まずはネタバレなしで。
テレビシリーズのエヴァンゲリオンはシンジ君が立ち上がろうとするたびに徹底的に転ばされるお話です。
元々内向的な気質で人と付き合うのが苦手だったシンジ君は、レイやアスカ、クラスメイトやネルフの面々とラブコメやっている内に、徐々に他人と接する自信が芽生えてくる。
母さんの墓参りに、嫌いだった親父と一緒に行って少しだけ打ち解ける。だからちょっとだけ親父に期待してもいいかなって思っちゃう。
でもシンジ君の期待は結局のところ裏切られる。親父がダミープラグを使ったせいでトウジが酷い目に合う。
他人を信じることが出来なくなりかけている状態のシンジ君に追い討ちをかけるかのように、アスカは使徒の精神汚染でなんかワケわかんないところに行っちゃうし、レイは死んで生き返ってクローンでなんかよくわかんない。そんな時にカヲル君が手を差し伸べてくれたから、それにすがってみるけど、実はカヲル君の正体は使徒で「僕の気持ちを裏切ったな!」「父さんと同じに裏切ったんだ!」。
他人と接しようと思えば傷付くことは避けられない。僕らは傷付き傷付けることでしか互いの距離を計り合うことが出来ない。でも僕は傷付くのも、傷つけるのも嫌なんだ。
その回答として設けられたのは「じゃあ人間を一個の固体に統合して互いに傷付くことのない世界を作ろう」という人類補完計画です。
でもまあ、実際問題として僕らの生きる現実には人類補完計画なんて都合の良い幻想は存在しないんですね。僕らの世界にはエヴァも使徒もいないし、だから人類補完計画はいつまで待っても発動しない。
で、旧劇場版は「お前らいつまでもアニメなんか観て現実逃避してんじゃねー」「いくら傷つけられたって、それでも僕らは他人に期待するしかないんだ」と。
そして人類補完計画を否定したシンジ君は、再生した世界で又もアスカに傷付けられる。「気持ち悪い(まあそりゃ枕元でオナニーしてくる男を気持ち悪くないとは思わないだろうけど)」。
それでも僕らは他人に期待するしかない。旧劇場版では他人と接するということを絶望的に描いていました。
で、今回の破はこれに対して「でも、誰かと接するということは、楽しいこともいっぱいあるよね?」という凄く肯定的なメッセージがそこに付加されていたと思うんですよ。
(以下ネタバレします)
破ではレイがシンジ君との関係の中に「ぽかぽかする」ことを見出します。アスカはミサトさんに「誰かとコミュニケーションすることも、案外悪くない」ともらします。シンジ君もお食事会で、親父と会うことに期待を寄せている。
ですが親父がダミープラグを使ったせいでこの三人は傷付くことになる。他人と接することに少しずつ意味を見出しかけていたアスカは封印されてしまうし、シンジ君は暴れた後に「もうエヴァには乗らない」という。レイも参号機には本来自分が乗る筈だったのを代わってもらったわけだから、(代替の利く)自分の代わりにアスカが犠牲になったといえなくもないし、多少なりとも責任を感じている。
この後ゼルエルが攻めてきて、逃げ出したシンジ君は弐号機でやられた新キャラマリに背中を押されて、零号機が喰われて、レイを助けるために一気に走り出し、例の「私が死んでも代わりはいるもの」「代わりなんていない!綾波を返せー!!」になるわけですが、この時のマリが凄く重要な存在になってると僕は思うんですよ。ここでシンジ君の背中を押して上げるために彼女は登場する必然があったのではないかと思うくらいに。
テレビ版ではここで背中を押してくれる役目は加持さんです。「君になら出来ることがある」「後悔のないようにな」といわれて、嫌だけど、でも僕がやらなきゃいけないから、だから、仕方ないからやる。
これが破だとマリが「でもウジウジしたって楽しいことないよ」っていってくれる(うろ覚えなので間違ってるかもしれません)。テレビ版に比べて、この台詞はすごく優しいと思うんですよ。
確かに傷付くこともある。だけど誰かと接するということは、楽しい事だっていっぱいある。嫌々やるんじゃなくて、もっと誰かと接するということを楽しめばいいよ。破に対して僕はそういう主張を感じたんです。
だから破は旧劇場版の状態を克服できたと僕は思うんですよ。シンジ君もまたレイとの関係の中に意味を見出したし(本人はまだ無自覚かもしれないけど)、だからこそレイを救えた。完全にではないけど、今回で旧劇場版は克服した。じゃあ、あと二話を残してヱヴァは一体何処に向かうのか、楽しみでなりません。
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