「お前、意外と度胸あんのな」
「まあね」
隣で慣れた手つきで運転しているクラウドは、とても免許取りたてとは思えない。
バイクの免許は持っているのに意外にも自動車免許を持っていなかったクラウドが免許を取ると言い出したのは、数ヶ月前。
学校みたいで面倒くさいとため息をつきながらも本試験までこぎ着け、今日免許を取ったばかりだ。
ティファに頼まれて試験場まで車で迎えに行ったザックスは、からかい半分で「運転してみるか?」などと言ってみたのだが、バリバリ初心者のはずのクラウドは落ち着いて運転し始めてしまった。
クラウドとザックスが再会してから一年、例のメテオ事件から二年後のこと。
ミッドガル近くの病院に奇跡的に保護されていたザックスは風の噂にクラウドのことを聞きながらも半信半疑だった。五年も人体実験されていた人間が、あのセフィロスと戦って勝つなど、魔晄中毒の時の彼を知っている者には信じがたい。
しかし、やっと動けるところまで回復したザックスの目の前に現れたのは、まぎれもなくクラウドだった。
約束を忘れたわけではないが、未だ二人はなんでも屋を始めてはいなかった。
再会した頃、クラウドはリーブを手伝ってミッドガルの復興作業に勤しんでいたし、ザックスの傷は高レベルモンスターと戦えるまで回復しきっているとは言い難く。
結局、ザックスはミッドガルには戻ってきたものの、一時的なアルバイトや日雇いの仕事などをして生計を立てている状態だ。定期的な仕事でない分、ある程度自由はきくとはいっても、収入面を考えればかなり頑張って仕事を入れなければならない。崩壊し再建中とはいえ、ミッドガルはまだまだ人も多く生活費もかかる。とにかく仕事と休養優先の生活の中、旧知の間柄とはいってもクラウドと会うのは二週間に一度あればいい方。
たまの休みにクラウドと打ち合わせて、セブンスヘブンで共に飲むのが今の何よりもの楽しみなザックスだ。
今日もこれから飲みに行く約束だったが、仕事が速く終わったのならクラウドを迎えに行ってくれとティファから頼まれた。ティファとクラウドはまるで兄弟の様に仲が良く、最初にその光景を見たザックスは思わず二人が付き合っているのか聞いたほどだった。だが二人は苦笑し、ただ昔のよしみで仲良くしているだけだと。強い絆は、生死を共にした旅で得ただけだとの答えだった。
雨足が酷くなってきた。
バチバチと音を立てているのだろうが、その音は一向にザックスの耳には届いてこない。
それもそのはず、車内には外まで響きそうなR&Bが大音量で掛かっているからだ。
人間、変われば変わるもんだな。ザックスは自分が側にいることが出来なかった時間を感じた。
昔、ザックスが同じ事をしたら酷く機嫌が悪くなっていたクラウド。
さっきのこともそうだ。昔のクラウドならば心配性と神経質で、混む時間帯はまだ走りたくないと遠慮すると思っていたのだが。
そんなことを考えていると、車の中という閉塞感も相まって倦怠感にも似た苛つきに襲われる。
気を紛らわす様に伸びをしたザックスの視界の端で何かが動いた。
見ると、珍しいことにクラウドが小さく曲に合わせて口ずさんでいる。
ラジオの音量のせいで声は聞こえないが、とぎれとぎれに歌詞をなぞるクラウドの唇をそれとなく見ていると、ふと妙なことを思い出した。
……冷たく、そして柔らかな唇の感触。
そういえば昔、一度だけクラウドにキスしたことがあった。
いつだっただろうか。少し考えただけで、急速に加速度をつけてよみがえってくる、苦みさえ感じさせる様な懐かしい思い出。
あれは、日が沈んで薄闇がゆっくりと周りを包んで……青白い顔でぴくりとも動かなかったクラウドを抱きしめていたとき。研究所を逃げ出して、神羅の奴等に追われていた悪夢の日々の最中だ。勿論、魔晄中毒だったクラウドは覚えていないだろうが。
五年も動かずにいたせいでギシギシいう手足と、弛緩して自力で動けないクラウドを引きずって必死に逃げ続けた日々。酷く現実感が無くて、未だ夢の中を歩いている様だった。
金も食料も、安全に夜を過ごせる場所もなくて。腹が減れば野生の植物や動物を口にし、通りがかった小さな村の畑から失敬し。勿論、腹を壊したり村人に追いかけられるのも日常茶飯事のこと。
力の入らぬ腕を叱責し、こんな所で諦めてどうすると自分を追い立て、それでも幾度も諦めかけ、絶望して。
確か……どうにかこうにか連絡船で密航し、ジュノン近くの森に身を隠していた頃かと思う。夕闇に沈んだ森の中、気を失いそうなほど疲れているのに妙に気が立って眠れなくて。まるで獣の様に息を押し殺し、目の前の虚空を睨み付けていた。
いくら木陰に身を隠しても、雨風は容赦なく二人の体温を奪った。濡れた服の所為で冷えたクラウドの体を抱きしめているうち、ふと逆に自分が抱きしめられている様な気がして。混乱と恐怖と焦りの中で、クラウドの体温だけが現実につなぎ止めてくれている様だった。
いくら名を呼んでも揺さぶっても反応しないクラウド。もう元の彼には戻らないかも知れないと思うと、足下の深淵をのぞき込む様な感覚が襲う。
―雑念は隙になる。集中しろ。
そうだ。考えるべき事は沢山ある。最悪の事態を考えるな。捕らわれるな。振り向くな。進むことだけ考えるんだ。
―相手の戦力、味方の残力、進路は?
だいたいの地形は頭に入っている。人数ははっきりしないが、まだこちら側の大陸に渡ったとは気付かれていないだろう。だがそれも、時間の問題。こちらの状況を考えれば今のうちに距離を稼いでおき、出来るだけ戦闘を避けながら逃げ切るしかない。
与えられた味方と敵のデータを比べ、最適の道と思える方法をとる。ソルジャー時代から何度も繰り返してきた作業だが、今回はかなり分が悪い。それでも今まで、ギリギリだったが二人で生き延びてきたのだ。一番の難関だった密航も上手く切り抜けた。ミッドガルに逃げこめば、何とかなる。
だがその前に最大の難関があるだろう。ミッドガルに逃げ込むという手は相手に見抜かれている。きっとその前に阻止しようと、今までよりも人手が割かれる。
逃げ込むのが先か、追いつかれるのが先か。そこが最大の正念場になるだろう。
―追いつかれた場合の対処法は?
ソルジャーとしての判断をすれば……足手纏いになる味方は切り捨て、一人でも助かる道を探すこと ―――。実際何度か取らざるを得なかった選択肢だ。共倒れをするよりは、生き残る可能性の高いやつを残した方が良い……。
―今回の場合は?
自力で動けないクラウドを逃しても、すぐに見つかって殺されるのがオチ。酷い中毒症状を起こしていることも考えれば、クラウド一人で生き残るのは絶望的。
―それならば、ザックスが逃れた場合は?
生き延びる可能性は数倍上がる。今は力が低下しているとはいっても、逃げるだけならば十分。
おそらく、今取れる最善の手。そして、早ければ早いほど成功率も上がる。
―素早い判断と迅速な行動が勝利を導く。忘れたか?
今はまだ見つかっていない。大丈夫だ。
―甘いな。追いつかれてから対処しても襲い。既に十分不利な状況だ。クラウドを捨てろ、ソルジャー・ザックス。
唐突にザックスは気が付いた。己の思考ではない。セフィロスの声だ。暗い池の様な記憶の底から、ふいに浮かんできた声。
だがそれならば。
逆に、言いなりになぞなるものか。二人で生き延びてやる。
―無理だな。冷静に考えろ。状況を読め。理論的に考えろ。
うるさいうるさいうるさい。
まだその局面じゃない。これからクラウドが意識を取り戻すかも知れない。ここで見捨てたら、その可能性まで無くなる。ギリギリまで待っても遅くはない。可能性が少しでも残っている限り、諦めない。きっと二人で助かる道がある。きっと二人でミッドガルまで逃げ延びることが出来る。医者に診せればクラウドも良くなるかも知れない。約束したんだ、何でも屋をやるって。だから諦めない。
―馬鹿め。現実をよく見るがいい。クラウドは、もう戻らない。もうすぐ死ぬ。
黙れ。
―もうすぐ死ぬ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!
―もうすぐ死ぬ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!
急に、頭が真っ白になった。
何かが吹っ切れた様に何も感じなくなった。
声も消えた。
処理が間に合わず急にリセットされたコンピューターの様に。
長い夢から覚めた様に。
急に頭がさえ渡って、不安も孤独も何もかも消え去って……いや、ただ何も感じなくなって、考えられなくなって。
周りには何もない。
ひんやりとした空気に包まれた蒼い森は、物音一つしなくて。
微かに涼しい風が、頬を撫で、泥に汚れた髪を揺らした。
濃紺のフィルムがかけられた様な風景の中、ふと腕に圧力を感じて視線を下ろすと、木の幹に背を預けて胡座をかいているザックスの腕の中にクラウドが居た。
彩度の低い青に支配される風景の中、彼の横顔だけが白く浮かんでいて。
何だか、キレイだなぁと見とれた。
5年もの間、歪んだビーカー越しにしか見ることの出来なかった、その姿。
あのころの丸みを帯びた頬もすっかり大人びて、精悍な顔立ちになった。これなら、もうベビーフェイスでからかわれることもないだろう。3年も立てば追い抜いてやるといっていた背はずいぶんと伸びたが、5年たった今も頭一つ分ほど追いつかなかった。
魔晄色に染められてしまった瞳、薄汚れた白い肌、ひび割れた唇。
一つ一つ確かめる様に眺めていると、何とも彼の意識が戻らないのが残念に思えた。
早く大人になりたいと言っていたクラウドが、どんなにか喜んだだろうに。
クラウドは兵士に向かないのではなく、ただ晩成型だったのだろう。今なら背も十分ソルジャーとして合格点だし、大剣だって振り回す事の出来そうな骨格になっている。
ぽたりと、クラウドの頬に雨粒が落ちた。
それと共に急に歪んだ視界に実験室のビーカーを思い出したザックスだったが、すぐさまそれは己の涙だと気が付いた。
力になりたいと、思っていたのに。
少しでも、クラウドがソルジャーになると言う夢を叶えられる様に手伝いたいと思っていたのに。
クラウドの夢はこんな形で壊されてしまった。
自分は、力になれなかった。
一番重要だった時、何も出来なかったのだ。
理性的に考えれば、自分一人でセフィロスの元に向かわずに応援を待つべきだった。
応援を呼んでくるよう頼むとか、村人の保護だとか、クラウドを安全なところに避難させる方法はあった。それなのに、倒せないと分かっていながらも、クラウドをセフィロスの元へ向かわせてしまった。
その結果がこれだ。
闇の中、自重さえ支えられず、ぐったりと己の腕にもたれかかるしかない弛緩した体。
開いていても、何も捕らえることはない魔晄色の瞳。
クラウドが出て行ってしまった、空っぽの心。
愛しくて、守りたかったのに。
大切なものを、壊してしまった……。
クラウドを見捨てたりなんか、しない。
できない。
絶対に守ってみせる。
一緒に、行こう。
気が付いたら、濡れた冷たい唇にキスしていた。
なぜだかは分からない。
無意識にしてしまった、と言うのが正しいのかも知れない。
クラウドは無反応だったが、一瞬、冷たさと柔らかさを確かに感じた。
今までガールフレンド達にしてきたものとは違う、ある種、神聖とも思える、それ―――。
2005.8.10
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