ゆるり…と水を漂うような心地よさに瞳が落ちそうなほど心地よい。あまり広くない浴槽の中で二人は密着したまま座り込んでいる。背中から抱え込まれる体勢は彼女の温かく柔らかい体に囲まれてふわふわと浮いてしまいそうだ。
まどろみと現の狭間をゆらゆら揺れ動いている刹那はふと目の前で交差される手を見つめる。
「………」
御機嫌な鼻歌まで奏でるニールの手は…『彼女の手』とあまり変わらない。けれど…
「(…違う…)」
はっきりと言葉には出来ないが、『何か』が違う。見た目には同じだろう…しかし、『ニールの手』と『ライルの手』という時点で刹那にとっては大きな違いになっていた。
そっと手を伸ばして自分よりも大きなそれに己の手を重ねる。
「うん?どうした?刹那?」
「…ん…」
指を絡めるように重ねて…きゅっ…と遠慮がちではあるが握り締める。すると不思議そうな声を掛けながらも握り返してくれた。温かい手に自然と笑みが深まる。
「……繋ぎたくなった…」
「…ふぅん?」
説得力のないだろう言葉を紡いだのだが、ニールは何も聞かないでいてくれた。
どこまでも優しいニールに刹那は静かに瞳を閉じる。
「(…返事をしよう…)」
* * * * *
買い出しに出た2人が帰って来たのは夕方だった。そろそろ夕食の準備を始めないと…と思っていた矢先…タイミングのいい事間違いない。
食材を確かめていたニールが呆れたような顔になった。
「…シチューかい…」
「そ。」
「…じゃがいも多すぎね?」
「いいじゃん。好きだもん」
「まぁ…好きだけどさ?」
オーソドックスな材料を一通り購入してくれたようだが…いかんせんジャガイモが4袋もある。1人一袋というのは…いくらなんでも多過ぎだろう。
「あと、那由多がサラダ作ってくれるってさ」
「凝ったものではないが…」
「いやいや、一品あるだけで全然違うからOKだよ」
「それからこれ。刹那達の荷物」
「あ…」
買い物袋とは別に持っていたカバンを差し出されると、そこには制服とスクールバックが入っていた。昨日は身、一つでディランディ姉妹の部屋に来たので部屋の鍵を含め全部学校に置き去りにしていたのだ。どうやらそれを取りに言ってくれたらしい。
「…すまない…ありがとう」
「どういたしまして。一応全部あるかチェックしてほしいんだけど…」
「あぁ、ついでに部屋に置きに行く…一緒に来てくれ」
「ん、いーよ」
少しだけ開いた間を不思議に思われないか心配だったが、ごく普通に返してくれた。ニールと那由多もキッチンに入って支度に取りかかっているので、ちょうど2人きりになれそうだ。
「ど?何か足りないものとかある?」
ライルと連れ添って部屋に帰った刹那はリビングでさっそく荷物を開く。球技大会だけの日だったから教科書等は持っていかなかったし、カバンにはメモ帳と筆記用具だけしか入れていなかったはずだ。それを確認したあと、膨らみのある布バックに少し驚いた。
「いいや、ない…むしろ…体操服があって驚いている…」
「あぁ、それはさっきカティ先生から電話が入ってさ」
「…カティ先生…」
「そ、あの眼鏡美女の先生。おれらの担任で生徒指導の責任者」
「…そうか…」
高等部所属の先生であるカティの事は知らないが、簡単な説明を受けて頷いた。
「体操服の新しいやつを用意したから取りに来いって言われてな。買い出しついでに行ってきたんだ」
「…そうか…ありがとう」
「どういたしましてー」
にっこりと笑みを浮かべるその顔を見て、刹那は一瞬言葉に詰まった。こうして意識すればニールとライルは双子なだけあってちょっとした仕種や表情が同じに見える。けれど刹那の中には…やっぱり違う…という違和感でいっぱいだった。
「…ライル…」
「うん?」
「…好きだ…」
珍しく名前で呼んでくれたことに僅かだが肩を跳ねさせてしまった。それでもじっと見つめてくる瞳に首を傾げるだけで済ませていると、更に言葉が零れ落ちた。ただ…その言葉に目を瞠ってしまう。
「でも…それだけなんだ…」
「………」
へなり…と泣きそうに歪められる眉にライルは一瞬驚き、そして苦笑を漏らした。そっと手を伸ばして俯いてしまった頭を優しく撫でる。
「…昼間言ってた返事…ってこと?」
「…ん…」
いつでもいい…とは言ったが…正直に言うとこれほどまでも早く貰えるとは思っていなかった。むしろ…何日か掛けて自分への返事をどうするかぐるぐる考えて欲しかった…というのが本音だ。
…けれど…
現実はそう優しくはないらしい。
予想通りの答えにふぅ…とため息を吐き出して足元へ視線を下げる。
「…すまない…」
「いいさ、気にすんな。」
「でも…」
ぽつりと呟かれた言葉に刹那を見上げれば更に深く頷いただろう、旋毛が見える。両手は服の膝辺りをぎゅっと握り締めて、顔は見えないが唇を噛み締めているようだ。そんな刹那に苦笑を漏らして頭を撫でればさらに申し訳なさそうな声が聞こえた。
「…そうだな…どうしてもってんなら…これからも今までと同じように接してくれるなら許してやるけど?」
刹那の性格を考えても何かライルが報われる事を…と考えるだろう。だったらと一つ提案を出せばおずおずと顔が上げられる。不安いっぱいの表情ににっこりと笑みを向ければさらに困惑を映し出した。
「…それでいいのか?」
「むしろそうしてくんなきゃ拗ねる。」
「……分かった…」
しばし考えてからこくりと頷いてくれたその頭をもう一度撫でて、小指を立てて目の前に差し出す。
「ん、じゃ、約束。」
「…約束…」
その小指に自分の小指を絡めてくれて小さい子がするように指きりを果す。するりと指が解けていった。
「…ちょっとだけ物思いに耽りたい…先に戻って?」
「…うん…」
リビングから出ていく刹那の後ろ姿を見つめてライルはすぅっと両手を上げる。その小さな後姿をハートで囲いを作って切り取ってしまった。けれど振りかえる事なく真っ直ぐ前を見て出て行った刹那に苦笑を浮かべて両腕を下げると「あー…」と訳もなく声を出して天井を仰ぎ見た。
「…刹那を愛していたのか?」
「うん?なんだ、聞いてたのかよ…」
「盗み聞きするつもりはなかった」
「ふぅん?」
「…質問の答えは?」
「まぁね…今更否定はしないよ」
不意に声をかけられたので振り向けばいつの間にか入口に那由多が立っている。恥ずかしいところを見られたか、と苦笑を浮かべ肩をちょいと上げて見せた。
「いつくらいから?」
「さぁな。ただ気付いたらもう刹那は姉さんのもんだった。」
そう…これは分かっていた結果。刹那の様子をじっくり見るようになれば嫌でもすぐに気付かされる。彼女の瞳にはすでに特別な人が写っているのだ。しかもそれは自分にとって勝てっこないと分かりきっている姉の姿で…何かするよりも先に敗北は目に見えていた。間に入り込もうとすればきっと彼女は壊れてしまう…そんな予感も確かにあって…けれどもただ指を咥えてみるだけというのも性に合わない。自分は自分、と言い聞かせて今の自分に出来る精一杯の誠意と想いをぶつけてみるも、やはり叶う事はなかった。
それでもすっきりしたのは確かで。振られるのも体験しておいて悪くはない。と自分に言い聞かせるのだった。
「…そうか。」
「なに?慰めてくれんの?」
「まさか。」
そっと横まで移動してきた那由多の顔を覗き込むようにして聞けば想像通りの言葉ですげなく切り落とされてしまった。そんな那由多に苦笑を浮かべて屈んだ上体を元に戻すと脱力と共に再び天井を見上げて静かに瞼を下ろす。
「…だよな。」
「だが…」
「んー?」
鼻先にちゅっと音を立てて柔らかな感触が触れた。ぱちくりと目を瞬かせると間近に子悪魔的な笑みを浮かべた那由多が見える。
「刹那の次でいいなら俺が愛してやってもいいぞ?ライル」
「…へ?………えぇ!?」
ライルが目を白黒させている間に那由多はくるりと踵を返すと何事もなかったかのように歩いていってしまう。残されたライルはというとぱたりとその場に仰向けで倒れてしまった。
「……やられた…」
* * * * *
どんなことが起きようと、たとえ心がどれほど騒いでいようと朝はやってくるもので。いつもの時間に鳴らされるチャイムにライルがドアを開きに行くと、ちょっと驚いたような顔をした刹那が立っていた。
「おっはよーさん」
「…おはよう…」
にっこりと笑っていつも通り挨拶してやれば刹那はちょっと困ったような顔で僅かに俯きぽつりと挨拶を返してくれる。昨日無理矢理に取り付けた約束とはいえ、そうすぐに気持ちの切り替えが出来るほど刹那は器用じゃないことは分かっていた。だからそんな反応になってしまうことをとやかく言うつもりはなくちょっと苦笑してしまう。そんなライルの反応にますます困った顔で見上げる刹那は正直に言うと可愛いのだ。だからつい意地悪をしてしまうというもので…
「ん?なになに?俺に惚れちまった?」
「ッな!?」
…なんて意地悪に笑いながら耳元で囁けばかぁっと頬が見事に染まっていく。しかもわざと大きめの声で言ったもんだから狙い通りにニールが後ろから叫び出した。
「ッなにー!?今のは聞き捨てならないぞ!刹那!」
「ちっ違ッ…あ、逃げるな!ライル!!」
ニールが玄関へと辿り着かないうちに刹那の頭をぽんと軽く叩いて走り出してしまう。エレベータの前でちらりと後ろを盗み見れば拗ねた顔のニールに困った顔の刹那が必死に言い聞かせているようだ。それにしてやったりと頬を緩めると、刹那が背伸びをしてニールにキスをしている光景まで見てしまい慌てて到着したエレベータに乗り込む。誰もいなかったエレベータの壁に背を預けると目の前に那由多がいた。じっと見詰め合ってからライルが体をずらすと意図を読み取ったのか横に移動してきてくれる。二人して無言で並ぶとエレベータが静かに動き出した。
「苛めることにしたのか?」
「いぃや?ちょっかいって言ってほしいね。目の前で堂々と惚気られんのも腹立つものがあるしさ。」
「…その意見は同感だな。」
もっと周りに気を配ってほしいもんだね、と言えば那由多はくすくすと小さく笑い声を零した。その横顔を見ながらライルはふと思いついた事を言葉にしてみる。
「………那由多ってさ…」
「なに?」
「姉さんのこと好きなんじゃなかったのか?」
「?いつそうなった?」
ストレートに聞いてみると心の底から意外そうな声で返されて、「おや?」と首を傾げてしまった。
「いや、ほら。寮の前で初めて会った時、姉さんを気に入ったとかで抱きついてたじゃん。」
「あぁ…あの時はやっと刹那が自分の幸せを掴む為の相手が出来たと思って嬉しかったんだ。」
「…あ…そ。」
単なる思い違いではあるが、なんだかバツが悪い気分になってそっぽ向いて誤魔化したが、那由多には通用しなかったらしい。ちょいと顔を覗き込むように少し前かがみになられてじっと見上げられる。
「嫉妬か?」
「べっつにぃ?」
「…なんだ、残念だ。」
「……え?」
かくんと小さく揺れてエレベータが止まる。どうやらもう一階に着いてしまったらしい。ぽかんとしてしまっていると那由多がすたすたと降りてしまい、エレベータの扉が閉まろうとするのに慌てて降りれば那由多がじっと見上げてきている。
「妬いてくれるのかと期待した。」
「………」
言うだけ言うと那由多はさっさと歩き出してしまう。その後ろ姿に思わず苦笑を浮かべると大股で歩いて真横まであっという間に追いついた。
「そいつは悪いことしたな。」
「別に。頼んでしてもらうことでもない。」
「そりゃそうだ。…けど。」
「?」
一歩さらに大きく前に踏み出すと那由多の行く手を阻むように進路へ体を捻り込み、顔をぐっと近づける。ぱちくりと瞬きを繰り返す那由多にライルは口の端を持ち上げてその可愛らしい唇の端に口付けを落とした。
「このくらいの謝罪はありじゃね?」
「………悪くはない。」
「素直じゃないねぇ?」
鼻が擦れ合うような位置で笑い合うとどさっという重たい音が聞こえてきた。何かと後ろを見れば顔を真っ赤にしたニールと刹那が互いのカバンを取り落として固まっている。そんな2人にライルと那由多は顔を見合わせるともう一度笑い合った。
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