翌日、俺の体調も万全になりいつも通りの日々に戻った。
朝の6時前には起きだして2人分の朝食を作り、朝食を1人で食べて準備を済ませると、朝練のため6時30分にはマンションを出て学校へ向かう。
2日も休んでしまったことをまずサッカー部顧問兼監督の雷門に謝り、2日ぶりに会った部員で俺が休んだ理由を知らないやつは理由を聞いてきたり、知っているやつは興味半分で状況を詳しく聞きたがった。
雄樹には「もう平気なのか?」と意外にも気を遣われたが、友明には律儀にも面と向かって「ダセェな」という言葉を再度いただいた。
そんな風にダベりながら準備を進めていたら、集まりだした2年の先輩方の1人、西森先輩の怒号が飛んできた。
「ダラダラやってねぇでさっさとしろっ!」
以前までなら、これは部長の間壁先輩――ではなく、厳しく言えない間壁先輩の代わりに副部長の木原先輩の役目だった。だが、木原先輩も口調は悪く厳しい物言いをするが、西森先輩のように頭ごなしではなかったような気がする。
先輩の声を受けて俺ら1年は準備を急ぐが、その間にも1年の部員同士で囁かれる言葉に、つい俺も聞き入ってしまったのは次の部長が誰か決まったらしいという話だったからだ。
「次の部長、さっきの先輩に決まったんだろ?」
「え? たっちゃんが部長?」
「なんだよ、その“たっちゃん”って」
「西森忠久だから“たっちゃん”」
「お前、西森先輩のこと“たっちゃん”って呼んでんのか?」
「まさか。八坂先輩がそう呼んでたからさ」
「ああ、小学校からずっと一緒らしいな」
「仲いいの? なんかちょっと意外なんスけど」
「めっちゃな」
「“めっちゃ”なに? 仲いいの? 意外なの?」
「仲いいの」
「ふ〜ん」
「もしかして、副部長は八坂先輩とか」
「まさかぁ」
「でも、あり得る」
そこでまた先輩の怒号が飛んで会話は中断された。
雷門の指示に従いながら練習が始められるが、俺は憂鬱な気分になるのを止められなかった。さっきの会話が本当のことなら、次の部長は西森先輩がなるということだが、2年の先輩の中で一番俺と相性が悪いんじゃないかと思うような先輩だったから、その先輩が部長になるらしいということが俺には憂鬱だった。
西森先輩という人は、本人自身は束縛とか拘束を嫌っているように見えるのに、自分の下にいる者を自分の思い通りにしたい、と思っているような人だと俺は思っていて、さらには短気なようでよく怒るところが俺は付き合いにくいんじゃないかと感じている。
人の性格をとやかく言えた義理じゃないんだけど、つい間壁先輩と比べてしまって、俺自身ひいき目があるとしてもやっぱ劣るよな、と思ってしまう。
間壁先輩は練習中もだが特に試合中は人格が変わったように檄を飛ばす。でも、それ以外のときは和を大切にするような人なので、すべての部員とバランスよく付き合えていると思う。ちょっと優しすぎるかも知れないという所もあるが、それも部員をひきつける魅力でもあるかも知れない。
一転、次に部長になるかも知れないという西森先輩は、普段も練習も試合も関係なく激しい人だ。他人に厳しくもあり、木原先輩に似てなくもないが、木原先輩のようにおちゃらけたり冗談を言ったりすることは滅多にない。人を認めようとしないのか、あるいは単に負けず嫌いなのか、他人に好意を持って接しているところを見たことがない。
もしかしたら指導力はあるのかも知れないが、いつかどこかでチームの脆い結束力が露呈するんじゃないかと、俺は今から心配してしまっている。
雄樹や友明はこのことをどう思うだろうかと、朝練が終わって教室に行く途中で訊ねてみたら、意外にも肯定的な意見が返って来た。
「いいんじゃね。頭ごなしな物言いは好きになれんが、同じ学年に対しても厳しくできるのは貴重かもな」
と、これは友明。
「おれは厳しいのドンと来いだぜ! まあ理不尽かなって思うことはあっけど。間壁先輩とはちょっと逆な感じだから、どうなるかなっつー楽しみもあるな」
そう言ったのは雄樹だ。
俺は予想してたのとは違う返答に、しばし返す言葉も思い浮かず言葉を詰まらせていると、友明が意地の悪い視線を俺に向けてきた。
「なに? お前イヤなの?」
「え、や……別に――」
どうも気まずさを覚えて何とか言葉を探していると、
「俺は八坂先輩がいっかなって……」
と、とくに思ってもいなかったことを言ってしまったが、言ったあとで想像してみればそれもいいかも知れないと思った。しかし、
「あー、はぁん」
まるで外人が相槌を打つときのような声を発して友明がニヤつく。
「な、なんだよっ」
「いや、八坂先輩ね。ま、八坂先輩って間壁先輩に物腰とか雰囲気とか似てるからな」
「なっ!?」
いきなり話が飛んだように感じたのと、今の俺にとって間壁先輩の名前は禁句に近くて、どうも今まで以上に過剰反応してしまう。とりあえず顔が熱い。
「関係ないだろっ!」
「いやいや、お前、間壁先輩のことすげぇ尊敬してたもんな」
「アーハァン、そう言うことか!」
友明の言葉に雄樹もピンと来たというように、友明の言い方を真似て相槌を打つ。
どうでもいいが、その「あーはん」がイラッと来るな!
「だから、それ関係ねぇだろって!」
俺はムキになってそう言うと足を止めたが、別に駄々をこねたとか言うんじゃなく、自分の教室の前に着いたからだ。
友明も雄樹も同じように足を止めて俺に向き直る。
「間壁先輩は確かに統率力はあったかもな。副部長の木原先輩に助けられてた部分はあったかも知れんが」
「それもオモロそーだけど、やっぱ八坂先輩じゃまとまらんっしょ」
「今度は間壁先輩のときとは逆で、厳しい西森先輩が部長になって、落ち着いた性格の八坂先輩が副部長ってなるんだろうな」
「うむうむ、それが一番いい人選かもなー」
さっきから思ったていた以上の意見が返ってきて、俺が考えるよりずっと前から雄樹も友明もこのことについて考え、あるいは2人で話し合ったりしたんだろうかと思うと、自分の考えが浅はかだったように思えて恥ずかしくなる。
そんな俺の気持ちに気付いているのかどうなのか、普段から無愛想にしてるはずのその顔を友明はニヤつかせると、
「まぁ、間壁先輩はあと2ヶ月もすれば卒業なんだし、だから間壁先輩の影を追おうとするな、な?」
と励ますように言った。
俺はここ数日で起きた間壁先輩とのことを、当然で仕方ないことなのだが「知らねぇくせに」と思うと腹立たしくなってきて、
「だから……別に関係ねぇって言ってんだろ!」
と、思わずそう低い声で怒鳴って、2人の方を見向きもせず教室に入った。
入った教室では廊下がわにいてさっきの声が聴こえたらしいクラスメイトが、数人俺の方を注視していたが無視をして自分の席に向かう。
前の席のニシにも俺の声は聴こえただろうが、機嫌が悪いことを察してくれているのか、あるいは今ここで「どうした?」と訊けば周りのヤツにも聞かれる恐れがあることを考慮してくれているのか、または単に「触らぬ神になんとやら」で関わらないようにしているのか、ともかくそっとしておいてくれているニシに内心で感謝した。
しかしだった。
「なぁ、さっき何怒鳴ってたんだよ」
朝のホームルームが終わり、1時間目が移動教室だったため教科書等を持って移動していると、後ろから追いついてきた大野が興味津々の体で訊いてきたのだった。
俺は「訊くなよ」という気持ちを込めて睨むが、それには構わず大野は続けた。
「もしかしてサッカー部のヤツと仲悪いのか? 不仲なのか?」
「別にそんなんじゃねーよ」と投げやりに言うが、初めから俺の弁明など聞くつもりもないらしく更に大野はこんなことを言い出す。
「なんだったらさ、サッカー部なんて辞めてテニス部に入んねぇ?」
「はぁ?」
「いや、おれお前の運動神経買ってんだ」
運動神経、ねぇ……。
突拍子もないことを言う奴だな、やっぱちょっと変わってるかもな、と内心で思っていたが大野の次の言葉を聞いてまた驚く。
「橋谷って動体視力もいいし瞬発力もあるじゃん。これに持久力が加われば文句ねぇんだけど、どうなの?」
「いや、あんま自信ねぇけど……っていうか、え? 観察してんの?」
体育の授業とかで多少「あいつ運動神経いいな」くらいは思うが、動体視力とか瞬発力とか普通そこまで観察するか? とか不審がっていると、
「ほら、入学してすぐ運動能力テストあったじゃん。おれ、それ一通り見てたからさ。体育とか、体育祭もウォッチすんのにいい機会だよな」
「なんで?」
「いいヤツ居たらテニス部に誘おうと思ってな」
よっぽどテニスが好きらしいな、こいつは。
「好みの女子とかも誘ったりとか」
なるほど。本当の狙いはそこか。
「お前にも一応声かけたんだぜ?」
「えっ! 覚えてねぇな……」
「入学してすぐお前に何部に入るか決めてんのかって訊いたら即『サッカー』って返って来たから、こりゃ無理だなと思って諦めたんだよ」
「へぇ」
そんなことあったかと思い返してみるが、俺の記憶にはまったく残ってない。
「ま、考えといてくれよ」
大野はそういってポンと俺の肩を叩き、そこで教室に着いたのでそれぞれ席に着いた。
テニス、か……。
スポーツの観戦自体は結構好きな方だし、以前はよくゲームもしていてテニスゲームなんてのもしたことがある。大体のルールはわかるし嫌いじゃないから、思わず少しだけ興味を惹かれてしまうが、中学から続けてきたサッカーを今ここで辞められるかと思い直し、俺は頭の中で描いた自分がテニスをしている想像を打ち消した。
今日一日、授業の合間の休憩時間、普段だったらクラスメイトと駄弁ったりするところを、俺は2日も休んだ穴埋めに時間を費やさなければならなかった。
ニシに昨日と一昨日の授業のノートを貸してくれと頼み、
「今日、授業がないヤツは持って来てない」
と真面目なニシらしいことを言われ、とりあえずある分だけ借りてひたすら授業の合間に写していく。
勉強が出来るだけあって、さすがニシのノートはきれいにまとめられていて分かりやすかったが、見ただけでは解らないものはニシに教えてもらいつつ、昼前にはなんとかほとんどの教科のノートを写すことが出来た。
昼休みになって、まだノートの写しは残っていたが、とりあえずニシと駄弁りながら弁当を食っていると、会話は部活のことになった。
「お前さ、もしかしてテニス部に行こうとか思ってんの?」
「は? まさか」
ニシの問いに俺は即座に否定した。
どうやら大野との会話を聞いていたらしいが、俺が中学のころからずっとサッカーひと筋でやってると知っているニシに、本当にそう疑われてるとしたら心外だ。
「そうか。でも、距離をおくのも必要だと思うけどな」
「……え?」
「文字通り離れるんでもいいし、無関心でいるってんでもいいし」
「なにを――?」
「お前って、何でも考えすぎるんだよな」
「……」
「小学校の頃からそうだったろ。もっと適当になっていいんじゃないの?」
ニシの言葉に、俺はついに返す言葉を見つけられなかった。
ずっと一緒だったニシには、俺が何で悩んでいるのかは分からなくても、なぜ悩んでしまっているのかはよく分かるようだった――。
その日、家に帰って夕飯を作っていると、仕事から帰って来た俊也さんがたくさんの桃缶を持って帰って来た。
何も言わずにテーブルの上に置くから、俺も何も言わずに袋の中を覗いて見ると、いち、にい、さん――5個も桃缶が入っていた。
症状は治まったし、続けて、しかもこんなたくさん買ってくれなくても……と思ったら、
「陽平からだ」
と、少しぶっきらぼうに言う俊也さん。
今日、どこかで陽平さんと会ったんだろうか。
そこで俺が「桃が食べたい」って言ったことを知って、それでこんなたくさん買って俊也さんに渡したんだろうか。
こう言ってはなんだけど、いちいちやることが大袈裟な人なんだな、陽平さんって。
俺は思わず苦笑しつつ、でも、もしかしたら喧嘩してるのかも知れないと思ってた2人が、どうも俺が心配するほどでもないみたいだと知って、どちらかというとそっちに俺はホッとしたりした。
だけど、俺が苦笑しながら「いただきます」と言っても、俊也さんの表情は硬いままだった。