友達のお姉さん

 夕暮れ時のグラウンドに活気のいい掛け声が天まで届けとばかりに響き渡り、今日も一日の部活動が終わり
を告げた。あちこちの部からメンバーを引っこ抜き、頭数が揃ってようやく結成されたばかりの熱血大学野球
部でピッチャーを務める俺──佐久瀬純彦──も、キャッチャーと二人でやっていた投球練習を終え、グラウ
ンドに一礼して更衣室へと足を向ける。俺の歩みは自然と加速し、小走りになる。
 練習を終えて当然体は疲れている。六大学対抗リーグで勝利を掴み取るために、野球は未経験という者も多
い部員達は一日一日の練習で全力を出しているのだから、毎日ヘトヘトだ。それでも俺が急ぐのには理由がある。
 「…………」
 更衣室の中で着替える他の部員に悟られないように、スケジュール帳を開く。表紙をめくった裏に挟んであ
るのは、大学に通うようになってから初めてできた恋人の写真。それをチラリと見てから、俺はすぐに手帳を
閉じた。
 俺の恋人、保険会社で働いている徳子さんは、二十歳の俺より三年ほど年上の人で、知り合ったきっかけは
キャンパス内で声をかけられて保険への加入を勧められたことだった。手の届きそうな距離に来るとふわっと
漂う女性独特の柔らかい香りや、営業のテクニックなのかもしれないが聞いていると心の落ち着くような声色
や、嫌なことなんて吹き飛んでしまいそうな愛らしい笑顔に俺がノックアウトされるのに時間はかからなかっ
た。売店の前で学生に声をかける徳子さんにマメに話しかける所から始まり、徐々に長話もするようになった
頃に、なけなしの勇気を振り絞って、俺はダメ元で彼女をデートに誘った。OKを貰えたのは予想以上に嬉しか
ったし、デートの当日に勢いでした告白を受け入れてもらえた時は、夢なんじゃないかと何度も何度も自分の
頬をつねって笑われたっけ。
 「あ、もうこんな時間だ。急がなきゃ」
 汗と土埃にまみれた体をシャワーで洗い流す気持ちよさについボンヤリしてしまい、シャワールームから出
てきた所で時計を見ると、自分の中で予定していた時刻を十分近く過ぎてしまっていた。今日は練習が終わっ
たら徳子さんと夕飯を食べに行く約束なのだ。


 待ち合わせ場所になっている大学の正門へ向かって歩いていると、遠目にグレーのスーツを着た徳子さんの
後ろ姿が見えた。が、声をかけて手を振ろうかと俺が思った瞬間、その隣に同じぐらいの背格好の男が立ち止
まって話しかけるのが目に入った。
 「誰だろう、あれ?」
 目を凝らしてよく遠くの様子を窺うと、背を向けていた男が半身になった。そこに立っていたのは、グラウ
ンドで見慣れた背格好に大きな眼鏡……大学に来て最初に俺が友達になった矢部君だった。
 矢部君と徳子さんって、面識があったんだ。まず始めに頭に浮かんだのはそんなことだった。そりゃあ、同
じ大学に通っているんだから、売店の前で保険の営業をしている徳子さんの顔ぐらいは知ってたって不思議じ
ゃあないし、話だってしたこともあるだろう。
 「けど……なんで、あんなに親しそうなんだ……」
 生まれつき視力のいい俺には、徳子さんの笑顔がはっきりと見える。彼女は頻繁に笑顔を見せる人だけど、
キャンパスの大学生に声をかける時の、俗に言う営業スマイルでは無く、俺と二人でいるプライベートの時に
見られるようなリラックスした表情をしている。二人は楽しそうに会話している。その間に漂う空気が、単な
る顔見知り以上のもののように思えるのは、俺の気のせいなんだろうか。なんだかあの距離感は、俺と徳子さ
んのそれよりも近いように見えてしまう。
 ペコリと頭を下げる矢部君の肩に徳子さんの手がスッと伸びて二、三度ポンポンそこを叩くのを見た瞬間、
風邪を引いて喉を痛めた時のような、ヒリヒリと焼けるような痛みが胸の底を走った。俺がしたみたいに矢部
君が徳子さんをデートにでも誘っているように見えて、足先がソワソワしてきた。
 ──徳子さん、どうしてそんなに……
 俺が大股で一歩を踏み出して走り出そうとした時、矢部君は徳子さんに手を振りながら門から離れて行った。
 徳子さんも矢部君に手を振っていたが、すぐに俺の方を振り向いて、セミロングの髪をなびかせながら早足
でこちらに近付いてきた。

 「練習、お疲れ様」
 「あ、うん、ごめん。待たせちゃったみたいで」
 「ううん、待ってないわよ。私もさっき来たばっかりだもの」
 どう表情を作ればいいのか分からないまま平べったい言葉を返す俺とは対照的に、徳子さんの声は明るい。
 その笑顔が矢部君に見せていたのと同じ表情に思えて、掌がうっすらと汗ばんできたような気がした。
 「あの、徳子さん」
 もしかしたら、尋ねない方がいい質問なのかもしれない。それでも、どちらかといえば訊きたいと思った。
 「なあに?」
 「矢部君と、知り合いなの?」
 どう言えばいいのかと考えていた切り出しの言葉は、思いの外すんなりと出てきた。さあどうだろう、と表
情を窺ってみると、徳子さんは何に動揺するでも無くキョトンとしていた。
 「知り合いも何も、明雄は……」
 下の名前で呼び捨て。知り合いも何も、もしかして、そんな仲? 背筋に悪寒が走った。
 「明雄は私の弟よ」
 「ええっ!?」
 まるで朝の挨拶でもするかのようにそう話す徳子さんに俺は驚きを隠せず、一回り大きな声をあげてしまっ
た。しかし、俺の質問が素っ頓狂なものにでも思えたのか、徳子さんは桃色の唇の両端をきゅっと吊り上げて
噴出しそうになるのを堪えているようだった。
 「や、矢部君が徳子さんの弟?」
 「そうよ。だって名字も一緒だし。気付かなかった?」
 「いや、確かに名字は二人とも『矢部』だけど、なんていうか……」
 「似てないって思った?」
 迷わずに、俺は頷いた。


 立ち話もなんだからと駅前のファミレスに入り、腹ペコだった俺は出てきた料理を夢中で平らげてしまった
後、徳子さんが矢部君の話をするのに相槌を打っていた。
 不安と驚きの次は、矢部君と徳子さんの親しい空気が家族の持つものであったことに対する安堵。ハイペー
スで減っていく烏龍茶に、俺は喉がカラカラになっていたことをその時初めて自覚した。
 「どう? 明雄はちゃんとやってる?」
 「うん。最初に部の頭数を揃えようと思った頃から一緒だけど、お互いいい刺激になってると思うよ」
 「女の子の話とかされるでしょ」
 「……してるね。同じ授業の時とかは、よく」
 「大学に入ったら楽にモテるって思ってたみたいなのよね、あの子」
 「そういえば、俺が野球部に入ろうって誘った時も、そんなことを……」
 「やっぱり? 運動部に入るって言うから何かと思えば、女の子にモテたいからだったのね……」
 溜め息と共に、徳子さんが肩をガックリと落とした。
 「でも、部活はサボらないし真面目に頑張ってるよ」
 「まぁ、結果オーライね。動機は不純だけど、趣味一本にのめりこまないだけまだ健全でいいわ」
 「趣味?」
 「オタクって分類に入るのかしら。部屋の中とか結構凄いのよ、アニメのグッズとかで」
 「そういえば、アキバの電気街に買い物に行った時は、なんていうか、ついていけなかったな……」
 「んー……そういう所は大目に見てあげてね。悪い子じゃないから、明雄は。時々現実逃避しちゃうのが難
だけど……」
 現実逃避と言われれば、以前矢部くんに話しかけても応答が無かったことがあったなぁ。別世界に旅立っち
ゃってたっていうか。あの時の矢部君はいったいどんなことを考えていたんだろう。
 「徳子さんは、矢部君に彼女ってできそうだと思う?」
 「うーん……厳しいかもね。眼鏡をもうちょっとオシャレなのに変えるだけでも違うと思うんだけど……自
分の話ばっかしちゃう所が大きなマイナス点、かな。あと、あの『やんす』も……」
 苦笑いを浮かべながら、徳子さんはヒラヒラと掌を振った。俺の烏龍茶のグラスはもう空っぽで、ストロー
を吸ってみてもズズッとかすれた音と共に氷が震えるだけだった。

 「そういえば、俺と徳子さんのことって、矢部君は知ってるの?」
 「ううん、明雄には内緒にしてるわよ。あれこれ詮索もしてこないし」
 「そっか」
 胸を撫で下ろす。徳子さんと矢部君が姉弟だと知ったのは今日が初めてだったけど、もしかして矢部君は俺
と徳子さんの関係を知っていながら敢えて沈黙を貫いていたのかもしれない、なんてことが頭をよぎったし、
変に気を遣ってそうされているとしたらなんだか後ろめたいと思ったからだ。
 姉と付き合っているのが仲良くしている親友だと改めて知った時に矢部君がどんな気持ちになるか、一人っ
子の俺には想像できなかった。悪く思われなければいいんだけど。

 「そろそろ出ない?」
 腕時計に視線を落としてから、徳子さんが言った。壁時計を見ると、時刻は午後八時。思ったよりも長居し
ていたみたいだ。伝票に手を伸ばして値段を確認しようとすると、徳子さんが自分の財布を取り出した。
 「あ、いいよ。俺が出すから」
 「自分の食事分ぐらいは自分で出すわよ。私だって社会人なんだし」
 はて、以前買い物に行った時にネックレスを買って欲しそうにしてたのは誰だったっけ、と言いたい気持ち
を喉の奥に押し込む。彼氏としては徳子さんの分も出してあげたい所だけど、生憎今月は中々に財布事情も厳
しいので、ありがたいと言わざるを得ない。


 店を出た所で、人の喧騒を背景に、俺はあることを言うべきか言わざるべきか、迷っていた。付き合い始め
てしばらく経ち、女性経験がロクに無いなりにあれこれ考えてデートにも行った。そろそろ、丁度いい時期な
のかもしれない。
 「徳子さん」
 もう少し待った方がいいと思う気持ちもあったのだが、先程大学の門の前で矢部君と徳子さんが楽しそうに
話していたあの光景を目の当たりにしてからずっと、自分の中の何かが俺を急かしていた。危機感、と表現す
るのがいいのかもしれない。よくよく考えればただの姉弟間の会話だったんだからあの雰囲気もごく自然なこ
となんだけど、あの時胸の内に湧き起こってきたなんともスッキリしない感情は未だ治まってくれなかった。
 よし、言おう。口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
 「今から、俺の部屋に来ない?」
 文字で並べてみたら、きっと単純な短い言葉なのだろう。しかし、それを口にした瞬間俺は全身がカッと熱
くなり、緊張が爪先から脳天まで一気にビシッと張り詰めるのを感じた。握り締めた拳に力が入る。
 「…………」
 「だ……ダメかな?」
 「……いいよ、行こっか」
 徳子さんは、数秒の沈黙の後に頷いてくれた。その頬は、うっすらと赤く染まっていた。

 駅からそう遠くない俺のアパート、その四階へ向かうエレベーターに、俺と徳子さんは互いの手を握ったま
ま何も言わずに乗り込んだ。何のアナウンスも無く自動ドアがのろのろと閉まる。細くしなやかな手が俺の手
をギュッと握り返してきた。いつも一人で乗る四角い空間に愛する徳子さんが一緒にいることが嬉しくて、誰
もいないのをいいことに細いラインの体を抱き締め、香水とシャンプーの入り混じった徳子さんの香りを胸い
っぱいに吸い込むと、腕の中で戸惑いを瞳に漂わせながらも徳子さんは俺に体重を預けてきてくれた。

 「お邪魔します」
 女の人を部屋に招くのは初めての俺は、悪い印象を持たれやしないかとそれこそ胃が締め付けられる思いな
のだが、当の徳子さんはあまり緊張していないようだ。
 「へぇ、佐久瀬くんってこういう部屋に住んでるんだ……」
 ワンルームの部屋は、あまり多くの物を持ち込んでいないせいもあってそれほど散らかってはいないはずだ。
徳子さんを俺の部屋に誘うのは今日の時点で本来予定していなかったので少々ヒヤリとしたものの、見られて
は不味い書籍類──つまりはエロ本──などはしっかりと見えない位置に隠蔽してある。狭い部屋とはいえ、
そう簡単には見つからないだろう。
 スーツの後ろ姿にうっすらと浮かび上がるお尻のライン、首元をなだらかに走る鎖骨、屈むとその胸元に見
える谷間、細くしなやかな脚。徳子さんのカラダが気にならない日は無かった。今のこの瞬間も俺の頭はその
ことでいっぱいになってしまい、逸る欲望がズボンの中を狭くし始めていた。
 「あ、野球のボールが置いてある」
 ムズ痒いような気持ちを俺が堪えていると、変化球のイメージトレーニング用に使っている硬球をテーブル
からひょいと掴みあげ、徳子さんはしげしげとそれを眺めだした。
 「ねぇねぇ、変化球投げる時ってボールの握り方が違うんでしょ?」
 「うん、そうだけど」
 「どうやって握るの?」
 好奇心に満ちた瞳が俺をじっと見つめる。
 「えっと、例えば……」
 と言いながら、俺は手っ取り早く頭に浮かんだフォークボールの握りを手で作った。フォークボールは、現
在俺が最も力を入れて練習している変化球なのだ。
 「人差し指と中指をグッと広げて、親指はボールの下に……」
 硬球を握ったままの徳子さんの手に自分の手を被せるようにしてぐいぐい指の股を広げさせ、小さな手をフ
ォークボールの握りにさせると、たちまち徳子さんが顔を引き攣らせた。
 「い、いたた……指が裂けちゃうわよ、こんなの」
 「あはは、フォークは手が大きくないとできないから……」
 「もう、分かっててさせたでしょ」
 ささやかな抗議の声を聞きながら徳子さんの手から硬球を受け取り、いつもやっているようにフォークボー
ルの形にそれを握った。やはり、手に馴染む。
 「佐久瀬くんの手って、ゴツゴツしてるよね」
 「そうかな?」
 「うん……男の手って感じがして、素敵だな」
 声のトーンを少し落としながら徳子さんが俺の手を持ち上げ、その甲に頬擦りしてきた。ぷにぷにして滑ら
かな女性の肌の感触に、緊張していた鼓動が一段と高鳴る。
 「徳子さん……」
 左手で肩を抱く。そのまま顎へ手を滑らせていくと、俺のサインを読み取った徳子さんが目を閉じた。
 「…………」
 しっとりと濡れた唇の感触と人の温もりが、首を伝って全身へ広がっていく。キスは、今までに何度かした。
でも、今から、俺はこの先へ足を踏み入れるんだ。
 「ん……っ」
 合わせたままの唇の奥へ舌を割り込ませると、徳子さんはすんなりと受け入れてくれた。抵抗されるんじゃ
ないかと思っていただけに、少し意外だった。
 「あ、っあ……ん、むっ……!」
 たっぷり唾液を含んだ舌同士がぬるぬると絡まって、唇の隙間から水音が漏れる。首から上が、ぼんやりす
るような心地良さに包まれていくのを感じる。
 息苦しさを感じ始めた所で顔を離すと、頬を上気させた徳子さんの下唇が、どちらのともつかない唾液でて
らてらと妖しく光っているのが目に入った。
 テーブルの隣に座っていた徳子さんをベッドへ運ぶべく、細身の体を抱え上げた。「女の人って軽いんだね」
と俺が言うと、「佐久瀬くんが力持ちなだけよ」と徳子さんは照れ臭そうにはにかんだ。



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