冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[2-12]

「おい、かずっ」
 間近で、強めの口調で名前を呼ばれて俺は我に返った。
 すでに1時間目の授業が終わってるにも関わらず、俺は教科書とノートを広げたまま頬杖をついてぼうっとしていたらしい。
 慌てて顔を上げると教師の姿はなく、ニシが幾分心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「大丈夫か?」
「あぁ……えっと……チャイム鳴ったか?」
「鳴った。そんで次は移動だ」
 ニシにそう言われて時間割を確認し、次の教科書とノートと筆記用具をまとめると立ち上がった。
 途端、右足に痛みが走って思わず呻いてしまう。
「大丈夫か?」
 今度こそ心配そうに言われて、俺は引きつりながらも笑みを浮かべ「大丈夫」と答えた。
「部活で痛めたのか?」
 ニシに肩を貸してもらって立ち上がり、移動教室に向かいながらそう訊ねられて、俺はどう答えるべきか一瞬迷う。
 ニシはサッカー部ではないから、「部活で痛めた」と答えても誤魔化せるが、もしニシから友明らにそれが伝われば「一体いつの間に?」と疑問を持たれるに違いない。
 数日前、練習中に枡田先輩と衝突したことがあり、その時に痛めたのだと言えなくもないが、それにしては時間が経ち過ぎている。おまけに頬の怪我もあるので、足を痛めたのなら昨日の午後練が終わった以降から今朝にかけて、ということにしないと不審に思われるに違いない。
 しかも、今日は朝練がなかったのだから、朝練で痛めるわけがないと友明らは知っている。
 俺は考えつつ説明した。
「前に自転車でコケたことがあって違和感はあったんだ。しかも、その後に練習中に先輩とぶつかってその足を踏まれてさ。でも、ひどい痛みはなかったから放置してたんだけど――。今日、登校したあとで朝練がないってことを知ってさ、一旦帰ろうかって戻ろうとしたら段差を踏み誤って――コケた」
「その顔も?」
「そう、床にぶつけた」
「案外ドジだな」
「半分寝ぼけてたんだ」
 ニシが本当にそれを信じたかは分からないが、それで納得はしてくれたようでそれ以上の追及はなかった。とはいえ、廊下での堂島とのやりとりをきっと見てはいるだろうから、どこかに嘘が混じってることは分かっているだろうけども。
 それでも、今は堂島のついた嘘の部分を上手く誤魔化せそうになくて、これが俺の説明できるせいいっぱいだった。
 しかし、ニシはそれで納得してくれても、傍で聞き耳を立てていた大野は納得してくれないらしかった。というより、堂島とのことが気になるらしい。
「ホームルーム始まる前に廊下で叫んでただろ。あれは何だったんだ? ケンカか?」
「……大野には関係ない」
「そんな冷たいこと言うなよ。堂島って呼んでたけど、あいつもサッカー部?」
「まぁな」
「なんか弱っちそうだったけど、あんなんで試合できんの?」
「堂島はサッカーが好きってだけで入部したんだろ。ま、俺も似たようなもんだけど」
「えっ、橋谷は本気でやってないのか? じゃあ――」
 先の言葉が予想できた俺は慌てて遮るように声を上げた。
「本気だよっ! サッカーが好きって気持ちと、それでも思ったほど上達しないってところが似てるって言っただけだ」
 隙あらばテニス部に勧誘しようとする大野に、ある種の尊敬を抱きつつもそのしつこさにうんざりもする。
「残念だな。橋谷テニス向いてると思うんだけどなぁ。あと持久力が気にはなるが……」
「俺に持久力はない。残念だったな」
「ま、それもその内分かっちゃうけどね〜」
 楽しげな様子で奇妙なこと言うと、大野はさっさと先に行ってしまった。何が分かるのかと疑問に思いつつ、遠ざかる大野の背中を眺めていたら、俺に肩を貸してくれているニシがその疑問に答えた。
「来月マラソン大会あるだろ。そこでお前の持久力を見るんじゃないか?」
「マジかよ……なんかあいつ怖ぇんだけど」
「無視しろ、気にするな、そしてマラソンでは手を抜け」
 ニシの的確なアドバイスに俺は神妙な顔で頷いた。
「そうだな。そうする……」

 昼休みに入ると俺の気持ちも大分落ち着いて、どんなに悩んでもお腹が空くんだなと内心で苦笑しつつ弁当を広げた。
 3分の1ほど食べたころにクラスメイトから名前を呼ばれて、声のした方へ振り向くと教室の出入り口に西森先輩の姿を見てギョッとした。
 先輩が後輩の(もしくは後輩が先輩の)教室に来るのはすごく珍しくて、かなり注目を浴びてしまっている。
 俺は慌てて立ち上がると先輩の元に急いだ。
「あのっ、何か――」
「帰り、今日は送ってやっから自転車置き場で待ってろ」
「あ、でも」
「わかったな」
「――はい」
 西森先輩はそれだけを言うと、さっさと行ってしまった。
 強引だなと思いつつ、先輩だからとか部長だからってだけで西森先輩が責任とか感じて俺を家まで送ろうと考えるのも違和感があるし、まして優しさからでは決してないというのも分かりきっているので、もしかしたら聞かれたくない話があるのかも知れないと思い至り、きっとそうだと納得して席に戻った。
 今ここに好奇心旺盛で遠慮のない大野が居なくて良かったと、誰にともなく感謝しながら食事を再開する。
 昼食が終わってニシとたわいない会話をしていると、またクラスメイトに名前を呼ばれた。今度は誰だと振り返ると、西森先輩が居たときよりもさらに驚いた。
「間壁先輩……」
 思わず呻いてしまうほど動揺してしまう。だが、間壁先輩だけではなくその後ろに木原先輩と柳先輩もいた。
 ニシに一言断ってから先輩方の元へ行くと、俺の引きずる右足へ間壁先輩が気遣わしげな視線を向けた。
「その足、どうしたんだ?」
 訊かれて俺は午前中、ニシに説明したことを繰り返した。先輩方の姿を見て、もしかしたら西森先輩か八坂先輩から今朝のことを聞いたのかとも思ったが、「どうした」と訊くからには知らないのだろうと判断したのだ。
「朝練がないことを知らされてなかったって?」
 後ろで聞いていた木原先輩はそこに引っかかったようで、俺は慌てて付け加えた。
「いや、俺がちゃんと聞いてなかっただけで――」
「練習中に踏まれたときに、ちゃんと病院に行くべきだったね」
 そう言ったのは柳先輩だ。友明にも言われていたことで返す言葉もない。
「先輩たちは、どうしてここに……?」
 不躾な問いに聞こえたら嫌だなと思いつつ恐る恐る訊ねると、間壁先輩が相変わらず心配そうな顔で言った。
「休み時間、足引きずって歩いてる橋谷を見たから気になってね……。それに顔も」
 と先輩は自分の左頬を指す。
「もしかしたら、部活内で何かあったんじゃないかって」
 つまり、間壁先輩は俺が2年の先輩とついに衝突したんじゃないかと思ったわけだ。それはかなり正確な予想なんだけども、それを話すと堂島の嘘まで言わなければいけなくなってしまう。
 もし、その話をするとしても西森先輩の判断を仰がなくてはいけないだろうし、その話をするのは西森先輩からじゃないと駄目なんだろうと思っている。
 だから、俺からその話をすることはできないから、俺は心配させまいと笑みを見せた。
「何もないですよ。さっきも言った通り、コケて床に顔を打ったんです」
「そう……」
 間壁先輩はまだ何か言いたげだったが、いいタイミングで友明と雄樹が現れた。――あ、いや、2人には堂島とのやりとりを見られているので、その話をされたらヤバいかも……。
 先輩が廊下にいると聞きつけて来たのか、それとも偶然出てきただけなのか、友明と雄樹はまず先輩に挨拶をしてから、俺に向き直ると足を指して「それ、どうしたんだよ」とやはり先輩と同じことを訊いてきた。なので、俺はまた先輩に言ったのと同じ説明を繰り返す。すると――
「朝練がないって知らなかったって?」
 木原先輩とまったく同じところに引っかかったらしい友明に、俺はまた同じ言い訳を繰り返す。
「俺が聞いてなかっただけだから」
 しかし、それでも友明は納得しなかったようで難しい顔をして黙ってしまった。
 何がそんなに気になるのかと、訝しむ間もなく今度は雄樹が口を開いた。
「でもツイてないよなー。練習には出れないんだろ。でも、来月半ばには治りそうだし、そうしたらマラソン大会に間に合っちゃうな!」
 なんでそれで「ツイてない」になるんだよ。確かにマラソンはそんなに好きじゃないが、その基準がわからん。
「そうか、しばらく安静にしなきゃいけないんだ。じゃあ練習には出れないね」
 雄樹の言葉からどう繋がったのか分からない間壁先輩の言葉に、俺は頷いたあとで「あ、でも」と続けた。
「来週から一応練習には出て、マネージャーの補佐的なことをすることになってます」
 医者の判断を仰ぐことになるだろうけど、痛みが無くなればちょっとずつ動いて行かないといけないんだろうし、練習にまったく出ないわけにはいかない。
「そうか……」
 俺の返答に間壁先輩まで考え込むように黙ってしまった。
 何を考えることがあるのだろうと疑問に思っていると、木原先輩がさして心配した風もなく訊いてきた。
「お前自転車通だったよな? 行き帰りどうすんだ?」
「えっと、固定すれば大丈夫なんじゃないかと……」
「度合にもよるかもね。病院には行くんだろう?」
 とは柳先輩の質問で、それにはもちろん「はい」と答える。
「まぁ、西森は顔出せっつーだろうけど、1、2週間はあんま無理すんな。無理しても長引くだけだからな」
 木原先輩の助言にも有難く「はい」と返して、それで話は終わったかと思ったがなぜか奇妙な沈黙が続く。友明か雄樹が堂島のことを持ち出さないうちに話を終わらせたいのだが――。
「そういやカズっち、今朝ホームルームがはじ――」
「雄樹っ」
 言って欲しくないと思うとそうなるようになっているのか、雄樹が恐らく堂島とのことを訊こうとしているのを察して、俺は咄嗟に雄樹の名前を呼んだ。
 その声が明らかに焦りを含んでいて、それが周りに伝わってしまっただろうと思うと、つい動揺してしまい声が上ずってしまう。
「それはともかく、お前ってそんなマラソン苦手だったっけ?」
 かなり話が飛んだ。不信感は拭えないだろうが、結局、雄樹の言葉を遮った時点で不審には思われているだろうから、完璧な話のすり替えをする必要もないだろう。
「え? んー、走るのは嫌いじゃねーけど、つまらんからマラソンはイヤだ」
 唐突の方向転換に雄樹は首を傾げつつも律儀に答え、それでも俺の意図に気づかないのか「それよりさ」と話を戻そうとする。
 俺はこの鈍感で考えなしの雄樹を恨めしく思いながら内心で頭を抱えていたが、この時、友明から助け舟がわたされた。
「そういやカズ、携帯のアドレス交換してなかったからしようぜ」
「えっ、今?」
「そう、今」
 助け舟に違いないが急な申し出に、俺はまた机に戻ると鞄から携帯を出し廊下に取って返す。ってか、足痛いんだから動かすようなこと言うなよ……。
 そうして、友明と「おれもおれもっ!」と声を上げる雄樹と、「じゃあついでに僕も」と言い出した間壁先輩とアドレスを交換することになり、それが終わると昼休みの時間もあと少しだということで先輩方は帰って行った。
 先輩方の姿が廊下の角を曲がって完全に消えるまで見送ってから、友明が「そんで今朝のことだが」と口火を切った。やっぱり友明もそれが気になっていて、でも俺が先輩には絶対聞かれたくないと察していたから、先輩方が居なくなってから今朝のことを口にした、そんなところだろう。
 配慮には感謝しつつも、そのまま無関心でいてくれればいいのにと勝手なことも思いながら、俺は友明に向き直った。
「堂島となんかあったのか?」
「あー……たぶん」
 何かあったには違いなかった。だが、俺自身、堂島にあんな嘘をつかれる理由が分からなくて、俺と堂島の問題であるはずなのに俺は「たぶん」としか言えなかった。
 俺の曖昧な言葉にすぐさま反応したのは雄樹だった。
「なんだよそれー。なんかケンカっぽかったけどさぁ、カズちんあんま堂島と話したりとかないよなー」
「そうなんだけどな」
「はっきりしねーな。堂島がお前に何かしたから、お前は堂島に腹を立てたんだろ。堂島はお前に何したんだ?」
「それは……今は話せない」
 俺は絞り出すようにそう言って視線を逸らした。
 そう、今は言えない。いつかは言えるかも知れない。雄樹は心配だが友明なら言いふらすようなことはしないだろうし、事実無根なんだから堂島の嘘のせいで枡田先輩たちに絞められたと、話しても問題ないだろうと思う。
 だが、堂島がなぜあんな嘘をついたのか俺自身わからず、しかも西森先輩がまだ堂島に対してどう対処したのかも聞いていないうちに、軽々しく話すのもどうかと思っている。
 「今は」と言ったことで友明は何かしら察してくれたのか、ひとつ息を吐くと「わかった」と話を切り上げてくれた。
「話せるようになったら聞かせろよ」
「ああ」
「絶対だぞっ!」
 最後の念押しはもちろん雄樹だが、それにも「ああ」と頷いて納得してもらい、2人は自分の教室に帰って行った。
 ただ、今日以降の枡田先輩や波多先輩の練習中の扱いとかを見たら、堂島の嘘以外はみんな察するかも知れないな。枡田先輩たちと俺が衝突したってことは、きっとすぐに噂として広まるに違いない。

2015.06.22

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