朝霧のもやがかかる中、俺は自転車を走らせて学校へ向かっていた。
本当なら朝練はないらしいのだが、それを伝えてきた枡田先輩と波多先輩に「来い」と言われて俺だけ行くことになった。
時間の指定はとくになかったが、部室の鍵を渡されてしまったのでいつもより10分ほど早く出る。
気分は鬱々としてはいたが、俺はいい加減気の抜けた自分をどうにかしたいと思っていたから、たとえイビリだとしてもしごきには耐えなければいけない、耐えてみせる、と意気込んでもいた。
校門を抜け、自転車置き場に自転車を止め、その足ですぐに部室に向かう。渡された鍵を鞄から取り出して部室の戸の鍵を開け、戸を開いたところで後ろから2つの足音が近づくのを聞いた。
振り向くまでもなく枡田先輩と波多先輩だろうと思い、あいさつをしようと振り返ろうとして、だが振り返れなかった。その瞬間、背中を勢いよく突き飛ばされて部室の中に押し込まれた。
後ろから来た2人も部室に入る気配がし、すぐに戸の閉まる音もする。そして鍵をかける音も。
何が起こったのか、何が起ころうとしているのか予測がつかず、俺は振り返って枡田先輩と波多先輩の姿を確認すると、ただそこに立ち尽くした。
俺とそれほど身長の変わらない、ずんぐりとした印象のある枡田先輩と、長身でひょろっとした体躯の波多先輩は、やはり嫌な笑みを貼りつかせて俺をじろじろと眺め回した。
「まさか本当に来るとはな」
そう言ったのは波多先輩だ。ということは、来ないことも予想していたのか?
「まぁな。でも、よっぽどしごいて欲しかったんだろ」
枡田先輩はそう言うとじりじりと俺ににじり寄って来た。
俺が自分から望んで今ここに居るわけではないと知っているはずなのに、なぜそんな言い方をするのかと疑問に思うが、そんなことを口にする余裕が今の俺にはない。狭い室内に閉じ込められたせいか、にじり寄る先輩の表情に違和感を覚えたからか。
俺は先輩がにじり寄るぶん後退りしながら、頭を必死に回転させて状況を把握しようとした。
「あの……俺、殴られるんスか?」
結局、俺にはそれしか思い浮かばなかった。
昨日の先輩方の話では、3年の先輩に目をかけてもらってる(ように見えたらしい)俺のことを妬んでいたらしいと知った。
加えて、昨日俺と間壁先輩が話しているところを遠目に見た枡田先輩と波多先輩は、俺が間壁先輩に言い寄っているように見えたらしくて、それを「恩を仇で返すようなものだ」と断じられてしまった。
勘違いだとも言えず先輩方はそう思い込んでて、俺のことを生意気で恥知らずなやつだと腹を立てているらしい。
ということは、その怒りをぶつけるために俺は今ここに呼ばれていて、それはつまり殴られることだろうと俺は思ったのだが――。
「はぁ? なにお前、殴られてーの?」
波多先輩が眉間にしわを寄せて言うので、どうやらそうじゃないことを知る。
「え、じゃあ……」
「だから、しごいてやるっつってんだ。お前わかってんだろ?」
「……は?」
意味がわからない。この狭い部室の中で何かさせられるのだろうか。でも何ができる? せいぜいが腹筋や腕立て伏せや、そういう狭いスペースでも1人でできるものしか出来ない。
一方で鍵までかけて部室に閉じ込めて――と考えると、やはり殴る蹴るの暴行しか思い浮かばないのだけども。
俺が本当に不思議がっていると、次第に先輩方が苛立ちを見せ始めた。
「とぼけるのもいい加減にしろよ」
「“扱く”っつったら、お前にとっちゃアレしかねーだろ」
言いながら枡田先輩が右手を軽く握って上下に振った。それを見ても俺はすぐに理解できず眉間にしわを寄せて考え込んだが、唐突にそれが何を意味するのか分かって驚愕した。
俺の表情を見て察したのが分かったのだろう、先輩方が苛立ちはそのままに、またニヤニヤと笑みを浮かべると続けた。
「やっと思い出したか。いつもやってもらってたんだろ?」
「は?……え?」
「3年は引退したんだから、扱いてもらえねーだろ。だから今度からは俺らが扱いてやるっつってんだよ」
何故かはわからないが俺が3年の先輩に、“そういうこと”をしてもらっていると先輩方は思い込んでいて、それを自分たちがやってやろうと先輩方は言いたいらしかった。
本気でそう思ってるのか、それともそんな事実などないと知っててそう言ってるのか、今の俺には判断がつかなかったが、それでも身の危険に変わりはない。
俺はようやくそこに気がついて、何とか逃げる方法を考えようとした。しかし、出入り口は今入って来たところにしかなく、その方向は先輩方が立ちふさがっている。
「その代わり、扱きのお礼はしてもらうからな」
「そうそう、奉仕っていうお礼をな」
それはつまり先輩方がすることを同じように返せということだろう。あるいは――と、俺は先日実家に帰ったときに見た、義弟とその友人の性行為を思い出した。そして思い出した途端、ひどい吐き気を催す。
冗談じゃない! あんなこと誰がやるか!
俺は真正面から先輩方を睨み付けると口を開いた。
「先輩、それ冗談ですよね? 俺は3年の先輩方には何もしてもらってないし、先輩方にも何もするつもりはありませんから」
俺の初めての反論に、先輩方は少々怯んだようで足が止まる。俺はここぞとばかりに畳みかけようと続けた。
「それに、俺は何をされても泣き寝入りなんてしませんよ。最近、練習中の態度が良くないことは俺自身わかってるつもりです。だから、先輩の言う通りに来ましたし、練習でのどんなしごきにも耐えようと思ってました。でも、今先輩が考えてるようなことは俺は絶対にしません。全力で抵抗するし、他の先輩方や顧問に訴えます。それが嫌なら、今すぐそこをどいてください」
しかし、俺が言い終えても先輩方は身動きせず俺を見据え、しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは枡田先輩の嘲笑だった。
「はっ! 訴えるって? どうやって訴えるんだよ。言ってみろよ。言えるもんならな!」
語気を荒くして枡田先輩は素早く俺に近づくと、俺の肩のあたりを突き飛ばしてきた。俺は咄嗟に避けることができず、突き飛ばされて勢い後退ると、後ろの壁に背を打ち付けた。
「本当にお前って生意気だよな。3年に気に入られてるからってよぉ」
「サッカーもヘタクソな癖になんでこいつなんだ!」
「どうせ裏では3年相手にケツ差し出してたんだろ。知ってんだぞ!」
「は?――ぐっ!!」
次々と浴びせられる言葉に呆然としていると、枡田先輩に胸倉を掴まれて壁に押し付けられた。それと同時に首も若干押し付けるように絞められる。
「見てたヤツがいんだよ。お前が3年にケツ掘られてるところをな!」
「そん――嘘だ――」
俺は首を絞めつけられながらも必死に否定した。
「俺は、そんなこと、しないっ! あんたらじゃ、あるまいしな――」
瞬間、枡田先輩の目がカッと見開かれ、右手の拳が高く振り上げられたのを見た。
殴られる! と、咄嗟に目をつむって歯を食いしばった。途端に左頬に衝撃が走り、俺は勢いよく床に吹き飛ばされた。
さらに――
「二度と逆らえないようにしてやる!」
「枡田っ!!」
「ぁっ!?」
波多先輩の咎めるような声と同時に、俺の右足首にまた衝撃が走る。
どうやら枡田先輩に思い切り踏みつけられたようで、右足首の痛みに俺は声もなく呻いた。
ただ、意外にも波多先輩が止めようとしたらしく声を上げたことで、枡田先輩も寸でのところで多少は力を抜いたようだが。
それでも今まで自転車でコケたり、やはり枡田先輩に練習中踏まれたりして、違和感が酷くなっていた右足首が今度ははっきりと痛みと熱を持ち始める。
俺は床に倒れたまま痛みに身悶えていると、枡田先輩が俺の体をうつ伏せにしてズボンのベルトに手をかけた。
この時ばかりは何をされるかすぐに察して、俺は慌てて同じようにベルトを掴み阻止しようとした。
「おい、枡田。お前やり過ぎだって」
事の成り行きに怖気づいたのか、そばで所在無げに立ち尽くす波多先輩が声をかけるも、枡田先輩の勢いは止まらない。
強引にベルトごとズボンを引っ張り――
「おいっ! 誰かいるのか!?」
唐突に外から声がかけられ、部室の戸を勢いよくノックする音が響いた。
俺も、枡田先輩も波多先輩もハッとなって戸口を振り返った。誰かが部室の外にいる。だが鍵は俺が持っているし、鍵は中からかけられている。ドアノブがガチャガチャと音をさせるが、外の誰かは中に入られないでいる。
それを眺めながら波多先輩が顔をしかめた。心なしか青ざめている。
「やべぇ、西森だ……」
「べ、別にやばくねーだろ」
波多先輩の呟きにそう強がりを言う枡田先輩だが、その額にうっすら汗を浮かべて顔は引きつっている。
やばくない、と言いつつ俺を床に押さえつけてるところは見られたくないのか、俺の上から素早く退くと立ち上がった。そして、半身だけ起こした俺を見下ろして、
「なぁ、ちょっとじゃれ合っただけだよな?」
そう口裏を合わせろと強要してくる。
「おい! 居るんだろ! 開けろ!」
西森先輩の語気が荒くなり、弾かれたように波多先輩が戸に駆け寄ると鍵を開けた。途端、勢いよく戸が開き、西森先輩とそして八坂先輩が現れた。
鍵を開けた波多先輩と、部屋の真ん中あたりで立ち尽くす枡田先輩と、部室の奥で座り込んでいる俺、という順で視線を巡らせたあとで、西森先輩は八坂先輩に目線で「戸を閉めろ」と指示し、八坂先輩が戸を閉めたのを確認してから静かに口を開いた。
「説明しろ。何をしてたんだ」
俺と、先輩2人と、鍵をかけた部室内で何をやっていたのかという問いに、枡田先輩ははじめ誤魔化そうとした。
「何でもねーって。こいつが練習中ふぬけてっからさ、ちょっと気合を入れ直してやろうと思ってな。よくあるだろ?」
「――後輩を殴ることが、か?」
よく見てる。枡田先輩に殴られて赤くなってるんだろう俺の左頬に、西森先輩は気づいていたらしい。逆に西森先輩の言葉に、そういや殴られたんだったと思い出した俺が左頬に触れると、頬というよりは口の端に痛みが走った。どうやら唇を切ってしまったらしい。
「それはこいつが生意気にも突っかかってくるから。そりゃ殴ったのは悪かったよ。でもさ、お前もこいつのことムカつくだろ?」
「ムカつくのと殴るのとは関係ねーだろ。波多は? なんか言うことねーの?」
「え……えっと」
西森先輩に名前を呼ばれて、それと同時に枡田先輩の強い視線を受けて、波多先輩が引きつった笑みを浮かべる。
「ちょ、ちょっとさ、こいつが生意気だから脅してやろうって……ホントそれだけだから」
波多先輩はそれだけを言って俯いてしまった。
しばらく気まずい沈黙が続き、西森先輩はやっと俺に声をかけた。
「お前はどうだ、橋谷。何があったか言え」
途端、枡田先輩と波多先輩の視線が俺に向けられ、焦りと怒気を含んだ視線で俺を精一杯威圧してくる。
俺は壁に手をやって体を支えながら、痛む右足を庇いつつ立ち上がった。
「……俺が、先輩を煽ったんですよ。だから、殴られたのは自業自得です」
俺の言葉に、僅かに枡田先輩と波多先輩は安堵の表情を見せる。だが、もちろん俺はそこで終わらない。
「でも、先輩方が訳の分からないことを言うんで、つい腹が立って――」
「訳の分からないこと?ってなんだ?」
「それは――」
「橋谷っ!」
説明しようとする俺の言葉を遮って枡田先輩が声をあげるが、一歩進んで近づいた西森先輩が枡田先輩の肩を掴んで、強引に自分の方へ向かせると、
「黙ってろ。――続けろ」
そう前半は枡田先輩に向けて、後半は俺に向けて促す。
促されて俺はまた続けた。
「俺と、3年の先輩が――性行為をしている、と」
俺は多少言葉を選んだつもりだが、どう言い換えたところで気分の良くなるものではない。俺の言葉を聞いて西森先輩と、そして後ろにいる八坂先輩の顔がしかめられる。
「根も葉もない――事実無根です」
「嘘をつけ! 見たヤツがいるんだぞ!」
そう声を荒げたのはもちろん枡田先輩だが、俺は構わず続けた。
「3年の先輩の誰に聞いてもらっても構いません。俺は絶対そんなことはしていない」
静かに、だがきっぱりとそう言い切ると、またしばし沈黙が訪れた。枡田先輩は俺を睨み付け、波多先輩は俯き、西森先輩と八坂先輩は何かを考え込む様子で押し黙っている。
少しして初めて八坂先輩が声を発した。
「その見た奴って誰だろう?」
ふいの問いにすぐには誰も答えなかったが、八坂先輩は真っ直ぐ枡田先輩を見据えて再び問いを口にした。
「枡田くん、その見た奴から橋谷の話を聞いたんだろ。見た奴って――枡田くんにその話をした奴って誰?」
確かに、それは当然の疑問だったかも知れない。先輩方は見ていないが、誰かが俺と3年の先輩が性行為しているのを見たと話して、それを聞いただけで信じ込んでしまった。
その発信源は質しておかなければいけないだろう。
「それは――1年の堂島、だが……」
堂島の名前を聞いて俺はまた殴られたような衝撃を覚えた。それは別に堂島を信じていたとか裏切られたとかいうようなものではなく、常に大人しくて物静かな堂島がそんな嘘をつくなんて、という驚きだった。
加えて、俺はそれほど堂島と親しくはなく、互いに相手のことに興味を持っていないと思っていたので、堂島がそんな嘘をつくほど俺に歪んだ感情を持っていたらしいことを知って愕然とした。
「堂島か……」
「――で、お前はそれを信じたと」
西森先輩の細められた目で睨み付けられて、枡田先輩は小さくなって俯いた。
「まるで見て来たように話すからさ……」
枡田先輩の言い訳めいた言葉に西森先輩は大きく息を吐き出した。
「で、例えばそれが本当だったとして、枡田は3年の先輩には何も思わねぇの?」
「……え?」
「幻滅なりするだろ、普通」
「あぁ……いや、なんか橋谷が強引に言い寄った風に聞いてたから」
「それで橋谷が全部悪いって?」
「えぇっと……」
「『えぇっと』じゃねーよ。目の前にいる橋谷をよく見ろ。そんなことするような奴に見えんのかよ」
西森先輩の指摘に、また枡田先輩と波多先輩の視線が俺に向けられる。だが、もうその目に怒気はなく、焦りと戸惑いに揺れていた。
しかし意外だ、と俺も同様に戸惑った。「そんなことするような奴に見えるのか」という問いはつまり、「自分はそんなことするような奴に見えない」ということで、西森先輩はある部分では俺をよく知ってて信頼している、と言えなくもない。
好意らしい好意を持ってなかった俺のことを、そんな風に見てくれていたことに申し訳なく思ってしまう。
西森先輩は戸惑う2人の様子を見て、またひとつ息を吐いた。
「1年に振り回されやがって。で、橋谷。殴られただけか?」
「……足を踏まれました」
俺の言葉に西森先輩が舌打ちする。舌打ちの意味が分からなくて、俺はまた何か悪いことでも言ったかと思ったが、
「利き足じゃなくて良かったね」
そう八坂先輩が言うので、舌打ちの意味を理解した。
つまり、スポーツする上で大事な足を踏みつける行為に、西森先輩は腹を立てたのだ。
「枡田と波多は反省が見えるまで試合には出さねぇ。それと1週間ペナルティだ。練習には来い。だが普段の練習には参加させない。――わかったな」
つまり無期限、無条件でレギュラーから外され、加えて1週間は部員との練習には参加できず、2人だけの特別メニューでもさせられるのだろう。
有無を言わさない西森先輩の指示に、枡田先輩と波多先輩は項垂れながら頷いた。
「で、橋谷は週末練習に来なくていい。月曜からはマネージャーの補佐をしろ。動ける範囲でな」
「はい……」
「この事は一応顧問には伝える。堂島の嘘の部分は言うつもりはない。だが、堂島の嘘は先輩を貶めるような内容だし、それを信じたお前らも同罪だ。これ以上、先輩を貶めるようなことを言うなら、マジでおれがお前らのケツ蹴り上げてやっから覚えてろ」
怒鳴り上げるでもなく静かに、だが強い怒りを込めた西森先輩の恫喝に、同学年だというのに枡田先輩と波多先輩はさらに身体を縮めて首を振った。