「にゃぁ」
「わ!?」

脇腹からにょきっと顔を出した猫に驚いて思わず両手を挙げてしまった。のしのし、と我が物顔で膝に乗り上げるその猫はいつも見ている子供ではないようだ。大人の猫のようで長くしなやかに動く尻尾を揺らしながらふんふんと鼻を胸元に擦り付けてくる。人に慣れているのだろうか?そっと腕を下ろして近づけてくる頭を撫でても警戒は愚か逃げることもせず、むしろ頭を擦り付けてきている。飼い猫かとも思ったが首輪をしていない。

「こら、お前のご飯はこっちだ。」

ニールの服に鼻を隅々までこすり付けている様子に刹那が持参した紙袋ががさがさと振ってやる。するとその音に反応して耳をピン、と立てた猫がニールの膝の上から降りて近寄ってきた。胸元に顔をすり寄せるので喉元を擽ってやればぐるぐると鳴らして気持ち良さそうに瞳を細める。

「…いつもご飯あげてるのか?」

紙袋から小魚を猫に食べさせているとぽつりとした声が聞こえてきた。ふと視線を上げると少しぼんやりしたような表情になっているニールが刹那と猫を見つめている。

「いつもというわけではない。」

その視線を気にしながらも1匹目を食べ終えた猫が催促するので更に取り出して与えてやると嬉しそうに齧りついた。その光景に気を配りながらも反らされない瞳がずっと気になってしまう。

「…これでお終いだ。」
「にゃあ」

持ってきた最後の小魚を与えてやる前に説明するよう翳すと返事をするように鳴く。まるで会話が成立しているように見えるその遣り取りにニールはぼうっと見とれてしまう。

−なんか…
「満足したか?」
「にゃう」
「眠いなら膝に乗っても構わない。」
「にゃー」
−…猫同士の会話に見えて…
「おやすみ」
「なぅ…」
−…可愛いかも…

横に座った青年は、同世代の女の子に言わせれば『クールビューティ』の部類に入るのだろう。涼しげな目元に表情の起伏は乏しいが、逆にこんな遣り取りを見せ付けられると愛らしい印象を受ける。それに会話通り、お腹一杯になった猫は青年の膝の上で器用に丸くなって見せると尻尾を僅かに揺らしながら寛いでいる。爛々と輝いていた瞳も伏せられてしまったからそう時間を置かずに眠りに落ちるのだろう。

「………」
「………」

猫が寝てしまった事で会話が途切れてしまった。互いに腹も満たしたのでこれといった話題も見つからない。しかも、刹那は人と会話するという機会が余り無かったせいか余計に分からなくなってしまう。いつもなら本を持ってきていたのだが、今日は腹を空かせているだろう子犬が待っているという事ばかり先立って全く思い浮かばなかった。とはいっても人がいるのに独りで本を読み耽るというのも失礼かもしれない。
表情には出さないが頭の中でぐるぐると考えていると、じっと見つめたままだった少年の瞳が見上げてきた。

「ね?聞いていい?」
「…なんだ?」
「学校どこ?」
「…は?」

「聞いていい?」なんて聞くからてっきり名前や歳とか出身とかかと思えば「学校どこ?」ときた。想定外な質問に思わずきょとりとしてしまう。

「学校?」
「うん。いつも私服姿しか見たことないからどこの制服着てるとか分からないし。」
「…」
「この辺に私服の高校とか思い当たらないし…」

うーん…と考え込む少年の頭を見つめて刹那はふと一つ勘違いされている事に気が付いた。

「…学校は行っていない。」
「え!行ってないの?!」
「…成人している人間が行くとすれば大学だろうが…生憎行く意義を思いつかない。」
「…成人?」
「…俺は二十歳だ。」
「……ぅえぇ!!!?」

思い切り叫んだニールの声に猫がびくりと飛び起きてしまった。目を白黒させる猫に気付いていないのだろう、ニールは驚いた表情のまま口をぱくぱくと動かすも、声が出ていなかった。刹那はといえば少し困ったような表情を浮かべて顔に手を当てている。

「そんなに幼く見えるだろうか?」

「や…あの…すんません…」

あんまりな勘違いをしてしまったと知って思わず斜め下に視線を落としてしまう。話題が広がりやすいだろうと思って振ったつもりが予想していた年齢よりも上だった事に衝撃を喰らってしまった。

「構わない。幼く見られるのは慣れている。」
「そ…う?」
「…それで?」
「はい?」
「人に聞いて自分は言わないつもりか?」

ちょこんと首を傾げて言われれば確かに不公平だ、と慌ててしまった。

「あ、今、小6!」
「…12歳?」
「いや、まだ11。この3月になったとこ。」
「なるほど。俺も4月に二十歳を迎えたところだ。」
「へぇ…じゃあ、誕生日近いのかな?」
「そうかもな。」

気まずくなりかけた心がすっと軽くなったのが分かった。学校の話だけが話題じゃないもんな、と心で一人ごちると、ふと一つ気になることが出てきた。

「んと…大学行ってないんだよね?」
「あぁ。」
「…じゃあ…どっか会社で働いてるの?」
「…いや。」
「そっか。これから就職するんだ?」
「…決めていない。」

少年が何気なく聞いてきたことはここの所刹那がずっと悩んでいたことでもある。今はマリナの代わりに家事全般を受け持っているから専業主夫という状態ではあるが…マリナが寂しそうな顔をするのだ。
このニホンにやってきてから、「自分の為に働いていいのよ?」と言われた事があった。けれど、刹那の今までの生い立ち上、「自分の為」というのがイマイチ分からない。「好きな事したらいい」とも言われたが、これも分からなかった。
手本になるように、マリナは自分の趣味の範囲でしかなかったピアノを生かして教室を開いたりもしている。更に、もう一人の同居人はあっさりと仕事を見つけたらしくたまにグチを溢しはするものの、今のところ欠勤をしている様子はなかった。同じ職に就く事も考えられたが、同居人に見学してから決めろと言われて考えを改めた。というのも、その『職』が『自分の為』、『好きな事』に繋がらないと判断したからだ。
そんな経緯を経て、刹那は未だに無職の状態でいる。ここで読んでいる本だってマリナが図書館から借りてきてくれた職業に関する本だ。その中から興味を引いたものがあったら調べてみたらいい、と言われたのだが一向に見つからないでいる。

「………」
「何が似合うかなぁ…動物が好きならトリマーとかもありだと思うけどなぁ…」
「…え?」
「勿体無いよなぁ…」
「は?」
「モデルなんかいけると思うんだ。格好いいもん。」
「おい…」
「あ、ついでに声優もしてます、とかありかも!」

きらきらと顔を輝かせて次々と上がっていく単語に刹那は半ば置いてけぼりだ。

「…ちょっと待て…」
「ん?」

完全に暴走しているのかと思えばきちんと反応を返してきた。それがなんだか脱力感を誘う。当の本人は気付いていないのだろう、どうかしたのか?、といわんばかりに首を傾げている。

「…その…声優というのはよく分からないが…」
「うん?」
「…モデル…というのは無理があると思う…」
「え?そう?体のラインとかモデル向きだと思うけど。」
「いや…それ以前に…俺は服とかに興味がない。」
「大丈夫だって!スタイリングとかコーディネイトはプロに任せればいいんだし。」
「…そういうものか?」

どんどんと膨らむ未来予想図にニールはわくわくとし始める。
横に座る青年は想像の中で脚光を浴びて多くの人から賞賛を受けている。そしてその隣には大きくなった自分の姿もあった。たくさんの人に認められ、尊敬され、褒め称えられている。その中で微笑みを浮かべながら振り返る彼に自分も嬉しそうにしながら頭を撫でて…
…そこまで想像して…

−俺がトータルコーディネイトしたいかも…

服も髪も…もっと欲を言えば…仕事の内容も…スケジュールの調節なんかも全部…そんな考えが浮かんだのだ。そしてその考えはそのままぽつりと呟かれてしまった。

「…むしろ…俺がしたいかも…」
「………あんたが?」

囁きに近かった声は、しっかりと刹那の耳に届き驚きを含んだ声で聞き返されてしまった。ニール自身無意識に口にした言葉に焦ってしまう。

「え!?」
「…してくれるのか?」
「あ、や…」
「俺をコーディネイトしてくれるのか?」

一人勝手に想像して盛り上がっていた未来予想図は、隣の青年には『予想』の範囲にならなかったらしい。じっと見つめて来る赤い瞳にこくりと喉を鳴らしてしまう。

「…でも…俺…まだ子供だし…」
「『今』はな。」
「…待っててくれるんだ?」
「いや。待たない。」
「えぇ!?」

せめて高校を卒業しない事には働く事も、就職すら出来ないニールは刹那の言葉からてっきり待ってくれるのかと期待をしたのに、短い一言で切り捨てられてしまう。涙を浮かべそうな顔になったニールに、刹那は誤解を招いている事に気付く。

「待たないというのは…なにも先にその仕事に就こうというわけじゃない。」
「へ?」
「俺にとって全く知らない世界だ。知識を仕入れて必要なスキルがあるなら磨いておくべきじゃないのか?」
「あ…そういうこと…」
「それに…あんたも同じだろう?」
「同じ?」
「目指すなら今から必要なことを全て学ばないといけない。…そう考えると俺は遅れをとっていることになるか…」

ふむ、と腕組みをして考え込む青年の横顔にニールは萎んだ気持ちが一気に立ち上がるのを感じる。
ただ、土曜の公園で遠巻きに見るだけだった人物が将来ずっと隣で、一番近い位置に居てくれるのだ。むしろ独り占めのような未来が待っている。これを千載一遇のチャンスといわずになんと言うのか。自分にこんな考えが浮かぶことも驚いたが、それをすんなり受け入れてくれた相手にも驚いた。
けれど逃がすつもりはない。

「まず業界の事を調べて自分達に必要なものを確認する事から始めるべきだな。」
「おう!」
「……あ。」
「え?どうかした?」

さぁ、頑張るぞー!と意気込みを見せるニールに刹那はふと思い立った。

「…互いに名前を知らないのではないか?」
「……あ。」

2人顔を見合わせて固まってしまう中、昼寝を満喫していた猫が一つ欠伸をして伸びていた。

「…よくよく考えたら…順番おかしいよな…」
「…そうだな…」
「普通名前から名乗るよな…なんでこんな事に…」
「…それはニールが学校はとか聞くからじゃないのか?」
「ソレを言うなら刹那だって…童顔にも程がある。」
「いや。俺は童顔じゃない。」
「じゃあ幼い。」
「違う。普通だ。」

互いに気恥ずかしくなりながらも名前を教え合い、その恥ずかしさを誤魔化すように他愛の無い言い合いを始める。刹那の膝で寝ていた猫も、くだらない、とでも言うようにさっさとどこかへ行ってしまった今、その空間は2人きりになってしまっていた。

「じゃあ………」

視線を全く合わさず僅かにそっぽ向いたまま言葉の掛け合いをしていたのだが、ニールがちらりと刹那を見上げて言葉を区切った。不自然に区切られた言葉に首を傾げつつ少し振り返る刹那にニールはぐっと言葉を飲み込む。

「…なんだ?」
「……やっぱりなんでもない。」

喉を通り過ぎようとした言葉は…『可愛い』…ほんの1・2時間居ただけだというのに相手の人となりを肌で感じるように、手で取って見ているように分かってしまったニールは、『可愛い』なんて言えば刹那は怒るのだろう、と直感で感じ取ると飲み込んでしまったのだった。

−11のガキが9コ年上の青年捕まえて可愛いは失礼すぎるだろ…

ぷいっと完全に顔を背けて口元に引き攣った、それでいてどこか照れくさいような笑みを浮かべる。
そんなニールの内心など分かるはずのない刹那はふと胸にじわりと広がる苦い感触に眉を潜めた。そっぽ向いたままのニールが何故だか腹立たしく思える。

「言葉を途中で飲み込むな。」
「え!ちょっ!」

むっとした声が思ったよりも近くで聞こえたと思えば目の前に刹那が回り込んできている。正面に来ると胡坐を組んだ足の上に乗りかかってきた。それにぎょっとしていると顔を覗き込むように下から上目遣いで見上げくる。

「続きを答えろ。」
「や、あの…」
「答えるまでこのままだ。」

きっぱりと言い切った刹那はニールの膝に頬を押し当て逃がすつもりはないと表現すべく、片足に腕を絡める。傍目からは膝枕をしているようにも見えるが、ニールにとってはそれどころじゃない。

「じょ…冗談…」
「だと思うならそれでもいい。」

絡めた腕にきゅっと力が篭められて冗談ではないと言外に告げられる。うー…と一頻り唸った後言いたくない理由を言ってみた。

「刹那…怒ると思う…」
「…それでも言わなければ分からない。だから言え。」
「怒らないでよ?」
「分かった。」

あっさりと頷かれてしまい、何かもっと他に理由を考えて渋ればよかったと思ったものの、じっと見上げる瞳は許してくれそうも無い。逃げる術はない、と分かったニールはがくりと首を項垂れつつぽそぽそと口を動かした。

「ん…その……だから…かわいい…って…言おうとして…」

語尾をごにょごにょと濁しながらも言ってしまったニールは恐る恐る視線を上げる。と、刹那がきょとんとした表情をしていた。

「…怒った?」
「いや。怒っては無いが…」
「…が?」
「間違っている。」
「うん?」

のそりと体を起こしながら表情の変化の乏しい中にも真剣な色を帯びた瞳に首を傾げてしまう。

「『可愛い』という言葉はニールに向けられるべきだ。」
「………」

思ったことをずばりと口に出せば、ニールがぽかんとした表情をしたあとみるみる顔を赤くしていく。その変化に刹那が首を傾げた。

「どうかしたか?」
「どうか…って…」
「顔が赤い。」

こんな真剣な表情で『可愛い』とか言われて顔が赤くならないようにするコツでもあるなら教えてもらいたい。心で呟いたニールはとりあえず言葉を隠すのはタブーらしい刹那にどういえばいいかと少し考えてしまう。僅かな戸惑いをどう受け止めたのだろうか、刹那は手を伸ばすと前髪をするりと掻き上げてしまった。

「!」
「…熱…ではないな…」

いきなりこつりと額同士を当てられてそんな事を言う。確認して満足したのだろう、あっさり離れた刹那にニールはぱたりと転がってしまった。

「ニール?」
「…刹那…恥ずかしすぎ…」
「?何がだ?」

火が出そうなほど熱い頬を隠すように、ニールは両手で顔を覆い隠して少しでもマシになるのを待った。けれど刹那が気になるので指の隙間からのぞき見ると…本当に分からないのだろう、困った表情をしながら首を傾げている。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

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