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梵はこの体験をそのまま胸へとしまい込み、以後、誰にも喋ったことはなかった。子供なりに、禁を破ったことを自覚していたのだ。
それでも、前田がその日のうちにひと目見たならば、梵の身体を取巻く気の流れの中にわずかに染み付いたスラィリーの気配を見破ったことだろう。
しかし前田が不在のこの時、それに気づく可能性のある人間はなかった。
父は前田と同じように、見ればひと目で感づいただろう。しかし、いまこの道場に暮らしているのは、狐を除けば子供が二人だけ。週に一度使いがてら様子を見に来る兄は当時まだ気の使い手ではなく、その眼力は一般人のそれを超えなかった。
そして誰より一番近くで彼を観察する機会を持っていたはずの永川少年は、自分が見ていない間に他人がどこで何をしているかについてあまり興味を持たないタチだった。
それから何事もなく年月が過ぎ、成長してゆく中で少年はいつしかこの出来事を忘れた。遠い日の思い出の中の1ページとしてすっかり整理が済み、簡単には取り出せないアルバムの中へと織り込まれたのだ。
一方のスラィリーも、ほぼ同様の道筋を辿った。当時の梵少年よりもさらに幼かったその記憶に刻まれたものはごく僅かだ。
少年の言うことは何一つ理解できなかった、繰り返される「ヨモギ」という言葉も、それが自身に対する呼びかけであることも、一切が理解できなかった。
かろうじて記憶に残ったものは、ただ、自身の心に起こった得体の知れない細波と、凛とした涼やかな少年の声の響き。
幼心に刻まれたそれは決して消え失せることはなかったが…、その後成長していくにつれ、その記憶が果たして夢であったか、現であったかさえも、判断がつかなくなっていった。
こうして彼らの一期の縁は、互いの中で、単なる痕跡になった、はずだった。
しかし…、この縁は生きていた。縁とは望む望まざるに関係のないものだ。梵は知る由もないことだが、これはかつて所沢を去る青木勇人に向かって大沼総帥が贈ったという言葉と同義である――。
梵はまた手元の石をひとつ拾って投げた。そして溜息をつくと、隣に座るヨモギに聞かすともなく淡々と喋り始めた。
「自衛隊やら、西宮軍のもんなら、迷うこともなかったんじゃ。でも、昨日のはただのハンターじゃったけ、殺さないで済むんなら、って思ってしまったんよ」
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