部屋の戸がノックされて返事をすると、「入るよ」という声とともに戸が開いて部屋の入口に俊也さんの姿が現れた。
振り返ってみると、どことなく俊也さんの表情が不機嫌そうに見えて、あまり感情を表に出さない人だから珍しいなと俺は思った。
嬉しいときとか楽しんでるときは普通に笑ってるけど、俊也さんの場合とくに苛立ちや怒りを表に出すことは滅多にない。
だから、今も口元は笑ってるけど目は困ったような苛立ってるような表情で、こんな顔をするなんて珍しいなと思ったんだ。
とは言っても、そんな表情の僅かな変化で俊也さんの心情を窺えるようになったのはここ最近で、判断できるようになったのは一年近くも一緒に過ごしてきたからだ。一緒に過ごすことがなければ、今でも単に優しいだけの従兄のお兄ちゃんとしか思っていないんだろうなと思う。
その俊也さんが何かを言いかけて、俺の手元にあるものに気付き、また表情が少しだけ変わった。
「ユキ、最近よくゲームしてるけど、新しいソフトを買ったのか?」
「ああ……いや」
俊也さんの問いかけに、俺は思わず手元の携帯ゲームに視線を落とした。
俺はゲームが趣味のひとつだしテレビゲームも持っていたんだけど、俊也さんのマンションへ移り住むときに迷惑がかかるだろうと思ってそれは持って来なかった。
でも、それじゃ淋しいんで携帯ゲームだけは持って来てるけど、そもそもあまり携帯ゲームをやらなかったのでソフトは2、3本しか持ってない。それもほぼクリアしてるのばかりで、もちろん最近新しいソフトを買ったとか、あるいは友人から借りたというわけでもない。
「前のをやり直してるだけだよ」
最近、といって日曜日に実家に帰ったあとから、どうも勉強に身が入らなくて気を紛らわせたくて、そういうときはゲームをするのが一番なんだけど、ソフトを買うお金ももったいないから、とっくにクリアしたソフトをもう一回始めからやってるっていうだけのことだった。
「そうか……」
「それより、何か用だった?」
「ああ……ユキにお客さんだよ」
俺の質問にまた俊也さんは顔をしかめると、まるでタイミングを見計らったように廊下の向こうから声がした。
「としーっ! いつまで待たせんだ!」
それは聞き間違いようのない陽平さんの声で、俺は驚いて目を見開いた。
「陽平さん!? 来てるの?」
陽平さんが来てるってことにも驚いたけど、来てることに気づかなかったのにも驚いて、俺は何の対応もしなかったことに気がとがめた。
だけど、すぐにそんな俺の気持ちを察してか、俊也さんは目に見えて面白くなさそうに息を吐いて言った。
「ユキ、別にあいつには気を遣わなくていいんだからな」
それを聞いて俺は、なんで俊也さんが不機嫌なのか少しわかった気がした。
確か俺が嘔吐で倒れたとき、陽平さんが俊也さんの代わりにか看病しに来てくれて、でもよくはわからないけどその時から俊也さんが、陽平さんの話が出たりすると不機嫌になる――ような気がする。
結局、その理由はわからないんだけど。
でも、気を遣わなくてもいいって言ったって、相手は俊也さんの古い友人だし……。
「カズーっ! 居るんだろー!」
俊也さんの言葉にどう返したらいいんだろうかと戸惑っていると、廊下の向こうから今度は俺に向けて陽平さんの声が飛んできた。
俺が思わず俊也さんを窺うと、俊也さんはもう一度ため息をつき、体を入口の脇によけて俺に行くように促したから、俺は仕方なく立ち上がるとリビングへ向かった。
開けたままの戸をくぐってリビングに入ると、2人掛け用のソファに座ったまま陽平さんがこちらを振り返ってニヤッと笑った。
大きな二重の目に明るい茶色の瞳、まるでそれに合わせたかのように染められた髪は、先があちこちはねてるのに乱れてるという印象がない。きっときちんとセットされているからだろうし、毎回のように服さえも決まって見えるのは、それは陽平さんの仕事柄なんだろう。
「よっ! 勉強してたのか?」
そう俺に質問しながら、陽平さんが座ってるソファの自分の横をポンポンと叩くので、そこへ座れという意味なのだろうと促されるまま腰掛けた。
「いや、ゲームしてました」
「ゲームぅ?」
俺の返事を聞くと、陽平さんはそう訝しげに繰り返して、ムッとした表情をで俺の後からリビングへ入って来た俊也さんを睨みつけた。
「おい、俊也。違うじゃねーか」
「違う?」
聞きとがめたのは俺だった。一体何の話をしてるんだろう?
「ああ、オレがカズくんを呼んできてくれって言ったら、勉強してるだろうから邪魔するなって言ったんだ、こいつは」
「ああ……」
そうだったんだ。
でも、確かにいつもだったら勉強してる時間だよな。
夕食もその片付けも終え、食後の小休憩がてらにテレビを少し見て、風呂の準備もちょこちょこっとしたら、あとは洗濯物なんかの片付けがない場合は部屋にこもって勉強してる。だから、俊也さんがそう言うのは間違いじゃないっていうか――。
俺がそう訂正しようとしたら、1人掛け用のソファに座って俊也さんが答えた。
「僕はそうだろうと言っただけだ。それより、用を済ませてとっとと帰れ」
「なんだそれ! お前、最近ちょっと冷たすぎねぇか?」
「お前が何かとうるさいんだよ。それに今何時だと思ってるんだ。ユキ、迷惑だったらユキも遠慮なく言えばいいんだからな」
「えっ――」
「ば〜か! カズくんが迷惑だとか思ってるわけねぇじゃん」
「あの――」
「聞いてみないとわからないだろう。お前の思い込みってこともあるからな」
「んだとぉ――」
「ふ、2人ともっ!」
俺を挟んで言い合いを始めるから、思わず声を上げてしまったけども、同時に2人の視線が俺に集中してしまって咄嗟に固まってしまった。
「あ、いや……喧嘩は、その――」
しどろもどろになりながらそう言うと、俊也さんと陽平さんは一瞬だけ視線を合わせて、互いに大きく息をつくと言い合いを止めてくれた。
「ま、カズくんがそう言うんだったら」
「ごめんね、ユキ」
「いや……」
一体どうしたんだろう。
学生のころからの友人だから親友ではあるんだろうけど、根本的に考え方とか価値観が違うみたいだから、確かに今までも俺の前とかでもよく言い合いはしていたけど、こんななんでもないことで喧嘩するのも珍しい。
とくに俊也さんは、やっぱり思った以上に苛立ってるみたいだ。だって、いつもの俊也さんならこんなことで陽平さんに絡んだりなんかしないのに……。
俺のそんな視線に、あるいは視線に含まれる意味に気づいたのかわからないけど、俊也さんは少し気まずそうに苦笑して立ち上がった。
「コーヒーでも淹れるよ」
そう言って返事も待たずにキッチンへ向かう俊也さんを見送ってから、俺は改めて陽平さんに向き直ると、俺に何か用があるようだったが、それを訊ねる前に思い出したことを口にした。
「そういえば、この間はありがとうございました」
陽平さんもキッチンへ行く俊也さんを視線で追っていたようで、俺の言葉に俊也さんの背中からこちらへ視線を戻すと、苦笑いのような顔のまま「ん?」と聞き返した。
「あの……看病してくれたのと、あと桃缶をたくさんもらっちゃって」
「ああ」
俺の言葉に思い出したといった感じで笑った。
「いいって、気にすんな! カズくんがこのマンションに来てから初めてだろ、病気したの。たまにのことだしな。そういう時は、もっと甘えてもいいんだぜ」
「はぁ……」
甘えてって、でもこの年でそれはちょっとな。
それに、「桃が欲しい」なんて言ってしまったのも、今思い出しても恥ずかしいと思ってるのに、それ以上どうやって甘えろって言うんだろう。
「ん? どした。顔が赤いぞ」
ダメだ。恥ずかしすぎる。
俺は慌てて話を変えた。
「それで、俺に用でした?」
「ああ、そうだ」
頷くと途端に陽平さんの視線が妬ましげな色を滲ませた。
「お前、ケータイ買ってもらったらしいな」
「そうですけど……あ」
訊かれてもうひとつ思い出したのは、看病してもらった次の日に陽平さんから電話があったときのことだ。俺の様子を聞くために電話してきてくれたのだけど、その終わりに『ケータイ買ったら教えろ』って言われてたんだっけ。
「俊也に聞いたぞ。なんで教えてくんねーの?」
「いや、その……すみません」
普通に忘れてただけなんだけど、改めてそう言われても困るというか……。
「ま、いいや。赤外線送るからケータイ出せ」
言って陽平さんが携帯を取り出すので、俺も慌ててズボンの後ろポケットから携帯を出した。そうして、陽平さんの言われるままアドレスを交換して、アドレス帳に登録したことを確認すると、そのままポケットに仕舞おうとしたら「見して」と言われたので、言われるままに渡した。
「へぇ、まあまあ最近のじゃん。初めてのケータイにしちゃあ、いいの買ってもらったな」
「そう、ですか?」
「ああ、オレらのときなんかもっと厚かったし、画面の色も白黒だったぜ。なぁ?」
最後はキッチンにいる俊也さんに言ったんだろう、キッチンの奥からお座なりに「ああ」という俊也さんの返事がかえってきた。
「機能もカメラだ動画だ、TV電話だ音楽だ、そんなもん無かったんだからな」
「ふ〜ん」
「陽平。そういう話をしても、今の子にはわからんよ」
キッチンからコーヒーを持ってきた俊也さんがそう割って入ったけど、でも俊也さんだって俺が携帯を買った日には似たような話をしたくせに、とは言わないでおく。
「そうだな」
俊也さんの言葉を受けて、陽平さんは軽く笑うと差し出されたコーヒーを受け取って何も入れないまま口をつけた。
そうか、陽平さんってブラックだったっけな。
俺もコーヒーを受け取ると砂糖とミルクを入れる。甘党ってわけでもないんだけど、さすがにコーヒーのブラックはまだ飲めない。
俊也さんもソファに座ると、やはり何も入れずに口をつける。
「そういやさっきチラッとアドレス見たけど、まだあんまり登録してねぇんだな」
まだ携帯をチェックしていた陽平さんが、俺に返しながらそう訊いてきたけど、勝手に人のアドレス帳を見たのか、この人は……。
「うん、最初に自宅のを入れて、母さんの携帯のを入れて、俊也さんの入れて、ニシのを入れて――それだけ」
「ニシ?」
「友達ですよ」
「小学校からの親友なんだよな?」
「うん」
俊也さんの問いかけに頷くと、陽平さんが面白くなさそうに「ふ〜ん」と相槌を打って、それで妙な沈黙が下りた。
う〜ん、何だか普通に話してるように見えるときもあるのに、でも2人変に意識してるようにも感じるんだけど――って、意識?
「…………」
もしかして、陽平さんが俊也さんのことを? あるいは逆に俊也さんが陽平さんのことを? それとも、両想いだけどお互い素直になれないとか? まさかな、思春期じゃあるまいし。
でも、俺の考えてることは別におかしくはないよな。俊也さんは自分はゲイだって言ってたし、陽平さんは男も女も好きになれるバイセクシャルだって言ってたし、どちらかがどちらかを、あるいはお互いがお互いを好きになるってことは普通……だよな?
黙ってしまった2人を、コーヒーを飲むフリして盗み見てみたら、互いに視線を合わせずあらぬ方に視線をやって何かを考えているようだった。
陽平さんが俊也さんを好き。あるいは、俊也さんが陽平さんを好き。互いに同性を好きになることは普通で、別に変なことじゃないんだけどでも、男が男を好きになる――って、どういうことなんだろうな。
考えてみれば俺も間壁先輩に告白されて、気持ちには応えられないとは言ったけど、でも間壁先輩に憧れてるっていう気持ちは確かにある。先輩として、男として尊敬するところもあるし、初めて話をすることが出来たときはすごく嬉しかったのを覚えてる。
だけどそれはやっぱり恋愛感情としての気持ちではないし、俺が間壁先輩と恋人同士のように付き合うなんて想像もできないし、ましてや先日目撃してしまった義弟とその友人、久臣がやっていた行為をするなんて……考えたくない、考えられない。
そこまで考えて俺は、またその日に起こった出来事を脳裏によみがえらせてしまって、途端に気が重くなった。
あいつ等がやっていた行為を見た――というよりは見せられたに近いけども――とにかく見てしまったこと自体を嫌悪する気持ちもあるし、何よりそのあと義弟に俊也さんがゲイだってことを、俺の不注意で知られてしまったってことが俺には悔しくて悔しくて……。
あの時、「弱みを握った」とか「これから仲良くしてくれ」とか、脅しまがいなことを言ってきて、まさか本当に何か途方もない要望を吹っ掛けてくるとか、そんなこと疑いつつそれも半信半疑ではあったんだけど――。
そこでハッとして顔を上げると、両サイドから見つめられているのに気づいて、俺は顔が熱くなるのと同時に冷や汗をかくという気持ち悪い体験をした。いつの間にか注目されて恥ずかしいのと、もしかして考えてたことが何か2人には気づかれてるんじゃないかというのと。
何か言ってこの雰囲気をどうにかしなければと俺が思うより先に、陽平さんが真剣な顔のまま口を開いた。
「カズくん」
「な、なん――」
「今考えてたことを、オレに言ってみな?」
か、考えてたこと?
俊也さんと陽平さんが、互いにどちらかがどちらかを好きなんじゃないかとか、あるいは両想いなんじゃないかとか、それとも間壁先輩に告白されたけど、俺にはそういうことは考えられないとか、義弟に俊也さんのことを知られたこととか――?
言えない、絶対。
俺はわざとらしいと知りながらも立ち上がると、
「俺、明日までにやらなきゃいけない宿題を思い出したから、これで失礼します!」
と言って返事も待たずに自分の部屋へ逃げた。
後ろで陽平さんの「こらっ!」という声が聴こえるが、俺を止めようとする陽平さんを諌めているらしい俊也さんの声も聴こえた。
俺は俊也さんに内心で感謝しながら、部屋へ戻るとひとつ大きく息を吐いて携帯を取り出し、メールの受信トレイを画面に表示させた。
そこに、アドレス帳に未登録の相手から一通のメールが届いていた。本文には、
『お前のオバさん、ウルセんだけどなんとかしてくんね? 言うこときかねーとどーするか、わかるよな?』
とあった。
送り主の名前なんて書かれてなかったけど、そんなもの無くても誰が送ってきたものかなんてすぐにわかる、義弟だ。
俺のアドレスは母さんにでも聞いたんだろうけども、普通だったら単に苛立ち紛れに送って来ただけだろうと無視もできたのだが――。
このメールを受け取って2日経つも、まだ返信はしていない。しなきゃいけないとも思わないが、もし返信しなかったらどうなるのか予測もつかないこということが、俺には情けなくも不安で仕方なかった。
まさかこれ、陽平さん見てない、よな? そんな素振りはなかったから大丈夫だとは思うけど……。
俺はもう一度ため息をつくと、机に着いて宿題――ではなく携帯ゲームを手に取った。本当はゲームして現実逃避なんてよくないとはわかってるけど、そうやって気を紛らわせないとあいつのことばかり考えてしまって、苛々でまた胃が痛くなりそうだったから、今の俺にはそうする以外に解決方法が思いつかなかったんだ。