一章(1)
地下室の冷たい床に膝をついていた――全裸だ。
両手を頭上で一つに縛られ、天井から吊られている。体は動かせないし、股間も隠せない。目の前に立つ男の、舐めるような視線がそこに注がれているのに。
「ほどけよ……」
ジゼルは小さな唇から、消え入りそうな声を漏らした。
さっきから赤い瞳で、ひたすら床を見つめている。それでどうにか羞恥を忘れようとしたが無理だった。唇が震える。そんな姿を見せれば、この男を余計に喜ばせるだけなのに。
男が溜め息をつく。案の定、その息はかすかに興奮を覗かせていた。
「ジゼル、君は自分のしたことが、分かってないようだな」
低く静かな声が呆れたように言う。しかし彼は呆れているわけでも、怒っているわけでもない。ジゼルをこういう姿にする機会が訪れて喜んでいる。
「私に睡眠薬など盛って、どうするつもりだったんだ?」
それはこの男、アッシュから逃れるためだ。
三ヶ月前、ジゼルは自らを魔術師と称するアッシュに拾われた。以来、彼の屋敷に住まわせてもらっている。それについては感謝しているが、彼の傲慢な性格には耐えられない。
今までも何度か逃げようとしたが、あえなく捕まっている。こんなふうに。
霧が立ちこめる森の奥深くに、アッシュの屋敷は建っていた。
どれだけ古いものなのか。まるで廃虚だ。外壁のいたるところにヒビが入っている。崩れて建物の骨組みが覗いているところもある。アッシュに連れてこられてはじめて目にした時、本当にここに人が住んでいるのかと疑わずにはいられなかった。
それでも中は暖かみを感じる。外側と同じようにどこもかしこも痛んでいるが、他人の家だという気がしない。特に暖炉があるリビングは不思議なほど落ち着けた。
しかしジゼルは、この地下室にだけは絶対に立ち入らない。
(ここは、嫌いだ)
血の臭いがする。
仄暗いランプの明かりに照らされている室内には何もない。
いや、何もなさすぎた。
奇妙なほど閑散としていて、何かのために片付けられたと思わずにはいられない。
白い石の壁に囲まれた空間だ。隅にはホコリや蜘蛛の巣がたまっている。どこにも血の跡はない。しかし以前、ここで大量に血が流されたと直感が叫ぶ。
アッシュはジゼルがここを嫌っていると、知っていて連れてきた。意地が悪いにもほどがある。
裸で拘束されている羞恥に、忘れかけていた血臭が不意に鼻につき、ひどい目眩がしてくる。そして吐き気も。
「私の目を見るんだ」
アッシュの静かな声が耳に染み込んでくる。やんわりと顎を掴まれて上を向かせられたが、見られるはずがなかった。
漆黒の髪と瞳。アッシュの髪はジゼルと同じ黒色だが、目は赤くない。
その目が怖い。底知れないのだ。直視すると魂が抜けたように頭の中が真っ白になる。
アッシュは長身の上に、均整の取れた顔をしている。おそらく誰もが美丈夫だと口をそろえる容姿だ。しかし容姿が整っていることより、彼を印象づけるのはその漆黒の目だった。
見た目の年齢は三十手前といったところだが、彼から見た目以上の歳月を感じる。
馬鹿なことを考えてしまう。そのままの姿形で、果てしない歳月を生きてきたのではないか。目が恐ろしく感じるのは、その長い時間を映し出しているからなのか。
「君はいつも私の目を見ない。まあ、いい。それで? 何度、脱走に失敗すれば学習するんだ。いや、それともワザとか?」
アッシュは考えを巡らすように、宙に視線を泳がせる。その様こそワザとらしい。
「なるほど。ワザとか。君はお仕置きをして欲しくてたまらないようだ」
勝手に納得して彼は唇を歪める。その笑みに思わず体を強張らせてしまった。
やることは決まっている。アッシュはジゼルを好き勝手に犯すつもりだ。
しかしそれは『お仕置き』ではなくても、毎晩のようにアッシュがジゼルにすること。
「やるなら早くやれよ。いつもみたいに」
「いつもみたいに、ではつまらない。ちょうど調合したばかりの薬を試したかったんだ」
どうせこの恰好では抗えない。冷ややかに睨みつけてやったが、アッシュは気にも留めていない。ジゼルの顎から手を離し、嬉しそうにどこからともなく小さな薬瓶を取り出した。
「即効性の媚薬だ」
瓶の中で、見るからに卑猥な紅色の液体が揺れる。
「……またそんなもの作ってたのか」
このところ、食事の時間も忘れて熱心に研究室にこもっていると、思ってはいたが。
魔術師だと聞いたが、アッシュが魔術というものを使っている場面は見たことがない。
彼はいつも薬の調合をしている。怪我や病を治すものから、植物の生長を促すものなど種類は幅広い。今夜、アッシュに盛った睡眠薬も、彼の研究室から持ち出したものだった。
彼の調合する薬は質がいいらしい。特に媚薬の効力についてはジゼルがよく知っている。
アッシュはジゼルの背後に回ると、覆いかぶさるように体を密着させてきた。
薬瓶の蓋を鼻の前で開けられる。直ちに熟れた果実のような甘ったるい香りが鼻をくすぐり、前に逃げ出した時、別の媚薬を使われた時の自分の姿が脳裏をよぎった。
獣のように乱れていた。
「アッシュ……嫌だ」
ジゼルは伏せ目がちに弱々しい声を漏らした。その様がアッシュを更に興奮させると、嫌というほど分かっているのに。
「やるなら早くやれと、覚悟ができているんじゃなかったのか?」
それでも嫌なものは嫌だ。
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