「はぁッ…はっ…!」
木の幹に手を付き、今にも崩れそうな膝でどうにか身体を支えながら三郎は森を行く。
身体が鉛のように重い。今直ぐ横になりたい程の疲労感に襲われながらも、彼は歩くのを止めない。
「…はっ……本当に、何やってるんだろ…俺……」
殆ど無意識だった。三郎は盗賊の男に対して、今まで溜め込んでいた全ての力を解放させた。
勝負はあっけないぐらいに一瞬で着いた。当然だ。本来なら人間を十数人を殺せる程の力なのだから。
それをたった一人の、しかも何の能力もない唯の人間に使ってしまうなんて…馬鹿馬鹿し過ぎて笑えない。
更に今の三郎の行動が、彼の馬鹿らしさに追い討ちをかけていた。
「今更…雷蔵に会ってどうする……」
歩く度に濃くなる血の匂いを道標に、三郎は雷蔵の姿を探す。
あの男の言葉が正しかったのなら、このまま放っておけば雷蔵はいずれ必ず死ぬ。わざわざ探す必要など、三郎には無い。
それでも彼を追ってしまうのは、やはりとどめを横取りされたままでは復讐が成立たないからだろうか。
出来るかどうかは兎も角、もし雷蔵を見付けてまだ息があるのならば、それが彼の命を奪う最後のチャンスだ。
一番自分が納得する言い訳を見付け、三郎は足を引き摺り歩いた。
「………ぁ…」
「…ッ!?」
微かに呻くような声に、三郎は足を止める。
「…ぅ…ぁ…っ」
「…雷蔵」
正面の木に凭れ、座り込むように彼はいた。
地面に広がる血溜まりと、未だに血が溢れ出ている腹部。赤に塗れたその姿に、三郎は言葉を失う。
ああ、確かにこれはもう助からないな。そう思わせた。
三郎の気配に気付いたのか、雷蔵はゆるゆると顔を上げた。
「は…ぁ…ッ、あは…」
苦しげながらも、無理に笑みを作ろううとする雷蔵。それが三郎の心を痛め付けるとも知らずに。
ゴホリ、と辛そうに顔を歪めながら血を吐く姿に、三郎は覚悟を決める。
殺すなら今しかない、と。
「…ぁ…ぁ、…」
ゆっくりと、掠れる声を出す雷蔵の正面に座る。
助けを求めているのか人肌が恋しいのか、雷蔵は震える手を三郎に差し出すが、三郎ばパシッとその手を払い除けた。
「ぇ…っ」
雷蔵の顔から笑みが消える。
三郎は暫し顔を伏せた後、彼を鋭く睨み付けた。「雷蔵…全部、嘘だ」
「…?」突然の言葉が理解出来ないのか、雷蔵は三郎の顔を凝視する。
「お前とトモダチになろうと言ったのも、一緒に楽しく遊んでいたのも、全部俺の演技だ。お前を殺す為の…」
「…!?」
雷蔵の目が、驚愕に見開かれる。
その視線を塞ぐように、三郎は彼の額を掴むようにして目を塞いだ。
「っ!」
「お前は母の仇だ。お前が持っていた毛皮の狐、あれが俺の母さんだ」
なるべく声に感情を含ませないように、淡々と告げる。
雷蔵の呼吸が、俄かに震えた気がした。
「俺は母が殺されてからの十年間、人間を憎しみ続けた。でも、お前が…お前が母の肉を欲しさえしなければ、母は死なずに済んだ。俺は人を恨まずに済んだ。全てお前が悪いんだ」
「………」
「お前が仇と知った時、震えが止まらなかったよ。なんの運命かわからないけど、お前と俺は出会った。でも、お前には母の力が…邪気を弾き飛ばす力がある。容易に殺せなかった。だから『トモダチ』になって、お前を討つ機会を狙っていたのだ。それが…今なんだよ」
目を塞いでいるのとは逆の手で首もとを緩く締める。気管を刺激したのか、雷蔵は小さく咳き込んだ。
「お前を殺すのは鉄砲ではなく俺だ。お前が死んだら喰らい尽くしてやる。骨も内臓も残さず。昨日は食事為損なったからな、いい加減腹ペコだ。お前のような若い人間はさぞ美味いんだろうな…」
「っ…!」
ヒュっと雷蔵が息を吸い込む。
悲しげなだった顔から、突然感情が消えた。
急に表情が変わった雷蔵を訝しく思った瞬間、彼の左手から何かが零れ落ちた。
「ッ!?」
地に落ちたそれは、地面の上でゴソゴソと蠢いている。
月明りに照らされたそれを見て三郎は、えっ、と小さく声を漏らした。
(…蛇に…トカゲ?)
それは、盗賊が言っていた雷蔵が狙っていた物に等しかった。
一体なんの為に今までそれを手放さず持っていたのか。
その時、一羽のミミズクがこの時を待っていたように舞い降りてきて、獲物の体を掴むと瞬く間に翔び去っていった。
その光景を見て、三郎は雷蔵の行動の答えを見付ける。
(獲物…?もしかして…!)
雷蔵は何も食べない三郎の為に、蛇やトカゲを捕まえていたのではないか、と。
三郎は以前に言った。三郎が食べる物はこの森で捕れるもの、特に珍しい物でもないと。
だが、三郎は雷蔵の目の前で『食事』をした事がない。
だから雷蔵は三郎が何を食べるのか探る為に小動物等を集めていた。
自分でも忘れていたような事を雷蔵は覚えていたのだ。しかし、三郎はそれらを食べない。だから手放した。
何処までお人よしなのかこの人間は。治まらない胸の痛みが、更に酷くなる。
(迷うな三郎!復讐だ。復讐だけを考えろっ…!)
ぎゅうッと首を絞める手に力が籠った。
瀕死の身体に首の締め付けは相当苦しいのだろう。雷蔵の顔が苦痛に染まる。
「ぐッ…ぁ゛…っッ!」
「…ぅ、くっ…!」
しかし、それと同時に、三郎の心も悲鳴を上げた。
復讐だけを考えようとする程、雷蔵の笑顔を忘れようとする程、心の中で本音が浮き彫りになる。本当は殺したくない。
復讐なんて忘れて、友達として遊びたい。
雷蔵と出会ってから楽しいと思えた日々を、嘘と思いたくない。
今更孤独になんかなりたくない。
ずっと一緒に生きていたい。ほんの十数秒が幾分にも感じられた。
徐々に力を失う雷蔵。
今一番苦しいのは雷蔵だ。なのに…何故涙が止まらない。何故こんなにも胸が苦しい。
ボタボタと涙が溢れ、視界が滲んだまま戻らない。
歪んだ景色の向こう、雷蔵の限界を感じて三郎は反射的に首を締め付けていた手を離した。
「っッ、ゲホッ、…ぐ、ゴホッ」
もう何度目だろうか。咳き込む声にさえ力が無くなってきている。
「なん…でだよ…ッ」
嗚咽で震えそうになる声を堪えながら、三郎は問う。
「何でだよ!何で抵抗しないんだ!言葉が出せなくても嫌がるぐらい出来るだろ!お前の力で俺を弾き飛ばす事も出来る筈だッ!少しでも抵抗すりゃ止めてやるかもしれないのに…何でそこまで死に急ぐんだよ!!」
それはもう、最後の強がりだった。
往生際悪くも、まだ認めたくない。雷蔵を殺す事が出来ないなんて…。酷く、簡単な事なのに。
挙句には、殺せない理由を仇本人に求めてしまっている。なんと情けない事だろう。
このままでは、母に顔向け出来ない。
三郎の両手がダラリと地に落ちる。視界が解放された雷蔵は暫く三郎を見詰めていたが、力の入らない腕を持ち上げると、ゆっくり三郎の口許を撫でた。
「っ……」
「らい、ぞ…?」
雷蔵の指が、三郎の歯列を割って口内に進入する。人差し指と中指、その二本で口をこじ開けると、三郎の発達した犬歯が外気に触れた。
彼の行動の意図が分からず、三郎は成すがままに雷蔵の行動に身を任す。
そして、雷蔵は三郎の口を開かせたまま、彼の後頭部に手を回して抱き寄せた。
「っ!?」
三郎の牙が雷蔵の首筋に突き刺さる。しかし、雷蔵は手の力を緩めようとしない。それどころか、増しているようだ。
やがて滲み出した血の味に、三郎は雷蔵の行動の真意に気付く。
「ゃ、やめろッ!!」
バッと身体を引き離す。もう少し遅ければ、牙が動脈を傷付けていたかも知れない。
もう、駄目だ。自分を復讐で偽る事が出来ない。
「雷蔵…お前、残酷過ぎるよ。…今まで、何人も酷い人間、見てきたけど…ッ、お前が一番残酷だ…。今更ッ…今更お前を喰える訳、無いだろ…ッ!」
認めてしまった。今までの自分を全て否定して、彼は復讐を放棄した。
相手が人間だとか、仇とか関係無い。三郎は『友達』として雷蔵を好きになってしまったのだ。
好きになってしまった以上、嫌いになる事なんて出来ない。
「ごめんっ…雷蔵、ゴメン…!こんな、酷い事になって…ごめん!」
肩を震わせてポロポロと涙を流す三郎。泣きながら謝罪を口にする。
しかし、雷蔵の反応は無い。
「…雷蔵?」
雷蔵の顔を覗き込む。瞳が虚ろに宙に向けられたまま何処もみていない。
今まで何人も殺してきた三郎だ。人がどんな時にそんな眼をするのか良く知っていた。
これは、『死』を見ている眼だと。
「ッ、雷蔵!駄目だッ、逝くな!!」
三郎は治癒の術を施そうと傷口に手を翳した。
しかし、力は使い果たした後。身体の何処を絞っても、傷を癒す程の力は残っていない。
仮に力が残っていたとしても、雷蔵の傷は既に手遅れな程深い。
それでも、三郎は力を送ろうと必死で念じた。
「なぁ、雷蔵…俺、またお前と遊びたい。草の玉投げたり、木登りしたり…。だから、頼むから…生きて。お前が居なきゃ寂しいよ…!」
一向に塞がる気配を見せない傷に、三郎は不安を募らせる。
だが、雷蔵はその三郎の手をそっと押し戻した。
触れられた手があまりにも冷たく、それは三郎の心臓まで冷やした。
「雷、蔵…?」
「…っ」
ポロリ、雷蔵の瞳から光が零れ落ちる。“ あ り が と う ”
それは幻聴だろうか、しかし、雷蔵の『言葉』は確かに三郎に届いた。
グラリと傾く身体。力を失った雷蔵の身体を三郎は受け止めた。
「雷蔵!…雷蔵ぉッ!!」
いくら呼んでも、雷蔵はピクリとも動かない。
その顔に微笑みを刻んだまま、ゆっくりと呼吸をやめていった。
「嫌だッ、死ぬなよ!雷蔵おぉッ!!!」
復讐も助ける事も叶わぬまま、雷蔵を死なせてしまった。
僅かに残っていた体温さえ冷えていく雷蔵の身体を抱き締めて、三郎は泣き叫んだ。いつから狂い始めていたのか。いつから間違い始めていたのだろうか。
―盗賊を襲った時から?
―雷蔵と初めて遊んだ時から?
―雷蔵に友達になろうと言った時から?
―雷蔵に出会った時から?
―人間を殺すようになってから?
―人間を恨んだ時から?「ッ、こんな事に、なるんだったら…」
零れた涙が雷蔵の顔に落ち、彼の涙の跡に重なる。「妖狐になんかなるんじゃなかったッ!!!」
三郎の悲痛な叫びは、満月に満たない月明りの元、瞬いた。
〜次〜
ブラウザバックでお願いします