冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[1-9]

 時刻は午後6時30分を回ったころだと思う。
 空はすでに夜の色が濃く、真上の空には星が見えはじめていたけど、星の輝きが綺麗に見えるためにはまだ夜の暗さが足りない、そんな時刻だった。
 今日が始業式の日だった為いつもよりも部活が早く終わって、これだったら丁度俊也さんが帰って来るくらいに夕飯を作り終えることが出来るんじゃないかと、帰りながら今晩の献立と手順を考えていた俺だったけど、マンションの入口近くにある外灯に照らされた人影を見て、そんな考えはどこかへと消えてしまっていた。
 自転車から降りてゆっくりと近づくと相手も俺に気付いて、凭れていた塀から背を離し俺に向き直った。
 一旦、家に帰ってから来たんだろう、いつもと雰囲気の違う私服姿の間壁先輩だった。
 昨日会ったばかりだと言うのに、あれからいろいろと思い巡らせていたからだろうか、不思議な感慨が胸を過ぎってひどく懐かしいような気持ちにさせる。
 間壁先輩はどう思ってるのだろう。その表情は少し照れたような、それでいてどこか遠慮がちで、でもいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
 その、はにかんだ笑みを形作っている口元が動いた。
「橋谷、今ちょっと、いいか?」
 俺のマンションの前で待ち、こうして2人っきりで話す内容と言えば昨日のことしかないということは容易に分かった。そう思うと自然、俺は緊張して自転車のハンドルを強く握りしめ、一度大きく息を吸い込んでから「はい」と答えた。
 ただ、改まった方がいいのかも知れないと思い、自転車を端に寄せて止めてから先輩と向き直った。
 そして、間壁先輩がどう話を切り出してくるのか予想も付かなくて、とにかく何を言われるだろうかと身構えていると、次に出てきた言葉は俺にとって意外なものだった。
「橋谷に、その……『ありがとう』って言いたかったんだ」
「え……?」
 身に覚えのないことに戸惑っていると、間壁先輩が説明を加えた。
「昨日、その……橋谷に僕は告白を、しただろう? それを、誰にも……というか部の奴等とかに言わないでいてくれたことに、な」
 先輩の言葉を聞いたとき、一瞬俺の胸が痛んだ。だってそれは……誰にも言わなかったのは先輩のためじゃない、自分のためだ。
 男同士の恋愛なんていうのは未だに差別の対象だろうし、そういうのが受け付けない人にとっては拒絶したくなるものだろうと思う。だから告白された方の俺自身も、好奇の目で見られたり、からかわれたり、最悪差別されるんじゃないかと思うと怖かったんだ。
 中学からのサッカー仲間である雄樹や友明だって、小学校からの仲のニシにだって話したらきっと、気持ち悪いと思うまではいかないにしても、それに似た感覚は持つんじゃないか……そう思うと怖かったんだ。
 そこまで考えて俺はギョッとした。そう考える俺の思考がすでに差別なんじゃないか、と。
 それに、俺が感じる以上に先輩は恐怖を感じているんじゃないかと、それに思い至ると俺は愕然としてしまった。
 だけど、それらの疑問や感情に答えを出すのには時間がかかるから、俺は無理やりその気持ちを押し込めて何とか口を開いた。
「いや……あの、俺の方こそすみません。木原先輩や柳先輩に、間壁先輩の家庭の事情とか話したり、あと泣いてるとかも言ってしまって……」
 俺がしどろもどろ説明するのに、先輩は優しく笑って言った。
「いいんだよ。あいつ等はよく知っていることだしな」
 よく知っているからと言われて、ああやっぱり仲いいもんなと思ったが、ふと、あれほどに仲がいいのなら間壁先輩の俺への気持ちももしかして知ってるんじゃないかと、そんな疑問が思い浮かんで途端、俺の動悸が早くなった。
 ということはつまり、それが本当だとしたら少なくとも木原先輩と柳先輩は、俺が間壁先輩にそういう風に見られているのを知っていて、昨日あのとき何があったのかも木原先輩と柳先輩には容易く想像できていたのかも知れない。
 そう思うと俺は異様に焦ってきて嫌な汗をかく。
「橋谷?」
 俺の様子を不審に思ってか、先輩が俺の顔を覗きこむから、俺は慌てて「何でもないッス」と手を振ってみせた。
 それにしても、さっきから心臓に悪い……。
 こんなに寒いというのに額や手のひらに滲んできた汗を拭ったり深く呼吸をしたり、そんな俺の様子を気にしつつも更に先輩が続ける。
「あと、もうひとつは謝りたかったんだ」
「え?」
「やっぱり、気持ち悪いだろう? 同じ男から告白されるのなんか……」
 先輩の言葉を聞いて一瞬だけ頭が真っ白になった。ついさっき俺が考えていたことを言い当てられた気がして、俺はなんて返事をしたらいいのか咄嗟に言葉が思いつかない。
 そんな俺の表情を読み取ってか、先輩の笑みが苦笑に歪む。
「本当に、ごめん」
 さっきよりも少しだけ低く掠れたような口調に、どこか悲壮感を滲ませて言うから、俺は居ても立ってもいられず何か言わなければと口を開いた。
「お、俺っ! 俺は気持ち悪いとは、思ってませんっ!」
「橋谷、無理しなくてもいいから」
「無理してないです。俺、先輩に憧れてる気持ちに変わりはないですから!」
 力のこもった言葉に、少しの間だけ先輩は驚いた様子で俺を見つめ、そして元の穏やかな笑みを浮かべると「ありがとう」と言った。その笑みがいつもの先輩の笑みだったから、俺はほっとしてつい顔が綻んでしまったんだと思う。そんな俺の表情を見てか、更に先輩の笑みが深くなった。その先輩の表情にまた俺の心臓が鳴る。
 先ほどと同じようにじんわりと体が熱くなり、握りしめた手のひらに汗が滲む。
 だけど、先輩はそれ以上そのことには触れず、ふとその視線をマンションへと移した。
「ここに従兄弟と住んでるんだったっけ?」
 急に話が変わり戸惑いつつも頷くと、「どんな人なんだ」と訊ねられたので俺は俊也さんの姿を思い浮かべながら答えた。
「そうでね……俺とは10歳くらい離れてて、小6くらいからよく遊んでくれるようになって、本当の兄みたいに俺は思ってるんですけど」
「本当の兄、か」
 なぜか淋しそうに先輩が呟いて、それを聞いて俺はそういえばと思い出した。
「そういえば先輩は――」
「うん、兄が一人いるよ。でも、僕の場合は一緒に遊んだりっていう記憶がほとんど無いな……」
「そうなんですか?」
 それにしても、先輩がしっかりしているように見えるからか、どちらかというと兄がいるというよりは弟か妹でもいそうな気が俺にはする。兄に甘えている姿よりも、弟や妹の世話を見ている姿の方がとても似合うと俺は思う。
 例えば部室のロッカーなんか男ばかりなもんで荒れ放題なのに、そんな中で間壁先輩のロッカーだけはいつだって整理整頓されているのを知ってるし、サッカー部には一人だけ女子のマネージャーがいるけど、必要な道具類の整理とか物の置き場所とか、よくマネージャーに口出ししていたりする。
 そういうところから、よく人の世話とか見たりするタイプなんじゃないかと想像してみたりしていたんだけど。
「……年が離れ過ぎてるからか、考え方が違うからかな。僕はどちらかというと几帳面な方で、兄は自由気ままな性格をしているから、僕自身も兄を慕う気持ちはないし、兄も僕を弟として可愛いとか思ったこともないだろうし……ね」
 間壁先輩にしては少しだけ露骨な表現に、俺は驚いてしまい思わず先輩を見つめてしまった。そんな俺の様子に先輩が苦笑する。
「僕の場合はそうなんだよ。距離が近すぎるからそうなるのかも知れないな。だから、橋谷が羨ましいよ」
「そんな……でも、俺ずっと一人っ子だったんで、血の繋がった兄弟がいるって聞くと羨ましいです」
 先輩とその兄との関係にどれほどの軋轢があるのか分からないけど、実の兄弟がいるっていうことをずっと羨ましく思っていたのは本当だ。
 だけど、その俺の言葉に先輩が首をかしげた。
「でも、橋谷は弟が居なかったか?」
「ああ……」
 先輩の言葉に俺はつい先輩の前だということを忘れて顔をしかめた。
「橋谷?」
 俺の表情の変化に驚いたように今度は先輩が俺を見つめるから、俺は慌てて表情を戻そうとして、でもそれは失敗し引きつった笑みになった。
「すみません。その、弟っていうのは……一昨年の春に母が再婚した、その再婚相手の息子なんです。だから血は繋がってないし、俺より背は高いし、我侭だし……」
 年月で言えば一昨年の4月、働いていた職場で親しくなった男性と母さんは再婚した。俺は母さんが幸せになるのならと特に反対もしなかったけど、その再婚相手――橋谷英二さんと前妻との間に出来た息子もついてきて、俺よりも1歳下だから弟だなんて言われて、でも俺よりも10センチ以上長身だし、生意気だし礼儀はなってないし性格は悪いし――
「橋谷……」
 つい思考に陥ってしまっていた俺の肩に先輩の手が置かれて、俺はやっと我に返って考え込んでしまっていた自分に気付いた。慌てて見上げると心配そうな先輩の顔があって、心配させてしまったことに俺は申し訳なくなった。
「す、すみませんっ」
「いや。いろいろありそうだな、橋谷も」
「……はい」
 少しだけ恥を晒してしまったような気持ちで俺は頭をかきつつ頷いた。
 義弟のことを思い浮かべるとつい否定的に考え、更には暗い感情が沸々とわき起こり思考がそこで滞ってしまうから、時間が解決するかあるいは俺の中での義弟への感情が風化するまで、あまり考えないようにと俊也さんに言われている。
 だから弟に関する話をそれ以上は俺から言わないようにして、でも話を変えるための別の話題を急に出すことも出来なくて、それで黙ってしまうと俺と間壁先輩の間にぽっかりと沈黙が出来てしまった。
 ただ、その沈黙は誰かと共有できるような類のものではなくて、沈黙が続けば続くほど気まずい雰囲気が増すから、俺はやっぱり何か会話の糸口なりを見つけなければと、慌てて先輩を見上げて口を開いた。すると、
「先輩――」
「橋谷――」
もしかしたら同じ事を思ったのかも知れない先輩と言葉が重なってしまった。
 同じタイミングで口を開いた偶然と、その気恥ずかしさと可笑しさに思わずお互いに苦笑して、そして先輩が「橋谷からどうぞ」と言うので俺は先を続けた。
「その、先輩は大学に行ってもサッカー続けるんです、か?」
 思わず自分の願望を込めて「続けるんですよね」と押し付けがましくなりそうになった語尾を、すんでのところで「か?」と言い換えてやんわりとした疑問形で問うと、先輩は一瞬だけ真剣な表情になり、かと思うと次には曖昧な笑みを浮かべて答えた。
「一度は諦めたつもりだったんだ。でも昨日の決勝を見たとき、僕はもう一度挑戦したいと――諦めきれないと思った。我慢できなくて、すぐ親にサッカーを続けたいって言ったけど、昨日も言った通り親は反対でね……。
ただ僕は頑固なところがあるんだ。だから、時間をかけても親を説得するつもりだよ」
 そう言って最後に先輩が笑って、俺も嬉しくなって思わず顔が綻んだ。
 先輩が大学に行ってもサッカーを続けていけるのか、それは今の段階では分からないけども、でも先輩がサッカーを諦めないということがとても嬉しかったし、来週の引退式で見納めかと思っていた先輩のプレーが、もしかしたら今後も見ることが出来るんだと思うと馬鹿みたいに今から楽しみだった。
 その嬉しさと頑張って欲しいという俺の気持ちを伝えると、先輩は更に笑みを深くして「ありがとう」と言って、それからすぐに気遣わしげな表情になって、さっき先輩が言いかけただろう言葉を続けた。
「橋谷はサッカー、続けるよな?」
「え、はい、続けるつもりです……けど?」
 なぜ唐突にそんな質問をされたのか分からなくて、俺が訝しげな表情をしていると先輩が説明をした。
「橋谷はさ、2年のやつと折り合いが悪いっていうか――だろう?」
 “折り合いが悪い”とはつまり俺と2年の先輩との関係が悪いということで、もちろんそれは2年の先輩の一部とだけだが、確かに間壁先輩の言うとおりで今までに軽く衝突しかけたことはある。
 たぶん、俺とその先輩方との考え方がまったく逆で、1年後輩の俺が言えることじゃないかも知れないが、お互いにお互いのことが気に障るのだろうと思う。
 そのことを間壁先輩は心配してくれているのかと初めて知って、それから俺はもしかしたら3年の先輩が居たから今までは問題にもならなかったが、3年の先輩がいなくなったら摩擦はもっと大きくなるのかも知れないと、そこで初めて思った。
 そして、間壁先輩はそこまでをも含めて考え、心配してくれているのかも知れないと思うと、自分の勝手な感情のことで先輩に気を遣わせてしまっていることが非常に申し訳なくなった。
「あいつらはさ、まぁ普段の態度とか口は悪いけど、サッカーに関しては真面目なやつらだし、今の2年と1年とできっと全国も行けると僕は思ってるんだ。
だから、3年の僕らが出来なかったことを、きみたちで叶えて欲しい――なんて言ったら押し付けになるかな」
 おどけたように笑う先輩に俺は首を振って「いえ」と答えるだけで精一杯だった。
 あまり良く思っていない2年の先輩を、間壁先輩が褒めたりすることが気に入らないと思いつつも、その感情がすでに駄目なのだと内心の俺が俺を諌めるから、身内では葛藤が起こって気持ちを落ち着けるのに少し時間がいった。
 だけど、これ以上先輩に気を遣わせたり心配させたりしたくないと思い、先輩が俺の肩に手を置いて「でも無理はするな。何かあったら僕に言えばいいから」と言ってくれて、俺は笑みを作ると頷いてから「ありがとうございます」と礼を言った。
 それから、先輩と俺は少しだけ雑談をしたのだけど、こうして会話をしていると告白される前と何も変わらなくて、今日先輩と会うまで気まずいと思っていたのが嘘のようだった。
 もともと間壁先輩は俺にとって憧れだったから、そんな先輩と「会いたくない」と思っていたことが今では不思議に思えて、告白されたのは夢だったんじゃないかなんて、まさかそこまで考えることはなかったけども、今俺と普通に話している先輩を見て先輩が俺を「好き」と言った気持ちは、実はやはり男性が女性に、女性が男性に寄せる想いとは別の種のものだったんじゃないかと俺は思った。
 会話はサッカーのことから始まって、先輩が受験のためなかなかサッカーが出来ないとぼやき、そこからどこの大学を受けるのかとか、幾つ受験して本命はどこの大学かとか、それから受験が終わったあとのことに先輩が思いを馳せ、受験が終わったら存分にサッカーを楽しむんだと先輩が言うから、結局先輩の頭の中にはサッカーしかないんじゃないかと俺が思い始めたころ、1台の車が俺から見て前方奥からゆっくりとこちらへ走ってくるのに気付いた。
 夜とはいえ6時半から7時のこの時間、今までにも何台か俺と先輩の横を走り過ぎる車はあったが、俺がその車に気を取られたのはよく見知ったスカイミストのワゴン……俊也さんの車だったからだ――といって外灯があるとは言えこの暗さで色や車種がすぐに分かったわけじゃない。何度も聞いたことがあるエンジン音で、それが俊也さんの車なんだと気付いたのだ。
 俺の視線に気づいたのか、先輩から見ると車は先輩の後ろから走ってきていたから、俺の視線を追うように先輩が後ろを振り返った。その時ちょうど俺と先輩がいるよりも手前のマンション駐車場入口に俊也さんの車が入っていくところで、それをなぜか先輩は黙って見送っていた。
 俊也さんの車が完全に見えなくなると、先輩はまた俺に向き直り
「さっきのが従兄?」
と訊いてきたので俺は頷いた。
 単なる確認のために訊いただけだろうと思っていた俺は、俺が頷いたあとで「そうか」と意味深に呟く先輩にふと違和感を覚えて、思わず先輩を見つめてしまったが、先輩はそんな俺の視線に気づかなかったのか気付かないフリをしたのか、とにかくまたいつもの穏やかな笑みを浮かべると「そろそろ帰るよ」と言った。
「ごめんな。寒いのに、つい長話してしまって」
 謝る先輩に首を振って「いいえ」と答えて、それから「楽しかったです」と続けようとしたがそこでまた俺は違和感を覚えた。先輩と話をするのは楽しいけど、でもそういえば今日先輩は何を話しにきたんだっけ。
「橋谷」
 名前を呼ばれて少しだけ俺より背の高い先輩を見上げると、微かに笑みを見せたままの真剣な表情を浮かべた先輩の顔が、立ち位置は変わっていないはずなのにやけに間近に見えて俺は焦った。
 先ほどから感じていた違和感の意味をそこに見た気がした。ただ、それは違和感というよりもまるきり俺の勘違いだったという方が近いと思う。
 そんな俺の戸惑いはよそに、瞳に外灯のあかりを鈍く反射させて先輩が言った。
「昨日、橋谷は僕の気持ちには応えられないと言ったけど、僕はやっぱりまだ橋谷のことが諦められないんだ。僕を好きになってくれとは言わない、でも、諦めることが出来るまで僕が橋谷を想うことを許して欲しい」
 俺がそれに答えられずにいると、それを予想していたように先輩はとくに傷ついたり気に障ったりした様子もなく、「それじゃあ」といって俺の横を通り過ぎると学校へ行く方向へと歩き始めた。
 その時になってやっと先輩は歩いてここまで来たんだろうかという疑問が浮かんだが、ゆっくりと遠ざかっていく先輩の後姿に今更それを問う気には当然なれなくて、ただそれ以外のことを考えることも出来ずに俺は黙って先輩を見送っていた。

2009.02.10

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