俺を狂わせるは唯一つの花……その美しさゆえ無理やり手折られた君――――
こうして枷(カセ)はなくなった
「侑士君…お父様が、亡くなりました…。」
俺の住むアパートにかかってきた電話は、無機質に真実を告げていた。そのときの貴女の声には何も感情もこもっていなかった……――――――。
愛のない結婚、そういえばわかりやすいかもしれない。俺の親父(おやじ)は早くに母をなくし、その3年後、今の義母(はは)にほれ込んで半ば無理やりに自分のものにした。20近く歳の離れた結婚だった。婚姻関係と身体の関係はあっても、二人の間にはただ一方通行の愛があるだけ。
俺は、ただひたすら耐え忍んでいた義母に普通の愛情ではない感情を抱いていた。そう、それは決して義母に抱いてはいけない感情だった――――――
親父の死の知らせを聞いたとき、俺には父が死んだ悲しみなどなかった。そこにあったのはただ、あいつから貴女が開放されることを喜ぶ心と、俺自身気付いていない暗い感情だけだった。
「さん、もう大丈夫なんか…?」
「ええ。大丈夫。ありがとう…」
酷く弱々しく微笑むさんに心をざわつかせながら俺はさんの荷物の整理をしていた。親父はさんに対して酷い暴力を振るっていたらしく、親父の葬式が終わって一週間が過ぎようとしているのに親父のつけた痣はほとんど消えていなかった。
「痣…痛いん?」
「もう痛くはありません……」
そういって服の間から覗く痣をぼんやりと見つめるさんに言い知れない不安を感じて俺はさんに話しかけた。
「なかなか消えへんな。その痣…」
「これは…私の業の印なのかもしれません。狂って行くあの人を止めることのできなかった私の業…」
俺は目を伏せたさんの頬に影を作る長い睫毛を見ながら、その瞼(まぶた)に口付けたいとぼんやりと思った。でもそんなことは俺達の関係では許されない。
「違う。さんは悪うない。悪いんは俺の父親や」
「侑士君は優しい人ね…。お父様がなくなっても、私のことを気にかけてくれる…。私はもう他人同然なのに」
そういって上を向いたさんの黒い濡れた瞳に見つめられて、俺は自分の中にある感情が動き出しそうになるのを感じていた。
「俺は、さんのこと、大切に思っとる。大切に思ってなかったら、一緒に住もうなんて言わへんで?」
違う。本当は俺がさんを独占したいから。親父がいなくなった今、そうでもしないと俺のことなんか捨ててどこかに消えてしまいそうで……。それが耐えられずに一緒に住もうといったんだ。
「…………ありがとう」
静かに一筋の涙を流すさんを見た瞬間、俺はさんを抱きしめていた。誰よりも愛おしい人を初めてこの腕に抱いたということに理性を飛ばしそうになりながら、俺は声を出さずに泣くさんを優しく抱きしめた。
「…本当は、ずっとつらかったのです。何も言えない私自身に絶望して、早くこの苦しみが終わるようただ祈っていました…」
「うん。」
「あの人が事故で亡くなったと病院から連絡があったとき、私は心の奥で喜んでしまったのです……。」
「は悪うない…悪うないんやで?」
「私はっ……!!」
声を出さずに泣いていたさんは自分の心の内をさらけ出し、次第に嗚咽交じりに泣き始めた。俺は、このときさんが親父の呪縛から逃れたんやと安心していた。
泣き止んださんの腫れてしまったまぶたを親指でそっとなぞりながら俺は自分の思いのかけらをさんに伝えた。
「今度は、幸せになれる。絶対にや」
俺が、幸せにするから…俺の思いに気付いてくれ――――――
「………はい」
俺の心の内など知るはずもないさんは、この家に来てから一度も見せたことのないような綺麗な笑顔を浮かべて俺を見上げた。
「これから何をしたらいいのかわかりませんが、幸せになるために生きると誓いますわ」
まだ迷いの残る目で、それでもここに嫁ぐ前のさん本来の澄み切った目でそう誓うさんを見ながら俺は何かが変わりそうな予感を感じていた…――――
俺は親父という枷(カセ)を失って誤魔化しようのないほど大きく育ってしまった感情をもてあましていた。
君が俺を受け入れることは あり得ないから
終わりにしようと ただひたすら自分に言い聞かす
叶わないなら 忘れてしまいたい
貴方に対する この思いを……
俺をとらえて離さない 君のすべてを…―――――――――
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