講義に遅刻した。

どうでもいいコマだったから熱心にもならない。堂々と前から講堂に入って適当に空いている座席を探す――までも無いガラガラだ。と席に着こうとしたら、右斜め前に見覚えのある頭がある。
色素が薄くて、柔らかそうな少し天然パーマで、髪の毛は長め。横顔にも見覚えがある。関口か? 多分、関口だ。
何だ、こんなつまらない講義を取っていたのか。しかしそうか、これは全学部共通講義だったのか。ずっと法学部だけだと思っていた。

関口と思われる男の隣には中禅寺の姿はなかった。友人らしい姿も周りには無い。関口一人が、講義に聞き入っていた。
何か、興味があるのだろうな。真剣に聞いている様子の関口が可笑しかった。僕は関口を発見してから、余計講義には上の空になった。

禿親父が熱意なく語る中、僕の頭は時間を遡る。
中禅寺と訳の分からない云い合いをしてから、もう既に二週間経つ。関口は放課後になると「洋楽研究会」に来るようになった。ほぼ毎日だが、たまに来ない時もあって、そういう日は大抵中禅寺との約束がある日らしかった。

僕は大体毎日、関口と顔を合わせている。僕もそれなりに忙しい身なので、部活に毎日行くということは無かったが、寮に帰れば関口の部屋を訪ねるし、関口も僕の部屋にゲームだとか漫画だとか音楽雑誌だとかを目当てにやって来る。

その他には、週一のバンドの練習。昼に学食で見つけることもある。関口に約束通り、ベースを教え始めた。関口は自分で飲み込みが悪いからと言っていたが、そんな事は無く、ギターを弾けるだけ、矢張り覚えるのが早かった。この分だと、来月には使い物になりそうだ。後は、関口のキレたボーカル。あれが欲しい。
でもボーカルだけはどうしても良いと云ってくれない。理由を訊くと、この前のは本当に酔っていたのであんな芸当が出来たのだという。どうやって口説こうか、目下検討中である。

他の部員に比べてというよりも、誰よりも僕は関口にかまっている。理由は部員だからというのも、バンドのメンバーだからというのもあるが、でも。僕は普通に関口が好きなのだ。
一緒に居ると、かまって遊びたくなるし、喜ばせたくもなるし抱き締めたくもなる。多く時間を共有したいとも思う。関口の、あの時の絶叫を思い出すと物凄く興奮もする。少し低めの声で叫んで理性を取っ払ってしまった姿が、もう、堪らなくそそる。なんなのだろう、あの男は。今まで出会ってきた人間の中で一番面白い人間に思える。

関口の入部動機が、僕の事が気になったからだ、という言葉も今更になって、僕と同じような気持ちを関口は最初から僕に抱いていたのかもしれないと、物凄く期待してしまう。関口が僕の部屋を訪れてくれる度、僕が関口の部屋に入るのを許してくれる度に期待してしまう。
しかもだ。僕は気付いてしまったのだ。関口は僕の前だと良く笑うことに。気になる。というよりも、僕の事をもう、関口に意識してもらうしか無い。僕を強制的に好きになってもらう。僕だけがどんどん関口を好きになる前に。

中禅寺とは、変わりが無い。
普段は僕よりも中禅寺の方が大人の態度だから、早々この前のような下らないことでケンカにはならないが、決して良い関係とはいえない。所謂冷戦という奴か。僕がアメリカなら、中禅寺はロシアだろう。どちらが良いとか悪いとかは無い。原因も良く分からず因縁めいている。強いて云うなら、中禅寺が物凄く頑固者なのが尾を引いているとも云えなくも無い。
まあ、僕は悪くない。僕もそう本気でそう思っているから、しょうがないのかもしれない。

そんな事をつらつらと考えているうちに、残り少なくなった講義時間も終わりを迎えた。教授が終了を告げる前に講堂が騒がしくなり、皆それぞれ身支度を始める。
横から受講票が回ってきて、それに記入すると、腰を上げそうになっている関口の肩に手を掛けた。驚いたのか機敏に背後を振り返る。
そして僕の姿を見つけると、大きく見開かれた瞳が、安堵したのを表して細められた。

「榎木津先輩――驚かせないで下さい」

「驚いたのか、やった。でもだな、榎さんで良いって言っている」

「はぁ、榎さん。あの、この講義とってたんですか。全然知りませんでした」

「まあ、まともに出てないからな。早く起きた日だけ、出る事にしている。どうせレポート提出で成績がつくんだ。まぁ、そんな事はどうでも良いんだ。僕と昼ご飯一緒してよ」

「いいですよ。朝食抜いたから腹ペコで」

「中禅寺は?」

「教授に呼び出されて、研究室に居ます。中禅寺はそっちで昼食を採るでしょう」

「ふん。そっか。じゃあ二人っきりだ」
ああ良かった。

「…そうですけど、そのセリフに何か意味があるんですか?」

「意味? 強いて言うなら中禅寺の顔を見ながらご飯を食べるなんて、食事という行為への冒涜だとしか思えないのさ! 関君と二人なら、僕はなお嬉しい」

関口は一瞬押し黙った。

「どうかしたのか?」

「そういうセリフは、女の子に云った方が良いですよ…誤解されかねないですから…」

「誰に? 此処には僕と関しか居ないよ? 誰も聞いていない」

「――僕が誤解します」

関口は俯いてそう言った。

「良いじゃないか誤解すれば。もっとも誤解じゃないかも」

冗談めかしていうと関口は顔を真っ赤にして、僕を置き去りにするように、階段を登っていった。


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