カキフライカレーを食べて腹痛と嘔吐に倒れた日の翌日、大事を取ってもう一日休もうと言う俊也さんの言葉に素直に従い、学校に行くつもりはなかったがせめて朝食は作ろうと、午前7時に目覚ましをかけて起きたが、部屋を出て5歩ほど行って俊也さんの部屋の前を横切った瞬間、俊也さんの部屋の戸が開いて勢い呼び止められた。
「ユキっ」
「はいっ」
思わず俊也さんの勢いに圧されて丁寧に返事をし振り返ると、まだパジャマ姿の俊也さんが寝癖もそのままに部屋から出てくるところだった。
でも、すっかり目は冴えているようで、俺の傍まで来るといつにない強い視線で俺を見下ろした。
「どこに行くんだ?」
「キッチン……」
「何をしに?」
「朝ごはんを作ろうと……」
問われるまま答えると、そこで俊也さんが息を吐き出した。ため息だ。
俺、何か悪いことを……? と思っていると俊也さんは右手で俺の部屋を指して言った。
「朝食は僕が作るから、ユキはまだ寝てなさい」
「あ、でも……俺もう大分――」
「いいから、部屋に戻る」
ピシリと言われてそれ以上反論することも出来ず、俺はすごすごと自分の部屋へ戻った。
その後、しばらくして俊也さんが朝食を運んできてくれて、それを食べるともう吐き気はないから今朝は整腸剤だけを飲んだ。それから、また少しして部屋に顔を出し「行ってきます」という俊也さんに「行ってらっしゃい」と返し、俺はそろそろ寝てるだけっていうのも飽きたなと思いつつも、それからもうしばらくベッドの中で時間を過ごした。
身体の調子もほとんど良くて、それで気持ちに余裕が出来るとまず考えたのは学校のことだった。2日も休んでしまって、3学期初っ端から躓いちまったなと思いつつ、まぁニシにノート見せてもらってついでに分からないところは教えてもらえば問題ないかと安易に決着をつけると、次に部活のことを思った。
すでに3年が事実上引退して現在2年と1年しかいないサッカー部は、どうも積極的に参加しようという気持ちを失くさせ、さらに2日も休んでしまったから尚更どうでもいいような気持ちに傾いてしまう。
いや、サッカーは好きだから続けたいと思うんだけど、考えてみれば俺は中学の頃から間壁先輩をただ追っかけてこの高校に来たんだった。
その目標というか目的というか――その間壁先輩がいなくなるということで、こんな気持ちにさせられるとは思わなくって、少々胸の中でサッカーって自分にとってなんなんだと考えずにはいられなくなる。
しかも追っかけていたはずの間壁先輩に、今度は俺の方が想いを寄せられるという形で迫られて、一度は断ったものの「諦められるまで想うのを許して欲しい」とかなんとか言われ、想われてる方の俺はどうしたらいいんだとか思うけど、でも結局俺にはどうすることも出来ないんだからどうもしなくていいんだ――と、自分に言い聞かせた辺りで緩やかな眠気が俺の意識を包み込もうとする。
心地良い眠りに身を任せようとしたとき、浅い眠りから浮上するように「そういえばさっき、なんで俊也さんは怒ってたんだろう」という疑問が浮かんできて途端に眠気がどこかへ行ってしまった。
俺が無理をしていたと思ったんだろうか。無理して朝食を作ろうとしたから怒ったんだろうか。でも、確かにまだ少し体はダルかったけど、朝食が作れないってほどでもなかったし、もう吐き気もまったく無いし――。
そんな、自分ひとりでは答えの出ない疑問を持て余していると、それに当たっているのかどうかは別にして、明解な答えを提示してくれる人が現れた。現れたといって俺の目の前にではなく電話で、だが。
すっかり電話の子機が自分の部屋に置かれていることを忘れていた俺は、子機が鳴った瞬間飛び上がるほど驚いてしまったが、ビクついてしまった自分が恥ずかしいという気持ちは置いといて慌てて子機を取った。
「もしもし、神崎ですが」
ここは俊也さんの部屋だから、俺が電話を出るときは当然俊也さんの名前で応答するのだけども、今回に限ってはその必要はなかった。
『あ、カズくんか! おはよう、おはよう。調子はどーよ?』
いつだってテンションの高い陽平さんだった。
陽平さんの質問に「お陰さまで」と体調のいいことを報告し、そして昨日の礼を伝える。もしかしたらまた「ミズクサイ」とか言われるかなと思ったら、ちゃんと「どういたしまして」という言葉が返って来た。
意外に思いつつも「なんの用ですか」とも言えずに黙っていると、すぐに陽平さんから『俊也は?』と訊ねられたので仕事ですと返すと『そっか……』と何だか気落ちしたような声が返ってきて、そのまま電話を切られそうだったので俺は慌てて先ほど持て余していた疑問を陽平さんに投げかけた。
するとまず笑い声が返って来て、そして昨夜と同じようなことを言われる。
『俊也はカズくんに甘えて欲しいんだって』
「え……?」
『気を使って欲しくないんだよ』
「気を……ですか」
『そっ!』
そうか……そうなのか?
どうも釈然としない気持ちで考え込んでいると、また声のトーンを落とした陽平さんが電話の向こうで呟く。
『しっかし、俊也がそんな強い口調で言うのも珍しいよな』
「で、ですよね!? やっぱり怒って――」
『いや、俺が昨日余計なこと言っちまったからだと思うが……』
「え? 何を?」
『ん、ああ、いやいや、こっちのこと』
何だか引っかかる言葉を聞いたような気がするけど、やっぱり俊也さんと陽平さん喧嘩したんだろうか。いつものことだと思うけど、大丈夫なんだろうか。
若輩者の俺が大人の2人の仲を心配するのも余計なことだけど、高校のころからの親友っていうしあまり大事にならないといいな……とか考えていると、
『じゃ、もう切るわ』
「あ、はい。あ、あの、俊也さんに伝言とか……」
思わず気を使ってそう言った言葉は、どうも陽平さんを呆れさせたようだった。
『あのな、一幸くん』
「はい……」
『今のご時世、携帯電話というものがあるのだよ』
「あ、そうッスね」
『俊也になにか言うことがあったら、俊也の携帯にかけてるっつーの』
「そ、そうッスよね……え、じゃあ今は」
『ま、カズくんのことが気になったからな。っていうかカズくん、そろそろ携帯持てよ』
「はぁ……」
『携帯は便利だぞ。買ったら教えろよ。そうしたら俺の番号をアドレス帳に一番で登録してやるから』
「は、はい……」
言っている意味があまりよく分からなかったが、とりあえず返事をしておくと『絶対だぞ、じゃーな』と言って電話は切れた。
俺は子機を棚に置くと、電話の音にというよりは陽平さんと会話をしたために目が覚めてしまって、ベッドから降りると寝間着から普段着に着替えようと思った。しかし昨日風呂に入ってないのを思い出して、まずは汗で少しベタつく体を洗うことにした。
湯には浸からずにシャワーだけで済ませると普段着に着替え、タオルで頭を拭きながら予習でもするかなと部屋に戻ると、ちょうどそのタイミングを見計らったようにまた子機が鳴り出した。
今度は誰だろうと考えても仕方ないことを思いながら「もしもし神崎ですが」と出ると、今度の相手もご指名は俺だった。
『あ、かずくん!? 体は大丈夫なの? 倒れたって聞いたけど。もう、今朝俊也くんから聞いてびっくりして、私』
母さんだった。
「あー、うん」と適当に相槌を打ちながら、そういえば昨日連絡とかしてなかったなと思ったが、そんな重病とか事故とかじゃないんだから別に、とも思う。
『ね、まだ今もしんどいの? 私今から行こうか?』
本当にすぐ電話を切って来てしまいそうな勢いに、俺は慌てて「大丈夫だって!」と少し口調を強めた。でも、それだけじゃあマズいなとすぐに思い直して付け加える。
「薬も飲んでもう吐き気もないし、食欲も出てきたから大丈夫だよ。それより……」
話してて気付いたというのも情けないほど、うっかりしていたことを俺はやっと思い出した。
「病院代なんだけど――」
そうだ。昨日の早朝に救急に行って診察してもらった代金と薬代を、俊也さんに払ってもらってすっかり忘れていた。吐き気に寒気にと余裕がなかったからだけど、今までそのことを失念していたことに思わず焦る。だけど、
『分かってるわ。それは心配しなくていいのよ』
「そう……」
母さんにキッパリ言われて少しだけ安心して胸を撫で下ろしたが、
『それよりかずくん、俊也くんのマンションにお邪魔してもうすぐ1年になるでしょう。今回みたいなことがこれから無いとも言えないし――そろそろ、こっちに帰ってこない?』
そう続けた母さんの言葉に今度は血の気が引く。
これ以上、俊也さんに迷惑をかけないうちに帰って来いと、そう聞こえた。というか、たぶんその言葉どおりの意味であって、それは当然のことなんだけど、でも母さんの言葉は今の俺にとって、一瞬で心が冷え切るほどの衝撃があった。咄嗟に言葉が出てこない。
『ねぇ、かずくん。聞いてるの?』
問われても答えることが出来ない俺の様子を、どう受け取ったのか母さんは受話器の向こうでひとつため息をついて、
『とりあえず、今度の日曜日に一度帰ってらっしゃい。わかった?』
有無を言わせない口調で言われて、俺はそれを突っぱねるほどの力も無く弱々しく頷いたのだった。
電話を切ったあとベッドの端に腰掛けて、しばらくは悶々とさっきの母さんの言葉を思い返しながら考え込んだが、一人で考え込んでも仕方がないと、一度その考えを払拭すると勢いをつけて立ち上がった。
机に向かってテスト勉強を始めて、気が付くと時刻も12時を過ぎ空腹を感じたが、勉強に気持ちがノッていたので中断したくはないなと思い、そのまま続けていると12時40分を過ぎたころにまた子機が鳴った。
なんとなく今度は俊也さんに用事のある人なんじゃないかと思って、さっきよりも口調に気を付けて神崎ですがと出ると聞き覚えのある声が、今まで聞いたこともないようなかしこまった口調で
『今井雄樹といいますが、橋谷一幸くんはいますか?』
と言うから、俺はむず痒いような可笑しさを堪えつつ「おー、雄樹? 俺」と答えた。
するとすぐに声の主――同年でサッカー部の仲間である雄樹は本性を曝け出して『なんだ、カズちんだったんかよ〜!』と耳障りなほど騒がしくなった。
「なんか用か?」
と、これは陽平さんのときと打って変わって遠慮なく言ってやると、騒がしいまま雄樹が『そんな言い方ないだろ〜』と抗議する。
『3学期はじまって早々に2日も休んでっから、心配して電話したんだろー』
「そっか、ありがとよ」
『なんだよそれ、心がこもってないっ!』
「そうか? 口調は変えてないが心はこめたつもりだぜ」
『こもってない! 絶対こもってない!』
「うるせぇな。今学校だろ。いいのかよ、携帯なんか」
『ヘーキ、昼休みだし。それより明日は来れるんか?』
「ああ、行く」
『そっか』
そこでふと会話は途切れて、それで終わりかと思ったら雄樹が何気なく続けた、
『間壁先輩も心配してたぜ』
という言葉に思わず硬直する。
なんでそこに先輩が出てくるんだと思ったが、カキフライを食べた日は二度目の先輩の告白を聞いた日で、それを思い出して「ああ」と呟いたあとで、それもそうかと続けそうになり慌てて「そ、そうなんだ」と続けた。
「あ、あのな、カキフライ、食べて中っただけだから、それだけだから」
『ふーん――ん? ああ、カキフライに中ったんだって』
後半は傍にいた誰か――たぶん同じサッカー部で雄樹とは現在同じクラスである友明にだろう――に言って、さらにその返事が返ってきたらしく何を言われたのか、雄樹が騒々しい笑い声をあげる。何に笑ったのか気になって俺は
「なんだよ」
と訊くと
『友明が“ダッセエ”だって!』
と返って来て、聞かなければ良かったと後悔した。
友明には弟と妹がいて、普段ちょっと無愛想なくせに兄弟の世話見は良く、その名残というか癖で他人のルーズな面を指摘したり、時には世話を見たりもするが、基本的に他人に対してはちょっと手厳しい。
「――もう切るぞ」
“ダッセエ”の何がそんなに面白いのか――いや、無表情な友明にやはり無感情にそう言われれば、俺だって自分のことじゃなかったら笑っていたかもしれないが、ともかく笑い続ける雄樹にそういって切ろうとすると、まだ何か言うことがあるらしい雄樹が笑いを含んだ声で『待って、待て、もういっこ』と止める。
「なんだ?」
『カズちんって携帯買う予定ないん?』
デジャヴを覚えたのは気のせいじゃなく、今朝にも陽平さんに似たようなことを言われたのを俺は思い出した。
「そのうちな!」
もちろんそんな予定はなかったが、ヤケッパチにそう言って雄樹の返事も聞かず電話を切った。
ヤケッパチついでに子機をベッドの上に投げ出し、もう一度机に向かってシャーペンを取るがすでに集中は途切れていて、俺は大きく息を吐き出すと空腹を満たすためキッチンに向かった。
まだ胃腸に負担をかけないように軽めの昼食を取って薬を飲むと、すぐに勉強する気も起きずリビングのソファに座るとテレビをつけた。
テレビでは芸能人が30分間、出されたお題のトークをするという何の変哲もない番組が流れていて、俺もそれをおもしろいとかおもしろくないとかなんてどうでもいいと思いながら眺めていたが、一人の芸能人が自分の兄弟の話をしていて気が付くと俺はそれに聞き入っていた。
歳の離れた兄弟だったせいか、今までたいした喧嘩もしてこなかったが、大人になって初めて大喧嘩して腹が立ったし悲しかったがでも新鮮だったと、そんなようなことを言っていた。
その後すぐに仲直りをしたらしいが、本当の兄弟ならどんな大喧嘩をしたってあっというまに仲を修正できてしまうんだろう、そう思ったらとてもその芸能人が――というか兄弟を持つ人たちが羨ましかった。
あ、いや、間壁先輩のとこのような――お互い敬遠しているような兄弟関係も世の中にはたくさんあるのかも知れないけど、それでも俺には血の繋がった兄弟が羨ましい。本音をぶつけ合って喧嘩して、でもその後にはケロリと仲直りができる、そんな兄弟が羨ましいと思う。
30分が過ぎてトーク番組が終わり、俺もまた勉強を再会しようとテレビを消してリビングを出ようとしたら、今日何度目かの電話が鳴った。
俺はちょっとうんざりしてきていて、電話は取ったが応答する声は相手にかなり不機嫌に聴こえたと思う。
『ユキか? ……まだ寝てたか?』
かけてきた相手はこの部屋の主の俊也さんで、俺の声の異変を察してか気遣わしげになり、俺は慌てて口調を戻して「ううん」と否定し、相手に見えもしないのに同時に首も振った。
『体の方はどうだ? まだ辛くないか?』
「うん、もうほとんどいいよ。普通にお腹も空くし」
『そうか』
言葉のあとに少し間があいて、電話の向こうで俊也さんが微笑んでる様子が感じ取れて俺は、今朝とは違ういつもの俊也さんに戻ってることに、ホッと胸を撫で下ろした。
それにしても、お昼休みにしては少し遅い時間だと思うけどもどうしたんだろう。
少し間を空けたあとに俊也さんが口早に告げた用件は、今晩の夕食も自分が作るからというものだった。昨日の早朝から俺がずっと何も出来ていないことに、また脳裏には「迷惑」という二文字が過ぎり、必然的に今朝かかってきた母さんの電話の内容を思い出した。
これ以上、迷惑をかけないうちに実家に帰った方がいいんだろうか……だけど。
『そういえば卵がもうなかっただろう。帰りに買って帰ろうと思うんだけど、ユキ、何かいるか?』
俺の頭の中に今度は陽平さんの言葉がよみがえる。
――俊也はカズくんに甘えて欲しいんだって。
本当にそうなんだろうか。迷惑っていうわけじゃなく、甘えて欲しいって思ってるんだろうか?
『ユキ?』
「あの――」
『ん?』
「桃が、食べたい――桃缶でもいいんだけど」
何言ってんだ、俺。
途端に恥ずかしくなって顔が熱くなるが、
『分かった、桃だな。じゃあ買ってなるべく早く帰るから』
そう言った俊也さんの声が心なしか弾んでいるような気がして、俺はそれだけで驚くほど気持ちが落ち着いたんだ。