十字架の罰
■第三章■
光隆が深い眠りについている間、ライエルは隣の部屋の片隅で、小さくなっていた。
不安がって、太秦が近づいてきたが、優しく撫でるだけであった。
とうとう来たのだ、この時が。
ライエルは悟った。恐怖がライエルを襲う。どうすればいいかわからない。ライエルはことのほか驚いた。ライエル自身、『この状況』は想定していたことだし、先祖代々この運命を受け入れ続けているのだから、辛いことはないと、思っていた。
しかし、実際は違った。何より驚いたのは、相手が男でも『この状況』に陥るということだった。
胸の高鳴りは治まらない。先ほどの血の味が口の中いっぱいに広がった。
これが十日続くとなれば、問題だ。しかし、成す術がない。時に身を委ねることだけが、ライエルのできる限りのことだった。
隣の部屋に続く襖を開けた。優しい寝息をたてて、光隆は寝入っていた。まだまだ起きる気配はない。
光隆がこの家に来て三日。こんな感情は初めてだった。
これが『宣告』だとは知っている。
激しい胸の高鳴りに、ギュッと唇をかみ締めた。理性はまだ、あると思う。
そろそろと光隆に近づく身体。どうにもこうにも止まらない。「やめろ!」と命令しても、もう、無駄なのだ。
ライエルの目は形のいい唇をとらえた。
ゴクリと喉が鳴る。右手が左腕を掴んだ。
やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
無理なのだ。もう、どうあがいても、どう叫んでも。ライエル自身が望んでいることなのだ。
光隆の唇に、ライエルの唇が重なった。そっと触れるだけの口付けなのに、ライエルの胸が高鳴る。すぐに唇を離した。胸に手を当てると、まだ鼓動が速い。
「どうしよう。」
ライエルは光隆の横で震えた。暗闇は心地よかった。しかし、この気持ちは怖かった。
「…。ライエル?」
「みつ…た…か?…。起こしてしまいましたか?」
「ん?あぁ。だが、まだ眠い。」
光隆が、微笑んだ。初めて見せた笑顔にドキッとした。
「ライエル。……どうしたんだ?」
「いえ、ただ心配で。昼間あんなに痛がっていましたから。」
光隆がゆっくり腕をついて起き上がった。苦痛に顔が少し歪んだ。当初より痛くなさそうに見えるのは痛みに慣れたからかもしれない。
「あ、起き上がらなくていいですよ。痛むでしょう。」
「いや。私は大丈夫だ。しかし、お前が悲しい目をしている。」
右手が伸びてきた。ライエルの頬を優しく捕らえる。鼓動が速くなった。
「だい、じょうぶですよ。」
「大丈夫じゃなさそうだ。どうした?」
ライエルの肩に手をかける。肩が熱い。真剣なまなざしを避けることはできなかった。
「ちょっと、困ったことがあって。」
「私では、助けられないことか?」
どんなに熱い眼差しで見ているのだろうか。ライエル自身、検討もつかない。しっかりと光隆が覚醒したら、『誘っている』と思われても仕方が無い。
否、誘っているのだから。
「あり…ますよ。」
でも、光隆にはできない。
「なんだ?私にできることなら助けるぞ。ライエルは命の恩人だ。」
命を助けたくらいで、光隆ができるわけがない。
「無理です。きっと、これを言えば光隆は俺を嫌います。」
「嫌わないから言え。」
目が泳いだ。
「私は簡単なことでは人を嫌わない。」
ライエルは目を閉じた。言うべきか、言わぬほうがよいか、迷った。出会って三日。話したのはほんの数分。これを言えば、困惑させる。
「いえ。大丈夫です。」
「…。」
「まだ、言ってはならない気がするのです。」
にっこり微笑んだ。この暗闇の中では、どこまで表情が伝わっているかわからない。
「そうか。なら、いい。困った時は言え。私は私なりに力になりたい。」
「ありがとうございます。」
嬉しかった。初めて、人に優しくされたような気がする。日本というこの国に渡って五百年になるが、ライエルを見ては恐怖におののき、石を投げ、仕舞いには刀を抜いた。無駄な争いが嫌で逃げ入ったのが、この山だ。その山も、そろそろ人間の生活の場になろうとしているのは確かである。威嚇しては追い出し、怖がらせた。何人殺めたかわからない。
人間は話を聞かない。人の姿を見てすぐに刀を振りかざす。だから、こんなに優しくされたのは、今日が初めてなのだ。
「それじゃあ、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
ライエルはそろそろと部屋を後にした。首を数度振ると、パンパンッと頬を叩いた。強く頷く。
ライエルは光隆の寝る部屋に視線を移すが、すぐに外に出ていった。
ガラガラガラと扉が開いて閉まる音が、光隆にも聞こえた。
それを合図に、光隆は重たい身体を無理に起こす。「おやすみ」と言ったものの、もう目はすっかり冴えていた。
右肩の痛みも、薬で少しは和らいでいる。
この時間、どこに行こうというのか、疑問が沸いてくる。未だに光隆は彼がなんなのかを知らない。知りたいという気持ちが大きかった。
今、追いかければ知れるのではないかと、少しの期待が胸にあった。
「っと、まだ痛いな。」
右肩を優しく擦り、立ち上がる。腕を揺らさぬように歩いた。襖を開けた。隣の部屋には太秦が眠っていた。ピクリと耳が動くと同時にムクッと嫌そうに起き上がった。
「寝てていい。大丈夫だ。」
言葉を理解する筈はないのだが、自然とそんな言葉が出た。太秦は光隆を数秒睨むと、すぐに体制を戻し、眠りについてしまった。
言葉がわかるのか…?
山に入ってからというもの、変わったことが起こり続ける。夢なのか、誠なのか。もう、鬼が出てきた時点でおかしくなっているのだ。神が出てこようと、山犬が言葉を理解しようとどうでもよくなっていた。
この部屋は土間に続き、外に続く扉がある。ここを開けて外へ出たのであろう。
ガラガラガラ。扉が開いて閉まった。太秦がその様子をじっと見つめていた。
外は、肌寒さを感じる程度であった。夜空が綺麗だ。久方ぶりに夜空を見た気がした。星が輝いている。丸い月が美しく笑う。
ライエルは何処へいったのか。辺りを見回した。首を回す度に痛みが走ったが、もう慣れた。
視線の向こうに闇に続く道があった。躊躇している暇はない。
光隆はゆっくりその道を歩く。月明かりだけが頼りだ。この道にライエルがいる保証はない。勘だけで進んできた。
パシャリと、水の跳ねる音がする。魚にしては大きい音だ。
―ライエルの言っていた『竜神』か?
忍び足で近づいた。目の前に広がる光景に光隆は目を大きく見開いた。
小さいが、美しい湖が広がる。天の恵みだと言えば頷きもできる。月の光は美しくそれを照らす。
竜神…。
そう思った。
否、竜神ではない。光隆の瞳を埋めているのはライエルだ。
金色の髪が輝いて見える。美しいと思った白い肌も、より美しく、水浴びをしている姿はまるで天女のようだ。
人間ではない。それは確かだった。あんなに美しい人間がいる筈がない。あんな見事な金髪を持つ人間を見たこともない。
ゴクリと喉がなった。胸が高鳴っている気がした。女ではない。女ではない。と、光隆は言い聞かせることしかできなかった。
ライエルは静かに水浴びをする。誰もいないのだから、気兼ねすることなく水を浴びた。
『誰か』の存在に気がついたのは、湖から出てすぐであった。
布で身体を拭いていると、視線を感じた。
「誰…ですか?」
眉間にしわがよる。恐怖というより、驚き。いる筈がない男がそこにはいるのだから。
「光隆。」
「すまない。覗き見などと、不誠実なことをした。」
「なぜ…。寝なかったのですか?」
光隆は首を振った。顎の辺りを触り、困ったように目をそらす。
「もう、いくらも寝た。もう、数日は寝なくてもすむだろう。」
「…。」
「…。」
「つまり、眠くないのですか。」
「あぁ。」
ライエルは困ったように微笑むと、自分の身体を拭き、衣服を着用した。じっと光隆は見つめた。見つめてはならぬと、理性はいう。しかし、こんなにも美しいと目が離せぬのも事実。男なのだから見ても悪いことはないだろう。
そう、思った。
「こちらへいらしたらどうですか?」
ライエルは着替え終えると、湖畔に腰を下ろし、光隆に声をかけた。光隆はゆっくりとライエルの隣に座る。
「なぜ、夜に水浴びをする?寒くはないのか?」
「昼間は外に出られませんから。」
光隆は眉間にしわを寄せて、首を傾けた。
「俺の一族は太陽の光を浴びられません。」
「ライエル―は、一体なんなんだ?」
湖の中では魚が泳いでいた。とても綺麗な水で、底までよく見える。月の光に反射して、二人を照らした。
「俺は、ヴァンパイアです。」
「ヴァ…?」
「…。『人間』とか、『犬』とかの部類でいうと、『ヴァンパイア』と呼ばれています。」
森がざわめく。森の中では、動物達が静かに光隆とライエルを凝視していた。赤や金に光る二つの光が、森の中に点在していた。
梟の鳴き声。それに応えて、山犬が吠える。鳥が飛び交う。
「ヴァンパイアは、人間の血を吸って生きてきました。」
「人間の血…。昼間の行動はその為か。」
ライエルは苦笑し頭をかいた。光隆は袴を上げ、足袋を脱ぎ捨て湖に足をつける。冷たい水が光隆を優しく包んだ。始めは冷たかった水も、すぐに光隆の足に馴染む。
「沢山血を吸ったので、大丈夫だと思ったのですが、どうやら駄目だったみたいです。」
人のそれより発達した犬歯が月の光に照らされる。
美しいと思った。
月明かりの下、この胸にこみ上げる感情は、初めて人を切ったときとは違った感情だと、悟るのがやっとであった。
第三章 完
第四章
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