スーパーを出ると、ついに雨がシトシトと降り始めていて、あと少し我慢してくれたらと思ったのは、もちろん傘を持って来てなかった俺の勝手な願いで、予報士の言うことをちゃんと聞いておけば良かったというだけのことだ。
俺は2つになった買物袋を両手に持って、すでに夜のような暗さになった空を見上げていると、
「車、ここまで持ってくっから、待ってて」
と、陽平さんが言って走って行ってしまった。
別に一緒に車まで行っても良かったのにと思いながら、でも陽平さんという人は思いのほか気配りが出来る人なんだなと、こういう時によく感じてしまう。
最初の印象ではデリカシーが無いというか、悪い言い方をすれば馴れ馴れしいって思うんだけど、つまりは人懐っこくって表裏のない人なんだ。
表裏がないってしばしば良い意味に使われるけど、言ってみれば自分の気持に正直ってことで、好きな人には好意的な態度なんだけど、そうじゃない人には当然それだけの態度を取ったりもするもんで、俊也さんとの会話の端々にそういう雰囲気の話が出てくると、時々エゲツナイなんて思ってしまったりもする。
でも、基本的に人好きなので俺自身は滅多にそういう陽平さんを目撃することはない。
そういう部分を感じるとしたら、携帯で仕事関係の人と話をしているときだろうか。
真剣というよりはどこか不機嫌に見える表情に、言葉を当てはめるとしたらプライドがしっくり来るような、それはそれほど仕事に誇りを持ってるってことなんだろう。
しばらくして、スカイブルーの少し落ち着いた感じのある色のセダンが俺の前に止まった。そうして、両手がふさがってる俺のために、陽平さんが運転席から身を乗り出して助手席のドアを開けてくれる。
袋のひとつを後ろの席にやって、もうひとつを膝に抱えて助手席に乗った俺は、当たり前に車に乗せてもらってるのが何か嫌で「ありがとうございます」と言ったが、何のお礼かは通じなかったらしい。
前を見ながら陽平さんが「ん?」と言ってきたので、
「いや、車……乗せてもらって」
と俺が言うと陽平さんは笑った。
「んなの気にすんなって! ホント、お前ってレイギ正しいっつーか細かいっつーか」
似たようなことをよく言われる、「案外、真面目だな」と。
少しツリ上がった眉と目は、人からは時として我がままな印象をもたれているらしいけど、親しくなれば思ってたのと違ったと言われることが多い。
自分のことは自分が一番よく知っている、と言いたいんだけど人からそう言われるたび、自分自身のイメージが揺らいでしまうこともあった。
まさに見た目通りだと俺自身は思ってるんだが……。
ただ、幼いころから母子家庭だったり、その為に母方の祖母がよく俺の面倒を見にウチに来ていて、このお祖母ちゃんが礼儀とかには厳しかったりしたので、端々でそういうのが出ているのだとは思う。
ただ、自分の性格のことで訂正したりなんて馬鹿らしくて、俺は話題を変えた。
「そういえば、なんで陽平さんスーパーに居たんスか?」
「あー、偶然な、お前がバスから降りんの見て、たぶんスーパー寄るんだろっつって待ってたんだよ」
そうか、マンションへ来る途中だったんだな、と考えたとき、なぜ今晩ウチに来るのか疑問に思っていたことを思い出して、一瞬訊いてみようと思ったんだけど「なんでウチ来るんスか?」なんて訊けなくて、結局別の質問をした。
「今日、仕事はどーしたんスか?」
「オフだよ、オフ! サボったみたいに言うなっつーの」
陽平さんに言われて、そんな言い方したかなと振り返っていると、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し火をつけながら陽平さんが思い出したように
「そうそう、聞き損ねてた。さっき何悩んでたのよ」
と訊いてきて俺は思わず舌打ちしそうになった。忘れててくれればいいのに。
「いや……別に」
なんとかウヤムヤに出来ないかと思うのだけど、そんなことで引き下がらないのが陽平さんという人だった。
「なになに、気になンじゃん! 悩みごとだろ? 俺、相談に乗るよ?」
言いながら火のついた煙草をくわえ大きく吸い込んで、運転席側のウィンドウを開けると煙を外へ吐き出し逃がす。同時に外の冷たい風が強く吹き込んでくる。
相談に乗るよ、と言われたところで俺としては、あまり陽平さんという人を失礼ながら信用してなくて(口が軽そうだから)、悩みの内容が内容だけに(男に告白されたという内容で)軽々しく相談できるものでもないし……。
「深刻なの?」
「や、深刻では……っていうか、別に」
「部活のこと?」
「えーっと……」
「なんかさぁ、白菜持って考え込んでるの見てさ、俺、ああサッカーのことで悩んでンのかなぁとか思ったワケよ」
そんな風に見えていたのか、っていうことより、これは確実に悩みを聞きだされてしまう方向に行ってるなと俺は危機感を持った。ただ、内容はサッカーへ向かってるのでそっちへ逃げよう。
「まぁ、もう3年の先輩が引退なんで、これから大丈夫かなって……」
「ああ、そっか。受験シーズンだもンな。やっぱ淋しいとか?」
「そうッスね。3年の先輩はホント尊敬できる人ばっかでしたから」
「ふ〜ん。それって、今の2年はダメってこと?」
「いや、えっと……」
「違うの? そういう風に聞こえたけど」
「そういうわけでは――ただ、2年の先輩は3年の先輩とはやっぱ違うなって……」
そんな当たり前のことを言いつつ、俺はまた先輩方のことを思い出す。
3年の先輩は俺より2年上だからってこともあるのか、ずいぶん大人な雰囲気を感じる。俺が入った当時からすでに後輩がいて、さらに部で一番上の立ち位置になるから、誰ともなく責任感みたいなのを持ち始めていたのかも知れない。
打って変わって2年はそれまで一番下だったし、人柄も極端に分けるとかなりの自由人か、あるいは部員や部活動に対して消極的な人か、そのどちらかで真ん中がいない、という感じだった。
つまり、3年の先輩にはまとまりを感じるのに対して、2年の先輩はまとまりのない印象を覚えていた。
だから、そんな2年の先輩についていけるのかっていうのが正直な不安だった。
「そんな2年のやつが不甲斐ないんならさ、カズくんが3年になったら頑張ればいいじゃん」
煙草の火を消しながら陽平さんが軽く言って、車はマンションに到着し駐車場へ入った。
簡単に言ってくれるよな、と思いながら俺はとくに返事をするわけでもなく黙っていた。
それにしても、悩みを聞いてやろうという思いはひとまず優しいと受け取れないこともないけど、本人には真剣に聞くというつもりが果たしてあるんだろうか?
こんな風にあっさりと、考えているんだかいないんだかみたいな解決案とか出されてしまうと、相談乗るって言うならもっと真面目に考えてくれ、とか思うんだけど、結局自分の気持ちの問題でもあるからそうも言えない。
車を駐車場にとめて買物袋をひとつずつ抱えながら、マンションのエントランスのオートロックを解除し、エレベーターへ乗り込むと6階へ向かった。
その間も陽平さんは
「やっぱあれ? 先輩からいびられたりすんの? なんかの罰で校庭何周も走らされたり腕立て100回とか言われたり。なんてちょっと古いか? 今じゃどんなことさせられんの?」
と、相談を聞いてくれているのか興味本位なのか、更に突っ込んで訊いて来たりするから、それを適当に相槌打って受け流してみたりしていたが、何気なく見た陽平さんの買物袋を持っている方ではない、もう一方の手にも少し大きめの紙袋があって、なんだろう? と気にはなったが訊かないでおいた。
鍵を開けて入ると中は当然真っ暗で、玄関から廊下へ、そしてリビングダイニング、キッチンへと入って行きながら順に電気を点けていく。
「俊也帰ってくんの19時ごろだっけ?」
俺と同じようにキッチンへ入って、買物袋の中身を出しながら陽平さんが訊ねてくるので、それに「うん」と答えて俺はコートを脱いで椅子にかけ、そのまま夕飯の用意をしようとエプロンをつけた。
「あれ? カズくんは部屋着とか着替えないんだっけ?」
「ないっすよ、そんなの」
本当はないわけでもなかったが、何となく陽平さんのいるときに着替えはしにくい。
陽平さんがバイだからってわけではないと俺自身は思ってるんだけど、やはりこれは最初の出会いがマズかったんだろうと思う。
今思い出しても恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔が熱くなる。
初めて陽平さんに会ったのは俺がこのマンションに引っ越してきて間もない頃で、そうだ、午前中で帰って来た覚えがあるから、あれは高校の入学式の日だった。
入学式が終わってすぐに帰ってきて、玄関開けて中へ入ったら見知らぬ男性がいて、それが陽平さんだったんだけど向こうは俺のことを誰かは知っていたらしくて、
「キミが一幸くんか。へぇ、さすが俊也のイトコだな、キレイじゃん」
と訳の分からないことを言いながら近づいてきた。
俺も実際のとこ俊也さんに「城田陽平」という名前の親友がいることは知っていたけど、それまで会ったこともなくて顔も知らなかった。
それでも無関係の人が部屋にいるわけはないと思い、たぶん俊也さんの友人だろうと推測したが、当の俊也さんはなぜかその場にいなかった。
そして陽平さんの訳の分からない言葉は続いた。
「なぁ、なんで一緒に住むことになったの? 学校が近いってのは聞いたけど、本当はもっと別の意味があんじゃない?」
やはり言ってることは意味不明だったが、学校とは別の意味と言われて俺の家のことを指してるのかと思って、初対面の相手に自己紹介もなく不躾な質問をするヤツだなと思い、俺はその瞬間に反発心がムクムクとわいた。
「でも珍しいよな。俊也がこんな年下を……ねぇ。やっぱあれ? 昔から知ってて、最初はなんとも思ってなかったけど気がついたら好きだった、とか?」
意味が分からないんですけど、俺、高校が近いから住まわせてもらってるんです、とか何とか説明するのに、陽平さんは笑って手を振った。
「いいって、別に隠さなくても。俺もバイだしさ」
バイというのがバイセクシャルの意味だとはこのとき知らなくて、内心でバイってなんだ? とか思いながら、そろそろこの目の前の人が煩わしいと思い始めたとき、
「でも本当にキレイな子だな。な、俊也なんかやめて俺にしてみない」
と言うが早いか、俺の顔を両手で挟むと顔を近づけてきて、俺の唇に自分の唇を押し付けてきた。
本当に軽く触れるだけのものだったが、俺を混乱させるには十分だった。
瞬間に頭が真白になったが本能が拒否反応を発動させて、俺は持ち前の反射神経で相手を突き飛ばした。おかげで唇が触れていた時間は短かったが、それでも相手の唇の柔らかさとか触れ合わされる感触とかが残るには十分で、俺は自分の口元を片手で抑えてしばらくその場に凍りついた。
陽平さんも陽平さんで俺のそんな反応を見てしばし呆然としていて、タイミングがいいというよりは悪いと思えるこの時に俊也さんが帰って来た。
近くのコンビニに行っていたらしく、手に小さな買物袋を持って「ただいま」と言いながらリビングダイニングに入ってきた。そうして玄関の靴で俺がいるのに気付いたのか入って来ながら
「ユキ、早かったんだな」
と笑みをこぼすが、場の雰囲気がおかしいのに気付いたんだろう、すぐに「どうした?」と訊いてきた。
それでも、俺の口からキスされたなんて言えなくて、ただ俺は口元を押さえながら顔が熱くなるのをどうにか出来ないか、と無理に決まってることを考えてたりして。
俺がそんなだから俊也さんは当然、次に陽平さんに同じように訊ねたが、これもまた陽平さんの口からキスしたなんて聞きたくなくて、俺は気づいたら自分の部屋に向かっていた。
後ろから俊也さんに呼び止められるがそれは無視して。
その後、陽平さんから事情を聞かされたんだろう俊也さんが、陽平さんを怒鳴りつけてる声が聴こえて、しばらくして部屋の戸の前から2人が謝るのが聞こえたけど、やっぱり俺は無視をしてしまった。
数日後、平静を取り戻した俺に改めて陽平さんが謝りに来て、それがあまりにも平身低頭だったし、俺もたかがキスごときでいつまでも怒ってるのもどうかと思ったし、自分がこだわればこだわるほどずっと謝られ続けて、その度にあの時のことを思い出すのも正直しんどくて、だから陽平さんの謝罪を受け入れることにした。
まぁ、つまりそんなことがあってから、後にバイの意味も説明されて分かったし、陽平さんのことはもうそこまで怒ったりしてないけど、多少なりとも警戒心が残ってて仕方ないと俺は思う。