ジルベール考

 

07

 
 山のように積み上げられた本が、崩れてくる。
 目が覚めて、はじめて見た光景がそれだ。避けようがなかった。
 分厚い本ばかりだ。本と共に人も倒れてくる。
 しかし衝撃と音は大きいが、想像していたよりも頭上から降ってきた本は痛くない。体の上に覆いかぶさってきた男も軽かった。
 カディの鼻先に、白に近い銀のやわらかな髪がかすめる。
 すぐ近くにジルベールの顔があった。
 睫が長い。濃い灰色の瞳がカディの顔を映している。
 目が覚めたと思ったが、まだ夢を見ていたようだ。夢でなければ、欲しいものがこんなにも都合よく降ってくるわけがない。

 カディはジルベールの髪に指を絡ませると、頭を引き寄せて唇を重ねた。
 途端に頬を思いっきりつねられる。
「寝ぼけるな」
 冷静な声が背筋を凍らせた。
 これは夢ではない。
 慌ててカディは、ジルベールの体を自分から引き離した。口を開いたが、言葉が出ない。言い訳をしなくてはいけない。しかし頭が真っ白だ。焦れば焦るほど何も考えられない。
 硬直した全身に冷や汗が浮かぶ。しかしカディが狼狽を他所に、ジルベールは平然としていた。カディに覆いかぶさっていた体を起こし、乱れた髪をかき上げている。
 その様子は恨めしいほどだが、安堵も感じていた。
 キスまでしてしまったのに、バレていない。嫌な記憶を思い出させたわけでもないようだ。
「ときめいたり、しねえの?」
 かすかに上ずった声で、軽薄な言葉を使ってみた。
「なんでだ。びっくりはしたが」
 ジルベールはそれを軽く受け流す。本当にまったく気にしていないようだ。

「悪い。『寝ぼけた』」
 カディはジルベールに触れた唇を何気なく手で隠しながら、ジルベールの使った言葉を言い訳にした。こんなもので納得してくれるのか不安だが、余計なことを付け足せばボロが出そうで怖い。
 幸運にも、これ以上、ジルベールに追求する気はないようだ。
 それでも鼓動が早い。その音が聞こえるはずはないが、隠すように言葉を続けた。
「で、お前は詫びの言葉とかねえのかよ」
「カディの脚につまづいたんだ。こんなところで寝るな」
 言われて、はじめて自分のいる場所に気がついた。
 本棚と本棚の間に座り、通路に脚を投げ出している。つまずいても仕方がない。
 書庫のようだ。なぜこんなところにいるのかも思い出した。別に寝たくて寝ていたわけではない。
「ベアトリスを知らないか?」
「さっきまで一緒にいたぞ。今はサヴィア様のところだ」
「あいつ、用があるとか言ったくせに、忘れてやがるな」
 すぐに終わるからと待つように言われたが、なかなか来なかった。そのうちに寝てしまったのだ。
 しかし忘れるような用なら、大したことではないのだろう。
 そんなものより、ジルベールを手伝いたい。
「ひょろひょろの腕で、こんなに持てるわけないだろ。どこまで持っていくんだ?」
 落ちた本を拾いはじめていたジルベールの手から本を奪うと、ジルベールは微笑する。
「分室までだ。助かる、ありがとう」
 素直に礼を言われて頬が緩んだのは、一瞬だけだ。すぐの顔を引き締めた。
 硬質の床を歩く足音が聞こえてくる。書庫に他にも人がいたようだ。
 今までの会話を聞かれたかもしれない。鈍感なジルベールは気づかなくても、他人が聞けば、秘めた想いを悟ってしまいそうなことを言っていないだろうか。
 自分の言葉を慌てて思い起こしていると、離れたところにある本棚の影から男が現れた。

 彼はカディとジルベールの姿を見つけると、こちらに向かって歩いてくる。
 カディとさほど変わらない長身、垂れ目の男だ。歩く姿は機敏で整っている。その様から想像するのは、軍人だった。
「久しぶりだな」
 そう言いながら彼は、カディを真っ直ぐに見据えて近づいてくる。
 見覚えがある。嫌な予感がするのと同時に思い出した。
「ジル、先に行ってろ」
 思わず声が低くなる。
 早く彼からジルベールを遠ざけなくてはいけない。
「知り合いか?」
 しかしジルベールは、不思議そうな顔をするだけで動いてくれない。
 ジルベールは本だけではなく、人の顔も瞬時に覚えて忘れない。
 図書館には百数人の研究者や魔術師がいるが、あまり関わりのない部署の人間までも彼は覚えている。しかし目の前の男に見覚えがないのだろう。この書庫は外部から来た閲覧者の立ち入りは禁止だ。
 垂れ目の男はカディの目の前で立ち止まると、ジルベールを横目でちらりと見た。
「イーヴ……オラール……」
 ジルベールが男を見つめながら、知っているはずがない彼の名前を唇から漏らす。
 おかしい。面識はないはずだ。すれ違ったことさえない。
 男も驚いたようにジルベールの顔をまじまじと見ている。
「まただ。文字が……なんなんだ、これは……」
 ジルベールは苦しげに瞼を伏せ、片手で頭を押さえる。
 竜がどうのと言っていたあの日から、何かがおかしい。時々、脈絡のない言葉をうわ言のように呟く。ただ疲れているというわけではなさそうだ。
「行けって。こいつと話しがすんだら、本は持ってくから」
 肩に手を置いて促すと、ジルベールはおぼつかない足取りで去っていく。
 心配だが、今はとにかくこの男から遠ざけなければいけない。

 ジルベールの姿が見えなくなり、やがて書庫の戸が開閉する音が聞こえてくる。
 カディは男を見て身構えた。
「そんなに警戒することないだろ」
 彼は垂れた目を細めて笑う。人を小馬鹿にしたように笑う男だ。
 なぜ彼がここにいるのか。彼とはアマデオの城にいた時、共に訓練を受けていた。
「イーヴ……」
 彼の名前を呼び、今でもアマデオの元にいるのかと聞こうとしたが、聞くまでもない。
 当時の彼の性格からして、アマデオの元を離れるとは考えにくい。その上、さっきから微塵の隙もない軍人のような雰囲気を漂わせている。
「すぐに分かったぞ。大変だな、目立つ容姿をしてると。カディも、あいつも」
「お前は背が伸びたな」
「何年経ってると思ってるんだ。あの火事の時に、お前が逃げてから」
 アマデオの城の火薬庫から火が上がり、大火事になった時、城に張り巡らされていた結界が緩んだ。その隙に、ジルベールを連れて城から逃げたのだ。
「ここは立ち入り禁止だぞ」
「迷ったんだ。バカでかい建物だな。アマデオ様の城より広い」
 イーヴはひょうひょうと言ってのける。
 魔道図書館は広く、数百年前に建てられてから何度も増築を繰り返され、図書館に所属する研究員達ですら迷うほどの複雑な造りになっている。
 しかし立ち入り禁止の書庫に、簡単に迷いこむはずがない。
 意図もなく迷いこむ必要もないはずだ。
「俺がここにいるのを知ってたのか?」
「アボット伯爵に、アマデオ様の書簡を届けに来ただけだ。禁書についてらしいな」
「ここにいる情報でも掴んで、探りに来たのか?」
「ひどいな。これでも、かつての友人を心配してたんだぞ。今、俺がお前に接触しているのは俺の意思だ。アマデオ様の意思じゃなくてな」
 イーヴィは白々しく言いながら、ようやく質問に答えはじめる。
「アマデオ様はお前がここにいるのを知っている。探る必要はない。言っただろ。目立つ容姿をしてると大変だな、って」
 確かに、浅黒く彫りの深い異国の風貌は目立つ。魔術書の調査のために図書館の外に出ることが多く、人目につきやすい。
「王族の遠縁のアボット伯爵相手に、ことを荒立てたくないだけだ。でも、お前を諦めてもいない」
 自分のことはどうでもいい。ジルベールもここにいることが、知られているのだろうか。
 アマデオが下手に手を出せないサヴィアに拾われたのは、釈然としないが、都合がよかったのかもしれない。

「俺としては、カディがいなくなったから、俺が旦那様に目をかけてもらえたんだ。今更、戻ってこられたら困る」
 ふと、イーヴは笑いながらジルベールが去った方向を見た。
「でも、あいつがのうのうと生きてるのは許せないな。男を咥えるしか能がないヤツが、俺にもない自由を持っているのか?」
 細めた目は笑っていない。
 彼は昔から、ジルベールに妙な執着を見せている。自分より劣った存在を嘲うことで、安堵する性癖の持ち主だ。憎しみに近い。
 対象はジルベールでなくてもいいのだろう。当時、彼に目をつけられたのがジルベールで、今、彼の前に再び現れたジルベールがまた目をつけられただけだ。
 昔は見過ごしていたが、今は黙っているわけにはいかない。
「睨むなよ。不思議だったんだ。なんでお前が、あんなヤツを連れてったのか。褒美として抱かせてもらって、そんなによかったのか?」
 急速に、頭に血が上る。
 イーヴに言われたことを否定しきれない。
 アマデオから褒美という名目でジルベールの体を与えられ、命じられるままに抱いた。その日からジルベールへの罪悪感にさいなまれてきたが、同時に再び彼を抱きたいという欲望を胸に秘めてきた。
「アマデオ様から奪って、今はやり放題ってワケか」
 汚い自分を見透かされているようで、我慢がならない。
 次の瞬間、カディは片手でイーヴの胸倉を掴んで力任せに押し倒し、床に背中を叩きつけた。
「アマデオに目をかけられてる? この程度でか?」
 左胸を潰す勢いで押さえつけても、イーヴ涼しい顔に笑みを浮かべ続けている。
「あいつに何かしてみろ、殺す」
 彼を睨みつけながら、完全に八つ当たりだと思った。
 今まで、どんなにあがいても欲望は消せなかった。それなら、絶対に表には出さない。
「ジルは俺が守る」
 自分からも。

「相変わらず、獣並みの迫力だな。そろそろ放せよ。ここで俺が反撃すれば、アマデオ様に迷惑がかかる」
 イーヴが胸を掴むカディの手を握り締め、ふっと笑みを消す。
 真っ直ぐに見つめてくる彼の目から、自分の力への自信が伝わってきた。されるがままになっていたのは、抵抗できないのではなく、しなかったのだと言いたいのか。
 手を放すとイーヴは立ち上がり、上着から書簡を取り出した。
「アボット伯爵に渡しといてくれ。目的は達したからな。帰る」
 カディに書簡を押しつけ、背を向けて歩き出す。
「カディ。続きは、いつか外で会った時にしようぜ」
 この男の考えていることが読めない。
 自分の意思だと言ったが、アマデオの指示で何かを探りに来たのかもしれない。だとしたら、今までの会話の中に報告できる答えを見つけたのだろうか。それはなんなのか。
「安心しろ。あの男妾を連れ戻す命令は受けてない。今更だ。アマデオ様は男遊びに飽きてる。でも、俺と会わせないように気をつけろよ。何するか分からないからな」
 言いながら睨まれていることに気づいたのか、イーヴはひらひらと手を振ってみせた。
 

 

 

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