「それでユキは、どうしたい?」
俊也さんが帰るまでに夕食の準備だけは済ませ、帰って来て俺の顔の痣と足の包帯を見て驚く俊也さんに、俺は焦って簡単に説明しようとした。
だが、それを遮って俊也さんは俺にテーブルに着くよう促すと、順番に話すよう俺に説明を求めた。
なので俺は、昨日の部活終わりからの枡田先輩と波多先輩の言動や、今朝部室で起こったこと、途中で部長と副部長に助けてもらったこと、問題を大きくしたくないのと俺にも問題があったことを挙げて、殴られたり踏まれたりしたことは表ざたにしていないこと、そういったことを時折俊也さんの質問に答えながら説明していった。
もちろん堂島のことは伏せて、枡田先輩にズボンを下されそうになったことも言わず、枡田先輩たちの動機は俺が3年の先輩と親しくしすぎて且つ生意気な態度を取ったから、ということにした。
「ということにした」と言っても、それがほぼ真実なわけなんだけど。ただ、枡田先輩たちがあそこまでの行動を起こしたのは、俺が3年の先輩に媚売って言い寄って性行為しているという堂島の嘘を信じ込んだからだろう。
だから、もしかしたら俺が暴力をうけた理由で「3年の先輩と親しくして生意気だから」とだけ聞くと、「それだけのことで?」と疑問に思う人もいるかも知れない。
俊也さんがその部分に引っかかったかは分からないが、一応は納得してくれたようで「それでユキがいいなら、僕がその事にこれ以上何か言うつもりはないけど」と理解を示してくれた。そして、
「じゃあ、明日は朝一番で病院に行かないとね」
と言われて俺は意を決して母さんから言われたことを話した。
次に何か問題を起こしたら実家に帰ってもらう、と言われた。
今回のこと、確かに俺の言動が原因かも知れないけど不可抗力だと俺は思ってて、でもだからって問題が起こったことやそのせいで俊也さんに迷惑かけてることは変わりない。
だけど、まだ今の俺には実家に帰るための気持ちの整理がついてなくて、今すぐに実家に帰るなんて考えられなかった。
そんな俺の気持ちを察したのだろう、俺が母さんに言われた言葉を伝えると、俊也さんはまず俺に「どうしたい?」と訊ねてきた。
俺はテーブルの上に彷徨わせていた視線を俊也さんに向けると、「まだ……帰りたくない」と絞り出すような声で言った。
俺の返事を聞いて俊也さんは表情を変えないまま少し考え込んだようだった。
やっぱり無茶言ってるよな、と思いつつも俺は俊也さんの返答を待った。
少しして俊也さんは俺に視線を返すと言った。
「わかった。今回のこと叔母さんには黙ってる。その内バレるだろうけど、その時はその時で考えよう」
俺は幾ばくかの猶予を与えられた気持ちで心底安堵した。ところが、ホッと緊張を解く俺に俊也さんは「でも」と続けた。
「ユキがここに来る前に僕が言った条件のこと、忘れてないよね?」
瞬間、心臓が跳ねた。
忘れてはいない。忘れてはいないけど面倒な宿題を後回しにして提出前日に思い出したときのような、背筋がヒヤッとするような焦りを覚えた。
高校受験が終わったあと、義弟のことで悩む俺に俊也さんは「僕の家に来る?」と誘ってくれた。その時、俊也さんがカミングアウトしたあとで、実はもうひとつ条件を出されていたんだ。
それは――
『鋭くんのこと、離れていても理解する努力はすること。もちろん鋭くんにも問題はあるけど、ユキも彼のことを理解しようとはしていないだろう? ずっと実家に帰らないわけにはいかないし、鋭くんだってまだ数年は実家にいるだろう。兄弟のように親しくならなくてもいい。ただ、ユキの中で鋭くんがどういう人間か理解して、消化できるようになること。難しいと思うけど、できる?』
つまり義弟のことを俺なりに理解して、完全にではないにしても受け入れられるようになること、という条件を出されていた。
その時俺は「努力します」と答えた。だけど、部活や学校のことばかり一生懸命楽しんで、義弟のことはあまり考えようとしなかった。
3年の先輩が引退して気が抜けたところに、実家の問題が諸々差し迫ってきたようで俺は焦燥感を覚えた。
でも、「考えてなかった」とも言えず俺は何とか笑みを浮かべて言った。
「もちろん、覚えてるよ」
冷や汗が滲む感覚を覚えて、きっと俺の笑みも引きつってるんだろうと諦めの境地で思った。
そんな俺の様子に俊也さんは今初めて笑みを見せて、「それならいいんだ」と立ち上がった。
たぶん今の笑みは苦笑だろうけども、俺は俊也さんがそれ以上追及してこなかったことに感謝した。
「じゃあ夕飯にしよう。お腹が空いただろ。あ、あとは僕がするから、ユキはそこから指示してくれ」
俺の足のことを思って俊也さんは夕飯の仕上げを買ってでてくれた。迷惑をかけて申し訳ない気持ちもありつつ、これ以上手を煩わせたくなくて俺は、俊也さんの言葉に甘えるとあとをお願いした。
夕食を終えると少し休んだあとで、俊也さんに断って先にお風呂に入り足の包帯を見よう見真似で巻くと、睡魔には勝てずベッドに潜り込んだ。
自分が思ってるよりも俺は疲れていたようで、強い睡魔が眩暈になって視界が回る感覚が目をつむっても襲ってきた。
確かに今日はひどい1日だった。
「しごいてやる」と枡田先輩と波多先輩に本当はない朝練に呼び出され、でも実は先輩たちには練習でのしごきなど考えてなくて結局殴られて足を踏まれ、なぜそんな行動に走ったのかと言えば俺が3年の先輩と性行為しているという嘘を信じたからだった。
そして、その嘘は1年の堂島が吹き込んでいて、嘘をついた理由は俺が3年の先輩と親しくしていたことを妬み、一部の3年の先輩が俺ばかりを構っていた嫉妬からだった、らしい。
枡田先輩たちには「生意気だ」と罵られ、あまり話さえもしない堂島からは妬まれ中傷を目的とした嘘をつかれ、激昂した枡田先輩には殴られ足を踏まれ――。
俺、そんな悪いことしたかな、なんて、この1年弱のことを振り返ってるうちに眠りについていた。
そんなことを考えながら寝たのが良くなかったのか、夢見は悪かったと思う。そのせいで俺は夜中に3度くらい目を覚まして、起きて眠っては悪夢の続きにうなされた。
だから、朝誰かに揺り起こされたときに俺は、眠気の取れない苛立たしさをその誰かにぶつけたような気がする。
カーテンの隙間から射す陽の眩しさに俺は途端目が覚めて、今何時だと目覚まし時計を見たら8時15分を回っていて頭が真っ白になった。
今すぐに家を出ないと遅刻じゃないかと思ってはみても、起きたばかりで身支度もまったく出来てないんだから無理に決まってる。
――と、そこまで考えて「そうだ今日は病院に寄ってから行くんだった」と思い出した。
思い出してから幾分ホッとするも、こんな時間まで寝ているつもりもなかったので、誰に対してと言えば俊也さんに対して申し訳なさを思う。
そうして、俊也さんのことを思った次には、そういえばと誰かに揺り起こされた気がすることを思い出し、あれは俊也さんだったんじゃないかと思い至りギョッとした。
あれが記憶違いでなければ、俺は俊也さんに何て言ったんだっけと必死に思い出そうとして、でも思い出せずかなり焦る。
ベッドの中で記憶を甦らそうとしていると、戸をノックする音がして我に返った。足を庇いつつ半身を起すと戸が開き俊也さんが顔を覗かせる。
「ユキ、起きたか」
「うん……」
「朝食用意したから着替えておいで」
「……うん」
結局、俺は返事しかできなくて、俊也さんに促されるまま着替えようとベッドを出ようとして、ふと戸を閉めかけた俊也さんが「そうだ」と再度顔を覗かせた。
「学校には休むって伝えたからね」
「えっ!?」
確認するように言われて、俺はいつの間にそんな話になったんだろうと驚いたが、
「さっき僕が起こしに来たとき、ユキ言っただろう。『今日は休む! だからまだ寝てる!』って」
「――……」
ちょっとだけ言い方を真似たような俊也さんの言葉に、俺は真っ赤になって何も言えなくなった。
俺、眠いイライラで俊也さんにそんなこと言ってたのか。
でも、俊也さんはそんな俺を見て怒ることもなく、呆れたというよりは楽しそうな笑みを浮かべて言った。
「もしかして覚えてないのか? ま、今日は休んでおきなさい、ね?」
「――うん」
やっぱり俺は頷くことしかできなくて、俊也さんが戸の向こうに消えたのを見て俺は、思わずがっくりと項垂れてしまった。