エスコートはベッドまで 1
聖地は今日もよい天気で、執務室は窓から指す陽の光で明るい。
ジュリアスは書類を捲る手を止めて席を立つと、窓から聖地を見下ろした。グリーンは敬愛する女王陛下の瞳の色。鮮やかな緑を目に留めると、肩に入っていた力が抜けるのが分かる。
宇宙は安定し、女王陛下のお力に微塵の揺らぎもないこと。それはジュリアスには何物にも代え難い素晴らしいものだと感じる。
現在、聖獣の宇宙へ力を貸してはいるものの、あちらも守護聖が揃いかなり安定して来ている。伝説のエトワールの働きぶりは目を瞠るほどだとジュリアスも感心している。
ジュリアスにとって現在の心配ごとはただひとつ。けれどまだそれを誰にも相談できないでいる。あまり他の者の機微に関して敏感なほうではないとジュリアスは自覚していたし、自分の思い違いということもある。むしろ、思い違いであって欲しいとも感じていた。
炎の守護聖様がお見えです、と執務室付きの者が取り次いでくれ、ほどなくオスカーが部屋に入って来た。ジュリアスは傍仕えにカプチーノとエスプレッソを頼み、応接ソファーへとオスカーをいざなう。
「オスカー、いい牝馬を手に入れたそうだな。私に会わせてはくれぬのか?」
そう振ると、赤い髪の男は目を細めて笑った。
「さすが、馬のこととなるとお耳が早い。ええ、そのことで参ったのですよ。ウェンディベル、という栗毛のお嬢ちゃんです。まだ一歳半、馬主が渋ったのを口説き落として手に入れました。美人ですよ」
まだ若いのでオスカー自身は乗らず、彼の馬番へ調教を含めた慣らしをさせているのだという。
「そうか。まだ私も乗る訳に行かないかもしれぬが、週末ウェンディベルに会いに行っても構わぬか?」
ジュリアスが椅子から体を乗り出すようにすると、オスカーは頷く。
「もちろん歓迎いたします。ですが、ジュリアス様は牝馬には随分と積極的ですよね。あなたを慕う女性たちへも、少しはその情熱を向けて差し上げたらよろしいのに」
ジュリアスはそれに何も返せずにソファーの背へ体を預けた。するとカプチーノを口にしたオスカーが感じのいい笑みを浮かべて彼を見る。
「もしも女性のことでお悩みなのでしたら、俺でよければお伺いしますよ。もちろん他言はしないとお約束できます」
そうしたことになると炎の守護聖こそなぜそんなに敏感なのか。感心と呆れに首を振り、ジュリアスは嘆息しつつエスプレッソのカップを手にした。
「私の勘違いならよいのだが、近頃陛下がなんだかよそよそしいと思わぬか? 公務の折に陛下をエスコートすることもあるのだが、表情が固いように感じた。陛下のお茶に招待いただく機会も減ってしまった」
ジュリアスの言葉にオスカーの薄い青の瞳が驚きに見開かれる。
「俺には陛下は全くお変わりなく見えます。とてもお元気で、先程もマルセルとダンスの練習だと、音源を持ち込まれてテラス中を所狭しと踊られていましたが」
そうオスカーは首を捻ってどうやら口に出した際の様子を思い返しているようだった。女性の心の変化について敏感なオスカーがそう思うのなら、とジュリアスは安心して息を吐いた。
「だったら、陛下の体調が優れないということではないのだな。それはよかった。きっと私が気付かぬうちに陛下のご不興を買うことをしてしまったのだろう。そなたが気付いたことがあれば言ってもらえたらと思う。どうも私には女性の気持ちを汲むことができぬ傾向にある」
オスカーはジュリアスのその言葉を否定することまではできなかったようで、はい、と神妙に頷いた。その後は気分を盛り立てるようにだろう、新しい馬の披露へとオスカーは話題を戻し、ジュリアスも楽に息が出来るようになったのだった。
翌週のこと。
星都の王立研究院を通して著名人を招いた夜会が開かれた。ジュリアスとオスカーは連れ立ち、女王陛下と補佐官とをエスコートするため女王宮へ向かった。
ドレスアップをしていた女王陛下もロザリアも美しく可憐で、ジュリアスも思わず感嘆の声を漏らした。お迎えに上がりました、そうジュリアスは礼をして手を差し伸べたが、その手は女王陛下に取られることがなかった。
「今夜は赤いドレスだし、オスカー、エスコートをお願いします」
ジュリアスのタキシードはグレーであったため、オスカーの黒いタキシードのほうが確かに赤いドレスの横に立つのに合うだろうと思う。女王陛下の望みのまま、ジュリアスは一礼して後ろへ下がったものの、気遣わしげにオスカーのブルーの瞳が自分を見るのを見返すことができなかった。
ブルーのドレスの女王補佐官はとても美しく、ジュリアスは彼女の手を取り横に立つことに何の不満もなかった。けれど、音楽が流れ出したダンス会場の真ん中で、一番に踊るオスカーと女王陛下の姿を見ることに、胸が痛まないと言ったらそれは嘘になるだろう。
女王陛下は金の髪を煌かせてオスカーのリードでターンをする。フリルがたくさんの赤いドレスはターンで広がり、彼女は楽しそうに笑った。
ジュリアスにも、今まで女王陛下と組んでワルツを踊る機会は何度もあった。けれどそのどれも彼女はあれほど楽しそうだっただろうか。彼の足を踏まないようにと、緊張した面持ちで体を固くしていた女王陛下しか思い出せず、ジュリアスはこっそりと嘆息した。
ジュリアスもその日のパートナーであるロザリアと組んで一曲踊ったものの、その後は招待客の相手をしながら、ずっと女王陛下の姿を目で追っていた。彼女は守護聖たちを含め、次々と男たちにダンスを申し込まれ、気さくにそれに応じている。
「ジュリアス。陛下にダンスを申し込まれませんの?」
ずっとそちらを気にしていることは見抜かれていたようで、ロザリアに進言されてしまう。ジュリアスは苦笑してロザリアを見下ろした。
「とても楽しそうに踊られていらっしゃる。だが陛下は私が申し込んだ途端、足首の具合が悪くなられるのではないかと懸念している」
どうもその予想が当たりそうで勇気が出ないのだった。
ロザリアはその言葉を聞くと彼から離れて行ったので、ジュリアスは招待客のほうに向き直り彼らの質問へ言葉を返すことへ戻った。けれどそのどれも、にこやかに、とは言い難い表情ではあったかもしれない。
一息入れるため、ジュリアスは庭園へ繋がるテラスへと足を向けた。輪唱のような若い女性たちの笑い声にそちらを見ると、その中心には炎の守護聖の姿がある。ジュリアスはすぐに目を逸らしたのだが、オスカーは彼に気付くと、失礼、と華やかな淑女たちの輪を抜けて来た。
「ジュリアス様。陛下のご要望とは言え、差し出がましいことになりましたことをお詫びします」
そう頭を下げるオスカーにジュリアスは首を振った。
「そなたが謝る必要はひとつもないであろう。むしろ、陛下があのように楽しそうにダンスするお姿を拝見できてよかったと思う。やはりそなたは女性を楽しませる術に長けているな」
嫌みでなくそう言いながらジュリアスは微笑んだが、オスカーは硬い顔で思案げに眉を寄せる。
「陛下は俺の前で無理に明るく笑っていらしたという気がしました。宇宙には現在何も問題はないと思いますが、何か陛下のお心に掛かる出来事が 」
顔を上げたオスカーはジュリアスの後ろの方角を見ると口を噤んだ。そして少女たちが見たのならそれだけで恋に落ちそうな魅力的な微笑みを浮かべ、ジュリアスに一礼して後ろへ下がる。
話の途中でオスカーが退席した訳が分からずに、ジュリアスは困惑したのだけれど。その時後ろから彼に掛けられた声は。
「ジュリアス。一曲踊ってくれませんか?」
弾かれたようにジュリアスが後ろを振り向くと、テラスから庭園への数段の階段を赤いドレスの女王陛下が下りて来るところだった。自分の心臓が速い鼓動を刻む理由がジュリアスには説明がつかなかったけれど。
片足を石畳に突いてジュリアスは頭を垂れた。
「もちろん陛下のお望みのまま。一曲の間、お手を取る栄誉に預かり光栄です」
その言葉に女王陛下が眉を顰めたのだが、ジュリアスは気付かなかった。顔を上げ、ジュリアスは女王陛下の手を取ってテラスから会場内へ戻ろうとしたものの、彼女から腕を引かれて足を止める。
「ジュリアスが嫌じゃなければ、ここで。どう?」
庭園とはいえ、薔薇の生垣の手前まで続く石畳。さほどドレスの裾が汚れる心配はなさそうだった。ずっと大勢の目に晒されている陛下の負担も考え、ジュリアスは頷いた。
折りよく曲が変わる。スタンダードなワルツの曲で、以前もジュリアスはこの曲で女王陛下と踊ったことがあったことを思い出す。
組んだ手で少し促しただけで、腕の中の少女は軽やかに踊り出した。以前そうして組んで踊った時よりも、格段に足運びも体重移動も上達しているのはジュリアスにもすぐ分かった。
曲に合わせてターンをすると、会場の明かりと庭園の外灯が、その後ろの夜の色に光のすじを残して回る。足は自分のものも女王陛下のものもこれ以上なく完璧なステップを踏んでいるのに、どこか浮遊する感覚に包まれる。
それほど酒を過ごしたはずはないのだが、そうジュリアスは少女の体から伝わる熱を感じながら思う。見れば女王陛下の表情もどこか酔っているような上気したもの。
触れている少女の背中から華奢な腰までを撫でたいという衝動が突き上げてジュリアスは戸惑う。
離れ難く、一曲と言った彼女を、ジュリアスはそのまま三曲の間独占した。曲がひと息ついて足を止めた時、ジュリアスも女王陛下も少し息が上がっていた。
丁寧に礼をし、ジュリアスは少女の長い手袋に包まれた手を離そうとした。すると彼女のほうがジュリアスの手を掴まえ、その手に力が込められる。彼を見上げる大きなグリーンの瞳が、どこか不安な色をのせ揺れていた。
「ラストまでエスコートをお願いします。もしもジュリアスが嫌じゃなかったら」
ジュリアスは細い手を取り、手袋の上からレディへのキスをした。嬉しさが込み上がったものの、それをどうにか表情に出さないように努力しながら。
「陛下のお望みのまま。いつなりと御前に」
その誓いの通り、会場に戻ってもずっとジュリアスは女王陛下の横にいた。もう彼女は他の男性にダンスに誘われてもそれに応じなかった。それが嬉しいと思ってしまう自分の心の一部にジュリアスは戸惑う。
ただ女王陛下はいつもの快活さはどこかへ隠してしまったかのようで、ジュリアスの横で至極真面目な表情のまま客たちに向かい合っていた。落ち着いた雰囲気と言えばそう言えなくもなく、不思議に思いながらもジュリアスは特にそれを咎めもしなかった。
そしてつつがなくその夜の夜会は終了した。
最後までエスコート、その言葉のままジュリアスは少女を女王宮まで送り届けた。今日のはじまりに迎えへ出向いたその時とは全く違う展開になったこと。それをジュリアスは女性の気まぐれとだけ片付けたくない気持ちを抱いていた。いくら考えようともジュリアスには女性の心のうちなどはきっと分からないだろうけれど。
「今宵陛下と踊ったことは私にとって特別な思い出になりそうだ。感謝いたします。お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みください」
そんな言葉を残し一礼して下がろうとすると、待って、と少女から声が掛かる。その声が思いつめたような響きであるように感じてジュリアスは首を傾げる。
「陛下の望みのまま、って、ジュリアスは言いましたよね。わたしが望んだらジュリアスはそれに応えてくれるの?」
ジュリアスの忠誠は全て女王陛下のもの。彼はその場に跪くと胸に手を当てて頭を下げた。
「私にできることならばなんなりと。陛下のお力になれることこそ私の喜びです」
じっと見下ろす視線を感じたものの、女王陛下からはそれに対する言葉がなかなか下りて来なかった。疑問に感じながらもジュリアスがゆっくり頭を上げていくと、彼女はこちらに背を向けた。そして冷静に聞こえる声を彼に寄越した。
「そう。それではあなたに、今宵の夜伽を命じます。湯浴みをすませて女官の案内を待つこと」
その言葉が一瞬理解できずにジュリアスが固まっていると、女王陛下のドレスの裾は奥へと進み。ジュリアスがやっと我に返った時には、彼女はそこから姿を消していた。
過去、ジュリアスもそういった話を耳にしたことはあった。
相手が守護聖だったかは不明だが、女王陛下が成熟した女性であった場合、そうした必要に駆られることとて不自然なことではない。元よりストレスが多い環境ではあるゆえ、そうしたことが有効な場合もあるだろうとジュリアスとて理解している。
一代前の女王陛下に、もしかしてそういった相手がいたかもしれないとは薄々感じてもいる。そしてそれを責めるつもりも今は毛頭ない。けれど自分がそうしたことを望まれた経験がなかったため、ジュリアスは激しく動揺した。
それに現女王陛下はまだ少女であるのだから、そうしたことがプラスの働きだけになるかどうか、かなり疑問も感じる。それともジュリアスが知らないだけで、自分が言われたことは現女王宮においては普通のことなのだろうか。そう思い至ると動揺はもっと大きくなった。
そうだ。ジュリアスは女性の心の機敏にはかなり疎いと自覚している。だから自分だけが知らないでいたことかもしれない。そう思った途端、胸が激しく痛む理由がジュリアスには見当つかなかった。
心の乱れはジュリアスの表情には出ておらず、彼は女官たちの案内のまま湯浴みをすませて女王宮の中を奥へ進んだ。もちろんそんな場所まで足を踏み入れたのは、長い守護聖としての暮らしの中でも、ジュリアスにとってはじめてのことだった。
もしや陛下はこうしたことに慣れておられるのか、そう女官たちに訊ねたかったが、その勇気がジュリアスにはなかった。多分訊ねたとしても答えはきっと返っては来ないだろうが。
困惑していたものの、断固拒否をして私邸へ帰る、という選択肢はジュリアスにはなく、その自分の心持ちに気付いてさらに彼は当惑した。むしろ今夜の女王陛下からはジュリアス自身が離れ難いと思っていたのだとも気付いてしまった。
彼女の望むままそうしたことに応じてもよいものかはジュリアスには全く分からない。けれどこんな時に相談できる相手などいなかった。闇の守護聖の顔が頭に浮かびはしたものの、今この時にどんな手段で連絡を取ったものやらも分からない。もし連絡が取れたとしても、自分がきちんと言葉に出して今夜のことを説明できるとも思えなかった。
彼女の心についてもジュリアスには何も見えずにいる。何故女王陛下がそんなことを言いだしたのか。この先がどうなるにしても、実際に顔を合わせて訊ねなければならないと感じてもいる。
そしてそれも全て、自分が今この場所にいることを正当化するためだけの理由なのではと思い至ってジュリアスは困惑に眉を顰めた。
装飾の施された寝室への扉の前に立っても、ジュリアスの心は乱れたまま。何の答えも出せないままそこが開かれる。