あれから流川と会わない事およそ一ヶ月。
花道は部活に明け暮れ、空いた時間は先輩たちと戯れて過ごしていた。
しかし盆にもなれば皆それぞれ家に帰り、そんな時、帰る田舎も家族すらもいない花道は、無償に時間を持て余すのだった。

「あー、腹減ったな…」

そういえば流川が家に来なくなってからというもの、まともに料理をしていない気がする。
台所に並んだカップ麺のゴミを見やり、花道は冷蔵庫を開けた。そこには、ポカリ以外何もない。
さすがにこれはまずいな。
買い物に出なければ、そう思い、花道は立ち上がった。そして驚愕した。

「き、汚ねぇ…」

今になって気がついたが、部屋がカオスだ。
それも、ちょっとやそっとのものじゃない。テーブルは服に埋もれ、床にはゴミ袋が散らばっている。足の踏み場もないとは、まさにこの事だ。
いつの間にこんな事態に陥っていたのだろう。
元々花道は几帳面ではないものの、それなりにきちんと整理整頓する方である。
それが、たった一ヶ月でこの有り様。
…ありえん。
花道は鳴り響く腹を言い訳に、そこから立ち去る事にした。


先ずは腹をなんとかしなければ、と近所のコンビニで買い物を済ませたのが夜12時過ぎ。
それから自分のボロアパートの見える道を歩いていたのは確か12時半頃だった。
部屋の惨状に頭を痛めながら花道がそれを目撃したのは、そんな夜も更けた静かな通りでの事だ。

「あ、あの流川くん、お邪魔しました」

唐突に聞こえた女の子の声に、花道の足が止まる。
正確には流川くん、という台詞に。
見れば、見知らぬ女の子が流川の家から出てくるところだった。

「送る」
「え、本当?遅いのにいいの?」
「別に」
「ありがとう」

実に1ヵ月ぶりに見た流川は、あの時から何ら変わってはいなかった。…隣に並ぶ女の子以外。
白いスカートに、それを揺らす華奢な細足、大きな瞳。
どこからどうみても可愛らしい女の子に、妙だ、流川の身長がバランス良く並んでいる。
…なんで今、と花道は思った。
なんで今会ってしまったのだろう。他にどんな会い方もできたはずなのに。
どうする事もできずに花道は地面を直視した。
その間に、会話を交わしながら二人がこちらに近づいて来る。
ああもう引き返すか、花道が踵を返そうと顔を上げた時、二人はすでに目の前まで来ていた。
…時既に遅し。
三人はそこに向かい合うようなかたちで顔を合わせてしまった。

「…」
「…」

緊張が走る。
喉の奥がカラカラに乾いて、花道は呼吸の仕方を忘れた。

「流川…くん?」

不穏な空気を確かに読み取ったのだろう、女の子は流川の袖を引く。
しかし流川は真っ直ぐに花道を見つめていた。
見つめるだけで、何も言わない。
そこにどんな意味も見い出せなくて花道は立ち竦んだ。
目が合っている。
視線が、絡んでいる。
その数秒の直視に花道はとうとう根を上げた。気付けば思わず口を開いていた。

「よ、よう、ルカワ」
「…」
「久しぶりだな、…か、彼女か?」
「…」
「る、流川くん!あの、お知り合い…ですか?」

何も答えない流川の代わりに、女の子が気を使って花道に会釈する。拍子に、栗色のロングヘアーが風に舞った。
その横を何事もなく通り過ぎる流川は、最早花道を視界に入れていない。
ただ、小さくカノジョだ、と呟いただけ。
それだけだった。




その後の事を、花道はよく覚えていない。
どうやって二人が去ったのか、自分は何を言ったのか。気付いたらコンビニ袋を手に提げたまま、部屋の中央に立ち竦んでいた。
ドサリとそれが落ちるのを聞いて我に返る。次いで膝が折れた。

「な、」

んだ、アレ。
本当に流川か…。
花道を見る目に感情はなく、出会った時のような鉄面皮。
まるで、花道の事など忘れたと言わんばかりのあの態度は、言葉は。
ああ、そうか、もう忘れたのかもしれない。
自分の事など、もうすっかり。
そして流川は花道の予定通り、可愛い彼女と真っ当に中学生らしい生活を送っているのだ。
思惑通りじゃないか。
なにを思ってる。
オレはなにを、

「ムカついてんだよ…っ」

握り締めた拳の中で、爪が皮膚に食い込んだ。
そのまま突き破って裂けてしまえばいいのに。
花道は散乱した部屋の隅に転がり手のひらを開いた。そこは薄らと血が滲み、けれどそれだけでは足りない。痛みが足りない。
せめてこの狂った心臓よりは、ともう一度拳を握る。
自分がこんな感情を持つのはおかしいのだ。
願っていた事だったのだから。
ひとり立ちして欲しかったのだから。
それでも、この身を裂くような痛みが邪魔でたまらない。
足元のスポーツバックを視界に入れ、花道は目を閉じた。

「明日、コレ返したら…」

もう、終わりにしよう。





翌日、スポーツバックを携え花道は朝一番で流川宅へ向かった。
一度決めた決心は揺るがない。
インターホンを押し、流川が出たところで一言、忘れモン、と告げてそれを渡した。
顔は見ない。
見たくない。

「じゃ、オレ帰るから」

花道がそう切り出した時、終始無言だった流川が花道の腕を引きとめた。
その腕が酷く力強くて花道は身に熱が篭るのを感じたけれど、それよりも流川の行動に心がざわついた。
ゆっくりと確実に引き寄せられて手をとられる。
そこに、流川の右手が重なって。
今更、引きとめる気…なのか。
高まる鼓動に、しかし流川が花道の手のひらに乗せたのは、銀色に光る金属だった。
―合鍵、である。
これを、返すという事は。

「もう、いかねーから…」

瞬間、花道を襲ったのは途方もない絶望だった。
もう来ない。
もう、来ない。
ルカワはもう…

「るか…っ」

気付いたら去り際の流川に手を伸ばし、シャツを掴んでいた。

「待っ…、オレ、」
「なに、…用は済んだろ」
「…、」
「もう帰れば」

流川は振り返り花道を見た。けれどその目はこちらを見ない。背中を向けたまま、まるで花道を拒んでいるみたいだ。
うちひしがれる間もなく、じゃあ、と言われて玄関を追い出されてしまう。
重厚な音を響かせながら、そのドアはあっけなく閉じた。閉じてしまった。
流川と自分を繋ぐものが、もう。
どうしよう。もう、ない。

「…っ、…」

流川が自分から去る事に、こんなに恐怖を感じるなんて。
流川が自分を必要をしない事に、こんなに孤独を感じるなんて。
それを思い知った時、花道の決壊は堰を切って崩壊した。
みっともなく嗚咽を漏らしそうになり、花道は駆け出した。
駆けて、駆けて、飛び込んだ自分の部屋。
散らばった服の中から布団を引っぱり出し、そこへと逃げ込む。
視界が完全に遮られたところで、堪えていた呼吸と共に涙が溢れた。

ああ、なんてことだ。
ごめん、ミッチー。
ミッチーの言う通りだった。
終わりにしようなんて、よくも決意できたものだ。
本当に終わらせる気なんてなかったくせに。
引き止められた腕に、期待してしまったくせに。

「う、う…っ、く」

決定的な言葉を言われ、つきつけられ、そこまでされないと理解できなかった。
流川離れできてないのは、紛れもなくオレの方。

水分を吸い込んでいく布団に顔を埋め、流川を想う。
彼は、当たり前に近くにいすぎて、それが当たり前すぎて。
自分になくてはならない存在になっていた事に気がつかなかった。気付けなかった。
思えば、またいつものようにフラリとここにやって来る気がして、鍵を開けたままにしていたのは。
…どこかで余裕こいてたんだ。
流川の事だからと。何があっても自分に戻ってくると。
それが今あっけなく崩れ去った。
流川はもう、自分以外でもいいのだ。いらないのだ。
だから今、こんな…。

握り締めた布団の皺に、幼いあの日が蘇る。
小さな手でいやだと掴まれた服の裾。
嫌なフリを装いながら突き放せなかった。
その内心―

本当は、嬉しかったんだ。

必要とされる事。
自分だけが流川の特別だという事。

好きだと、言われた事。





…ッタン!

突如、部屋を襲った衝撃に花道は固まった。
それが玄関の戸の音だと理解するまでに数秒を要し、次いで、布団を剥がされたのだと気付くのに数分がかかった。
そう、誰かが布団を引き剥がしたのだ。

「…どあほう」

ついていけない。
これは夢か。
真っ黒な双眸に自分のまぬけな顔が映る。そこでやっと、花道は声を上げていた。

「るか…」
「なに、泣いてんの」

流川がいた。
流川がいて、自分の頬に触れている。
自覚したら益々涙が溢れてきて花道は戸惑った。なのに、流川はそれをやめない。長い指を、何度も頬に滑らせるから。

「…っ、」
「なんで泣いてる」
「…っ泣い、てねー」
「泣いてる。なんで。意味わかんねー」

オレの事、うんざりなんじゃねーの。メーワクなんじゃねーの。
言いながら流川の指が離れていくのを、花道は咄嗟に掴んでいた。
驚く流川に構わず引き寄せる。
覆い被さるような体勢だった流川はバランスを失ってそのまま花道の上に倒れた。

「…や、なんだよ」

くぐもった声が流川の肩口に震える。
流川が顔を上げると、そこには真っ赤でぐしゃぐしゃの泣き顔があった。

「おま、えが、ほかの…いるの、やなんだよ」
「なにそれ」
「勝手なの、しってる、けどオレ、」
「都合いいんじゃねーの」

カノジョのひとりでも作ってって言ったの、てめーだろ。どあほう。
そう続けて流川が眉を吊り上げるから、花道はまたぼろぼろと涙を零して俯いた。
その顎をふいに何かが捉える。上向きにされる。
流川の右手の仕業だと気付いたときには、唇を奪われていた。

「ずりー。その顔」
「なっ、に…」
「オレを、取られたくねーの?」

流川の目が花道を射抜く。
年下で、生意気で、いつまで経ってもガキだと思ってたのに、いつの間にこんな目をするようになっていたのだろう。
これじゃあ自分のがよっぽどガキだ。
ただキスされたくらいで、こんなにドキドキして、苦しくて。
だから花道は、返事の代わりにめいっぱい流川を引き寄せて口付けた。
それはほんの一瞬だったけれど流川には伝わったらしい。花道を見つめるそれがゆるりと細められ、もう一度顔が近づいてきた。
触れるだけのキス、噛み付くようなキス、啄むようなキス。
顔中に降り注ぐそれらは花道から涙を奪い、呼吸を奪い、気付いたら理性も奪い去っていた。





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