「それだけ貴女に危機感が足りない、という事ですよ」
「危機感…って言われてもさぁ…」

 まるで呆れたような物言いの彼に反論は出来ないのだが…素直に認めるのもなんだか癪に障る。口を尖らせていると、彼の纏う空気が変わったように感じた。あれ?…と顔を見上げると涼しげな表情のバーナビーが頬に指を滑らせている。

「今だって…」
「?」

 グラス越しに見える翡翠の瞳を見つめているとポツリと言葉が零された。中途半端に切れた言葉は続きを紡がれる事はなく…代わりに頬を撫でていた指先が顎を捕らえる。

「………え?」

 少し力を込めて上を向かされる。正面から見つめる事になるその貌に…『捕食者』…という言葉が脳裏を過った。
 ざわり…と粟立つ背筋…奥歯が噛みあわなくなりそうな感覚に耐えきれず、へらりと笑みを浮かべてみるが…レンズに写る顔は上手く笑えていなかった。

「………」
「ば…バニーちゃん?…冗談、キツイ…」
「………」

 無表情の貌…別段不思議な事ではない…バーナビーはどちらかといえば表情をころころ変える自分とは正反対で、無表情な事の方が多いのだから。
…けれど…
 更に近づけられる顔…押し返そうと胸を押す手は何の効果ももたらしていない。片手だから無理なんだ、ともう片方の手を使おうにも…いつの間にか掴まれた手は自由にならなかった。

「っ!」

 徐々に近付く貌…焦点の合わなくなった視界の中で彼は小さく笑った気がした。
 唇に吹きかかる熱い吐息…僅かに感じる体温に瞬きすら忘れる…

「…泣かないでください…せっかく綺麗に整えられたメイクが落ちますよ」
「……ぁ…」

 …ぽたり…と小さな音が鳴り、目尻に唇が押し付けられる。ゆっくりと瞬く視界にバーナビーが写りこむと、彼は内ポケットから白いハンカチを出して目元に当ててくれた。

「僕だって1人の男なんですから…もう少し自身を守る壁というものを作ってください」

 酷く呆れた声音…苛立ちを隠さない貌…その両方がとても安心出来て、強張った体から力が抜け落ちる。
 そうして…言われた言葉を何度か頭の中で反芻させて、ふと顔を上げた。

「…でも…」
「…何ですか?」
「…バニーちゃんは例え女の子相手でもこんな事しないだろ?」
「………」

 こてん…と首を傾げつつ、言われる言葉にバーナビーは目を見開いた。
 しかも…至極、不思議そうな顔をしながら言ってくる相手に眩暈が起こる。

「え?バニーちゃん?」
「貴女って人は…」

 思わず頭を抱えて項垂れてしまった。
 どこまでも自分は女として見られていないと思っている。たとえ期間限定だとしても今、紛れもなく女なのだからもっと自覚してほしい。
 …信頼されている…と受け取るのは嬉しいのだが…色々と複雑な気持ちになった。

「…落ち着いたんですか?」
「ん?おぅ。ちょっと泣いたらすっきりした」

 にぱっと満面の笑みを浮かべる彼女は…やはり『おじさん』なんだ…と変な再認識をしてしまった。そんじょそこらの女性なら…甘えていい?…だの…もう少しこのままでいたい…だのと愚図っていただろう。それをほんの数分で切り替えてしまう…
 経験か…はたまた性格か…
 どちらにせよ…『おじさん』らしいおばさんに…呆れとは別の溜息が吐き出された。

「そうですか。それは良かったですね」
「うん。ありがとな、バニーちゃん」

 もうさっきまでのようなしょぼくれた雰囲気も、どこか鈍さを感じさせる動作もない。仕事に戻らないと、と立ち上がろうとするその肩をバーナビーは押し留めた。

「…それじゃあ…」
「…へ?」
「しばらく付き合ってください。」
「…あえ??」

 ソファへと押し戻したタイガーの横に腰掛ける。不思議そうに見つめてくる彼女の膝を枕にして…ごろり、と寝転がった。

「……あら?バニーちゃん…もしかしてお疲れ?」
「えぇ。」
「え?マジで?」
「僕は別にパーティーが好きなわけではないですから。むしろ嫌いです。人が大勢で群れてきて…鬱陶しいったらない。」
「…わぁ…毒舌。」

 ドすっぱりと言い切ってしまう辺り本当に嫌いらしい。この調子が続けばボイコット決定とまで考えが及んでしまう彼の様子に思わず苦笑いが浮かんできた。

「おばさんは休憩したんですから膝くらい使ったって文句ないでしょう?」
「文句はないけどさぁ…」
「けど…何ですか?」
「…硬くない?」
「全然。」
「…あ…そう?」

 少し心配なことを聞いてみれば速攻で否定をされてしまう。そうなるともう返す言葉は欠片もないので、このままじっとしているしかなくなった。

「むしろ柔らかくて気持ちいいですよ」
「………へぇ…」
「まぁ…そうですね…着物が邪魔ですけど」
「…はい?」

 言葉とともに…つっ…と撫でられたのは手触りのいい絹の着物。前合わせの部分に少し指を潜らせるから…まさかそのまま捲る気か?…ととんでもない予想を立ててしまった。
 しかし…捲る方がまだ生易しかったかもしれない…

「生足だったら良かったなって話です」
「ッ!ちょっとバニーちゃん!いつからそんなセクハラ紛いな事言うようになったの!?」
「さぁ?」
「さぁ?って!!」
「いいからもう黙ってもらえます?」
「…うぅ〜…」

 ぴしゃり…と怒られてしまってタイガーは唇を尖らせつつも黙り込んだ。こういう訳の分からんちんモードに入ってしまったバーナビーを相手にしても一向に訳の分からない話を続けられる…と諦めたのだろう。お好きにどうぞ。…とばかりに自らも背凭れへと踏ん反り返ってしまった。

「…15分したら起こしてください。」
「はいは〜い…」

*****

 起こしてください。…なんて言ったものの…実際は眠くないので眠れるわけなどなかった。しかも頭の下に引いた太腿が思いのほか柔らかくて…ぶっちゃけ落ち着かなかった…というのもある。
 何はともあれ、おばさんは落ち着いたみたいだし会場に戻るか…と廊下を歩いている時…ふとその後ろ姿に違和感が湧いた。

「……おばさん、帯の形が崩れてますよ?」
「え?嘘。さっきソファに思い切り凭れかかったからか?」

 バーナビーに言われてタイガーは何とか帯を覗き込もうと肩ごしに振り返っていた。けれども衿が邪魔をしているのか、上手く見えずに…まるで尻尾を追いかける猫のようにくるくる回っている。その行動に思わず笑いが漏れそうになったが、必死に堪えてまだ回っているタイガーを押しとめた。

「じっとしててください。整えるくらいなら僕でも出来ますので。」
「お、よろしく!」

 背中から聞こえてくるバーナビーの声にびしっと敬礼を決めて彼女は前向いてしまった。完全に安心しきっているようだ。無防備な首から背中を男の目の前に晒しているというのに…やっぱり分かっていない…
 呆れた溜息を存分に吐き出しながら、捲れてしまった帯を元の形に戻していった。幾重にも重なる帯はまるで華のようだな…と今更ながら関心する。しかもボリュームがあるから腰の細さを強調していた。
 帯が元の綺麗な形へと戻るとバーナビーは満足したように微笑みを漏らす。そして…ちらり…視線を移動して無防備な項を見つめた。

「(…少しくらいなら…ご褒美としてもらってもいいかな?…)」

 そんなことを本人の承諾なしに考え付いてしまい…

「…ちゅ…」
「ッ!!!!!」

 そっと口付けた。途端に跳ね上がる体は一瞬硬直して勢い良く振り返る。

「…どうしたんですか?」
「う…あ…い、や…」

 頬を真っ赤に染めた顔がじっと見つめて来る。驚きに見開かれた瞳も忙しなくぱちぱちと瞬いているが…バーナビーはシラを切った。すると金魚のようにぱくぱくと動いていた口からぽつり、ぽつりと声が零れる。こちらが何もなかったかのように振舞ったせいか、彼女も流すことにしたらしい。
 何か言い募ろうものならどうやって畳みかけようか…と考えていただけに少し拍子抜けだ。

「さ、行きますよ?」
「う…ん…」

 いつも通りの涼しげな顔をして優雅に歩き出すバーナビーの背中を追いながら…虎徹は項を擦った。指先で触れた場所にはまだ柔らかく温かな感触が残っている。その残された感触を押し潰す様に押さえながらひっそりと溜息をこぼした。

「………(ツメが甘いぜ、バニーちゃん…)」

 何もなかった、という素振りをしたバーナビーだが…一部始終…全てが目の前のガラスに写っていたのだ。
 なので虎徹からは…淡く微笑む顔も…すぅっと瞳を細めて瞬時に肉食獣のような貌に変化したのも…項に悪戯したのも…全てバッチリ見えていた。
 思わず苦い顔をしてしまう。度々理解に苦しむ行動をしていたにはしていたが…このところ特に訳が分からない。相棒なのに…と駄々を捏ねるようになったのはかなりの進歩だとは思っていたが…
 今日のコレは…とてつもなく違う気がしている。可笑しい…色々と…可笑しい。

「(元おじさんなおばさん相手に何やってんだか…)」

 これ以上可笑しな事になりそうだったら目を覚まさせる必要があるな…とひっそり溜息をこぼすのだった。



「…あ、おかえり。」

 会場に入ると、たまたま入り口近くにいたブルーローズが声を掛けてくれる。そちらに振り向くと隣に来るか?と聞くように指差された。ちらり、とバーナビーは見ると少し肩を竦めて奥へと歩いていってしまう。

「…ッはぁ〜…」
「?何?」

 隣に来た途端、がくりと肩を落として溜息を吐き出すタイガーにローズは首を傾げる。近くに来たボーイを呼び止めてカクテルグラスを一つ選ぶと彼女に差し出した。すると一気に半分ほど飲んでしまう。

「…俺さぁ…男だったけど…わっけわかんね…」
「…何かされたの?」
「んー…セクハラ紛い…とでもいうのか…」
「…あんのハンサムがッ…!」
「あ、違う違う。バニーちゃんの事じゃない。」

 ぎらりと光る瞳がバーナビーへと向けられるのに慌てて止めに入った。確かにバーナビーも近い事をしたにはしたが…セクハラ…という風には感じなかったのだ。そのことに少し首を傾げつつも、相棒だし…と流して殺気立つブルーローズを宥めにかかった。

「なんかさっきさ…グラビア写真集を出さないかとかって血迷った事言ってきた人がいてよぉ…」
「!…それって…ハート型のチェーンで出来た鎖を眼鏡につけてるやつ?」
「お、知ってんのか?」
「そりゃね…出版社業界のお偉方なんだけど…もともとAV関係に付いてた人だから…」
「…A…V……」
「その写真集もきっとヌードのつもりだったでしょうね…」
「マジでか…」
「…まぁ…今日のその姿じゃ、声を掛けられても可笑しくないわね」
「…もうやだ…早く戻りたい…」

 がくーん…と項垂れてしまったタイガーを余所に…ブルーローズは脳内をフル回転させていた。メイクをしている分、かなり雰囲気が変わってはいるが…行動は今までの可愛いおじさんと変わりはない。これでグラビア撮影とかしたら…それこそアイドル写真集が出来るんじゃなかろうか…

「…セミヌードでも撮ればいいのに…」
「ちょっとっ…何怖いこと言ってくれちゃってんの!ブルーローズちゃんたらっ!」

 うっかり滑らせてしまった言葉にとうとう泣き出してしまった…びゃっと涙を噴き出してしまった彼女は着物の袖に顔を埋めてめそめそと喚き出す。その横で…言い過ぎた…と自己嫌悪に陥りながらどうしようか…と両手を宙で掻き回しているブルーローズの姿がとても滑稽だった。

 しかし…二人は気付かない…
 少し離れた場所で獲物を獲た…とばかりに瞳を光らせている人の存在に…


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