執着する流川に、渋々従う花道。
二人の仲に変化が訪れたのは、それから少し経った一学期最終日の事だった。

照りつける日差し。蝉の声。長い校長の話。
いよいよ本格的に夏である。夏休みである。

「っしゃー!終わったー!」
「ちょ、今から海行かね?」
「それよりなんか食いてー腹減った」
「オレ今日からバイトー」

学期最後の難関、通信簿を受け取った後の教室は、既に担任の存在意義を失っていた。
あー、もういい、とにかく身体には気をつけて過ごすように、そう述べた言葉も虚しく宙を漂うばかりで、担任は早々に退散する事を決めたらしい。渋面で静かに去って行った。
そんな中、

「えー?それって変じゃねー?絶対変だろ」

窓際一番後ろの席で、花道の先輩、三年の三井が声を上げた。

「あんだとミッチー、もっぺん言ってみろ」
「だから変だっつってんだよ、お前。つか、お前ら」
「あぁ?!何が変だって!?」
「まー待て花道、三井サンも花道煽んなら覚悟して煽ってくださいよ」

一年の教室に当たり前に居座る三井に二年の宮城。この二人は花道の所属するバスケ部の先輩である。
時折ふらりと訪れては、花道をからかうのを趣味としているのだが、今日はどうも様子がおかしい。
というのも、先刻三井が漏らした「絶対変だろ」に因るものなのだが。

「なんで一緒の布団で寝てんのが変なんだよ、ミッチー」

どういう経緯でそんな話題になったのかは忘れたが、花道は今日から流川が本格的に泊まりに来るからめんどくせぇだの、部屋が狭くなるだの、そういう愚痴を先輩に零していたつもりだった。
それが、三井のアンテナにひっかかったらしい。

「もう中ニだろ?彼女の一人や二人いたっておかしくねー歳だろうが。しかも見た感じだとアレは女にモテるタイプっぽいしな」
「モテる!?まさか!あのキツネがモテるなど、あり得ん!」
「いやまぁ…それは置いておいて…とにかくだな、中二の男が、高一の男と、同じ布団で寝る、ってのがもう変だろ」

三井は一語一語を妙なブレスで区切って花道に向き直った。
隣では宮城が複雑な面持ちで腕組みをしている。

「だって布団二枚敷くのめんどくせぇだろ…それにアイツいつでもどこでもすぐ寝やがるし、男同士なんだし別に」
「っ、だーかーらー!」
「ちょ、三井サン、まぁ気持ちはわかりますけど」
「ぬ…リョーちん、なんだよリョーちんまで」

花道は二人の先輩の意図するところがわからずに膨れた。
自分はそんなにおかしい事を言っているのだろうか…。

「あのなぁ、花道」

暫らく黙ったまま膨れ面の花道を見ていた宮城が、そこで不意に声を上げた。

「流川、女の子に興味持たせた方がいいんじゃねーの?」
「む…」

それは、花道も思っていた事だった。
確かに流川は変わっている。
自分に対してかわいいやら、キスしたいやら、明らかに変わっている。
でもそれはつまるところ、兄に懐くのと同じような感覚なわけで、もっと極端な話、家族に甘えるのと同義だ。
だから心配はしていたが、そこまで深刻には考えていなかった。
だけど…。

「女の子に…興味…」

急に大人しくなる花道の声音。宮城は応えられずに俯いた。
教室のざわめきはいつの間にかその数を減らし、気付けば花道たちの他に、2、3人が残っているだけになっていた。

「つーか、」

お前気付いてねーかもしんないけどさ、宮城は顔を上げて言葉を続けた。

「流川がそうなったのって、お前のせいじゃねーか?」
「!」
「あー、やっぱり!」
「…で、でも今アイツんち、親いねーし…」
「だからって、なんでお前が毎日一緒にいなきゃなんないワケ?流川んち、お手伝いさんいるって言ってなかったか?」
「そう、だけど…」
「なんだ、そんじゃ流川離れできてねーのはお前の方かもな」
「ぐ…ミッチー!」

わはは、と笑う三井の隣で宮城は面倒くさそうにため息を吐いた。結局この人は花道を煽ってばかりである。
仕方なく立ち上がりかけた花道を制し、とにかく、と二人を睨んだ。

「このままだといつまで経ってもべったりされるぞ花道!それに…流川のためにもなんねーぞ?」






花道が家に着いたのは、陽も落ち、薄紫の空に疎らな白い粒が瞬き出した頃だった。
自分のボロアパートの前に立ち、戸を開くべきか否かを悩む事10分。

「おせー」

意を決して開いたそこにいたのは、やはり流川である。
いくら合鍵を渡していたとはいえ、おせーはないだろ、おせーは。
…人の気も知らないで。

「お前…勝手に人んち上がっといてその言い草はなんだ」
「今日部活ないって言ってた。なんでこんなおせーんだ」
「…キツネに人語は通じねーか」

がっくりと項垂れる花道の肩から学生鞄がずり落ちる。
それをそこに放置して、花道は洗面所に向かった。

ああ、どうする。
どう言えばいい。

鏡の前に立ち、心なしかやつれた己を視界で確認して更に気持ちが萎えた。
先輩二人にからかわれたからじゃない。…まぁ、きっかけはそうかもしれないが。
花道も薄々どうにかしなければいけないと思っていた事だったのだ。
だけど、どうしたものか。
傷つけず、穏便に、話し合いで解決へ導く事など、あの流川相手にできるのだろうか。
そもそも花道自身が言葉より行動派である。
流川を説き伏せる事のできる口上など、持ち合わせているはずもない。

「なにしてんの」
「ぬおっ!!」

ぐるぐると果てなく巡っていた思考が突然打ち消された。終止符を打ったのは、いつの間にか真後ろに佇んでいた流川。
ああ、ちくしょう、相変わらず気配が読めねー。

「なん、だよ」
「…今日おかしい」
「あ?べ、別になんもねーよ」
「変」
「へん、っておま、それはお前の方だろ…っ!」
「オレ?」
「だ、だから、」

オレがいないとイヤダとか、かわいいとか、キスしたいとか。
言おうとして言葉が詰まった。
なんという事だ、流川が急に抱きついてきたのだ。

「っ、」

なに、してんだコイツ。
なにいきなり抱きついてきてんだ。

「どあほう、」

ぎゅう、と音がするくらい抱きしめられて、耳元で小さく声がする。

「なにかあった?」

瞬間、かあ、と血液が沸騰した。
流川の黒髪が花道の鼻先に触れ、背中に回された腕は強く、強く、本当に力強い。
何故だろう、涙が出そうだ。

「や、めろ…っ!」

両腕で身体を押し返し、花道は一歩後退した。腰骨に洗面台がぶつかる。

「もうやめろ…、こういうの」

もう今しかない。
今を逃して、機会は訪れない。
花道は決意して流川を見据えた。


「もうお前、ひとり立ちしろよ、」


その時の流川を、どう表現したら良いだろう。
いつか見たあの顔、いや、ついこないだのと同じか、それ以上の。
しかし予想外だったのは、その後の流川だ。
力任せに腕を引かれ、身体は反転し、気付けば黒い瞳がふたつ、目の前に並んでいた。
組み敷かれたのだと気が付いたのは、倒れる際にぶつけた身体があちこち痛みを訴え出したからかもしれない。
ルカワ、と声を出そうとして敵わなかった。
流川の瞳がそれを許さなかった。

「イヤダっつったの、忘れたのか」

これは、誰。

「オレがてめーに言った事、」

こんな雄雄しい顔も、声も、腕も、知らない。
これは、

「全部忘れたのか」

誰…


「ぐっ!」

虚をついて唇を襲う衝撃に花道は覚醒した。
何かが口内に入ってくる。
熱い、濡れた、生々しい塊。
目を見開けばさっきまで見ていた黒い双眸がぼやけて映る。
キス、されている。

「ん、ん、ー!!」

なんだこれ、なんなんだよこれ。なんで流川がこんな事してんだよ。
振り解こうとしてもびくともしない。顔も背けられない。
ただ心臓が、驚くべきスピードで早鐘を打ち鳴らすだけ。
舌を絡められ、両腕を拘束され、覆い被さる体重を実感した。その瞬間、花道の知る流川は消えていた。跡形もなく。
そして残った見知らぬ男に、花道は恐怖した。
生まれて初めてこの年下の男に恐怖を感じたのだ。

「つ!」

気付いた時には、流川の唇を噛み切っていた。
鮮血が花道のシャツに落ちる。

「あ…」
「なに、心配?」

赤く滴るそれをぺろりと舐め上げ、流川が笑う。

「てめーはいつもそうだ。オレが怪我するたび、そういう顔をする」

目を細めた流川がふわりと近づく。
だめだ、なんだこれ、目が逸らせない。
無意識に強張る花道の頬に指が触れた。
両腕の拘束はいつの間にか解かれていた。

「オレを想ってるときの顔、オレの好きな顔」
「お、おい…、」
「好きだ。オレはてめーが好きだ、どあほう」

柔らかい声が降ってくる。
ああ、そうだ。
こないだも言われたんだった、この言葉。
オレが、好きだと。
こんな顔で。

―って、

「ちょ、待て待て!待てルカワ!」

もう一度口づけされたその直後、花道は大慌てで流川を引き剥がした。
うっかり流されかけた自分に動揺する。

「だからこれが変だって言ってんだ!」
「なにが」
「なにがって、おま…オレは男!お前も男!だろ」
「それが?」
「おかしーだろそんなの!!お前はだな、流川、もうちょっと普通の中学生らしく彼女の一人でもつくってだな、」
「いらない。てめーがいい。てめーが彼女」
「なっ!!おっ…そっ、」
「てめー以外に好きな人はいねー」

だめだ。 もうお手上げだ。
花道はついに匙を投げかけた。
…が。

『流川のためにもなんねーぞ?』

浮かんだのは、宮城の言葉。
流川の、ため。
そうだ、流川のためにもここは…。

「オ、オレは好きな子がいるからダメだ!!」

花道は半ば自棄になって叫んでいた。
それ故、声が変に上ずって響く。…流川にはバレたかも、しれない。
でもこれは賭けだ。
信じさせる事ができたら、流川は変わるかもしれない。

「…それ、ホントウか」

緊迫した数秒の間を置き、流川は呟いた。
その目は初めて見る険しさを讃えていて、花道の胸にチクリと棘を刺す。

「ほ、ホントウだ。だからダメだ」
「…誰」
「へ?」
「そいつ、誰だって聞いてる」
「え、あ、ああっと、学校の子だ!」
「…」
「本当だぞ!きょ、今日もその子と一緒にいて、だから遅くなって…」
「ふーん…」
「…って、まさかお前、学校来るつもりじゃないだろうな!?」
「そうだけど」
「ば、バカやめろ!それに今日から夏休みだぞ!」
「じゃあ名前、教えろ」
「な、ま…」

そこで花道の何かが音を立てた。
好きな子、学校、名前、…それから。次々と単語が頭の中を駆け巡る。ああ、コイツ、オレのいもしない好きな子のところに行くつもりなのか。そうか、それで。
その後どうする気かなんて聞かなくてもわかる。同時に花道はぞっとした。
もしも、本当に自分に好きな人がいて、それをこの男に告白していたらどうなる。こうして凄んで、相手のところに行くつもりなのか。そうして脅迫するつもりなのか。そんなことを平気で…。
かっ、と頭に血が昇る。
花道は組み敷かれた状態から瞬時に起き上がると、流川の前に立ち、上から見下ろすようにして彼を睨んだ。

「アホか!言うわけねーだろ!言ったらお前行くつもりだろ!っあー、もういい!めんどくせぇ!…もうお前、うんざりなんだよ!メーワク!いい加減わかれ!!」

勢いのまま吐き出した言葉は、本人の予想を超える残酷さと冷たさでもって洗面所に反響した。
肩で息をつく花道の呼吸がその余韻に重なって落ちる。
…やばい。
言い過ぎた。
思っても、後の祭り。
そうしてどれくらいの時を見送ったのだろうか。花道の呼吸が落ち着くのを見計らったように、わかった、そう告げる流川の声が耳に届いた。
花道が彼に向き直った時にはもう、その姿は戸の向こう側。
流川は、出て行ってしまった。

「…え、」

まさか今の、信じたのだろうか。
戸の閉まる音をどこか遠くで聞きながら、花道は呆然と玄関を見つめた。
流川の去った部屋を見ても、いつもと何ら変わらず、これで当初予定していた『流川の説得』というものが解決されたようには到底思えない。
でも、決定的な何かは壊れた。
それも、二度と修復不可能なまでに。

「…くそ、」

これで良かったのだという自分と、なんであんな事を言ってしまったのだという自分。そのふたつが鬩ぎ合う。
鼻の奥が痛い。
心臓が、痛い。
あの時、流川はどんな顔をしていた。
どんな目を…。
思い出そうとして、視界に何かが横切った。
見やればそれは流川の忘れていったスポーツバック。その上に置かれた沢山の菓子。

「なん、だよこれ…、」

それは全て、花道の好物ばかりだった。
今日から夏休み中ずっと花道宅で過ごすつもりだった流川の、せめてもの礼のつもりなのだろうか。
いそいそとこんなものを用意して来るなんて、想像すると笑えて、気付いたら涙まで流して爆笑していた。

「ばか、じゃねぇのこんな、」

滲む視界の中、もうこんな流川には会えないのだろうと、何故かそれだけは確信できる。

きっと、これで良かったのだ。
制服に残された赤い染みを指でなぞり、花道は唇を噛み締めた。





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