「捻挫だろうね。それと口の裂傷」
部室にある救急セットで応急処置をしてもらいながら、八坂先輩が言うのを俺はぼうっと聞くともなく聞いていた。
テーピングと包帯が巻かれて足首が固定されていく。
「あとは冷やせたらいいんだけど、保健室が開くのを待つしかないかな。顔の痣は今はそれほど目立ってないけど、その内変色してくるかもね」
すでに枡田先輩と波多先輩の姿はない。さっき西森先輩と部室から出て行ったので、もしかしたらそこらへんで説教されているのかも知れない。
「聞いてる?」
ふいに八坂先輩に顔を覗き込まれて、俺は我に返ると慌てて「はいっ」と返した。本当はほとんど聞き流していたが、「聞いてません」とも言えない。
だが、八坂先輩にはちゃんと伝わってしまったようで、ふぅっと息を吐くと困った顔をされてしまう。
「本当は殴られて足踏まれただけじゃないんだろう?」
ぼんやりした頭では八坂先輩の言葉をすぐに理解することが出来なかったが、次第にその意味がわかって心臓が早くなった。体中に変な汗が噴き出してくる。
そんな俺の変化が充分に「肯定」と取られたのだろう、八坂先輩は「やっぱりね」と言って続けた。
「先輩ときみの嘘の話を聞いてそうじゃないかと思ったんだ。――で、されたの?」
八坂先輩の問いに俺は慌てて首を振った。ズボンはずり下げられそうになったが、断じて何もなかった。
俺の無言の否定を八坂先輩は信じてくれたようで、ひとつ頷いた。
「ま、そんな雰囲気はなかったから、そうだろうとは思ったけど」
八坂先輩があっさりと信じてくれたことにホッとした俺は、ふとなぜ西森先輩と八坂先輩がここに居るのだろう、という疑問をやっとで思いついた。
本当なら今日は朝練がない日だから誰も来ないはずなのに。
「八坂先輩は……」
手当てを受けてから俺は初めて、まともらしい言葉を発した。
「ん?」
「西森先輩と八坂先輩は、なんでここに居たんですか?」
「居ない方が良かった?」
思わぬ返答に俺は慌てて首を振る。
「そうじゃなくて……今日は朝練はないって聞いてたんで」
「ああ――」
八坂先輩はどう説明しようかというように視線を彷徨わせていたが、
「そいつに感謝しろよ」
いつの間にか戸口に西森先輩が立っていて、俺を見下ろしながらそう言った。
「昨日、枡田が奥村に鍵を受け取ってんのを見てなかったら、今日のことは知らなかったかも知んねーからな」
部室の鍵は部員の中で交代で持つようにしていて、今は奥村先輩が預かっていたのだろう。その奥村先輩から枡田先輩が鍵を受け取っているのを見て、八坂先輩は何か違和感を覚えた、ということなのだろうか。
俺のそんな疑問を含む視線を受けて、八坂先輩が西森先輩の言葉を継いだ。
「まぁ、ちょっと前から枡田くんと波多くんの愚痴は聞こえてきてたからね。嫌な感じはしてたんだ。それで昨日、枡田くんが奥村くんから鍵を受け取るのを見て、何かするんだろうなとは思ったんだ。それで後をつけたら、波多くんと一緒にきみに『しごいてやる』って鍵投げつけてるのを見て、ね」
昨日のあれを見てたことに驚いたあとで、俺はあることに気づいた。
「じゃあ今日、朝練の時間には来てたんですか?」
「うん。でも枡田くんたちが部室に入るところは見てないから、きみたちより来るのは遅かったみたいだ。静かだったから様子を見てたんだけど、波多くんの大きな声が聴こえたから少し慌てたよ」
そう言って八坂先輩は、普段後輩には見せない柔らかな笑みを見せた。俺は物珍しく思って、思わずそんな八坂先輩をまじまじと見てしまったが、西森先輩の「おい、礼は?」という指摘に慌てて頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「どういたしまして」
八坂先輩は律儀にそう返したあとで、俺の包帯だらけの足を指さした。
「保健室が開いたらすぐに診てもらいなよ。それから、週末の間にちゃんと病院でも診てもらうこと。ま、安静にしなきゃいけないのは変わらないだろうけど。――わかった?」
「はい……」
俺は八坂先輩の言葉を聞いて初めて、西森先輩が「週末来るな」と言った意味を理解した。あれは俺へのペナルティというだけではなく、「病院に行って安静にしろ」という意味だったんだ。
次第に俺は自分が情けなくなって、あとはもう何も言えなくなった。
八坂先輩に言われた通り、保健室が開くと同時に俺は保健医に足を診てもらって、思った通り捻挫だと言われる。
「中等症って感じかなぁ。ちょっと腫れてるね。痛いでしょ」
状態を見たあとで再びテーピングと包帯を巻かれ、氷と水の入った氷嚢を渡された。それから左頬には冷却シートを貼ってもらう。
「氷嚢は帰るときにでも返してくれたらいいから。それと病院にはちゃんと行くように」
そう言って送り出され、俺は右足を庇いながら教室に向かった。
朝練がある時間に来た俺だったが、保健室が開くのを待っていたぶん時間を取られてしまい、教室に入るころには予鈴がなる少し前というギリギリの時間になってしまった。
教室の近くですれ違うクラスメイトと挨拶を交わしながら、自分の教室に入る直前――
「――っ!!」
隣の教室から堂島が出てくるのが見えた。
途端、枡田先輩が言っていた俺と3年の先輩の嘘の話とか、部室で先輩方に投げつけられた言葉とか、そういった諸々を思い出して反射的に体が動いていた。
その場に鞄を投げ捨てると、痛む右足を引きずりながら堂島に駆け寄る。
堂島はすぐに俺の存在に気づき驚愕の表情で固まるが、間近まで迫ったところで逃げられてしまう。
「おいっ! 逃げんなっ!」
思わず声を上げて堂島の肩か、もしくは襟首でも捕まえられたらと思い手を伸ばすが、足の痛みが堪えて立ち止まってしまった。
もちろん、廊下を歩いていた生徒や教室にいて気づいた奴が何事かと俺と堂島を眺めているが、今の俺にはそれを気にする余裕などはない。
「くそっ……堂島っ!」
遠ざかる堂島の姿に俺は腹立たしくて、吐き捨てるように堂島の名を呼ぶ。その声が意外にも遠くから聞こえると思ったのか、俺が追いかけていないと知ったのだろう堂島が立ち止まってこちらを振り返った。
先輩方にあんな嘘を吹き込むような奴なのに、振り返ったその顔は蒼白になっている。何をそんなに驚いてるんだ、何でそんな怯えてんだと、俺は苛立たしく思った。
本当ならどこまでも追いかけて胸倉掴んで問い質したかった。なんであんな嘘をついた、と。俺がお前に何をしたんだ、と。
だが、俺と堂島の異様な様子を察して廊下に顔を出す生徒たちの中に、友明と雄樹がいることに気づいて俺は我に返った。
いつも明るくマイペースな雄樹でさえ、俺に声をかけようかと迷っている様子だったが、雄樹が口を開くよりも先にそれを遮るように予鈴が鳴った。
俺はもう一度、堂島を一瞥すると教室に戻り、好奇の視線をヒシヒシと感じながら机に着いた。
ニシはあいさつをしただけで今はそれ以上何も言わず、大野は何か聞きたそうにソワソワしていたが、俺はひたすら目を合わせず無視を続けた。
堂島の顔を見たことで、さっきまで感じていなかった堂島に対する怒りが爆発し、頭を冷やすのに時間が必要だった。
しばらくして担任が教室に現れてホームルームが始まり、出欠をとるため教師が生徒の名前を呼んでいく。
その声を聴きながら、俺は気持ちを落ち着けるため考え事をすることにした。
枡田先輩や波多先輩が俺のことを良く思っていないことはわかった。俺自身2年の先輩方に良く思われないのも、俺が3年の先輩とばかり親しくしていたことが問題だったということも分かった。
それが、俺の意識や態度の問題だということも、今日、西森先輩や八坂先輩の言動を見てよく分かった。
俺が2年の先輩に対し苦手意識を持っていたのは俺自身の偏見に違いなく、確かに枡田先輩や波多先輩のような人もいるけど、やっぱり1年先輩であり頼りにするべき存在なんだ。
その西森先輩が堂島への対処については何も言っていなかったけど、きっと先輩方から堂島へなにがしかの通達があるに違いない。
俺自身、堂島がなんであんな嘘をついたのか気にはなるが、ひとまず怒りに任せて突進するのはやめて、先輩方が堂島へ接触するまで待つことにしよう。
それにしても、本当になぜ堂島は3年の先輩をも巻き込むようなことを言ったのだろう。西森先輩の言うように俺ばかりでなく、3年の先輩をも貶めるようなことを言い、3年の先輩にまで被害が広がってしまったときのことは考えなかったのだろうか。
あんな噂がもし広がってしまったら、3年の先輩の受験にまで影響がないとも限らないのに。
もしかして、堂島は俺だけでなく先輩にまで何か苛立ちか怒りを覚えていたんだろうか。それとも、そこまで深く考えてはいなかったんだろうか。
苛立ちや怒りを覚えていたとして、それは一体どんな――?
ふと枡田先輩たちが言っていたことを思い出す。「3年の先輩に目をかけてもらっておきながら」とか「3年に気に入られてるからって」とか言っていた。
それで枡田先輩たちは俺に生意気だと腹を立てていたが、堂島は逆に3年に対して「贔屓している」と思った――とか?
とはいえ、別に練習や試合やレギュラーとかで贔屓された覚えはないけども。親しく話をしていた、それだけで腹を立てたのだろうか。
俺は考えれば考えるほど分からなくなって、堂島の動機は堂島本人か、あるいは西森先輩か八坂先輩づてで聞くしかないと思い、これ以上考えるのをやめることにした。
そうしたら、次に浮上した問題はいつものように実家のことだった。
そう、次に何かあったら実家に帰ってもらうと、つい先日母さんに言われたばかりだったことを、俺は思い出してしまったのだった。