大野が中川をひとしきり笑ったあと、俺が風邪の予防方法を指折りかぞえて教えてやろうとすると、
「ダメなんだよ。今までも予防してきたんだけど全然ダメ! でも俺、回復が早いから予防すんのはもう諦めた」
と中川が顔の前で手を振りながら言うから、俺はそれ以上何も言えなくて「ふーん」とだけ返した。すると今度は大野が
「いいんじゃね? 予防とかされると来年の楽しみが減るじゃん」
とこれもまた中川にしてみれば恨めしいだろう発言をする。
当然、当の中川が大野を睨みつけるが、嫌ならそう言われないように風邪の予防を徹底すればいいのに……そう思いながら、言い合いじゃれあい始めた中川と大野をぼんやり眺めた。
少しして朝のホームルームが始まるチャイムが鳴ったので、俺は中川の席を離れて自分の席へと戻った。
机の上には鞄が置きっぱなしにしていたので、それを机の横に引っ掛けながら座ると、それを待っていたように俺の前の席のニシが振り返って「はよ」と声をかけてきたので俺も「よぅ」と返した。
ニシは名前を鈴木仁志といい俺とは小学校の頃からの仲で、その頃からずっと俺はこいつをニシと呼んでいる。
それには理由というか発端があって、小学校の低学年のころだったかクラスメイトの一人がニシの下の名前を読めず「ニシ」と読んで(決して俺ではない)、それから仁志はニシというあだ名で呼ばれるようになった。
そのニシが、最近また度が合わなくなって新しくしたという眼鏡を、人差し指でずり上げながら俺に問う。
「さっき、なんだったんだ?」
そう唐突に問われて意味が分からずに「何が?」と問い返すと、ニシは気難しそうな表情を作って
「大野の馬鹿笑い」
と答えた。
答えるニシのその表情を見れば、大野のことを毛嫌いでもしているんじゃないかと取られても仕方ないんだけど、ニシ本人としてはそこまで露骨に嫌ってはいないんだろうと、約9年付き合ってきた俺は学習している。
ただ嫌ってはいないというだけで、苦手意識とか相性の問題とかそういうものはあるだろうと思うけども。
俺は苦笑しつつ、さっきの中川と大野とのやり取りを説明した。
説明の最後に「大野ってちょっと変わってるよな」と付け加えたが、ニシは別のことに引っかかりを感じたらしい。
「大野もだが中川も中川だな。毎年風邪をひくのは気の毒だが、予防がちゃんとできてないからなるんだろ」
似たようなことを考えるなと思って俺は同意を込めて頷いた。実は小学校のときから毎年冬に風邪をひいていたのだという。それならそれなりで予防の対策を考えていてもいいはずだが。
自分だったらまず予防は何をするだろうかと考えていると、すでにその話しは終わったとばかりにニシが話を変える。
「そういえば今日遅かったな。朝練じゃないんだろ?」
「おー、寝坊した」
すると椅子を横向きに座って、俺に横顔を見せていたニシがこちらを振り返り、眼鏡ごしに俺の顔をまじまじと見つめた。そして一言、
「珍しいな」
言われて「そうか?」と返しながら過去に寝坊したことがなかったか振り返ると、小学校の記憶は曖昧だが遅刻した記憶はない。中学からはサッカー部に入ったため毎日のように朝練があり、そのお陰で学校の始業時間に遅れたことはなかったというだけで、寝坊して朝練に遅刻したことは数回あったから、ニシがそれを知らないだけなんじゃないかと、そう説明しようとしたら丁度担任が教室に入ってきたので会話は中断された。
担任は生徒の礼が終わると冬休みはどう過ごしたかと誰にともなく問い、自分は家族とこういう風に過ごしたと誰も聞いていないことを、さも嬉しそうに話し始めた。
それでも結婚して間もないのなら気持ちは分からないでもないけど、すでに結婚して5年目になるというのだからいい加減にして欲しいと思う。
惚気話が終わると、「今日は1日実力テストだから頑張れ」と短く言って教室を出て行った。
自分が受け持つ生徒に対してそれだけかよと思いつつ、俺はテストに備えて時間まで教科書に目を通すためカバンから取り出した。
よし、頑張るぞと意気込んでいた俺だったが、
「そういやサッカー決勝見に行ったんだっけ。どうだった?」
と何気ないニシの問いかけに、途端、間壁先輩のことを思い出して集中力が霧散して行ったのだった。
帰りのホームルームが終わり、各々帰宅の途につく生徒や部活に向かう生徒らの流れに乗って、俺もニシに「じゃーな」と声をかけてから部室に向かった。
部室に向かいながら考えることはやはり間壁先輩のことで、もう大会も終わったのだし3年の先輩は来ないと分かっていても、もし先輩がいたらどうしようとそればかりを考えていた。
今朝から――じゃないな。間壁先輩に告白されてからだから昨日から、ずっと俺は間壁先輩のことを意識し過ぎている。
いや、意識しているというのなら憧れだった間壁先輩のことを、今までも毎日のように意識してきていたと思う。だけどそれは、間壁先輩が俺を意識するのと同じような種類のものではないはずだ。
そう考えて間壁先輩が俺に対して抱いているであろう感情と、俺が間壁先輩へ抱いている感情を自分の中で並べてみて、だがそうして比べてみたところで一方が他人の感情なわけだから、ふたつの感情の違いを上げてみたとしても、何の比較にもならないし意味のないことなんだ。
だけども、そう考えてしまったあとで間壁先輩に抱いている自分の感情と、俺を「好き」と言った間壁先輩の持っているであろう感情とを同じところに並べてしまったことで、もしかしたら自分も間壁先輩のことを……!? という考えに至ってしまってギョッとした。
もしかしたら、こういう憧れの気持ちから普通は恋に発展するのかも知れない。男女間の恋愛だってそういう形はあるだろうし。
間壁先輩も最初は俺に対して「好き」とかそういう気持ちはなく、先輩として俺に接しているうちに俺の性格とか、あるいはサッカーのプレイとかの中の何かが気に入ってくれて、それが次第に「好き」という気持ちになってしまったのかも知れない。
それなら、俺が先輩に対する憧れの気持ちが「好き」に変わることも充分にあるわけで……。
いやいやいや、ない、ないだろ、それは。
心中で沸き起こる疑念に思わず自分で慌てて否定しながら、歩きつついつの間にか俯いていた顔を上げると、目の前に誰かの大きな背中が間近に見えた。
俯いていたことで、部室付近で誰かが立ち止まっていることに気づくのが遅れてしまった。
だが危ないと思ったのは一瞬で、止まるにしても避けるにしても気付くには遅すぎて――というよりは何を考える間もなくそいつにぶつかってしまった。
ガタイといい長身といい男だというのは分かったが、相手が1年か2年か3年かは一見して分からない。
俺はぶつかった瞬間とっさに「すみません」と謝ったが、振り返って見下ろしてくる奴の顔を見てすぐに「なんだ、お前か」と吐き捨てていた。
「なんだよカズちん! ぶつかっといて『なんだ、お前か』はないじゃん!」
この高校に受かったのも奇跡的なほど頭が良いとは言えない、俺より10センチも背が高いのが癪に障る雄樹だった。その隣には友明もいるし、周囲には2年の先輩も含めた他の部員もちらほら居た。
「その前にちゃんと謝ったろ」
憤慨する雄樹にそう返しつつも、雄樹に対して「すみません」なんて丁寧な言葉を使ったことに損をしたなんて内心思う俺。
「それから、その呼び方はやめろって言ってるだろ」
俺がうんざりして言うと、前にいた雄樹はわざわざ俺の横に並ぶと肩に腕をまわして
「おれとカズちんの仲じゃん」
と、よく分からない言い訳を持ち出してくる。
「カズちんが嫌がったっておれはそう呼ぶ! たとえ大人になったって、おれにとってカズちんはカズちんだっ!」
ほう、そうか。じゃあ成人しても社会人になっても、TPOをわきまえもせずに「カズちん」と呼んでもらおうじゃないか。
そう俺が言おうとしたとき、横で成り行きを観察していた友明がふと思い出したように、だが呟くというには大きすぎる声で言った。
「そういえば、さっき間壁先輩に会ったんだが――」
途端に俺は固まって一瞬だけだが頭の中が真っ白になった。次いで慌てて辺りに視線を巡らせるが、そんな俺を先ほどと少しも変わらない表情で眺めながら友明が続ける。
「もう帰った。たぶん」
友明の言葉に思わずホッとした俺だったが、そうとは悟られないように取り繕って「あっそ」と返すも、表情こそ変えないもののじっと見つめてくる友明の様子を見ると何か異変を感じ取っているのかも知れない。
勘のいい友明に内心で戦々恐々としつつも、
「そうそう、引退式がいつかって訊いたんだ」
と話す雄樹の腕を肩から払い落とし、「いつなんだ?」と平静を装いつつ訊ねる。
「4日後だって」
日数で言われて俺は指折り数えた。
「今週の土曜日か……」
雄樹の説明を繰り返し口の中で呟きながら俺が思ったことは、それまでは間壁先輩に会わずに済むんだろうか、だった。
「その時に、新しい部長と副部長が決まるらしいな」
そういう友明の言葉に、いつもの俺なら「誰に決まるんだろうな」と話を振るところなのだが、今の俺は間壁先輩に会ってしまったら……ということばかりに気を取られてしまい「ふーん、そっか」と生返事をするだけだった。
ちょうどその時、部室の鍵を持ってた先輩が現れて、部室前でたむろしていた俺ら部員が部室へなだれ込んだ。そして素早く着替えを済ませるとグラウンドへ出た。
1年だけで練習の準備をある程度すませてからアップを始めたころ、まだ来ていなかった2年の先輩がチラホラと現れてアップに加わり、終わった頃にいつの間にか来ていた顧問(監督)の集合がかかった。
そうして今日一日の練習内容を伝えられ、顧問の号令とともに練習が開始されるが、なんだかグラウンドが広く淋しく感じるのはやはり、3年の先輩がいないからだろう。
あれだけ気まずいから会いたくないと思っていた間壁先輩が、このグラウンドにはもう引退式の日以外に来ることはないのだと思うと、なぜだか胸が締め付けられるような気がした。
思えば俺はもともとサッカーが好きだったとは言え、間壁先輩のプレーに憧れてこの高校へ入って来たのだった。入学して早速サッカー部に入部してみれば、間壁先輩以外の3年の先輩方もやっぱり俺にとってはすごい選手ばかりで、でもその憧れであり目標としていた先輩方はもう居なくなってしまう――それは分かりきっていたことだったのに、それを目の当たりにしてしまって俺は、淋しくて心許ない気持ちになってしまった。
そんな気持ちを抱えながらその日の練習は終わり、片付けと着替えを済ませて駐輪場から自分の自転車を持って来ると、それを待ってくれていた雄樹と友明と一緒に校門を出る。
だがすぐにバス停があるので、そこで別れることにはなるのだけども。
時刻は午後6時を回っていた。普段、授業がある日なら6時半まで練習があるのだけど、今日は実力テストの日だったこともあり、いつもより早く練習が始められたので6時までということになった。
しかし冬の日が暮れるのは早く、すでに夜のように空は暗い。辛うじて西の空が赤く日の明るさを残しているだけだった。
「やっぱ3年の先輩がいないのってさみしぃのな」
自転車を押して歩く俺の横を、気持ち肩を落とした様子で雄樹が呟くのに、俺も「そうだな」と返して雄樹につられるように俯いてしまった。だが、そんな中でも友明だけはいつもとあまり様子は変わらなかったが、それでも一応は俺らに同調してくれているらしく「ああ」とだけ頷いた。
更に雄樹がぼやく。
「間壁先輩のあの豹変っぷりは見物だったのにな」
普段はおっとりとした印象の間壁先輩は、練習中や試合となると性格が途端に変わる。
しかし、それは確かにそうだけども……もっと言い方があるだろ。
「引退式の日が見納めかもな」
友明がさして何とも思ってなさそうな口調で言って、そこでバス停に着いたので「じゃーな」と言って俺は2人と別れて自転車に跨った。
登校するときに通る道順を逆さに辿って家路について、目的地であるマンションが大きく目前に見え始めたとき、マンションの周りにある外灯に照らされて誰かがそこに立っているのに気付いた。
初めは遠目からマンションの住人の誰かだろうかと思うも、それにしてはそこから動こうとしない人影に警戒心が頭を擡げたが、徐々に近づいて行くにつれ外灯に照らされてはっきりと見え始めたその見覚えのある姿に、俺は警戒どころの話ではなくなってしまった。
自転車のスピードを緩め、相手の5、6歩手前で自転車を降りると、相手も俺に気付いてこちらを振り返った。その姿を見て俺は思わずその人の名前を呟いていた。
昨日告白されて気まずかったから、出来れば会いたくないと思いつつも、練習中いなかったことが淋しいと思った、中学のときから憧れていた人――
「間壁先輩……」
その人が、いた。