冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[1-1]

 朝、目覚まし時計に起された時刻は7時ちょうどで、サッカー部の朝練がある日に比べると1時間ほどゆっくりとした朝だった。
 目を開けて、ぼうっとした頭でしばらく天井を眺めていると、室内がいつもより暗く感じたのは気のせいじゃなかった。暗いのは冬だからだけではなく確か今日は曇りのち雨なのだと、昨日テレビで予報士が言っていたのを思い出す。
 1度目のアラームで起きだして布団から出ると、途端に冷たい空気に包まれて体が震えるが、それには構わずささっと着替えるため寝巻を脱いだ。それから壁に掛けてある制服に手をかけようとしてハッとした。
 そうだった。今日は休みなんだった、と気づいて昨夜用意しておいた私服を手に取った。
 それから顔を洗って、リビングダイニングの暖房を付けて、エプロンをつけると2人分の朝食の準備にかかる。
 それが俺の毎朝の日課だ。
 俺は家族とは暮らしていないが、かと言って一人暮らしをしているわけでもなく、マンションの6階にあるこの一室に“住まわせてもらっている身”だった。
 部屋の主は神崎俊也、俺の従兄にあたる人だ。
 高校を入学すると同時に俊也さんのマンションへ住まわせてもらうことにしたのは、自宅よりもこちらの方が高校に近かったからと言えば、俺の家庭の事情を知っているヤツがいたら「それは口実だ」というかも知れない。
 ともかく、俊也さんの好意で住まわせてもらうことになった俺は、ただ見返りとして家事全般を受け持つことになって、つい数年前まで母子家庭だった俺は初めからソツなくとまでは行かないにしても、それなりにこなしてきた。
 それが、あと2ヶ月で1年ともなるとこなれてきて、今ではそれが当たり前のように身についている。
 今朝の食事はハムとチーズを乗せたトーストと、トマトの入った野菜サラダと、昨日の残りのいんげん豆と野菜のスープだ。
 とりあえず、サラダに使う野菜を切り始めていると、廊下の奥から戸の開く音がして俊也さんが起き出してきたのが分かった。
 しばらくして、顔を洗ってきたらしい寝間着姿の俊也さんがリビングダイニングに現れてカウンター越しに「おはよう」と声をかけてきたので、俺も手を止めて振り返るとあいさつを返した。
「ユキは今日はゆっくりなんだな」
 テーブルに着いて、こちらへ来る時に玄関から取ってきたらしい新聞を広げながら俊也さんが訊ねてくる。言いながら俺が制服じゃないことに気づき、「そっか休みか」と付け加えて。
 ちなみに「ユキ」というのは俺のちゃんとした名前じゃない。一幸というのが俺の名前。みんなは呼び捨てか、省略してもカズと呼ぶが、何故か俊也さんは気がつくとユキと呼んでいた。
 成人の日――つまり祝日の今日、いつもなら朝練っていう早い時間ではなくても午前中にサッカー部の練習があるはずで、もっと早く起きているもんなんだけど、今日は練習はない。だからと言って休みだというわけでもなく、
「部員の何人かで観戦に行くんだ。全国高校サッカー選手権大会、決勝」
ということだった。
「ああ、そうか。今日だったんだな、決勝」
 俊也さんはサッカーについて詳しくはないし、それが高校サッカーともなると全然分からなくて、俺も部活のことはあまり話さないからその点について俊也さんと話が合うこともないんだけど、9月から出場している地区大会のことは気にかけてくれていたようで度々会話に上ったりもしていた。
「部員、全員では観に行かないのか?」
「うん、強制じゃないし行くにも見るにもお金がいるから。それに、ちょっと遠いし3年の先輩は受験だから……」
「そうか。そうだな」
 ただ、事前に聞いたところによるとキャプテンの間壁先輩と副キャプテンの木原先輩が来るとは聞いていた。ってことは、きっと漏れなく柳先輩も来るだろうからこの3人の先輩は必ず来るだろう。
 それ以外の先輩は、確かに受験が近いというのもあるけど、来たくない(観たくない)というのもあるんじゃないかなと思う。
 誰々来るだろうと予想しながら、ひとまずサラダを作り終えてテーブルへ並べ、いんげん豆と野菜のスープを温めながらハムとチーズのトーストに取り掛かる。そしてコーヒーも。
 そうして2人分の朝食をテーブルへ並べ終えて、2人で手を合わせて「いただきます」と食べ始めた。
 こうして一緒に朝食を食べるのは珍しい。普段はサッカーの朝練があるから、自分は自分で食べて俊也さんの分は作って置いておく。そして俺が家を出てから30分ほどして俊也さんが起きてきて……ということになる。
 ほとんど毎日朝はすれ違いで、部活が例えば日曜などの祝日でも練習が午後からとか、あるいはテスト週間で休みにならないと朝を一緒に過ごすことはない。
 だから、たまに朝一緒になるといつも思うことは、
「俊也さん、新聞読みながら食べるのやめなよ」
だった。
 だけど、
「朝の時間短縮だよ」
と俊也さんは言う。
 行儀が悪いと思う俺が細かすぎるんだとは思うんだけど。
 しかし器用だよなぁ。新聞読みながら食事すんのなんて。たぶん、新聞を朝に読み始めたときからずっとそうして来たんだろう。慣れている様子で食べ物をこぼすこともないし。
 そんな、言ってしまえばズボラな俊也さんの姿を見たときには多少なりとも驚いたりもした。
 同居させてもらう以前からも親しくしていたけども、やっぱりそういう時には“よそ行き”の俊也さんだったんだなと思う。
 ずっと面倒見がいいとか優しいとか思っていたし、周りからも当然そう思われていて、それは今でも俺の中で変わらないと思うのに、やっぱり同居前よりはずっと印象は変わっていた。
 それが良いか悪いかっていう判断基準を持ってくるには単純すぎて、そうじゃなくてもっとずっと俊也さんが近い存在になったことが、俺には嬉しかったりした。
 例えば、俊也さんのズボラなところを母さんや近い親戚の人に話して聞かせても、概ね「意外だ」って言葉が返ってくるはずで、そう思うと俊也さんの意外な一面を自分だけが知ってるっていう、どうでもいい人からしたら本当にどうでもいいような優越感みたいなのを感じて嬉しくなったりする。
 でも、実はズボラだということを隠すというよりは、それ以外に隠さなければいけないことを俊也さんは抱えていて、それが“よそ行き”の俊也さんを作ってることに繋がるんだと俺は思っている。
 それは決して俊也さんにとって悩みとかそういうんじゃないんだろうけども、当時の俺からしたらとんでもないことで、初めて知ったときは驚きすぎてしばらく頭が真白になったんだ。
 初めてそれを聞かされたのは、中学3年もじきに卒業っていう2月下旬。家のことで悩んでた俺に、その頃すでに一人暮らしをしていた俊也さんが「僕のとこへ来るか?」って言ってくれて、それで一も二もなく「はい」と言おうとした俺に、「ただ」と俊也さんは待ったをかけた。
「ただ、僕は周りの人とは違ってて、世間の常識からすると普通じゃないんだ。
僕は男が好きなんだ。これはもう、生まれ持ったもので変えようのないことなんだ。
もちろん、ユキに手を出したり不快な思いをさせたりはしないつもだ。それでも良かったら、一緒に住むかい?」
 俊也さんの言葉を、俺はすぐには理解できなかった。中学3年までずっとサッカーばかりしてた俺は、うっかりそういう話にも疎くて同性愛というものがあるなんて知らなかった。
 それでも、普通はみんな異性を好きになるものなのだという固定観念だけはちゃんとあったわけで、俊也さんの言葉を徐々に理解し始めてからは本能の部分でそれを拒否する気持ちもあったが、だからと言ってそれで俊也さんを嫌悪や軽蔑をしてそこで終わり、ということにしたくなくて俺は、それから幾つか質問をして必死に理解しようとした。
 質問の数もそれほど多くはなかったと思うし、時間もそれほどかかってはいないと思うが、それでも確か30分くらいは話したと思う。最終的に俺は俊也さんの言うことを理解して、「問題はないから一緒に住まわせてほしい」と言った。
 そして、話が決まって俊也さんが帰ったあとで俺は少しだけ泣いた。それが何の涙だったのかは未だに分からないんだけど……。
「帰りは何時になるんだ? 遅くなるなら夕飯は――」
 俺が俊也さんのズボラなところから過去へと思考を泳がせていると、新聞を読む合間に俊也さんが訊ねてきたので、俺はすぐに「大丈夫」と返した。
「17時くらいには帰れると思うから」
「そうか」
 俺の返答にいつもの俊也さんなら笑みを浮かべて頷いてるところのはずが、今はなぜか曖昧な表情でまた新聞に視線を落とした。
 疑問には思ったが、新聞を読み始めた俊也さんに邪険にされるのも嫌なので、俺は黙って朝食の続きを再開した。
 朝食を終えると食器などの片付けをして、それが終わると俺は家を出るにはまだ時間があったから、ソファに移ってテレビを見ていた。
 朝食を食べ終わった俊也さんは、残りのコーヒーをすすりながら新聞の続きを読んで、読み終わったのか時間が来たのか服を着替えに自分の部屋へ戻った。
 しばらくして、ネクタイを締めながらまたリビングに顔を出した俊也さんが、
「そういえば今晩、陽平が来るらしいんだが」
と少し言いづらそうに言った。
 言いづらそうにしてたのは、俺がそれを聞いて「えーっ」というのが分かっていたからだと思うし、実際に俺は俊也さんの言葉を聞いて反射的に「えーっ」と声を上げた。
「なんで?」
 少し不機嫌になりながら訊くが、それにも俊也さんは言い難そうに、でも苦笑して
「本人に訊いてくれ」
というと、逃げるように「行ってきます」と玄関へ向かった。
 陽平さんが来る理由を知っているらしい俊也さんに、本当は追っかけて聞きだしたい気もしたが、俊也さんはこれから出勤なわけで時間も無いだろうしと、追うのは諦めて「行ってらっしゃい」と返した。
 返しながら、ああ、だからか、と思った。追究されたくないから出際に報告をしてったんだ。ヤラレタと思いながら俺はひとつ苦笑した。
 少しして俊也さんが出て行ったらしい、バタンとドアの閉まる音と鍵が掛けられる音を聞いてから、俺は大きく息を吐いて言った。
「俺、陽平さん苦手なんだけどなぁ」
 『嫌い』というわけじゃない、『苦手』なんだ。
 だけど、俊也さんの高校からの親友だというから、あんまり面と向かっては言えない。
 面と向かっては言えないけど態度には出てしまってるから、俊也さんはもちろん陽平さん本人にもバレてはいると思う。
 でも、本当に何しに来るんだろう、と俺はテレビを見ながら家を出るまでの時間を悶々と過ごした。

2008.06.06

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