民話・昔話と説話の種類

ペロプスは神々の寵愛を受けてペロポネーソスを征服した。彼の子孫にミュケーナイ王アトレウスがあり、アガメムノーンとその弟スパルタ王メネラーオスはアトレウスの子孫(子)に当たる(この故、ホメーロスは、「アトレイデース=アトレウスの息子」と二人を呼ぶ)。アガメムノーンはトロイア戦争のアカイア勢総帥でありクリュタイメーストラーの夫で、メネラーオスは戦争の発端ともなった美女ヘレネーの夫である。アガメムノーンの息子と娘が、ギリシア悲劇で名を知られるオレステース、エーレクトラー、イーピゲネイアとなる。ミュケーナイ王家の悲劇に密接に関連するアイギストスもペロプスの子孫で、オレステースと血が繋がっている。他方、アトレウスの兄弟とされるアルカトオスの娘ペリボイアは、アイアコスの息子であるサラミス王テラモーンの妻であり、二人のあいだの息子がアイアースである。また、テラモーンの兄弟でアイアコスのいま一人の息子がペーレウスで、「ペーレウスの息子」(ペーレイデース)が、トロイア戦争の英雄アキレウスとなる[83]。リビュアーは雌牛となったイーオーの孫娘に当たっている。リビュアーと海神ポセイドーンのあいだに生まれたのがフェニキア王アゲーノールで、テーバイ王家の祖であるカドモスと、クレーテー王家の祖とも言える娘エウローペーは彼の子である。

西欧はしかしすべての写本、古代の遺産を失った訳ではなく、14世紀から15世紀にかけてのルネッサンスにおいて、丹念に修道院の文書庫などを調べることで、ギリシア語原典の写本などをなお発見することができた。他方、西欧で失われた多くの書籍は、8世紀におけるイスラム帝国の勃興と共に、ビザンティン帝国を介してイスラムに渡った。西欧はしかし、12世紀に十字軍を送り出すことによって、ビザンティン帝国とその文物との接触を再開した。これらの世界史的運動のなかで、12世紀には、イスラム世界よりアリストテレースや科学関係のギリシア語・アラビア語写本が西欧に到来し、これらはラテン語に翻訳され、次世代の盛期スコラ哲学を導いた[122]。"西欧は古代ギリシアの文芸をほとんど忘れていたが、12世紀にあってアリストテレースの著作の翻訳を得ることで、古典ギリシアへの憧憬がいや増したと言える。14世紀初頭の代表的な中世詩人であるダンテ・アリギエリは、『神曲』地獄篇のなかでリンボーなる領域を造り、そこに古代の詩人を配置した。5人の詩人のうち4人はラテン語詩人で、残りの一人はホメーロスであった。しかし不思議なことにダンテはホメーロスの作品を知らなかったし、西欧がこの大詩人を知るのはいま少し後である[123] [124]。""西欧はしかし古代のローマ詩人オウィディウスの名とその作品はよく知っていた。イタリア・ルネサンスの絵画でギリシア神話の主題を明確に表現しているものとして、サンドロ・ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』と『春』が存在する。両絵画共に制作年が確然と分からないが、1482年頃であろうと想定されている[125]。高階秀爾はこの二つの絵画を解釈して、『春』はオウィディウスの『祭暦』の描写に合致する一方、『ヴィーナスの誕生』と『春』が対を成す作品ならば、これは「天のアプロディーテー」と「大衆のアプロディーテー」の描き分けの可能性があると指摘している[126] [127] [128]。"

アイオロスの娘婿アエトリオスの子孫の人物としては、月の女神セレーネーとの恋で知られるエンデュミオーン、カリュドーン王オイネウス、その子のメレアグロス、テューデウス兄弟がいる。メレアグロスはホメーロスでも言及されていたが(『イーリアス』)、猪退治の話は後世になって潤色され、「カリュドーンの猪狩り」として、女勇者アタランテーも含めて多数の英雄が参加した出来事となった。またメレアグロスの姉妹デーイアネイラの夫はヘーラクレースであり、二人のあいだに生まれたヒュロスはスパルテー(ラケダイモーン)王朝の祖である[82]。タンタロスは冥府のタルタロスで永劫の罰を受けて苦しんでいるが、その家系にも有名な人物がいる。彼の息子のペロプスは富貴に驕った父親によって切り刻まれ、オリュンポスの神々への料理として差し出された。この行い故にタンタロスは劫罰を受けたともされるが、別の説もある。神々はペロプスを生き返らせた。生き返って後、彼は世に稀な美少年となり、ポセイドーンが彼を愛して天界に連れて行ったともされる。ペロプスは神々の寵愛を受けてペロポネーソスを征服した。彼の子孫にミュケーナイ王アトレウスがあり、アガメムノーンとその弟スパルタ王メネラーオスはアトレウスの子孫(子)に当たる(この故、ホメーロスは、「アトレイデース=アトレウスの息子」と二人を呼ぶ)。アガメムノーンはトロイア戦争のアカイア勢総帥でありクリュタイメーストラーの夫で、メネラーオスは戦争の発端ともなった美女ヘレネーの夫である。アガメムノーンの息子と娘が、ギリシア悲劇で名を知られるオレステース、エーレクトラー、イーピゲネイアとなる。

市民戦争を避けるため、アイスランド議会はキリスト教に票を投じるが、キリスト教から見ての異教崇拝を、幾年もの間自宅での隠遁の信仰で耐え忍んだ。一方スウェーデンは、11世紀に一連の市民戦争が勃発し、ウプサラの神殿の炎上で終結する。イギリスでは、キリスト教化がより早く散発的に行われ、稀に軍隊も用いられた。弾圧による改宗は、北欧の神々が崇拝されていた地域全体でばらばらに起っている。しかし、改宗は急に起こりはしなかった。キリスト教の聖職者達は、北欧の神々が悪魔であると全力を挙げて大衆に教え込んだのだが、その成功は限られたものとなり、ほとんどのスカンディナヴィアにおける国民精神の中では、そうした神々が悪魔に変わることは決してなかった。"キリスト教化が行われた期間は、例としてローヴェン島やベルゲンを中心に描かれている。スウェーデンの島、ローヴェン島における墓の考古学的研究では、キリスト教化が150から200年かかったとされ、場所も王侯貴族が住んでいた所に近かった。同様に騒々しく貿易が行われた町ベルゲンでは、ブリッゲン碑文の中に、13世紀のものと思われるルーン文字の碑文が見つかっている。その中にはトールに受け入れられますように、オーディンに認められますように等と書かれたものがあり、キリスト教化が進んでいる世界で、古ノルド語の魔術ガルドル(セイズ (Seid) とも)も描かれている。記述の中にはワルキューレのスケグルに関するものもあった。"14世紀から18世紀にかけての記述はほとんどないものの、オラウス・マグヌス(1555年)のような聖職者は、古くから根づく信仰を絶滅させることの難しさを書いた。この物語はハグバルドとシグニューの恋愛物語のように、快活に描かれた『スリュムの歌』にも関連しており、どちらも17世紀と19世紀終わりごろに記録されたと考えられている。19世紀と20世紀に、スウェーデンの民族学者達は一般の人々が信じ、北欧神話における神々の残存する伝承を記録したが、その当時伝承は結集されたスノッリによる記述の体系からはかけ離れたものであったという。トールは数々の伝説に登場し、フレイヤは何度か言及されたが、バルドルは地名に関する伝承しか残っていなかったそうである。

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