「…あ〜〜〜…やらかした…」
白いシーツの中…すやすやと眠るイワンの横で虎徹は自己嫌悪に陥っていた。確かに昨夜は大掛かりな術の施行で疲れてはいたが…寝ぼけて誘ってしまうとは思ってもみなかった。
今までの…口からのみの体液交換は、取り出した体液の濃度がさほど濃くなかったらしい…たっぷり含んでも一晩休めば昇華出来ていた。それに比べナカに注がれたイワンの蜜はじわじわと躯を蝕んでいたらしく…一晩かけてゆっくりと体内に浸透したせいもあってか、全身が気だるい。その気だるさは微熱を帯び、むず痒さを引き起こしてナカをかき回すものを欲して疼いていた。
躯が…思考が甘い蜜に溶かされたまま、すぐ目の前にある他人の熱を求めてしまう…
こんなつもりではなかったのに…と言っても…もう後の祭り…
「………」
立て肘をしてちらりとイワンの顔を伺う…安らかな寝顔にちらちらと見え隠れする呪いの印…昨日の朝よりも形、色ともに薄れていることに満足して寝床から抜け出た。
もう随分と高くなった太陽から降り注ぐ光を浴びながら、うん、と大きく伸びをする。幸いと言っていいのか分からないが…イワン自身の持つ『何かの力』のお陰で虎徹の体調は狂わずに済んでいた。体内で行われる呪いの浄化もスムーズにいっているようだ。
しかし…
「(…今のところ…これくらいが限度か…)」
イワンに掛けられた呪いは予想以上に濃厚らしく…一筋縄ではいかない…とは分かっていたが、性急に解呪しようとすれば今度は虎徹の方が危うい。水を注ぐ器の容量に限度があるように、虎徹の浄化能力にも限度がある。それを上回れば間違いなく虎徹の方が呪いに喰われかねないのだ。
「(…呪いをかけた奴は相当な力の持ち主…だな…)」
呪いを取り出す際にもたらされる極上の蜜の味…その味に溺れてしまわないように気をつけなくては…と肝に命じながら虎徹は部屋から出て行った。
* * * * *
「…すいません…」
イワンが起き出したのは、日もとっぷり暮れた頃…夕食の準備をしていた虎徹が台所に立っている所に転がる様にして駆けてきたイワンは、己の失態を悔んだのだろう…涙をぼろぼろと流しながら謝り続けていた。一日ほぼ寝て過ごしてしまった事に働き者のイワンが落ち込まないわけもなく…虎徹が宥めても尚沈んだままだった。
そして食卓に着いた今もなお…謝り足りないとばかりに謝罪を零す。
「もぉ…そんなに気に病む事じゃねぇってぇ」
「でも…『働かざる者、食うべからず』…ですし…」
人として生きる上での重要な事をまっとう出来ていないとますます沈んでいくイワンに虎徹も苦笑が耐えない。
「(これはもう…何か特別な仕事でも渡さない限り立ち直らないかなぁ…)」
湯気を立てる食卓に一切手をつけないままのイワンを見ながらぐるぐると思考を巡らせる。単純な仕事を渡してもこの様子では納得しないだろう…何かイワンだからこそ出来ること…としばらく考え込んだ。
「(…折鶴…)」
ふと視界に入ってきた『式神』を見つめた。よほど気に入ったのか、ずっとイワンの折った折鶴に乗ってふわふわとあちこち飛び回っている。
「(…他にも折らせて…あー…でもそれをさせるには先に俺が切り分けなきゃならないしな…)」
この屋敷がある聖域は虎徹の領内だ。その中で折紙に力を持たせようとすると、どうしても虎徹による『加工』が必要となる。なので、紙を切り分けるところからイワンにさせても式神が使っている折鶴のような効果は得られないのだ。
「(…となると…)」
今度は手元へと視線を下ろしてくる。何気なく動かしただけではあるのだが…はた、と気付いた。
「(…衣なぁ…)」
昨日仕立ててもらったばかりの単…新たに衣を出すのが面倒で、出したままだった為に着ただけなのだが…丁度いい事を思い出すのにはうってつけだったようだ。
「…刺繍…」
「え?」
うんと昔に献上されたものに無地の帯がある。女性用の仕立てなのですっかり忘れていたのだが…人の姿を常としない『虎徹』が巻いてもとやかく言われないだろう。
ただ、着物の柄と合わせる上で、無地というのは少々味気なく見える。せめてワンポイントでも柄があればいいのに…と思っていたもので、自分にそれなりの腕があれば染めたり刺繍したりしたのにな…と考えていた事があった。
「刺繍。得意っつったよな?」
「え?と、得意…というか…よく任されてたっていうか…」
「よし。刺繍してもらおう」
「え???」
「蔵に一本、無地の帯があってさ。そいつに刺繍をしてもらおうか」
「帯に…ですか…?」
「あと他にも、俺の着物に紋入れしてほしいな」
「は…はい…」
「と、いうわけで。今日の分の仕事が明日から出来るわけだ。な?」
「……あ、はい!」
もちろん全て一日で完成出来るものではないが…大量の仕事を出しておけば、今日出来なかった分を明日から巻き戻す事で取り返せる。…そう考えた結果の刺繍依頼。どうやら上手くいったようでイワンも納得の色を見せていた。
「おっし、そんじゃあ飯食って帯やら刺繍糸やら出しに行くぞ」
「合点!!」
ガッツポーズまで飛び出したイワンに虎徹はやれやれと心の中でこっそり溜息をついた。雰囲気は違えど、この仕事熱心さは前にいた『使徒』を彷彿させる。
「(…そういやあいつ…上手くやってんのかね?)」
脳裏にぽつりと浮かんだのは南方守の所へ修行に行った時の姿。…更に南方守の姿も思い描いた。
「(ここんとこ全く会ってないなぁ…久しぶりに訪ねてもいいけど…)」
ちらり…と目の前に視線を移動する。すっかり元気になったイワンがモリモリと食事を進めていく姿を見て、南方まで脚を伸ばすのは辛いな…と思った。いくら空を飛んでいけるとはいえ…まだ『イワンを狙う輩』の正体が分からないのだ。何かあった時にすぐ引き返せる距離ならばいいのだが…南方守の所まで…となるとかなりの距離がある。
「(イワンにも会わせたいし…手紙でも出そうか…)」
どちらかといえば筆不精な為に、しばらく続いていた文通も途絶えて久しい。世間話といっても…悠久の時を生きる彼らにはあってないようなものだ。けれど、新顔も出来た事だから招待してもいいだろう。
「(………ま、もう少し独り占めしてからでいいかな)」
ついでに東方、西方の守神にも手紙を出そう、と考えたが…ふと考え直す。きっと呼び寄せるとあっという間に集まり、しばらくイワンを持て囃されあらゆる意味で『遊ばれる』だろう。ヘタすると、何人かは泊まりを要求する…そうなると、食卓の準備が大掛かりになるし、なかなかイワンと二人きりになれないから口付けも出来なくなるし…と、なれば呪いを薄めるのが遅くなる。出来ればもう少し呪いの力が薄くなってからの方がいいだろうし、虎徹自身がまだイワンと心行くまで『遊んで』いない。だから…皆を呼ぶのはざっと一ヶ月は先でいいか、と一旦流しておいて虎徹も目の前の食事へと意識を移していった。
なにより…今手紙よりも重大なことを思い出した…刺繍してもらう帯を探すべく蔵に行かねばならないのだが…どこに仕舞い込んだかすっかり忘れている。これはもしかしたら『大捜索』をせねばならないかも…と思い、体力を回復させる為にも御飯をおかわりしたのだった。
* * * * *
小さな紙いっぱいに線が書き込まれていた。単純な直線を描くものは一本として存在せず、みな湾曲し、絡まり合っている。線と線の間に出来た空間にも、これまたびっしりと書き込まれていて…斜めの線だったり、格子だったり…黒一色で書き込まれていながらまるで様々な色で塗り潰されているようだった。
その紙を傍らに置いてイワンは黙々と作業をしている。座っている周りにぐるりと糸の束が色の洪水を作っており、右手に針を…左手に糸を持って目の前に掛けられている黒地の帯へと刺繍を施していた。傍らに置いた紙は刺繍のデザインだ。何色の糸を使ってどのような模様を描くか…1から考えるのは初めての事なのだが…不思議とすぐにデザインが浮かびあがり、無地だった帯に鮮やかな模様を描き出していた。
使徒として召し上げられてから一週間あまり…虎徹から刺繍の仕事をもらったイワンは洗濯、掃除を済ませるとほとんど刺繍に打ち込んでいる。以前、単を仕立てた時は縁側だったのだが…大量の刺繍糸の束と、帯を広げるスペース確保の為に、部屋を一室宛がわれた。寝室をもらっているだけでも恐縮するというのに、更に仕事部屋までもらうわけにはいかない、と必死に言い訳したが…
−「いい仕事をしてもらう為に必要な物を渡してるだけだろ」
と言う虎徹には勝てなかった。そんなわけで二階にある日当たりの良い一室を宛がわれ、裁縫道具や机、椅子など刺繍に必要なものをすべて運び込み、今に至る。
「…ぁ」
黙々と針を動かし続けていたイワンはふと顔を上げる。虎徹が領域の見回りを終えて帰ってきたらしく、大きく開いた窓から入ろうとしていた。
「おかえりなさい」
最初の頃こそ驚いてばかりいたのだが…2・3日もすれば慣れ始め、今ではもうすんなりとお迎えを出来るようになった。
直射日光を遮断する紗を潜りながら入ってくる虎徹に、イワンは席を立つと出かける際に脱いで行った単を持って駆け寄る。そのまま人の姿になられては、一糸纏わぬ裸になってしまう為にイワンの目に大変な毒だ。だからまだ虎の姿の時に素早く羽織らせるのだが…
「・・・」
「?タイガーさん?」
いつもはすぐに人の姿へと変身する虎徹が虎の姿のままだった。表情らしい表情は読み取れないのだが…少し項垂れた首が、どこか落ち込んでいるように見える。首を傾げつつ視線の高さを合わせるように膝をつくと、そろりと金色の瞳が見上げてきた。
「何かあったんですか?」
問い掛けてみるも、虎徹は口を閉ざしたまま…どうしようか…と困惑していると、頬を擦り寄せてきた。どこか甘えている様に、感じるその動作はますます訝しげに思う。そっと首に腕を回して宥める様にそろそろと撫でると、ようやく人の形へと変身していった。
「タイガーさん?」
「…ん…」
「大丈夫ですか?」
「…んん…ちょっと…術を…」
「!…退治…してたんですか?」
昨日の事だ。見回りから帰ってきて虎徹がやけに疲れているように見えて聞いてみれば、魔物がうろついていたのを退治してきたと言っていた。そして今のこの状態…一体どれほどの術を行使してきたのか…完全に体を預けきっている虎徹の肩を抱き寄せて、寒いわけではないのだろうけれど…熱を分ける様に優しく擦ってやる。
「…横に…なりますか?」
…ほぅ…と吐き出されたため息にそっと伺いを立てた。すると、ゆったりした動作で見上げてきてゆるゆると首を振る。
「…しばらく…このまま…」
「…はい。」
ぽつりぽつりと言葉を紡いだ虎徹は瞳を閉じてしまった。本当は安静にしてほしいが…当人が望まないならば仕方ない…腕にかかる心地よい重みと若干高めの体温を感じながらじっとする。
「……いわんー…」
「は、はい!」
「…明日、一緒に出かけようか」
「………え?」
突然の提案に唖然とする。こんなにぐったりとする程疲れているというのに…何を言い出すんだ、と訝しげに見つめていればへなり、と眉を下げて見上げてきた。
「ここんとこ…魔物がやけに出てきてるんだ…そんな時に…一人でうろうろしてる奴がいてさ…」
「…は…ぁ…」
「説得…してやってくんね?」
「…僕が…ですか?」
「イワンじゃないと…無理っぽいから…」
「分かりました。お供します」
「ん…さんきゅ…」
しっかりと頷き返せば安心したのか…ふにゃり…と笑みを溢して再び頭を預けてきた。…人を説得する…という仕事を全うできるのかは分からないが…虎徹に頼りにされているのだと思えば何とかしてみせる!…とやる気が湧いてくる。誰かの役に立つ…誰かを助けられる…胸の奥が興奮に満たされていった。
そんなイワンの心境を知らず、虎徹はこっそりとため息を吐き出す。
魔物がいたのも…術を使ったのも本当なのだが…体はさほど疲れていない。どちらかというと…精神的ダメージが大きく、ちくちくと痛む胸を隠すのが辛い状態なのだ。
一人でうろうろしている人間…彼の人はイワンを探し回っている人物だった。人身御供として差し出されたとはいえ…神ともあろうものが、人間を喰らうはずがない、と思ったらしい…イワンはどこかへ解放された…と考え来る日も来る日も探していた。もちろん、イワンが神虎である虎徹の使徒になったと知る訳がない…山を…谷を…川を…人の足で行ける場所を探し回り…見つからない事への焦燥から、否定したはずの思考が再びもたげてくる。
そんな彼の人を見つめていた虎徹も…使徒として召し上げはしたが…あれほどまでにも想いを寄せる人物がいるのなら帰してやった方がいいのでは…と考え始めた。
「(…イワン次第…だろうな…)」
直接話をさせて、戻りたいようならば帰らせてやればいい…呪いを解くのも体に負担はかかるが、一気に解いてやって…そうしてまた自分は今まで通り…
…独りきり…
また一つため息が零れ落ちる。一人きりの生活など慣れた事だろうに…虎徹の心は未だに淋しさを感じようとする。前にいた使徒も…修行に行きたい、と言われた時は酷く淋しい思いに駆られた。けれど、表面には出さず…心の奥底に押し込めて笑顔で送り出せた…励ましの言葉も掛けた記憶がある。
今回も…同じ事をすればいいだけ…そう自分に言い聞かせて虎徹はきゅっと瞳を閉じた。
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