〜少年は 月夜に 白き虎と 逢ふ〜
仄かな月明かりの山道…真っ白な装束を身に着けた少年は木で作られた輿の上でぼんやりと月を見上げていた。
彼は山の麓にある集落に住んでいた少年…イワン・カレリン。
淡い金髪に白い肌…この地方には珍しい色素の薄い少年は拾われ子だった。集落にある反物を扱う屋敷の旦那が仕入れの帰りに見つけたのだという。人手の少ない稼業の手伝いとして拾ったのだが…
人種の影響か…血筋の影響か…
彼は同じ年頃の子供達より、一回り小さく小柄だった。
小さく細い少年は体型に見合った体力と筋力しか備わらず…力仕事に加わる事は出来ずに、女性に混じって機織や刺繍を手伝っていた。男のくせに…と陰口が絶えず囁かれていたが、指先が器用な彼は美しい反物を作り出し、それらは必ず高額で取引をされるので追い出されずに済んでいた。
流れる日々をほそぼぞと質素に…けれど平和に暮らし続ける…
そんな日常を過ごしていたある日…イワンの人生が大きく変貌する出来事が降りかかった。
この世界は、闇の世界から化け物が現れ、人間を捕り喰らおうとしたり、また、疫病や災厄を撒き散らす。それらの化け物から守ってくれる神が各地に点在していた。今、イワンが運ばれている山道の先にあるのが、その守り神の社である。
毎年、初夏になると、集落の安泰を祈願して採れた作物や酒、丹精混めて作り上げた織物を守り神に献上していた。そうしてまた一年、ご利益にあやかろうというのだ。供物は祭りの夜に献上すると、次の日の朝には跡形もなく消え去っているので納めてくれたのだ、と解釈している。
けれど…今年も守り神に捧げる供物を用意していたのだが、ある晩、何者かによって倉庫に火を放たれた。新たに供物を用意しようにも他の貯蔵庫も荒らされ、火を掛けられて数、量ともに揃える事が出来ない。捻出しようとすれば、集落は飢餓を強いられてしまう。
なんとか打開策を…と集落の長老達で話し合った結果、生贄を差し出すことになった。政の記録に、農作物が不作だった年に一人の娘を生贄に捧げた事があると載っている。大昔のことではあるが、確かな記録に皆、縋りついた。
そして選ばれたのが…イワンだったのだ。
男らしい力仕事は出来ないが、反物を作らせれば美しいものを仕上げられる事で神の怒りには触れないだろうとの見解だ。
遠く聞こえていた祭り囃子が次第に届かなくなると、…いよいよだ…と震える手を握り締めてぎゅっと瞳を閉じた。次に開いた時には闇夜にぼやりと浮かび上がる鳥居を潜り抜ける。
「…さぁ…入りなさい」
「…はい…」
鳥居の先にある注連縄を巻きつけられた小さなお堂。小ぢんまりとしているが、この地方の守り神が祀られた由緒ある社だ。長老によって開かれた扉の中に入るとひんやりした空気が素足を撫でる。その小さな部屋の中心に座ると、唯一、無事だった供物の酒樽が運び入れられた。きちんと並べられた樽へは新たに仕立てられた着物が掛けられ、最後に神酒が注がれた白磁の瓶を抱えるようにと渡される。
冷たく滑らかな陶器をぎゅっと抱き締めると、長老の一人が目の前に屈みこんだ。
「…君には…申し訳ないことを…」
彼は唯一出来た友達の親であり、政の記録を保管する家の主だった。イワンが屋敷に来た時から何かと気にかけてくれ、みんなの目を盗んではお菓子をくれたり、出来上がった反物を褒めてくれたりとまるで自分の子供のように接してくれていた。
けれど…政…とはいえ、生贄にイワンを選ぶ事になり一番頭を悩ませていた人物だった。集落の為とはいえ、イワンを差し出すのは反対をしたかったが…異を唱えれば誰もが拒否するに決まっている。
そんな板ばさみの彼に向かってイワンは微笑み返した。
「僕なら大丈夫です」
「…イワン君…」
「お気をつけて…帰ってくださいね」
精一杯の笑みを浮かべて言い切ってしまうと、彼はぎゅっと抱き締めてくれた。
「閉めますぞ」
低く告げられた言葉…さようなら…という言葉は互いに告げず、静かに離れる彼に深くお辞儀をした。何か言いたげな顔をする彼に微笑みだけを向けてじっと耐える。するとお辞儀を返した彼は閉じかけられていた扉から出て行ってしまった。
「………」
しん…と静まり返るお堂の中、イワンはただただじっと座り続けていた。時折扉を揺らす風の音にびくりと震えて叫び上げそうな唇をぎゅっと噛み締めて俯く。
「(前にも一度…人が捧げられたって言ってたな…)」
目が暗闇に慣れ、中の様子が見えるようになってきた。自分の座るすぐ横に着物が掛けられた酒樽…向かいには御神体だろう…緑色の石が埋まった岩が祀られている。
「(…その人…どうなったのかな…生贄ってことは…やっぱり食べられたんだろうか…)」
静まり返った空間で、何か考えていないと逃げ出したい気持ちで一杯になりそうだった。
「ッ!」
どれくらいの間そうしていただろう?…ひたり…と小さな足音に肩を跳ね上げた。つい今しがたまで誰もいなかったはずの部屋に大きな気配が突然現れている。足音は少しずつ近づいてきており、目の前で止まった。俯いた視界には薄っすらと影が入りこむ…そろり…そろり…と顔を上げると…
白の毛皮に独特の黒い模様…きらりと金色の瞳をした獣が…目の前に座っている。
守り神の姿を目撃したものは、皆一様に猛々しい虎の姿をしていた、と語っていた。つまり…この虎がこの地方の守り神だ。
『少年…ここで何をしている?』
「え!?…あ…あのっ…僕っ…神様に、お供え、をっ…」
ゆるりと開いた口から低く、水に沈んでいくような穏やかな声が紡ぎ出された。まさか会話をする事になるとは思わず、背筋をぴぃんっと真っ直ぐに伸び上がる。けれど、質問に答えなくては、としどろもどろになりながらも必死に答えると、虎は僅かに首を傾げた。
『供物か?…例年より少ないのように見えるが…』
「は…はい…だから…僕自身も…」
『……お前も供物?』
さらに重ねられてしまった問いにも答えると、今度は顔を近づけられた。金色の瞳の中に自分の情けない顔が映っている。
「っはい!そのっ…今年も作物が豊かに実ったんですけどっ貯蔵してあったものが荒らされてっお供え出来なくてっ何も供えないのは天罰が下るからって僕が代わりに供物になりに来たんですっ!お、お、お、美味しくないかもしれないですけどっ!どうぞ召し上がってくださいっ!」
『……………』
「…っ…っ…っ…」
『………〜〜〜ッぶはっ!!』
「っ!?」
どこからでもどうぞ!…とばかりにぎゅっと目を閉じてカタカタと震えながらもじっと耐え続ける。けれどいつまで経っても何の変化も訪れず…何も話しかけられず…どうしたのだろうか…と思い始めた頃…後ろに吹き飛ばされるんじゃないかと思うほどの突風が顔に吹きかけられた。
何が起きたのだろう?と目を開いてみれば虎は床に蹲ってぷるぷると震えている。どうしたのかと様子を窺っていると、逞しい前足の隙間から…くっくっくっ…と笑い声が漏れてきた。
『あぁ…わりぃわりぃ…んなガッチガチになりながら召し上がれって言われるなんて思わなくって…あ〜…笑った笑った』
一頻り笑い転げた虎は、酒樽の上に掛けられていた着物に手を掛けて引き寄せると頭からすっぽり被ってしまった。しばらくもぞもぞと動いていたかと思えば袖から人の腕がにゅっと生える。
「ッ!?」
あまりの光景に目を瞬かせていれば、着物の前を緩く打ち合わせる男性が現れた。黒髪…変わった形の顎鬚…端整な顔立ちに切れ長の瞳は金色だ。
「お…今年は松葉模様か…ん〜…手触りは相変わらず一級品だなぁ…」
唇から零れ出た声は先ほど聞いたものよりもクリアで心地良く鼓膜を震わせた。唖然と見上げている間にも彼は腕を通した袖を撫でたり、長い裾を腰元で巻きつけたりとしている。緩く合わせただけの前合わせの間からはしなやかな筋肉に覆われた胸元が…ちらり…ちらりと見え隠れしており、同性であるはずなのに鼓動が跳ね上がってしまった。
「…あ…の………神様…ですよね?」
「おう。北方地守の神虎だ」
「で…でも…」
「人の姿の方が話し易いかと思ってな?」
「…は…はぁ…」
間違いではないと思うが、しっかりと認識する為にも声に出して確認をとると彼の人は事も無げに頷いて返してくれた。さらりと裾をさばくとすぐ目の前に胡坐をかいて座り込んだ。
「さて…さっきの話だが…俺にゃ人肉を食う嗜好はない」
「え…でも…供物が足りません…」
「これで充分だよ」
「…あ…」
急に前へ乗り出したと思えば抱えていた神酒を攫われてしまう。詮を抜くと直接口を付けて煽り始めた。反らされた喉が…こくり…と音に合わせて上下する。注ぎ口から離された唇が酒に濡れて艶を纏う…まるで朱を差したように鮮やかに色付き艶やかだった。
その唇をぺろり、と舌が舐め上げる。
「ここら辺の酒ってのは澄み渡っててな。地層から湧きだした水を使ってるもんだから旨いのなんの」
「でも…食料がないです…」
「だからお前の肉を食えって?さっきも言ったけど…俺に人肉を食う嗜好はないんだよ。
それに随分『供物』に拘ってるみたいだけどさ?
俺としちゃ、住人が苦しんでるのに無理矢理奪うような事をする気はないわけ。毎年いっぱい供えてくれるのは嬉しいんだがな…余り物をちょっと分けてもらえるだけで充分なのよ」
「…は、ぁ…」
つらつらとまくし立てられる言葉に声を挟む事も出来なかった。
「だから…酒瓶一本でもいいわけ。
お酒が造れなかったら湯のみ一杯のお茶でも、湧き水でもいいわけ。
それでみんなが楽になるなら全然構わないんだ」
「そっそんな!いつも守って頂いてるのにっ…」
「んー…でもさ?俺は感謝されたいから守ってるわけじゃないし、俺への供物の為に苦しんで欲しくないもん」
な?…と言って首を傾げられると頷くしかなくなってしまった。神様だというのにその気さくな雰囲気とにこにこと浮かべられる笑みから気難しい人ではなく、とても親しみやすい神だと分かる。今だって、素直に頷いたせいか、髪をくしゃくしゃに掻き回しながら頭を撫でてくれていた。
「っつーわけで。供物はしっかり受け取ったから。お前はお家に帰んなさい」
「…え!?」
最後にぽんぽんと軽く叩かれると手が離れて行った。さらに片膝を立てて立ちあがろうとする様子から、帰るようだ。けれど、告げられた言葉に自分を供物として納めてくれるつもりはないらしい。
「え?って…驚くことじゃないだろ?」
「だっダメです!僕も供物ですから貰ってください!」
「いや…貰ってくださいっつわれてもよ…」
「今食べる気がなくても構いませんッ!非常食でいいですからっ!」
「………お前さ…」
「はい!」
「…帰ると何かまずいのか?」
「っ…え…えと…」
必死に取り縋っていると、核心を突かれてしまった。思わず声を詰まらせると、腰を上げた彼は再び胡坐をかいて座り直す。
「…話してみろ」
じっと注がれる金色の視線に否、とは言えなくなった。自分自身…とても情けないことなので言葉に出すのは少し苦しいのだが…彼の人が望むのならば答えなくては…とゆっくり口を開く。
「…僕…帰っても…足手まといなんです…」
「んー…足手まといっつっても…まだ小さいから仕方ないだろうに」
「でも…僕、これで18歳なんです」
「18…じゅうはち…18ッ!?」
「はい…成長が他の人よりうんと遅くて…力仕事に混ざろうにも背も低いしで…役に立たなくて…いつも女性の中に混ざって織物だとか…糸紡ぎだとかしていたんです…」
驚かれるだろうな…と素直に告げた年齢に予想に違わず驚かれたが、先を続ける。一気に話してしまわなければ途中で心が折れてしまいそうだったのだ。
「それで…今回供物があまりにも足りないから…」
「……人身御供になれって…?」
「はい…それなら体格も力も関係なく引き受けられるから…」
「…で…お前は『役に立てる』から頷いてここにきたってことか…」
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