冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[1-2]

 音戸沢おとざわ競技場の観覧席の座席数は約5万席というから、ざっと見渡してみても空席がそれほど見当たらないところを見ると、今この競技場には5万人近くの人たちが全国高校サッカー選手権大会決勝の観戦に来ているというわけだ。
 空は雨か雪でも降りそうな色をしていて、こんな寒い中でよくこんだけの人たちが集まったなと思うのだけど、そういう俺もその一人なのは間違いなくて。
 ただ観戦に来た人たちのほとんどが、どちらかの高校の応援ということになるのだけど、俺はと言えばどちらも他校だから別に応援はしてなくて、どちらかと言えば羨望と悔しさを露にしながら試合状況を睨みつけている、と言った方がより正確だ。
 だけども、それは俺だけじゃなくて隣や前後の席には他の部員やもちろん先輩もいて、当然だけども先輩たちは俺以上に悔しさを噛み締めながら観戦しているんじゃないかと思う。
 俺の通う高校、根湖高校はバスケットが強くて有名だけど、サッカーもそこそこに強くて過去には全国大会に出場したこともあった。その全国大会に出場したとき俺はまだ中学生で、中学でもサッカーをやっていた俺はその時も部のみんなで大会を見に来ていたんだけど、その時の選手たちのプレーに憧れたから根湖高校へ行こうと俺は決めたんだ。
 それが今年は地区予選の決勝で敗れてしまい、更には俺らを負かした相手校が今決勝で戦っている土都倶高校であり、それゆえに俺たちは観戦しつつも平常心を保つのに苦心していた。
 と言って俺はまだ一年で控えの選手にもなれなくて、地区大会でもただ今のように観覧席から声援を送っていただけだったんだけど、3年はもうこれで終わりのはずだから悔やんでも悔やみ切れないんじゃないかと思う。
 そんなことを考えていると歓声が沸きホイッスルが鳴った。見ると土都倶高校の選手が敵ゴール前で走り回りながらはしゃいでいる。どうやら先取点を取ったようだ。
「あれが1年だっていうんだから、やンなるよ……」
 今ゴールした選手のことを言ったんだろう、俺の後ろにいる柳先輩が誰にともなく呟いた声は、こんなに騒がしい中でも十分耳に届いた。
「1年っつーことは俺らと同級ってことで――」
 先輩の言葉を受けて、俺の隣にいる雄樹が難解な問題でも解くような口調で言うが、それには頭上から木原先輩の拳が軽く振ってきて中断される。
「って! あにすんッスか……」
「あと2年、お前らが勝ち進めば絶対アイツと当たるんだからな。ぜってー負かせよ」
 激励とは程遠いような命令口調で先輩が言うので、つい口を尖らせて抗議したくなるのだが、負けて悔しいのは俺らも同じなのでそのつもりではいるのだけども、まずそこまで勝ち進めることが出来るのかという不安はあった。
「ってか、そういえば橋谷、悠二は?」
 俺らへの命令は言えば受理されるものだと思っているのか、特に俺らの返事も待たずに木原先輩が俺の隣の空いた席を見て言った。ちなみに橋谷とは俺のことで、「悠二」とは木原先輩と同じ3年の間壁先輩のことだ。
「トイレって言ってたッスよ」
 観戦中に暑くなって脱いだらしい、間壁先輩のコートが置かれた空席を見ながら言うと、
「なげーだろ」
と返って来たが、俺に言われてもと思って黙っていたら
「迷子になってるんじゃないか?」
「捜して来い」
ということになった。
 木原先輩の命令を受けて立ち上がりながら、なんで俺がとは思ったが口には出さず、でも顔には出ていたようで後ろから
「見つけるまで帰ってくんなよ」
と付け加えられてしまった。
 まったく人使いは荒いし理不尽だ、とは思いつつも木原先輩という人は悪戯とか人を困らせることが好きらしいんだけど、底意地が悪いということは無いし会話も楽しいから嫌いだと思うことはない。
 ただ、やっぱり強引なところがそれはそれで付き合うにはしんどいんだけど。
 木原先輩の命令に自分でも律儀だと思いながら「はいっ!」と返して俺は間壁先輩を捜しに行く。
 座席横の階段を降りて一旦ホールへ出ると、正面入口近くに見えるトイレへと向かった。
 決勝戦の最中だからかホールにも人気はほとんど無く、小さく聴こえる歓声と独特の応援が余計に静かさと、ついでに寒さをも際立たせていた。
 人気のない中トイレへ向かいながら、もしかして間壁先輩はトイレで泣いてるんじゃないかと俺は想像して、先輩が泣いているところを脳裏に思い描くと思いのほかリアルで、非常にそれは確率が高いことなんじゃないかと俺は心臓が早くなった。
 泣いてる姿がリアルだと思ったのは、先輩は誰にも負けないほどサッカーが好きで、3年のこの大会に出ることだけを考えて頑張ってきていて、しかもキャプテンとしてみんなを引っ張ってきたし、また責任感も強いから未だに負けたことを引きずっててもおかしくはない、と思う。
 だから、今日の土都倶高校の試合を見て、誰よりも悔しくて泣いているんじゃないかと――。
 だけど、トイレの入口に立って聞こえてきたのは先輩の泣き声じゃなくて話し声だった。
「――分かってるよ、でも――なんで――駄目なの?――分かった、分かったよ。じゃ……」
 先輩の声しか聴こえないけど、独り言のようにも思えなくて、最後にピッという機械音がしたので携帯で誰かと話していたのだと分かった。
 トイレの入口からは、先がすぐに壁で左に折れないと奥が見えなくて、だから間壁先輩がトイレの奥から現れたのは唐突に見えたし、きっと先輩から見ても俺が唐突に現れたように見えたのじゃないかと思う。
 トイレの奥から出てきた先輩は俺がいるのに気付くとハッと立ち止まって驚いたように俺を見つめた。
 この状況はつまり図らずも俺が先輩の会話を盗み聞きしていたような状況になってしまったということで、俺は先輩が何か言うよりも先に否定しなければと慌てて口を開いた。
「あ、あのっ! すいません、俺、別に立ち聞きするつもりは……さっき、ついさっき来たんス。えっと、木原先輩に捜して来いって言われて……」
 しかし、そうは言っても実際に最後のほう少し聴いていたのは事実で、まったく立ち聞きしていないなんていうことを証明することなど当然無理なのだけど、でも先輩はすぐ笑顔になった。
「そっか、捜しに来てくれたのか。悪い……」
 そう言ってから今度は俯いてしまった。だけども俺より先輩のが8cmくらい長身だから表情はよく見える。無理に笑いながらも何かを必死に我慢しているような辛そうな表情だった。
 奥二重の大きな目が、今は憂いにかげって見える。
「親に電話してたんだ。大学に行ってもサッカー続けたいって――。分かりきってはいたんだけどね、やっぱ駄目だって言われたよ。もともと、高校までって約束だったから……」
 先輩がどんな電話をしていたのか、聞くつもりはなかったし聞きたそうにしていたつもりもなかったんだけど、先輩から言うということは聞いて欲しくて話しているのだろうと思って、俺は黙って先輩の話を聞くことにした。
「親は僕が将来、いい会社に入るか弁護士にでもなることを期待しているらしい。中学のときは偏差値の高い高校入るのと、成績も10位以内をキープするって条件でサッカー続けるのを許されたけど、その代わり大学に行ったらサッカーはやめて勉強に集中しろって言われてたんだ。それは僕自身納得していたつもりだったんだ。けど……」
 人の家庭の事情に勝手なことも言えず、だけど先輩がサッカーのことでこんなに悩んでいるとは思わなくて、俺が何をしたからと言ってどうにも出来ないとは分かっているけど、それでもどうにか出来ないだろうかと思わずにはいられなかった。
 そう思うと、つい勝手に口が動いてしまっていた。
「諦めないで下さい、間壁先輩。大学までまだ日はあるし、大学入ってからも親説得し続ければいいじゃないですか。今までだって勉強と部活両立させてたんだし、大学でも両立できれば親もきっと――」
 先輩が親を説得するよう、俺が必死に先輩に説得しながら、でもそう説得されることが先輩にとっては辛いんじゃないかと言っている途中で気づいて、俺はその先の言葉が続けられなくなった。
 だけど、その瞬間に先輩の体が俺の間近に見えて、それから、え? と思う間もなく俺は先輩に抱きつかれていた。
「ごめん……少し、このまま……」
 抱きつかれたことに戸惑って、引き離すべきなのか迷っていると、頭の横らへんで先輩の小さな声が言うので、手持ち無沙汰の手は先輩の肩にやってそのままじっとしていた。
 先輩の、染めてはいないらしい色素の薄い長めの髪が、俺の耳にかかってちょっとくすぐったい。
 少しして離れていった先輩の目元はやっぱり赤くて、俺が先に想像していたことがその通りになったことが何となく可笑しくて、ついクスッと笑ってしまったんだけど、
「ありがとう、橋谷。 ――僕は橋谷のそういう優しいところがずっと好きだった」
と言われて一瞬固まる。
 だけど、すぐに深い意味はないんだと自分の中で解釈して、「いや、はは……」と照れ隠しみたいに笑いながら先輩を見上げると思いのほか真剣な表情で俺を見つめていて、また何も言えなくなった。
「好きなんだ、僕は。橋谷のことが」
 最初は過去形だったのが今度は進行形というか、異性に告白するときみたいな何か勢い迫るような空気があって、それを感じた途端に俺は居心地の悪さを覚えた。
 この空気をどうにかしなければと思うのに、身動きを取ろうにも動作がぎこちなくなりそうで、そう思うと余計に体が固まってしまう。
「橋谷……僕のこと、嫌いか?」
 俺が答えられずにいると、先輩が俺を覗き込むようにして片手を伸ばしてきた。その先輩の手が俺の頬に触れようとしているのに気付いて、俺は慌てて一歩下がった。
「おっ、俺っ、その、先輩のこと、嫌いとは思ってなくて、先輩として、キャプテンとしてずっと尊敬してました。だけど、先輩の気持ちには応えられませんっ! すみませんっ!」
 言いながら俺は勢いよく体を折り曲げて頭を下げて、下げたまま体の向きを変えて先輩に背を向けると走って逃げた。
 先輩は引き止めることも追ってくることもなかったけど、ずっと背中に先輩の視線を感じて仕方なかった。
 少しだけ息を乱して観覧席まで戻ると、階段を上がって元の席に戻った俺に木原先輩が
「おい、悠二はどうしたんだ?」
と声をかけてきて、訊かれて「見つけるまで帰って来るな」と言われたことを思い出したが、だからと言ってまた間壁先輩の元へ戻るつもりも俺にはなくて、
「居ませんでした」
と言うしかなかった。
 しかし、当然木原先輩は俺の言葉を受諾してはくれなくて、「はぁ? 何言ってんだお前」と俺に抗議しようとしたが、その時、俺の真後ろの席、つまり柳先輩の携帯が数秒鳴って止まった。メールのようだった。
「悠二からだ。――用事があるから先に帰る、だってさ」
「はあ?」
 更に納得していないような様子で木原先輩は声を上げるが、対象が俺から間壁先輩に移ってくれたようで、それ以上俺に何か聞いてきたりすることもなくて安心した。
 フィールドを見ると、また土都倶高校の選手が点を取ったらしく、敵ゴール前で走り回っているのが見えた。
 間壁先輩を捜しに行く前の様子と酷似していることに、俺は出来ることならその時に戻りたいと強く思ったが、到底無理だということもよく分かっていた。
 今はもう歓声が間近でしているというのに、それがとても遠くに聴こえた。
 その遠い歓声を聞きながら、先輩に抱きつかれた時の温かさや感触がよみがえり、その度に「思い出すな、忘れろ」と心中で呟きながら払拭しようとしたが、どうやらしばらくの間は忘れられそうに無かった。

2008.05.29

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