ヨーロッパとおとぎ話の起源
ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネサンスにおけるギリシア神話の具象的表現の代表的な作品とも言える。この絵の背後にあると想定されるマルシリオ・フィチーノなどのネオプラトニズムの哲学や魔術的ルネサンスの思想は、秘教的なギリシア文化と西欧文化のあいだで通底する美的神話的原理であるとも言える。それでは、西欧においてルネサンス以前のギリシアのイメージは本来どのようなものであったのか。西欧における古代ギリシア、わけてもホメーロスの像は、いわゆる「トロイアの物語」のイメージで捉えられていた。これは紀元4ないし5世紀のラテン語の詩『トロイア戦争日誌』と『トロイア滅亡の歴史物語』を素材として、12世紀にブノワ・ド・サント=モールがフランス語で書いたロマンス風の『トロイア物語』から広がって行ったものである。この作品は更にラテン語で翻案され、全ヨーロッパ中に広まったとされる[129]。叙事詩人ホメーロスがそのうちにあった本来の古代ギリシアと、この中世にあって「トロイア物語」を通じて流布したギリシアの像では、どのような違いがあったのだろうか。ここで言えるのは、両者が共に「歴史性」を負っていること、しかし前者は「詩的」であろうとする世界であり、後者はあくまで「史的」であろうとする世界である[130]。往古のギリシアの世界には「神々の顕現」が当然含まれていたが、中世より近世にあって西欧が思い描いたギリシアの世界には、「神々の不在」があり脱神話化が行われている。しかしイタリアの人文主義者は、例えばホメーロスの『イーリアス』原典を15世紀半ばにラテン語に翻訳した。この翻訳を通じて、汎ヨーロッパ的にホメーロス及び古代ギリシアの把握像に変化が生じてきた。17世紀にはジョージ・チャップマンが『イーリアス』(1611年)と『オデュッセイア』(1614年)を英語に翻訳し、他方マダム・ダシエ(1654-1720)が『イーリアス』と『オデュッセイア』をフランス語に翻訳した[131]。このように進行した事態は、古典ギリシアの再発見とも呼べることである。ルネサンスから啓蒙時代を通じ、西欧は更に理解の努力を行い、17世紀後半にはイギリスのミルトンは、『失楽園』(1677年)において、キリスト教的叙事詩を創作するまでとなる。
「とんぼのように人々の遺体は川を埋めた。いかだのように遺体は船のへりに当たった。いかだのように遺体は川岸に流れ着いた。」"シュメール王名表 WB-444 はジウスドラの支配の後に洪水を設定しているが、彼が、他の洪水伝説と多くの共通点を持つジウスドラ叙事詩における洪水の主人公である。 考古学者のマックス・マローワン[8] によれば、創世記の洪水は「紀元前2900年頃、初期王朝の始まりに実際に起こった事象に基づいている」という。""約3600年の公転周期で太陽を周回しているとされる惑星二ビル(惑星X)が地球に接近する度に地球に大災害をもたらしたとする説。 紀元前1500年前後を機に時を同じくして4大文明が衰退している点(洪水襲来が原因と推測される地域もある)、その4000年ほど過去の紀元前5600年ごろに発生したとされる黒海洪水説も、どちらも惑星ニビルの接近が原因であるとする。 ただ、惑星そのものが発見されていない状態で、神話の域を脱していない。"
"北欧神話は、他の多くの多神教的宗教にも見られるが、中東の伝承にあるような「善悪」としての二元性をやや欠いている。そのため、ロキは物語中に度々主人公の一人であるトールの宿敵として描かれているにもかかわらず、最初は神々の敵ではない。巨人たちは粗雑で乱暴・野蛮な存在(あまり野蛮ではなかったサーズの場合を除く)として描かれているが、全くの根本的な悪として描かれてはいない。つまり、北欧神話の中で存在する二元性とは厳密に言えば「神 vs 悪」ではなく、「秩序 vs 混沌」なのである。神々は自然・世の中の道理や構造を表す一方で、巨人や怪物達は混沌や無秩序を象徴している。"世界の起源と終局は、『詩のエッダ』の中の重要な一節『巫女の予言(ヴォルヴァの予言)』に描かれている。これらの詩には宗教的なすべての歴史についての、最も鮮明な創造の記述と、詳述されている最終的な世界の滅亡の描写が含まれている。この『巫女の予言』では、ヴァルハラの主神オーディンが、一度死んだヴォルヴァ(巫女)の魂を呼び出し、過去と未来を明らかにするよう命じる。巫女はこの命令に気が進まず、「私にそなたは何を問うのか? なぜ私を試すのか?」と述べる。彼女はすでに死んでいるため、オーディンに対する畏怖は無く、より多くを知りたいかと続けて嘲った。しかしオーディンは、神々の王としての務めを果たす男ならば、すべての叡智を持たなければならないはずであると主張する。すると巫女は過去と未来の秘密を明かし、忘却に陥ると口を閉じた。
伝説によれば、後にアステカ人となる様々な民のグループは、テスココ湖(Texcoco)を囲むアナワク谷(Anahuac)の北側からやってきたとされる。アステカ神話では、北方から南進して来たメシカ/アステカ人の祖先(Aztlanと呼ばれる)は、7つのnahuatlacas(ナワトル語を話す種族、tlacaから来た、「人」)の末裔であり、それゆえに、彼らは「Azteca」と呼ばれたという。彼らアステカ人はウィツィロポチトリ神(「左利きの(南から来る)ハチドリ」の意味)の予言に導かれていた。