男と知り合いと言うわけではない。
 同じ駅を利用していることや、毎朝七時きっかりの電車に乗っているということを、知るともなしに知っているだけだ。この電車は、遠野が使うには早過ぎて、いつもぎりぎりとなり、駆け込み乗車ばかりしてしまうのだが。
 しかし遠野は、彼の名前を知っている。以前数駅先から乗り込んだ彼の知人らしき男が、彼を呼ぶのを聞いたからだ。
 彼の名前は、マキセさん、と言うらしい。





 その日はサークルの飲み会だった。まだ一年の遠野は、安く上がるこの月イチの飲み会が割りと気に入っている。二年以降はこうも安くならないらしいけれど、と駅の改札を抜けて遠野は溜息を吐いた。大勢の飲み会は、楽しいけれど、疲れる。消耗する、というのか。
 来月は遊園地にでも行こうか。そんな話が出て、遠野は雑誌まで渡された。少し重くなった鞄を背負い直し、遠野は再び息を吐く。遊園地なんてこの一年くらい、行っていない気がした。
 さて、帰るか。もう終電も間近のためか人気のない駅前に目を向けて、遠野はあれ? と首を傾げた。
 タクシー乗り場の前に、ひとがひとり立っている。あれは、マキセさんではないだろうか。後姿だが、滲み出る、あの重厚な存在感。
 ここは、小さな駅だ。タクシーも多くても二台ほどしか止まっていない。今は、一台もなかった。
 ――知らなかった。マキセさんの家は、意外と遠いのか。
 もしかしたら、いつもは車なのかも知れない。今日は金曜だし、遠野と同じで飲み会の帰り、ということもありえる。
 遠野はマキセさんの情報を得て、ちょっと嬉しくなった。いつもはホームでしか見かけないので、外で見かけられた、というのも中々新鮮だった。
 折角だし、顔くらい見て帰ろう。遠野は思い、笑みを噛み殺しながらわざとタクシー乗り場に並ぶふりをし、何気なくマキセさんの顔を見て――ぎょっとした。
 マキセさんは、泣いていた。
 声も立てず、静かに涙を流していた。遠野は、足が動かなくなってしまった。濡れた頬から、目が放せない。
 器用な泣き方だ。と思った。
 マキセさんの眦からは、涙が止め処なく零れ落ちている。けれど、顔を見ずに通り過ぎてしまったら、きっと気づかなかった。
「……どうぞ」
 遠野は鞄からハンカチを取り出し、マキセさんに差し出した。無粋だろうか、とも思ったが、タクシーが来たときに困るだろう、と思ったのだ。
「どうも」
 マキセさんはさして驚きもせず、当然のように受け取り頬を拭った。新しい涙は、流れてこない。
 不思議だ。遠野は思う。話しかけたから、涙が止まってしまったのだろうか。
「洗ってお返しします」
 不意にマキセさんは言った。
 顔に見とれていた遠野は、何が、と思わず問い返してしまいそうになる。――馬鹿だ。ハンカチに決まっているじゃあないか。赤面しながら「いえ」と漸く声を出した。
「いいです、お構いなく」
「いえ、洗ってすぐにでも返します」
「そうは言っても……」
 そうは言っても――何と言うのだろう。遠野は考える。
 お互いに、利用している駅は同じだ。朝、乗っている電車も、同じ。そして遠野はマキセさんの名前(苗字だけではあるけれど)まで知っているわけだが、マキセさんはどうなのだろう。遠野を、知っているのだろうか。
「朝同じ電車でしょう」
 葛藤を読んだのか、ぽつり、とマキセさんが言う。「よく見かけます」
「はあ」
 マキセさんが自分のことを知っていた。という事実に、驚きや戸惑いよりも喜びを覚えて、遠野は赤面した。
「タクシーを待っているのですか」
「え、いいえ」
 不意に問われ、遠野はつい正直に返事をしてしまう。しまった、と思ったが、意外にもマキセさんは深い追求はせず「そうですか」と頷いただけだった。それきり黙ってしまったので、遠野は妙に焦って言葉を探す。
「あ、えーと、マキセさんはタクシーを待ってるんですよね?」
「……どうして私の名前を?」
「え? あっ」
 不審げな視線に遠野は慌てて手と首を振った。「いえっ、あのっ」
 別に疚しいことはないのだ。遠野は自分に言い聞かせるように、胸に手を当てて一度深呼吸をする。「あの、」
「前に、名前を――そう呼ばれているところを、聞いたので」
 マキセさんは不審げな表情を崩さないまま、「朝? 電車で?」と問いを重ねる。
「はい、途中で乗ってきた人が」
「……そうですか」
 無表情に戻って、マキセさんは頷く。それから「タクシーは待っていません」と続けた。
「え?」
「さっき訊いたでしょう。私はタクシーを利用する気はありません」
「はあ」
 あまりにもきっぱりした物言いに、遠野はつい「じゃあ何でここに」と訊ねてしまった。
 相変わらず無表情だが、だからこそ迫力のある眼差しで、マキセさんはじろりと遠野を見つめた。
「それは君には関係のないことでしょう」
「え。あ、……そうですね」
 そう言えば、このひとは泣いていたのだった。遠野は気まずく頭をがりがりとかきながら、軽く下げた。「すみません」
「謝るようなことではないでしょう」
 「はあ」憮然と言われ、じゃあどうすればいいんだと遠野が思った途端、ふっとマキセさんの肩が下がった。
「いえ、むしろ謝るのは私のほうです」
「へ? な、何で」
 逆に頭を下げられてしまい、遠野は慌てふためく。
「何でマキセさんが謝るんですか」
「ハンカチまで借りておきながら、関係ないなどと、大人気ないことを言ってしまいました。申し訳ない」
「いやっ、あの、謝らないで下さい。全然気にしていないので」
「私が気にします。本当に、すみません」
 マキセさんは頑なに頭を下げ続ける。困り果てた遠野が顔を覗き込もうとすると、ふわりと酒の匂いが鼻についた。
 ああ。と漸く遠野にも事態が飲み込めてくる。
「酔ってるんですね」
「……もう大分冷めたはずですが」
「いや、酔ってますよ」
 断言する。しかしそれでも、マキセさんは「そうですか」と頷いただけだった。口癖なのだろうか。
 放っておけないなあ。遠野はじっくりとマキセさんを見た。
 もういい大人だが、酒に酔い、声も立てずに泣いていた男。「うちに来ませんか」という言葉は、考える前にぽろりと口から零れ落ちていた。
 マキセさんはそれでも多少は、理性が残っているのだろう。目をぱちりと瞬かせた。
「君の家に?」
「まあ、よければ」
 どうせ一人暮らしだ。夜中に誰かを連れ帰ったところで、咎める人などいない。
 しばらく考えた(らしい)マキセさんは、「ではお邪魔します」と頷く。
 歩き出すとふらついていた。やはり、かなり酔っている。
「そう言えば君の名前を知りません」
「遠野です。遠野学」
 酔っ払いの手を引きながら、よろしく、と遠野は笑った。


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2009.04.05


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