空の色
君といつか桜の頃に

 翌日は快晴だった。それでも寒さは弘人が見た天気予報の通りで、冷え切った窓には完璧な形の雪の結晶が咲いた。だが、観光には打って付けの日和なのに間違いはなかった。
 まずは観光スポットで賑わう南運河からは少し離れた、昨日は行かず仕舞いの北運河まで足を伸ばした。小樽が港町として最盛だった頃の名残りを堪能した後、散策路を南に戻り、有名なガラス細工の工房を覗く。
 歩き疲れた頃にはちょうど昼食時で、手近な店に入って海の幸に舌鼓を打ちつつ、午後は近辺のギャラリーや土産物の店を見て回る事に決めると、二人は店を後にした。

「観光の王道を楽しんでます、って感じだな」
 赤レンガ造りの瀟洒な外観に惹かれて入ったオルゴール堂の館内を見回し、怜は呟いた。
 建物の中はけやき材で出来ており、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「そうだね。オフ・シーズンだから人が少なくて、却ってのんびり出来るし」
 曲に合わせ、からくり玩具のように動くオルゴールに興味を示したらしく、顔を上げないまま直樹が応え、結局仕組みが分からないまま首を傾げる。
「でも、こういう場所は男同士ではなかなか来にくいよな」
 館内はどこに行っても澄んだオルゴールの音色が流れ、一緒に売られているガラス細工や小物にしても、日用的な物より装飾的な、どこか可愛らしい物が多い。二人の存在は若干浮いていると言えなくもない。
 漸くオルゴールを元の台に戻して目を上げた直樹は、忍び笑いをして怜を見た。
「そうは言うけど、さっきからずっと怜、綺麗だなー、可愛いなーって、あの子達みたいに喜んでるよ。反応が一々素直で見てると楽しくって。案外可愛いとこあんだな」
 直樹がチラッと見遣った先には、中高生位の女の子達の姿がある。クッ、クッ、と喉を鳴らして笑う直樹に怜は顔を顰めると、頭に軽く拳骨を当てた。
「お前なぁ。可愛いとか言ってんじゃねぇよ」
 拗ねた様子の怜を見て、益々笑いを深くする直樹に苦笑して目を逸らすと、たまたま窓の外が視界に入り、いつの間にか雪が降り出しているのに気付いた。
 怜の視線が止まった先を辿り、直樹も窓へと目を遣る。
「降り出したね。明るいから全然気付かなかった。狐の嫁入りだっけ?お天気雨の事、確かそう言うんだろ?でも俺、お天気雪って初めて見た」
 そう言って動きを止めた直樹の横顔は、周囲のアンティークな雰囲気の中、一幅の絵のようだった。怜はその姿に視線を注ぎ、目が合うと照れくさそうに間近のオルゴールを手に取る。
「お前、目鼻立ちのくっきりした、綺麗な顔してるよな。土産に買っていくような彼女はいないのか?ゆっくり選んでていいよ。そうこうしてる内に雪も止みそうだし」
「何だそれ。さっきのお返しのつもりかよ。彼女はいないよ。怜は?」
 怜の手からオルゴールを取り上げると、直樹は蓋を持ち上げ、蓋の裏に付いている螺子を回す。『星に願いを』のメロディが、耳に優しく響いてきた。
「訊いて欲しくねぇな。ふーん、意外だな。お前、昨夜の事覚えてるか?何の躊躇いもなく人の布団に入ってくるから、誰か相手を間違えてんじゃないかと思って、要らない心配したよ」
「そういう相手が居たら、多分ヒーターで我慢したよ」
 からかうような怜の口調に肩を竦め、直樹は僅かに謎めいた微笑を口元に浮かべて言った。そして、出よう、と、曲の途中で鳴るのを止めたオルゴールを置き、さっさと出口へ向かう。
 怜は釈然としない思いで、その後ろ姿を追った。
 寝惚けていた訳ではないのは確かだが、恋人が居たら抵抗がある、というのは、逆に言うと、怜の布団で眠るのは恋人に対する裏切りだと感じる、という事だ。それは突き詰めれば、怜も恋愛の対象に成り得る、という事ではないだろうか。
意味有りげに言われると、余計に引っ掛かる。
その上、直樹の言葉は一年前の件を思い起こさせ、怜の胸を微かに痛ませた。

 ちょうど相手の事を考えていた時に、しかも東京を遠く離れた地ならば尚更驚きも大きい。
 直樹が出口の一歩手前に差し掛かった時に、扉が開いた。冷たい風と共に入ってきた長身の女性の姿に怜の足が止まる。
「紗奈」
 館内の暖かさにホッと胸を撫で下ろし、顔に掛かった髪を払った女性は、怜が一年前に別れた年上の彼女、紗奈に間違いなかった。
 紗奈も直ぐに正面に立っている怜に気付き、驚いて目を見開く。
「高坂君?どうして此処に?」
 まさかの再会に立ち尽くす二人の間で不思議そうに顔を見比べ、やがてゆっくり目を伏せた直樹に、怜は気付かなかった。

「此処に何しに来たんだ?観光で来てる俺が言うのもなんだけど、旅行にはちょっと向かない季節だろ。しかも独りで」
「私の職業、忘れたの?写真を撮りに来たの。独りじゃないのよ。たまたま別行動してるけど、アシスタントみたいな形で同行してくれてる人が二人居るの」
 オルゴール館の近くのこじんまりとしたカフェは、香ばしい珈琲の香りで満たされていた。
 お互い見て見ぬ振りをする程、悲惨な別れ方をした訳ではない。どちらともなく少し話そうかという事になり、通りを出てすぐのこの場所に、取り敢えず腰を落ち着けたのだった。
 極自然な流れだったとは言え、二人の只ならぬ関係を察知して遠慮したのか、直樹は少し離れたテーブルで、持ってきていた青いブックカバーのペーパーバックを読んでいる。
 紗奈の部屋に行くと、大小様々な額に、大抵は風景の写真が飾られていた事を思い出しながら、直樹の繊細な指が頁を捲るのを怜は目で追っていた。

「煙草は止めたの?」
 小樽ガラスで出来た灰皿が隅に置かれているのに目を留めて、紗奈が問い掛ける。
「減らしたんだ。今はほとんど」
 色合いが綺麗、と呟きながら、灰皿を見詰める唇に微笑が浮かんだ。
「煙草って罪よ。なかなか匂いが消えないじゃない?部屋に帰る度に貴方の残り香がするみたいで、困っちゃった」
 カラリとした口調だったが、一年前に繰り返した、ごめん、の言葉が出かけ、今更それは相応しくないと口を噤む。
「今は?俺みたいに無遠慮に煙草を吸う奴、いないの?」
 顔を上げた紗奈は明るく笑い、少し冷めてきたカフェオレを美味しそうに飲んだ。
「片想い中なの。私から見るとまだ子どもっぽかった貴方は、ホントに自由奔放だわ色んな事に無頓着だわで苦労したけど、今は相手が大人過ぎて。太刀打ちできなくて大変。時々嫌になる」
 言葉とは裏腹に楽しそうな紗奈の顔を見て、安堵すると同時に面白くなさそうに怜は顔を顰める。
「俺、そんなにガキだったか?」
「ええ。今も大して変わってなさそうよ」
 声を立てて笑われ、怜は絶句するしかない。
 尚も笑い続けた紗奈は、ふぅ、と息を吐くと、漸く笑うのを止めて怜を見詰めた。
「高坂君の写真、まだ残ってたりして。悔しい位男前に写ってたから、捨てられなかったの。あの頃に比べたら、まあ、ちょっとは成長した男らしい目になったかもね」
 高坂は怜の名字だが、紗奈はずっと怜の事をこう呼んでいた。
 人を撮るのは苦手なの、と言いながら、撮ってくれた写真があった。
 あれの事か、と思い出しながら怜は、照れくさそうに視線を琥珀色の液面に落とした。
 ふと椅子を引く音に気付いて顔を上げると、席を立った直樹が、少し外に出てくると手振りで伝えている。
 分かった、と怜は頷いて返したが、会計を済ませて出て行く後ろ姿が、外に出た途端寒そうに震えるのを扉が閉まる一瞬に見、独りにさせるのを不安に感じている自分に気付く。
 まさか、また道に迷ったり絡まれたりする事もないだろ。
 不安の理由が思い当たらないまま、直樹が去った後に残されたカップに目が向いていた。
 同じように直樹を見送った紗奈は、扉の上に付いている真鍮のベルの音が消えると怜に向き直り、考え込んでしまった様子を、笑みを浮かべながら見ている。
「被写体にしてみたい。相変わらず人物は撮らないんだけど」
 紗奈の言葉で我に返った怜は、ゆっくりカップを口に運びながら言った。
「頼んでみる価値はあると思うよ」
「でも彼、意外にシャイそう。私が撮りたいなって思った人にかぎって、高確率で嫌がるのよね。高坂君からも勧めてみてくれたりしないかな」
「俺から?俺も昨日逢ったばっかりだって言っただろ。説得にはあまり向かないと思うよ。そんなに撮りたいんだったら、こんなすごいカメラマンに撮ってもらえるなんて一生に一度あるかないかだぞ、くらい言ってやるけど」
 直樹を紹介した時に、昨日の経緯はかい摘んで話してあった。
 嫌味っぽいわよ、と苦笑いした紗奈は、残りのカフェオレを一口で飲み干す。
「あの子、貴方の事が好きね」
 突然の言葉に、一瞬の間の後、訝しげな顔をした怜を、却って紗奈は意外そうに見て眉を上げた。
「結構そういうトコは鋭いくせに、気付いてなかったの?貴方だってあの子の事、すごく意識してるじゃない。実際のとこどうなのかわからなかったから、ちょっと鎌を掛けちゃったんだけど、やっぱりなぁって感じ。彼、平静を装ってたけど、私に嫉妬してた」
 寝耳に水とばかりにまだ紗奈の言葉の意味を測りかね、唖然としている怜を、首を傾げて紗奈は見詰める。
「本当に少し勘が鈍ってるみたいね。あの子が高坂君の事を見る目、明らかに恋してる。昨日逢ったばかりっていうのが驚きだけど。ひと目惚れなら、もしかしたらあの子、元々男性にしか興味無いのかも」
「おい、待てよ。お前こそ何か早とちりしてないか?多少人懐っこいところがあるのは認めるけど、それだけだぜ。あいつは――」
「男だから恋愛の対象外になる、なんて言うほど、凝り固まった考え方をする人じゃないでしょ?別に好きになれとは言ってないわよ。ただ、あの子は高坂君の事が好きだと思うって言ってるだけで。あ、一応訂正しとくけど、貴方の写真なんて残してないわよ。そりゃちょっとは勿体無いって思ったけど、元彼の写真を取っておいていい事なんかないしね。恋人が出来た時に万が一見られたら、気まずいじゃない」
 大袈裟に身震いしてみせ、紗奈は鞄の中から予定表らしき紙を取り出した。
「残念だけど、あまりゆっくりしてもいられない。そろそろ後の二人と合流しなきゃ」
この話はここで終りと言わんばかりの紗奈の態度に、怜は曖昧に頷いた。
「待ち合わせは?」
 怜は立ち上がりながら、頭の中で紗奈の言葉を反芻し、その意味を深く考え始めていた。

 カフェを出ると、隣の物産店の横手で、直樹が老店主と雪だるま作りに興じているのがすぐ見えた。
 二人に気付いた直樹は、白い息を吐きながら手を振る。
 まんざらでもないかな。
 不意にそんな思いが、怜の頭にもたげた。
 彼ならば――同性と分かっていても、惹きつけられるのは事実だ。例えば、抱いてみたいと思わせるものすら持っている。紗奈に言われた通り、昨夜の一件以来、時には邪な思いを含めて意識していたのも事実だ。
――紗奈の勘が確かなら、説明は付くんだよな。意味あり気なアイツの言動も。
 甘えるように胸元に摺り寄せられた頬の、滑らかな感触がふとよみがえる。
 とは言え、何しろ直樹とはまだ知り合ったばかり。怜は自分のどこに好意を持ったのかいまいちピンとこず、紗奈の早とちりと考える方がやはり正しい気もした。
 ただでさえ直樹は、思いがけない物に興味を持ったり、考え事でもしているのか急に寡黙になってしまったり、そうかと思うと一瞬後には「腹減ったー」と陽気に笑い掛けてきたりで、一緒に居て意外さが面白くはあるのだが、怜には何を考えているのか読めない節がある。
 しかし、その気になれば手練手管はお手の物。直樹の口から本心を聞き出すのには自信があった。

「お前、雪だるまって、また随分子供っぽいな」
「御言葉だけど、怜だって東京育ちだろ。こんなデカい雪だるま、作った事あるのかよ」
 二人の遣り取りに笑い、慌しく別れを告げて去っていく紗奈を見送ると、店主に礼を言って、怜と直樹も次の目的地へと向かった。

 雪は、結局夜まで降ったり止んだりを繰り返した。
 雨音と同じ様に、雪も降る音がするんだな。
 吸い込まれるように落ちていく雪は、無論音を立てたりはしない。だが、辺りが静寂に包まれると、蝶の羽根が擦り合わさるようなごく微かな音が耳に響くような気がして、怜は空を振り仰いだ。
 小樽は、石造りの古い建物が多い。その中でも特に有名な、夜はライトアップされている元銀行の洋館を見に行くのを最後に観光を終え、二人はホテルに帰る途中だった。

 傘を差す程の降りではないが、風が吹き始めていた。
 寒そうに息を吹き掛けた直樹の手を、怜が捉える。
「寒いな」
 雪明りで一層青ざめて見える顔を、横目で見遣る。直樹が口を開くのを待たず、怜は捉えた手を自分のコートのポケットに入れた。包んだ手がほんのりと暖かくなっていく。直樹は怜の横顔を見上げて嬉しそうに笑み、そっと手を握り返してきた。
「帰りたくなくなる」
 聞き取れないほどの小さな呟きが、直樹の唇から漏れる。
 それがホテルに帰る事なのか、小樽を離れる事なのかは分からなかったが、どちらでもその意味に大差はない気がした。
 怜は繋いでいた手を離すと、直樹の肩を抱いて、運河の散策路に降りる道へと足を向けた。

 今日も散策路には人影がほとんど無く、深閑とした空気とガス灯のノスタルジックな灯りが更にその場所を辺りから切り離し、全く別の空間にしている気がする。
 反対側から歩いてきた地元の人らしい老夫婦をやり過ごすと、怜の足が止まった。
「俺と離れたくない?」
 怜の不意の問い掛けに目を上げた直樹の口が、言葉を紡ぎ掛けて閉じられる。
 沈黙に微笑し、怜は再び歩き始めた。
「俺も帰りたくないな。お前と離れたくない」
 突然の告白に、顔を見なくても、気配で直樹が息を呑むのが分かった。

 紗奈と別れてから怜はずっと、傍に居る直樹の事を考えていた。
 隣を歩く直樹の存在は、確かに強く感じられるのに、まるで空気のように自然と馴染んで心地良い。
 稀有な存在――色々な意味で、直樹にはその言葉がぴったりな気がした。
 意識している、と紗奈は言ったが、惹かれている、の方がより自分の気持ちに近い。
 そう気付いた時に、怜は思い切って直樹の気持ちを聞き出そうと決めたのだった。

 今度は、直樹の足が止まった。肩を抱いていた手を外して向かい合った直樹の、真っ直ぐな瞳が怜に向けられる。
 二人の間に沈黙が流れた。
「いつ気付いたんだよ」
 直樹の口調はややぶっきらぼうだったが、僅かに声が震えていた。その目に、対岸の倉庫群の灯りが映って揺れている。
 問い掛けは曖昧だったが、その一言で怜は直樹の想いを確信した。
「紗奈に指摘されて、かな。俺、男と付き合った事も好きになった事もねぇから、誰かに言われでもしなきゃ気付かなかったよ」
 穏やかなトーンの声で答えた怜は、直樹を見守るように見詰める。
そんな怜に照れたのか、つと顔を横に向け、直樹は言葉を探すかのように水面に視線を泳がせた。
「好きだよ」
 やがてゆっくり怜に向き直り、低いが、はっきりした声で言うと、直樹は自分の足元に視線を落とす。
 案外、不器用なんだな。
 俯いたままの姿に深い微笑を向け、そんな様子に思いがけず愛しさが込み上げてくるのを感じながら、怜は手を伸ばして直樹を抱き寄せた。
 腕の中で直樹が震える。
 肩に埋められた顔を顎を掴んでそっと上向かせ、柔らかく唇を重ねると、想像以上の甘さに頭の奥が蕩けそうな感覚に襲われ、怜は知らず知らず口付けを深めていた。
「俺も、直樹が好きだよ」
 漸く唇を離し、熱い吐息混じりに囁いた言葉に照れて笑った顔は、素直に気持ちが通じ合った喜びを語っていた。

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copyright (c) 2007 空の色

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