じん、と指先からしびれる感覚が広がっていく。ざわざわと皮膚が粟立つ感じに思わず身を捩った。けれどぴくとも動かない体に違和感が湧き上がる。息苦しさまで感じられてうっすらと視界が開けてきた。まぶたが開いたのだろう。

「……ぁ?」

 声が思うように出てこず、小さく引っかかるような掠れた声が零れ落ちた。靄がかかったようなはっきりとしない視界の中で動く人の形を捉える。ぼんやりとしたまま見つめていると人影は徐々に大きくなり、頬に何かが触れてきた。途端にびりっと背筋を駆け上る感覚に息が詰まる。無意識のうちに顔を背けて逃げたにも関わらずまた頬に触れてきた。それを払いのけようと手を翳せばあっさりと掴み捕らえられてしまう。

「……っ……」

 柔らかく温かい感触が手の甲にぶつかる。それが唇だと気づいた途端、体がかっと火を放ったように熱くなった。逃げようと手を引くのに捕まえられた手はびくとも動かない。それどころか触れた唇が手首を伝い腕を這い上がってくる。ぞくぞくっと駆け上がる悪寒にも似た衝動に上がりそうになる声をぐっと耐えていると、ふと離れた唇が今度は首筋へと押し付けられた。

「っぁ……!」

 びりっと走る静電気のような刺激に思わず声が零れ落ちた。ふわりと覆いかぶさる人の気配に押しのけようとするも力が上手く入らず全く功を成さない。
 こちらが上手く抵抗出来ないことに気づいたのか、相手は舌を這わせ、さらには体のラインを撫でてくる。首元から肩へと滑り、胸元へと移っていった。布越しに感じる指先に体がびくびくと跳ねる。決して感じているわけではない、と相手へ伝えるように首を振り荒くなる呼気を必死に押さえ込んだ。

「やっ……め……ッ!」

 痺れる舌で言葉を紡ぎ出すが乱れる呼気にほとんど掠れ聞き取れたか否かも分からない。それでも懸命に「やめろ」、「はなせ」と荒い呼気に埋もれながらも言葉を吐き出していると首筋をしつこく行き来していた唇がようやく離れた。ほっとしたのも一瞬でぱくりと耳を噛まれる。

「ぅあ!?」

 ぞくりと甘い刺激が走り抜け、堪らず押し返す手が相手の服を握り締めた。ふわりと漂う芳しい香りにまたじんとした痺れが広がってくる。途端に力が抜けていく体に頭の中では混乱しっぱなしだ。
 頬を撫でた手が首筋を撫でて項へと差し掛かると息を呑んだ。本能的な何かと恐怖とが交じり合い心臓がどくどくと忙しなく脈打つ。耳から離れた唇が首筋を伝いだした時、小さく悲鳴を上げてしまった。震える体が硬直し、指一本動かせなくなる。じりじりと項へと迫る唇の感触に奥歯を噛み締めた。

「……ね?」
「っ!?」

 耳元で囁かれた声に全身がざわっと反応した。ますます敏感になっていく肌が熱を上げ、しっとりと汗ばんできたように思う。火事場のバカ力でもって押しのけようと決意した途端また声が吹きかけられた。

「早く……」
「っん、ぅ?」
「早く覚醒してください」
「……ぁ?」

 言葉の意味が分からず、きつく閉じたまぶたを押し開く。相変わらずぼやけた視界の中で相手の形を探すと思ったよりもすぐ近くにいた。
 唇に熱い吐息が吹きかかる。もしかして、と思った次の瞬間には唇が重ねられていた。

「ッ!!!」

 びくっと体が跳ね起きた。しっかりと目が開いているらしく、クリアな視界が脳に飛び込んでくる。今自分はベッドに横たわっており、そのベッドの回りにはぐるりと生成り色のカーテンが引かれていた。鼻から入ってくる独特の薬品のにおいに自分がいる場所が保健室だとようやく気がつく。
 未だ乱れたままの呼気を落ち着けようにゆっくり呼吸を繰り返し手元に視線を落とす。ついさっきまで硬く握り締めていたのか、手のひらに爪の痕がついており、小刻みに震えていた。震えを潰す様に両手でぎゅっと拳をつくり額に押し付ける。

「(……さっきのは……)」

 夢だったのだろうか。ぽつりと思い至ったのだが、あまりに生々しい。体を撫でられた感触が蘇ってぶるっと身震いしてしまう。しかしいつまでもこうしてはいられないしな、とベッドから足を下ろすとカーテンが開かれた。

「っ!」
「おはよう、気分はどうかな?」

 思わず警戒するように両腕を盾のように掲げると、カーテンの間から顔を出した養護教諭がこてん、と首を傾げた。
 この学園の養護教諭はオメガ性を公表している男性だ。中性的な容姿の持ち主で番をすでに得ており、発情期中でも普通に勤務している。飄々とした性格から女子にも非常に人気があり、ごく一部しかいないのだが、己のオメガ性に振り回されがちな生徒の良き相談相手になっていた。合気道と柔道の帯持ちだったりもして、「昔はやんちゃしてねぇ」と意味深な言葉も出てくる、人生の大先輩としても非常に頼りがいのある、ありがたい存在だった。

「あ、すいません。ちょっと、驚いて……」
「まぁ、声を掛けなかったこっちも悪いんだけどね」

 素直に謝れば気さくな先生はカラカラと笑いながら顔を覗き込んできた。

「うん、顔色も随分良くなったようだね」
「……はぁ」
「前にも言ったけど。だめだよー、いくら抑制剤があるとはいえ、寝不足なんて」
「……はい……」

 予定の周期通りに始まった発情期に堀はため息を吐き出した。
 薬はちゃんといつも常備しているものを服用しているが、効き目がイマイチ現れていないように感じて先生に相談したのだ。すると、抑制剤は抑え込む働きをする分体力を使う。その為、寝不足などで一日の疲れをきちんとリセットしておかないと十分に効能を発揮しないのだと教えてもらった。病院での処方と説明だけで事足りると思っていた自分の浅はかさにため息を吐き出した。
 頭をガシガシとかき回し、ふ、と耳に指が沿う。

「耳、どうかした?」
「え?いや、別に??」

 夢での出来事が反芻されて思わず触っただけだったのだが、目ざとく見つけられてしまった。夢の内容を話すのも気が引けて言葉を濁すとそれ以上は追求されず、ほっとする。

「耳には気をつけてね」
「はい?」
「アルファに耳を噛まれるとマーキングされたことになるんだよ」
「はぁ?!」

 どっかりと椅子に座りながらなんでもない風に言ってのけた言葉に堀は動揺を隠せなかった。

「番を持ってないオメガが発情期に無条件にアルファを惹きつけるっていうのは知ってるよね?」
「はい」
「それでね」

 初めて聞く話に堀は聞き入ることしか出来なかった。

 番とめぐり合うのは非常に難しい。生きている間に必ず会えるとも限らないのだ。それでも番を見つけることを推奨されているのはオメガの発情期中の問題を解消したいからだ。
 番を持たないオメガは誰彼構わずフリーのアルファを惹きつけてしまう。だが番を得れば、そのただ一人に対してしかフェロモンが発動されないのだ。だから社会の中でも性的犯罪に巻き込まれることがなくなるし、発情期中も薬を飲まずに過ごせるようになる。目の前にいる先生のように。

 何故番を見つけるのが難しいかというと、アルファの人口比におけるオメガの数が少ないのだ。なので番を見つける為にアルファが互いに競い合い、昔では決闘まで行っていたらしい。それこそどちらかが力尽きるまで戦っていた記録が残っている。けれど現代社会において殺し合いになる行為は批判され、アルファの中で一つルールが確立された。
 それが『マーキング』。
 アルファが意中のオメガの耳を噛むことで己の匂いをつけて他のアルファが寄ってこないようにする行為だという。それだけならオメガにとって好都合だと思われがちだが、オメガの発情を強く刺激してしまうので抑制剤の効能を消してしまう恐れがあるのだ。

 さきほど見た夢を思い出してぞっとする。確か自分は耳を噛まれたはずだ。だが相手が分からない。ふわりと漂っていた香りは体を痺れさせるような惚れ惚れとするいい匂いだったのでおそらくアルファだったのだろう。
 そこではたと気づく。

 本当に夢だったのか?

 あれほどリアルで嗅覚までも刺激する内容が夢で片付くのだろうか?もしかすると本当に噛まれたのではないだろうか?

「本当に大丈夫?」
「……はい」

 念を押すような慎重な声音になんとか頷いて返した。夢の内容を話すのが怖いわけではなく、あれが現実だと認めるのがイヤだったのだ。そんな堀の内心を知る由もない先生は恐らく納得はしていないだろうけれど、「そう」と曖昧に返事を返すだけだった。

「まぁ特に問題はなさそうだしね」
「……」
「マーキングというのもアルファの方が詳しいから僕も受けた人がどうなるのかよく分かってないんだけど」
「え??」
「そんな不安そうな顔しないの。分からなくても君の様子から大丈夫だって判断を下した上で話してるんだからね?」
「は、はぁ……」
「よし。もう放課後だ。自身で判断して、帰宅するか部活に顔を出すかしなさい」
「分かりました。ありがとうございます」
「うん、がんばってねぇ〜」

 言われようやく壁時計を目にした。確かにもう部活が始まっている時間を示している。先生も堀が寝ているので帰宅出来なかったのだろう。きちんと礼を告げて出て行く背中に明るい励ましの言葉が掛けられた。

「……」

 教室に向かいながらどうしたものか?と悩む。体調的には特に問題もなく部活には行けそうな感じがしている。だが、部に行くと鹿島がいる可能性がある。
 鹿島がアルファだと聞いてからなるだけ二人きりにならないようにしている。野崎や千代達と一緒にいたり部員と一緒にいたり。制裁もいつも通りにしているつもりだ。だが鹿島は何かと鋭い。ちょっとでも違和感があればすぐに疑いにかかってくるに決まっている。
 その辺りを考慮しても今鹿島に会うのは非常に気まずい気分だ。

「……あ」

 また一つ深いため息を吐き出しているとふと思い出した。

−「早く覚醒してください」

 なんの事だがさっぱり分からない。さきほど聞いておくべきだったな、と後ろを振り返る。今から引き返しても間に合うだろうか?

*****

「堀先輩」
「ん?あぁ、野崎」

 呼ばれて振り向くと肩からカバンを提げた野崎がのっそりと角から顔を出した。

「大丈夫ですか?また倒れたって聞いて」
「あぁ、移動教室の途中だったかな。単なる寝不足だから大したことはないぞ」
「寝不足……俺のせいですよね?」
「あー……まぁ俺もペース配分考えてなかったのもあるしな、気にすんな」
「……はい」

 共に集中すると周りが一切見えなくなるタイプで昨夜も作業に没頭するあまり日がまたいでいるのに気づくのが遅くなったのだ。その結果の寝不足。同罪ともいえる状況で罪悪感を感じているらしい野崎に堀は腕を叩いて励ましてやる。
 すると僅かに強張っていた表情が弛んだように思う。けれどそれはすぐに微かなしかめっ面へと変化した。

「ところで先輩、薬変えました?」
「は?薬??」
「(抑制剤)です」

 廊下の往来を気にしてか耳元でこっそりと言ってきたその単語に首を傾げる。抑制剤は今まで通りのものを使っているし、発情して以来一度も変えたことはない。
 堀が首を傾げたことで答えが分かったのだろう、野崎は納得したように頷いて見せたがますます訝しげな表情になった。

「なんか違うのか?」
「えぇ、その……匂いが」
「臭いか?」
「いや、そうじゃなくて。ますます甘くなったっていうか」
「甘い??」
「気のせいですかね」
「ん〜……自分じゃ分からんからなぁ」

 無駄だとは分かっていても腕や胸元のシャツをつまみ上げて鼻を近づけてみた。やはり予想通り分からなかった。

「体調とかも大丈夫ですか?」
「あぁ、さっきまで寝てたから逆に元気なくらいだ」
「そうですか?」
「そこまで深刻にならないでくれ、な?」
「……はい」

 にっと笑いながら見上げれば、一瞬目を瞠ってすぐに頷いてみせた。素直な反応によしよし、と背中を叩いてやる。そうしていると廊下の向こうから千代が小走りで駆けてきた。

「野崎くん!堀先輩!」
「よぉ、佐倉」
「……あれ?」
「うん?」

 いつものほのぼのとした笑顔ですぐそばまできた千代は、たん、と軽い足音を立てて立ち止まった瞬間不思議そうに見上げてきた。その視線の先にいるのは野崎ではなく堀のほうだ。
 ぱちぱち、と数回瞬き首を傾げる。その動作に堀も首を傾げた。

「どうかしたか?」
「えっと……堀先輩、香水なんてつけてましたっけ?」
「は??」
「あー、ですよねぇ?すいません、変なこと聞いちゃって」
「佐倉もか?」
「何が?野崎くん」
「佐倉も匂いに気づいたのか?」
「え??」
「ついさっき野崎に甘い匂いがって言われてな」
「じゃああたしだけじゃないんだ」

 こうも連続して同じようなことを聞かれるとますます不安になってきた。もちろん香水などつけていないし甘い匂いのするようなものなど持っているはずもない。しかし目の前の二人が嘘や冗談を言うようにも見えない。
 腕組みをしつつ考え始めると廊下の向こうに今度は若松の姿が見えた。

「あ、若松」

 野崎がぽつりと呟いた瞬間、若松もこちらに気づいたらしく前を向いていた顔がこちらへと向けられた。片手を上げていつもの人懐っこい笑みを浮かべつつ一歩踏み出したと思えばぴたりと止まってしまう。

「ん?」
「あれ?」
「どうしたんだ?あいつ」

 まるでゲームで石化の魔法をかけられたかのようにびたりと固まってしまった若松に三者三様に首を傾げる。様子を伺っていればその顔がみるみる真っ赤になっていった。その表情に堀はデジャヴを感じる。

「あ、あのっ!俺!部活なんで!また!明日!!」
「あぁ」
「がんばってー」

 挙げた手をそのまま左右に振り回して駆け去る姿に呆然としつつ見送る。説明を絵に書いたような明らかな挙動不審だ。

「こっち来そうな雰囲気だったのにね?」
「あぁ」
「……まぁ俺達で推測してても仕方ないし」
「そうだな」
「そうだね」
「じゃ、俺も教室行って部活の方に顔出してくるわ」
「はい」
「先輩、また明日」
「おぅ、じゃーな」

 小さく手を振る千代と会釈する野崎に手を翳して再び歩き出す。そうして腕組みをすると考えるのは先ほどの若松の反応だ。どこかで見たことあるような感じにいつだったかな、と記憶をたどり始める。作業中にごくまれではあるがさきほどのような反応をすることがあった。けれどもっと明確なものがなかったか?

「(初めて発情した時、か?)」

 ふと思い当たった、と思った瞬間、膝からかくりと力が抜けた。不意の出来事だったが、持ち前の反射神経でどうにか手を着くと足が震えているのが分かる。ふっと口から零れる息が酷く熱い。客観的に見た症状は発情中と全く同じだ。

「(なん、だ?抑制剤はちゃんと飲んで)」
「あれ?堀ちゃん先輩?」

 廊下の真ん中は邪魔になる、とどうにか端により背を預けていると聞き馴染みのある声が聞こえてきた。伏せていた顔をほんの少し上げると予想通り鹿島がすぐそばに立っている。「こんな時に限って」と心の中で悪態はつくものの、体中が熱くて頭の中もくらくらと回りつつある中では知り合いが来た事に安心も出来た。

「こんなとこで何してるんですか?って気分悪くなったんじゃ?」
「……あぁ……」

 鹿島がすぐそばに膝を付いた気配を肌で感じ取る。アルファの香りがうんと近くなりますます呼気が乱れてきた。
 知り合いが来たと安心したものの、よく考えてみると鹿島はアルファであって自身が危ないことに今更ながら気づいてしまった。しかしもう指先も痺れだし、力がみるみる抜けていく。立てていたはずの膝もずるりと伸びていき、話すのも億劫になっていった。

「……かしま」
「はい?」

 見るからにぐったりしてるだろう堀を心配そうに見やる鹿島をぼんやりと見上げつつ何とか声を絞り出した。すると目があった鹿島がぐっと真剣な表情を近づけてくる。

「はこんでくれ」
「!ちょっと待っててください!!」

 肩を借りて歩ければいいのだが、ここまで力が抜けてしまっては無理だろうと判断した上での決断だ。屈辱ではあるが今は鹿島を頼るしかない。うっかり他のアルファ性の生徒に鉢合わせたらもっと面倒なことになりかねないのだ。
 恥を耐え忍んで口にした願いに鹿島は目を瞠ったと思った途端、素早く立ち上がり勢い良く走り去っていった。さすがに一人じゃ運べないから応援を呼びに行ったのか、と勝手に解釈しつつじっとしていると、アルファの匂いが遠のいた為か、抜けきった力が徐々に体へと戻ってくる。もう少ししたら自分で歩けるんじゃないか?と思った時、遠くから忙しない靴音が聞こえてきた。それも上履きでは立つことのないような硬質な音だ。きょとりと瞬いていると廊下の角を曲がって鹿島が戻ってきた。

「・・・」
「お待たせしました!さぁ、行きましょう!」

 満面の笑みで体の前に回ってきたマントを勢い良く払いつつ目の前に膝を付いた鹿島は劇中でよく目にする王子の衣装を着ていた。白地に紺色の飾り襟とカフス、刺繍によって入れられている模様は金色に輝いている。さらにベルトを装着してサーベルまで携えていた。どっからどうみても完璧な王子の正装だ。
 大きく広げられた腕に堀は半眼になってしまった。

「……おい」
「はい!」
「なんでそんな格好なんだ?」
「なんでってもちろん堀先輩をお姫様抱っこしてはこぶふぅっ!!!」

 説明を最後まで聞く前に足が動いていた。顔面めがけて思い切り蹴りをめり込ませた為にその勢いのまま廊下の反対側へと吹き飛んでいく。

「(あぁ、こいつに頼もうとした自分がバカだった)」

 再び力が抜けてきた体に鞭打ちながらずるりと立ち上がる。しかしやはり足が震え始めてそう多くの距離は歩けそうにない。もう今日のところは帰宅するに限る、と決意を固め教室目指して歩き始めた。

「堀先輩!危ないですって!」
「お前はとっととその衣装を着替えて来い」
「え〜?先輩のために着替えてきたのに」
「なんで俺のためなんだよ。だいたい、んな目立つ格好で運搬されたくもねぇ」
「あ、そっか!恥かしいんですね!」
「あぁ?そりゃ恥かしいだろ、劇中ならまだしも……」

 きゃんきゃんと食い下がる鹿島をいなしながらふらふらと歩き続ける。正直言葉の押収をするのもそろそろ限界だ。角を曲がると大きく傾く体をどうにか壁に押し付けて倒れるのを免れる。まだ道のりは長いな、とげんなりしつつ前を向いた途端、ばさり、と布がはためく音がした。

「分かりました。これならすっぽり隠れて恥かしくないでしょ?」

 私って頭いい!と言いたげな調子の声が聞こえる。しかし堀はそれどころではなかった。アルファの香りが染み付いたマントが体を包み込んでしまったのだ。全身がぞくっと粟立ち思わず悲鳴が出そうになる。どうにか押し込めたが、押し留めたと共に意識がするりと滑るように遠のいていった。初めて発情期を迎えた瞬間のようにオーバーヒートをしたらしい。平衡感覚がなくなり体が傾いていく。遠くで鹿島の慌てる声を聞き、体を支えられる感覚を捕らえて意識は急速に沈んでいった。

「……捕まえた……」

 完全に途切れる寸前、そんな声を聞いた気がした。

*****

 腕の違和感に身を捩ってみるもまったく動かなかった。ぼやけていた意識が徐々にクリアになる中、明らかな異常事態に思わず起き上がろうとしてみるも、不自然に上げられた腕の動きと共に布の擦れる音が立つだけで何の功も成さない。
 ますます降り積もる混乱に背筋がじっとりとしてきた。ふと腕から視線を外して見回してみると、どうやら誰かの部屋のようだ。窓に引かれたカーテンによって薄暗い室内を、目を凝らしつつ見上げてみると腕を拘束している縄は布を細長く引き裂いたものを紡ぎ合わせて作られたもので、パイプベッドのヘッドにある鉄の支柱を巻き込み堀の両手首を締め上げている。さらに背中にはシャツ越しに柔らかいマットの感触があった。出来る限り首を起こして見下ろすと服がどこも乱れていないことに気づき思わずほっとしてしまう。
 安堵感に体の力を抜いていると扉の開く音が聞こえる。堀をこの状態に陥れた相手なのだろうか、と息をつめて様子を伺っていると今度は扉を施錠する音がした。間違いなく首謀者だ。

「……」

 出来る限り呼気を穏やかに保ちじっと待ち構える。小さく鳴る足音が徐々に近づいてきた。ほとんど天井しか写っていない視界に人影が入ってくる。相手の正体を見定めるべく鋭く見張っていると見慣れた顔が入り込んできた。

「これはどういうことだ、鹿島!」

 出来るだけ冷静に努めてと思っていたのに相手を理解した途端メーターが振り切れてしまった。本来なら思い切り蹴り飛ばすなり、掴み投げるなりしてやりたいのだが残念なことに今は両手を拘束され起き上がることも出来ない状態だ。
 そんな堀に鹿島は普段の表情からは似ても似つかない笑みを浮かべていた。口元は確かに笑みをかたどっているというのに、その瞳はすぅっと気温が下がったのかと思うほど冷たいものだったのだ。

「堀ちゃん先輩が悪いんですよ?」
「はぁ?」
「覚醒してるのに私のところに来てくれないから」
「何言って……」

 鹿島が両手を堀の脇について多きかぶさると顔をずいっと近づけてくる。あまりの近さに思わず顎を引いてしまった。

「それに先輩、あの2人はダメです」
「なにが?」
「先輩の番になるのは私なんですから」
「ッな!?」
「私以外を誘惑しちゃダメです」

 射すくめてくるような鋭い眼差しで零された言葉に唖然とするしかない。全くもって身に覚えのない話ではあるが、いつもの笑みの欠片も浮かんでいない表情に鹿島自身の真剣さが伝わってくる。生唾を無理やり飲み込み一つ深呼吸するとゆっくり口を開いた。

「誘惑なんざしてねぇ」
「知ってますよ。無意識ですもんね」
「だったらっ」
「でもね、先輩」

 無意識のうちにそう取れる行動をしているのだとしたら責められる言われはない。とっととこの茶番でしかない状況を終わらせようと吠えようとしたが、すぅっと滑らかに動く鹿島の指が青いネクタイを解いていった。しゅるり、と布が擦れる音を立てて首周りから引き抜かれていく。鹿島の指を滑り乾いた音を立てて放り出されたネクタイは視界から外れていった。それでも動けずにいると鹿島が己の襟元を寛げる。

「ッ!?」

 ふわりと広がる芳しい香りに腰の奥がぞくりと粟立った。嗅ぎ覚えのあるアルファの匂いに血の気が引いていく。ざわざわとさざめく肌に体が熱を上げ始める。夢だと決め付けていた保健室の出来事がフラッシュバックし、あのときに嗅いだアルファと同じ匂いだときづいてしまった。
 自然と荒くなる呼気を押さえつけるように唇をかみ締めていると鹿島が首元へ顔を埋めて来た。

「先輩のフェロモンってすっごく濃いんです」
「……っだから?」
「ベータを発情させちゃいますよ」
「は?」
「知らなかったですか?
 オメガのフェロモンが強いとベータであっても発情状態になるんですよ?」
「知ら、ねぇ」
「でしょうね。でも今のままだとあの二人のどちらかが先輩に襲い掛かります」
「んなわけっ」
「特に若松くんは随分当てられてたみたいですね、先輩に」
「!」

 鹿島の言葉に堀はびくっと体を跳ねさせた。心当たりがあるのだ。初めて発情期を迎えた時も若松は酷くうろたえていたし、顔だって真っ赤にしていた。その後も発情期中に会うと落ち着きがなかったように思う。

「だから早く、番を作ってください」
「ちょ、待て。いきなり番を持てといわれても相手……が……」
「相手なら目の前にいるじゃないですか」

 にっこりといつもの笑顔が浮かべ、無理難題をさらりと告げてくる。反論をしようと開いた口が言葉に窮してきたのは脳裏にいやな予感がよぎったからだ。しかもその予感はあっさりと鹿島の口から現実として突きつけられてしまった。

「……冗談」
「に、見えますか?」

 ぷつっと小さな音を立ててボタンが外されていく。あっという間に全て外してしまい肌蹴られるシャツを間から出したアンダーシャツとともに頭の上まで引きずり上げられた。ひんやりとする空気に肌が触れ、ぞくっと鳥肌が立つ。細い指がわき腹や鳩尾、胸元を撫でて鎖骨まで上ってくる。曖昧に触れる指先に荒げそうになる呼気を押し殺すべく唇をかみ締めた。ちらりと顔を見上げると恍惚とした表情の鹿島がいる。

「触りたくてたまらなかったんですよ、先輩に」
「……」
「綺麗に割れた腹筋とかぱつぱつに詰まった胸筋、くっきりと浮かぶ鎖骨とか……おいしそう」
「ッ!」

 言葉とともに該当する場所を指を這わせたかと思えば最後に反らした首筋をかぷりと噛み付かれる。ざわっと駆け巡った感覚をどう言い表せばいいのか分からない。とにかく四肢が痺れるような感覚と淡くさざめくようなむず痒い感覚が混ざりあい、あまりの心地悪さに身を捩る。喉から飛び出そうになる声を必死に抑え込んでいる堀に対して鹿島は肌に唇を沿わせたまま滑り降りていった。

「失敗したなぁ」
「な、にっ?」
「マーキングしちゃったから先輩のフェロモン駄々漏れなんですよ」
「ッは、お前の、したこと、っだろ」
「ふふっ、そうなんですけどね。こんなに自制が利かなくなるなんて思わなかったんですよ」
「ぁ、っく!」

 わき腹に噛み付かれた途端、ぶわっと噴き出した熱に肌がぞくぞくと粟立ち、震える背筋と連動して四肢が痺れを走らせる。思わず零れた喘ぎを噛み潰すように歯を食いしばったが少し遅かったようだ。上げられた鹿島の顔が感極まっている。

「気持ちいいですか?」
「ぜんっぜん」
「もう、またそんな意地張ってぇ〜」
「ッふ、く、うぅ!!」

 くすくすと小さく笑いを零しながら今度は舌を這わせてへそから鳩尾へとのぼり、胸元に口付け始めた。舌が触れる瞬間も、唇が押し付けられる瞬間も、等しく体の芯が熱くなる。あられもない声だけは漏らすまい、と唇を噛むものの、どこまでもつのか自分でも怪しいと思う。
 さわさわと曖昧に触れる指先と、ぬるりと這い回る舌が気持ち悪いと思うのに、躯は快感として受け取り腰の奥にずっしりとした熱を溜め込んでいく。どんどん敏感になっていく己の肌が信じられない。なにより鹿島の思惑通りに感じてしまう自身が嫌で認めたくなくて精一杯足掻き続ける。けれどそんな堀の努力をあざ笑うかのように鹿島の手はさらなる場所へと進んでいった。

「ぅあ!?」
「ん〜?ココ、感じます?」
「っんな、わけ!」
「そうですかぁ?」
「んぅッ!」
「ふふ、気持ちよさそうですね」

 ぷくりと膨れた乳首にねっとりと舌を這わせられてびくっと躯を竦ませてしまう。口で否定していても躯がしっかりと肯定してしまっている。「くそっ」と小さく悪態をつくが鹿島の攻めの手はますますエスカレートしていった。舌全体で嬲られたかと思えば軽く歯を立てられもう片方も指の腹で押しつぶされる。びぐっと身を竦めればそれらはすぐに宥めるようやわやわと撫でられた。

「く、っふ……〜〜〜ッ!!!」

 与え続けられる刺激にほんの少し慣れたと思ったが、新たに加えられた刺激で声もなく仰け反った。ズボンの上から質量を変えつつある場所を押し上げられたのだ。窮屈な布の中、逃げ場もなく避けることも出来ずにぐいぐいと押し揉む手をどうにか避けようと足を立てるも上手く力が入らない。

「結構キツそうですね。今楽にしてあげますよ〜」
「あ、こら!」

 言うや否やベルトを外し、あっさりとインナーごとズボンを引き摺り下ろしてしまった。完全に起ち上がってしまった部分を見られたくなくて足を折り曲げて交差させる。その間につま先からもズボンを脱がせてしまった鹿島は一瞬目を瞠ったようだがすぐににっこりとした。

「可愛いことしてますね、先輩」
「可愛いわけあるかっ」
「ふふふ、でも先輩。その体勢、すっごくエッチです」
「はぁ?」
「この辺がすっごく」
「ぅわっ!?」

 またわけの分からん事を言い出した、と警戒していると交差させた足首を掴み上げられた。まるで赤ん坊がオムツを変えてもらっているかのような体勢にかっと頬が熱くなる。けれどそんなことを考えている場合ではなかった。鹿島の指があらぬ場所へと伸びている。

「おいッ!?」

 つぅ、と指先が膝の裏から太ももに移り、ぴったりと閉じた合わせ目へと動いていく。更に動いてぴたりと指を押し付けたのは後腔だった。きゅっと閉じたソコを指の腹が強く押し当てられる感覚にぞくっと甘い刺激が背筋を駆け上る。

「ッ!」
「にゅるにゅるですよ、先輩」

 ハートマークでもついていそうな口調に頬がかぁ、と熱くなる。前を隠すことにばか気を取られて、発情している今の肝心な場所を考慮していなかったのだ。

「すごい……どんどん蜜が溢れてきてますね」
「〜〜〜ッ」

 掴み上げた足が小さく震えているのが分かる。きっと羞恥に耐えているのだろう。上げさせた足が邪魔でよく見えないが、恐らく今堀の顔は真っ赤だ。その表情を見たかったな、と心の中で零して目の前の光景に集中し始める。


−−−−−−−−−−

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