3日かけてヒカルの碁というアニメを観ました。
今まで、碁についての話ということであまり興味が無かったんですが
デスノートの小畑健さんが原作ということで、観てみることにしました。
全話通してみてみて、色々と学ぶことが多かったのでメモ。
今まで、物語を表現する上で重要なのが、キャラを立てることなのでは
ないかということばかり考えていて、あまりそれ以外の要素については
考えたことがなかったんですが、ヒカルの碁をみて、"知識としての
面白さ"をいれることの重要さに気がつきました。
ただ、物語の中に人物がいて、ドラマが構成されていて、在り来たりな
ストーリーテリングでもって表現したところで、観る人は何もそこから
学ぶことも無ければ、広げる面白みも無い。
けれど、ジョジョやヒカルの碁のように、面白い物語には
魅力的なキャラクターの相関図があって、更に物語自体に複雑な
知的要素が絡んでいることが多いのではないだろうか。
ジョジョでいえば、世界の不思議現象だったり、スタンドだったり。
ヒカルの碁でいえば、お化けであったり、そのお化けにまつわる
バックストーリーだったり、それ自体奥の深い囲碁だったり。
そういった"知識としての面白さ"を物語に絡めることによって、
その世界に深みがでるし、観る人がその世界にのめり込んで、
その世界を観る人の内側で広げようとするのではないだろうか。
キャラクターの相関図と物語の関係もとても興味深いと思いました。
主人公のヒカルとライバルのトウヤ、それとお化けのサイの3人を中心に、
うまく互いのキャラを引き立たせるように展開されていて、もちろん、
それだけだと昼ドラのようにくどくなりすぎるので、ダレキャラをいれて
ダレ場をいれることによって対位法的に三角関係を強調したり、
3人の関係をストーリーを負うごとに崩すことによって、
とてもうまく物語を展開させてます。
ただ、後半手前でサイがいなくなってヒカルがふて腐れる回が長くて
大事な部分でダレてしまったのが残念だなと思いました。
デッドセンターを引き伸ばしてダッシュアップをより魅力的に
演出しようとしていたのか、制作側の都合によって引き伸ばしていたのか
分かりませんが、ヒカルがふて腐れる回で、ただヒカルがネガティブに
なるだけの演出が続いていて、少し説明的だなと感じました。
ふて腐れる演出で僕が一番印象に残っているアニメは"あしたのジョー"
なのですが、あの演出はとてもうまいなぁと今でも思います。
力石が死んでジョーが、どこか遠くへ逃げ出したり、長い回をかけて
ドサ周り編をやったり、普通だったら、あれだけ長くやるとダレて
しまうのだけどジョーの内側にある魅力だったり強さをみせることに
よって、逆に今のジョーの心境を劇的に表現することができる。
例えば、ジョーが孤児のときにずっと独りで生きてきた回想をみせる
ことによって同時に、見ず知らずの母と息子の再会のシーンでも
魅力的にみせることができる。
そんな感じで、ヒカルのなかに元々もっている碁に対する情熱とか
強さを対位法的に演出できればよかったのになぁと思いました。
なので、後半は気分的にすこしダレてしまいましたが、
全体を通してはとても出来のいいアニメだなぁと思いました。
それと、話はヒカルが小6で囲碁と出会ってからの3年間を描いていますが
回をおうごとに、引っかからない程度に少しづつ背や顔つきが
成長しているのには驚きました。
それと、ここからはヒカルの碁とは直接関係のない余談。
キャラクタをどうするかとか演出をどうするかといったことよりも
先に、まずもっと根本的に必要なことがあるのではないだろかと
いったことのメモ。
最近になって僕が本当に表現したいと思える世界が出来つつあるんだけど
そんな中で気づいたことが、素晴らしい物語を表現している人って
観る人がその物語を好きになる以上に、その作者自身が一番その作品の
ことを愛していないとそういった作品が作れないのではないだろうかと
思うようになりました。
画がどうとか、演出がどうとかいうことよりも、まず自分自身が誰よりも
作品に対する思い入れを持っていること。それでいて、どこまでも客観的に
眺めるという姿勢を怠ってはいけない。
例えば僕の好きなスラムダンクを描いた井上さんは、きっと他の誰よりも
スラムダンクの世界を愛してるからあんな漫画が描けたんだろうと思う。
なんとなく画が好きだから絵描きを目指したり、漫画家を目指したりして
いくら長い時間制作に費やしても、何か自分の内側に広がる情熱が無いと
ただ手癖で出来た薄っぺらいものしか出来ないんじゃないだろか。
昔、僕が高校のときに観たピンポンという映画のなかで、
アクマとトイレにこもってるドラゴンとのやりとりがあって、
当時はそのシーンがよく理解できなかったんだけど、今になってようやく
自分のなかで整理できるような気がします。
自分自身が本当に卓球を好きでないと強くはなれない。
自分自身に抗うものは、結局いずれは破綻してしまう。
そういうことなのだと思います。
つまり、本来他の人のために作られるはずのものは、
実はそれ以上に、自分のために作られなければいけない。
そういう点で、何かを表現する世界っていうのは、
実はとてもクールな世界なんだなと思う。
長文になってしまいました。
僕自身まだまだだなと実感したし、頑張ろうと思います。
たてなか 2008.09.22-17:24 Edit
そういえば、ダレキャラという言葉を書きましたが、
僕の造語だったりします。
メインキャラの熱をくどくさせすぎずに、うまく引き立てるキャラをダレキャラ。
他にも、アニメ版のゴルゴ13のゴルゴのように、
メインキャラは地味だけど、脇役によってメインキャラを
立たせる、その脇役のことを立てキャラと勝手に呼んでたりします。