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冬の空は快晴だった。
陽が当たる場所では暖かさを感じることもできるが、それは室内に限ったことかもしれない。家の外では冷気が風になって流れ、寒さに拍車をかけている。
桃也はもちろん外に出るつもりもなく、朝食には遅く、昼食には早い料理に取り掛かっていた。
昨夜はいろいろと考えごとをしていたせいで寝付けなくなり、毎日鳴るようにセットされた目覚まし時計はいつのまにか止めていて、気がついたときには午前9時を回っていた。
いつもよりも大分寝坊したぶん、よく眠れたかというとそういう様子でもなく、どんよりとした表情と鈍い動作でベッドから降りると、部屋着に着がえて顔を洗った桃也がまず何を始めたかと言えば料理だった。
腹が減っていればそれも当然だが、持ち出した食材と調理器具、そして料理を始めてからの所要時間を考えれば、それが単なる“朝食”と言えるような簡単なものではないことが分かる。
一昨日、早めに仕事が終わった桃也は、家に帰って凝った料理でも作ろうと考えていたが、予想外の問題が起こって結局それは叶わなかった。昨日も昨日で仕事先に連絡もなく遅刻してしまい、帰ってからもあまり料理をする気分ではなかった。
そして今日、朝目が覚めて桃也は2日間の鬱憤を晴らすように、ただ無心で目の前の食材を調理しているのだった。
料理を始めてから2時間ほど経った頃、集中していた桃也の耳にふとリビングダイニングの方から音がするのが聴こえた。小さな硬い何かが、同じく硬い何かを引っかくような音で、風で飛ばされた木の枝か何かが窓や壁に引っ掛かっているのだろうかと、最初は気にせず無視していた桃也だったが、あまりにもずっと続くので仕方なく見に行ってみることにした。
リビングダイニングへ行くと音はやはり大きな窓からする。その窓を覆うレースのカーテンを勢いよく開けると、まず桃也は自分の目の高さより上を見たが、音が下からするのに気づいて視線を下げた。すると、サッシに片脚を置いて爪でガラスを引っかく赤毛の猫が見えた。
「……」
いつもの桃也なら何も考えず窓を開けてやるところだが、その赤毛の猫の正体を知っているので容易に行動できない。
可愛げな声でニャーと鳴く猫に――その見た目と情景に胸に刺さるものはあったが、桃也はあえて無視をするとキッチンへ戻った。
しかし、キッチンへ戻って料理を再開しても、背後ではずっと窓を引っかく音と猫の鳴き声が続いていた。
(鬼を入れるのはイヤだけど、近所の目もあるし……もし近所の人が連れて行ったりしたらヤバいよな)
自分自身にそう言い聞かせて、再びリビングダイニングへ戻るまで桃也は5分ともたなかった。
窓を開けて身軽な仕草で中へ入ってくる猫を、見下ろしながら桃也はつい口を尖らせると詰った。
「やめろよ、その格好。なんか卑怯だぞ」
そんな桃也の言葉を受けてではないだろうが、猫はひとつ身震いをしたかと思うとあっという間に形を変えて、桃也の身長を追い越すと赤目赤髪の男の姿になった。
ちなみに、黒のデニムパンツにVネックのニットセーターという格好をしている。
桃也にとって大きな悩みの種である丹木山に棲むこの鬼は、猫から人の姿に転じるとまず憮然とした表情で桃也を見下ろし、
「仕方ないだろ。このナリで歩いてるとケーサツに呼び止められるんだよ」
と予想外な言葉を返してきた。
「……ケーサツ?」
「ああ。やれパスポートを見せろだとか、ナニ人なんだとか――」
鬼の言葉に桃也は自然その光景を脳裏に浮かべ、思わず噴出しそうになって慌てて口を覆った。
染めたのでなければ日本人にはない赤味の強い髪に、カラーコンタクトでも入れてるのでなければやはり日本人、というよりは人間離れした赤い瞳、そして彫りが深くごつごつした骨格の顔と鋭い一重の目は、外国人と言われても仕方のない容姿だと言える。
また、鬼にはもう一つの容姿――というよりは人格がある。どうもひとつの体にふたつの人格が入っているようなのだが、人格が変わると同時にときにその容姿すらも変貌する。
髪は白く影の具合によっては銀に見えることもあり、その瞳もやはり同じく濃い白色をしている。そして、彫りはそれほど深くはないものの、細くて筋の通った高い鼻に形のよい唇と、ときに冷たくも優しくも見える二重の瞳は、やはり日本人とは言い難い雰囲気がある。
総合すれば、どちらにしても普通の人間とは思えない容姿を考えると、警察に呼び止められても仕方がないとは思う。
だが、当人にとってみれば腹立たしいのだろう。笑いをかみ殺す桃也にその怒りをぶつける。
「言っておくが俺は国外に出たことすらないんだからな! 純日本人だぞ! そうだろ!?」
鬼の憤りをぶつけられて桃也は肩をすくめると
「鬼だからね……」
それだけを返しキッチンへ戻った。
素っ気ない返しに怒ることもなく桃也のあとからぴったり鬼もついてきて、料理を再開する桃也の背後からキッチンを覗き込むと僅かに感嘆したような声をあげた。
「ほう、うまそうだな」
「どうも」
「朝食、じゃないな。昼食か?」
「さあね」
曖昧な返事をする桃也に一瞬視線をやってから、鬼はまたキッチンに並ぶ鍋やフライパンを指差して質問を繰り返した。
「これは何を作ってる?」
「茶碗蒸しだよ」
「これは?」
「パンプキンスープ」
鬼はさらに、キッチンの真ん中にあるキッチンカウンターに置かれた鍋や皿の中を覗きこみ
「ふむ、これは白菜と豚肉か?」
「そう、重ね蒸し。それと、きんちゃく煮」
「こっちはハンバーグだな」
「ハンバーグステーキ、オニオンソース添え」
桃也の説明を聞いて、鬼が皿に顔を近づけると匂いを嗅ぐ。
「どれもうまそうだな。だが一人で喰うには多すぎるんじゃないか?」
「うるさいなっ!」
続く鬼の問いに、ついに桃也が声を荒げると鬼をキッチンから追い立てるように手を振った。
「邪魔だから、向こうでテレビでも見てろよ」
乱暴な物言いに怒り出すかと思ったが、鬼は軽く肩をすくめると素直にキッチンを出て行こうとした。
「だがテレビっつっても、この時間はクソつまらんもんばっかだからな。ビデオかDVDかないのか?」
「……それならテレビの近くの棚にあるから、好きなの見てよ」
リビングダイニングに向かう鬼の背に返して、桃也はやっと料理の続きを始めた。
しかしそれにしてもと、手を動かしながら桃也は少々呆れ気味に内心で呟く。
(あれ鬼だよな。何なんだ、ビデオかDVDって。何でこの時間のテレビは面白くないって知ってんだよ)
尽く桃也の中にある鬼のイメージを打ち砕く鬼に、桃也は想像と現実のズレがもどかしいような苛々とした気持ちを感じていた。
(別におれや、貴嶺さんを殺そうってんじゃなさそうだし、一昨日は縛られたりもしたけど、暴力行為って言えるようなのはそれくらいだろ)
山の中で追いかけられて怖い思いはしたが、振り返ってみれば鬼がやったことと言えばそれくらいだった。
(そりゃあ昨日は、キス……されたけど、だけどそもそも何でキスなんだっ!?)
赤目赤髪の鬼は強引に桃也にキスをし、白目白髪の鬼は「桃也が私を好きになればいい」と言った。
(それじゃまるで、男女の恋愛――みたいだ)
まさか鬼が人間である桃也を本気で想っているとは桃也自身思えないが、鬼の標的は桃也に絞られているし人肉を喰らうことが目的ではないとすると、どちらかと言えばそういう意味で桃也の体を狙っているのかもしれない。
ふいに冷たいものが背を撫でて、咄嗟に桃也は体を震わせた。窓は閉めたはずなのにと後ろを振り返ると、すぐ目の前に白目白髪の鬼が立っていた。
「わっ!? な、なに?」
驚いて思わず身を引くと、鬼はそんな桃也の様子に目を細めてみせた。鬼の目には微笑ましく映ったらしい。
「私も桃也と話をしたくてね。それに――」
さらに鬼は身を寄せると右手を桃也の後ろにあるシンクに、左手を桃也の頬にやって流れるような、それでいて素早い仕草で桃也の唇に自分の唇を重ねた。
重ねるだけの口付けだったが、赤目赤髪の鬼とのそれとは違い冷たい唇の感触に、桃也は不用意にも別の動揺を覚えた。
重ねた唇が離れていき、桃也が無意識に閉じていた目を開くと、互いの鼻が擦れ合うほどの近さで白い目と目が合った。
「なんで……」
つい桃也がそう呟くと、またその白い目が笑む。
「昨日はセッキ、今日は私の番だよ、桃也」
鬼はそう言って再び口付けると、今度は深く抵抗するのも忘れた桃也の唇を割って舌先を潜り込ませる。それは強引さを感じさせない優しい仕草だったが、有無を言わせない力強さは確かにあった。そして、咥内を蹂躙する鬼の舌技に、気がつくと桃也は時折声を漏らしていた。
赤目赤髪の鬼にされたときのように、やはり嫌悪を感じない自分の感覚を桃也は不審に思うが、それ以上に白目白髪の鬼の口付けに意識を奪われそうな何かを覚えて焦った。止みそうにない鬼の行為を止めさせなければと思うのに、シンクに置いた桃也の手は力が抜けたように動こうとしない。
(なんで……)
その問いは先ほどとは違い桃也の胸のうちで発せられ、問いかけた先も桃也自身の胸の中だったが、こんな状況で答えの出るはずもない。
そんな桃也の動揺をよそに、鬼はその行為をごく自然な流れで先に進めようとした――その時、セットしていたキッチンタイマーが大きな音をさせて時間が来たことを知らせてきた。
まるで金縛りが解けたように桃也は一瞬体を震わせ、鬼の腕をすり抜けてガスコンロの傍へ行くと茶碗蒸しの火を止めた。そしてそのまま動けなくなる。羞恥からか顔を赤くして鬼の方を見られないようだった。
「桃也」
微かに手を震わせる桃也に、それ以上は近づかず鬼が優しく名を呼んだ。
「な、なに?」
「リビングにあるDVDは前に全部観てしまっていてね。他にはないのかな? 暇つぶしになるような本でもいいんだけど」
「それなら、廊下の奥の部屋に本棚がある」
「そうか。じゃあ、そっちを見てみよう」
そう言って鬼は何事もなかったかのようにキッチンを出て行った。
完全に鬼の姿が見えなくなったことを確認して、桃也はホッと大きな息を吐いた。
(やっぱり、こんなの変だ)
桃也は鬼に対してある種の緊張を感じることに苛立ちを覚え、もう二度と鬼に隙を見せないと内心で誓いながら、ついさっき鬼にされたことはすぐに忘れようと努めた。
しばらくの後、リビングダイニングのテーブルにたくさんの料理が並べられ、別の部屋の本棚から本を持って来た鬼も、なぜかきっちり席に着いてテーブルの上の料理を愉快そうに眺めている。
ハンバーグステーキに白菜と豚肉の重ね蒸しと、きんちゃく煮にパンプキンスープに茶碗蒸し。おおよそジャンルに統一性もなく、冷蔵庫にあった食材を使えるだけ使って作った料理という感じだ。
しかも一人で食べるには多すぎるという事実は、作っている本人が一番わかっている。
「これ、本当に全部桃也が食べるのかな」
面白そうに言って白目白髪の鬼は、料理から不満気な表情の桃也に視線を移した。
「余ったら貴嶺さんとこに持ってくし、夕食にするからいいんだよ」
「私には?」
鬼の問いを無視すると、桃也は鬼の視線を感じつつ料理を食べ始めた。
初めは桃也が食べているのを黙って眺めていた鬼だが、それも飽きてきたのだろう口を開くと質問を始めた。
「ここは桃也の叔父の家だと言ったが、今その叔父はどこにいるんだ?」
「大真叔父さん? さぁ、外国のどっか山の方」
「――かなり漠然としているね」
「どこに行くのか聞いたんだけど、あまり聞いたこともないような国だったから忘れた」
桃也の答えがそっけなく聞こえたのかも知れない。鬼は「ふーん」と言ってテーブルに肘を立て頬杖をつくと、また黙って桃也を見つめた。
だが、食べるところをじっと見つめられることに今度は桃也が耐えられなくなる。
「……テレビでも見てろよ」
つい桃也は恨めしげな視線で鬼を睨むが、鬼は桃也とは対照的に微笑むと言った。
「桃也を見てる方が楽しい」
「……」
思わず言葉を失くす桃也だったが、いちいち気にしては駄目だと自分に言い聞かす。
「じゃあ何か話せよ」
「ふむ――」
『そんなに俺と話がしたいのか』
もう一人の鬼の声にハッとして見ると、鬼の右目だけが赤く染まっていた。
「ち、違うっ! 黙って見られるよりはマシと思っただけ――」
慌てて桃也が否定するが鬼たちは聞いていなかった。
「セッキ、勘違いをするな。桃也は私と話がしたいと言ってるんだ」
「だから、」
『ハクロ、お前は黙ってろ。というか引っ込め』
「あの、」
「わからない奴だな。桃也は私との会話を楽しみたいと言ってるんだ。お前は邪魔なんだよ」
「……」
桃也を無視して言い合いを始めた二人を――目の前にいるのは一人だが――桃也は呆れながら眺めつつ、止まっていた食事を進めた。
それにしても滑稽な光景だと桃也は思う。
今、桃也の目の前にいるのは白い髪と目の男だが、同じ口からふたつの声が互いの主張をぶつけ合っている。自分の中に自分とは別の人格があり、その別の人格と同じ口を使って言い合いをする、というのはどういう感覚なのだろうか。桃也にはまったく想像ができない。
「だいたいお前は無骨で無粋で野蛮で田舎者で――そんなだから山に引きこもる羽目になるんだ」
『なんだとっ! ふんっ、お前は男のくせにへらへらふらふらし過ぎだけどな。今でいうオカマだオカマ!』
「お前は本当に馬鹿だな。オカマという言葉は侮蔑でもあるが、本来は男性同性愛者を指すものだ。それを侮蔑で使ってるなら、お前自身も侮蔑してることになるんだぞ」
『むっ――じゃあオネエだ、オネエ!』
「まったく馬鹿々々しい――」
(二人の仲が悪いってことは、よくわかった)
まだ言い合いは続きそうだったが、桃也は付き合いきれないよと首を振ると立ち上がった。空いた皿を流しに持って行き、残ったもので箸をつけていないものは、いつもそうするように密封できる保存容器に入れる。
時計を見ると昼を過ぎていたので、ちょうどいいかと残った料理を貴嶺のところへ持って行くことにした。
「貴嶺のところへ行くのかい」
いつの間にか口論をやめた鬼がキッチンの入口に立っていた。桃也はそちらを一瞥してから「ああ」と頷き、料理を保存容器に移し変え終えると今度は片付けに入った。
「そうか。では、私の部屋の片付けを手伝ってほしいのだが」
唐突な鬼の頼みにも桃也は手を止めることなく、「なんでおれが」と受け流そうとしたが、
「嫌か――仕方ない。貴嶺の手を借りるしかないか」
「――わかったよ!」
受け流しは失敗した。
洗いものを続けながら桃也は内心でつぶやく。
(鬼に芸術生活を邪魔されないよう、友だちだったはずの鷺島さんに体まで差し出したのに、貴嶺さんに鬼の部屋の片付けなんてさせられないよ)
桃也は紫穏の言葉を思い出していた。
『何を犠牲にし、何を欲するかということだ。貴嶺は芸術に捧げる時間を守るために体を犠牲にした。きみは何を守り、何を求める? そのために何を犠牲にする?』
貴嶺は今までの芸術に費やす生活を守りたいがために、紫穏の言うまま体を差し出した。今まで男と経験があったのかは分からないが、あったとしても紫穏に対して一定の、あるいはある種の好意がなければ苦痛でしかないはずだ。
現に桃也はもし自分が――と考えると、それがたとえ今すぐ傍にいる鬼を消すことと引き換えだと言われても、まだ迷いを払拭することはできない。
貴嶺が実際どこまで考えたのかはわからないが、桃也自身それほど思い悩むほどのことをして得た生活をこれ以上乱すわけにはいかない。
(一緒に住むってだけでも、きっと貴嶺さんにとってはストレスに違いないんだから)
鬼を解放したのは自分だ、だから本当なら鬼との問題のその一端でも貴嶺に負わせてはいけないと桃也は思う。
(でも、なんで貴嶺さんは自分の家に鬼を入れてやったんだろう)
桃也の叔父の大真に桃也のことをよろしくと言われていたらしいが、それだけで体を犠牲にしてまで得たはずの生活を壊すような真似をするだろうか。しかも鬼が「命を落とすぞ」と脅しても引かなかったことを考えると、それなりの覚悟はあったと思える。
(おれ、そこまで貴嶺さんと親しくないしな……)
一年半前に桃也はこの家に、大真の家に移り住んで来た。しばらくして大真から貴嶺を紹介されたが、無口で無愛想で取っつき難い人だというのが桃也の第一印象だった。
だが、大真が仕事で居ない間、寝食忘れて倒れてしまう貴嶺の様子を時々見るという役目を桃也が代わりにすることになり、そのうち食事も世話をするようになった。
そうしてやっと多少の会話はできるようになったが、芸術に費やす時間を削ってまで桃也と会話を長く続けるような、そこまでの興味や好意は抱かれていない。
(おれのためっていうよりは、叔父さんのため――かな)
桃也より三年ほど前から二人は知り合いのはずで、知り合った経緯が経緯だけに貴嶺はやはり大真に恩のようなものを感じているのかも知れない。
(……じゃあ、貴嶺さんは体を犠牲にして手に入れた生活を、叔父さんのために犠牲にしている――)
「桃也」
「っ!?」
すぐ傍で鬼の声がして桃也は驚き、そのせいで洗っていたグラスをシンクの中に落とした。慌てて振り返ると鬼の体がすぐ目の前まで迫り、視界の端に鬼の顎が見えた。無意識に顔を上げると赤い目が桃也を見下ろしていた。
(セッ、キ――)
いつの間に入れ替わっていたのか、赤い髪と目の鬼が有無を言わさず桃也の唇を奪った。
「っ!!」
先ほどの白い鬼の口付けとは違い、最初から深い口付けに桃也は咄嗟に鬼を引き離そうとするが、それ以上の強い力で腰を引き寄せられてしまう。
強引に唇を割って侵入してくる生暖かい鬼の舌が、桃也の口腔内を存分に蹂躙していく。縮こまっていた桃也の舌を吸い絡ませ、何度も深く口付けては桃也を翻弄する。
「ん……ふ……ぁ」
桃也の体から意に反して次第に力が抜けていき、引き離そうと鬼の胸に置いた手が微かに震え始めた。
(なんでおれ――)
胸のうちで繰り返される問いは、先ほど白い鬼に口付けされたときにもあった。なぜ桃也は鬼の口付けを拒めないのか。なぜ嫌悪を感じないのか。なぜ――
(感じてるんだ……)
やっとといった感じで鬼の口付けが止むと、恐る恐る桃也は目を開いた。予想通り間近で鬼の赤い目が桃也を見下ろしている。何も言わず黙って見つめてくる鬼の視線が、自分に何かを求めていると気づいて桃也は慌てて口を開いた。
「は、離れろよ」
そう言って桃也は震える手に力を込める。我ながら情けないと顔を赤くしながら、全身に力を入れろと自分自身を叱咤する。
だが、鬼はまだ動こうとも返事をしようともしない。それが桃也の不安を煽る。
「離れろって! じゃなきゃ出入り禁止にするからな!」
腹に力を込めて強めの語調で言うと、やっと鬼が一歩下がった。
「わかったわかった」
少々投げやりな口調で言って鬼が両手を軽く上げて見せた。
(まったく、鬼なのになんでキスなんだよ……)
再び流しに向かい桃也は森で出会ったときからの鬼の様子を思い出した。
山の中の家では蝋燭や荒縄などを持っていたが、あれが単に明かりをつけたり人や何かを縛ったりするだけのものではないことを桃也は知っていた。その家から逃げ出すとき、寺の住職である紫穏が作ったという御札を使ったが、御札は美男美女の群れになって鬼を引きとめようとし、鬼はそれにあっさりと引っ掛かってくれた。
(鷺島さんも鷺島さんだけど、鬼も相当に変態だよな……そういえば)
桃也は昨日、紫穏の家に行ったときに聞いた鬼治寺にだけ伝わるという言い伝えを思い出した。
『あの山に棲む赤色の髪と目を持つ鬼は、山に入った人間を攫っては変態行為を繰り返しているという――』
あの時、桃也は咄嗟に嘘だと断じたが、
(案外、本当なのかも。鬼ってよりは色魔で、“そういう”ことが好きなのかも)
鬼の不審な行動を思い返す桃也の脳裏にある心配ごとが過ぎった。
最後の洗い物を水切りラックに置き水を止め振り返ると、鬼は飽きもせずそこに立ってずっと桃也を眺めていた。そのことに少々驚き、呆れつつも桃也は鬼を睨め付けると問う。
「そういえば、貴嶺さんには何もしてないだろうな」
すると、こちらも半ば呆れたような憮然とした表情で鬼が大きく息を吐いた。
「言っただろ、俺にも好みがある。俺はあんな朴訥とした奴は趣味じゃない」
不満気にしている鬼の左目が白く変わると、もう一人の鬼も答える。
『私もだよ、桃也。あれはあれでいい所はあるんだろうけど、私の好みではない』
言いながら鬼が一歩近づき左手が桃也の頬に触れる。
『私が好きなのは、少し口は悪いけど実は優しくて、捨て猫をつい拾ってしまうような――』
「聞いてないっ!」
顔を赤くして桃也は鬼の言葉を遮ると手を振り払い、鬼の横をすり抜けて足早にリビングを出ようとした。その背中に鬼が声をかける。
「どこへ行く」
「ジャケットを取ってくるんだよ!」
不機嫌な口調でそう言って桃也はリビングを出ていった。
数分後、用意を済ませた桃也と猫の姿に変身した鬼は、貴嶺の家に向かうため桃也の家を出た。
桃也が玄関を開けると、足の横を赤い色をした猫がすり抜けてトコトコと歩いて出ていく。その様子を視線で追いながら、人畜無害の可愛い猫にしか見えない鬼の姿に、桃也は何とも言い難い気持ちを抱えてしまった。
(ずっとあのままだったら、別に飼ってやってもいいのにな……)
いざ人の姿になると桃也よりもずっと長身で逞しく、人間離れした容姿も手伝って威圧感さえあるのだ。
桃也を先導するように前を歩いていた鬼が、視線を感じたのか歩きながら振り返る、その仕草さえ愛しさを感じてしまうのに桃也は困ってしまった。
(あれは鬼だ。猫じゃない。騙されるな)
思わずそう自分に言い聞かせて、桃也はやっとで鬼から視線を外した。
幸い近所の住人に会うこともなく貴嶺の家に着き、合鍵で玄関を開けると奥に居るだろう貴嶺に声をかけた。
いつもそうするように貴嶺が出てくるのを待たず桃也は玄関を上がる。貴嶺は外出していなければ、大抵は入ってすぐ右手にある部屋で絵を描いていて、桃也が来てもすぐには顔を出さない。なので、貴嶺が迎えに出てくるのを桃也は待たないし、貴嶺からはそれでいいと了承を得ている。
だが今日は、今までのことから考えると驚くべき早さで貴嶺が部屋から出てきて、桃也は思わず靴を脱いで玄関の上がり框に片足を乗せる格好で止まってしまった。
「あ、貴嶺さん、お邪魔します。昼食、持って来たんですけど食べますか?」
しかしそれには答えず貴嶺は、上がり框に飛び乗り猫から人間へと姿を変える鬼を見て、それから桃也に視線を移し、
「桃也くん、まさか鬼を家に入れたのか?」
「え、はい……」
桃也が頷くのを見て貴嶺が眉間にしわを寄せて渋面をつくるので、桃也は慌てて言い繕う。
「あの、だって、猫の姿で窓を引っかくから――無視してもずっとするし……もしご近所さんが気づいたら面倒かなと……それに連れて行かれたら大変だと……」
しどろもどろの桃也の言い訳に貴嶺はひとつため息をついた。納得したわけではないが何かを諦めたようだ。
傍でそれを見ていた鬼がフンと鼻で笑う。鼻で笑ったのは赤い鬼の声だったが、言葉を発したのは白い鬼の声だった。
『桃也は優しいからね。それに私が悪い鬼ではないと本能でわかってるのさ。なんにしろ、子供の頃に会っているのだし昨日今日の間柄ではないしね』
だが、貴嶺は表情を変えず鬼を一瞥し、
「人の優しさにつけこむ奴が悪くないなんて、とんだ自分基準だな」
棘のある一言に鬼は表情を険しくし黙り込んだ。沈黙とともに険悪な雰囲気が広がる。危機感を覚えた桃也は慌てて二人の間に割って入った。
「あ、あのっ、食事持って来たんで、まだだったら食べて下さい。今日はいっぱい作りすぎちゃったんで、余ったら夜にも食べてもらえると助かるんですけど」
貴嶺にはそう言ったあとで鬼には
「部屋の片付けするんだろ。おれはこれ置いてくから、お前は先に部屋に行ってろよ」
と、手を振って追いやった。
まだ互いに不快な表情ではあったが、何も言わず桃也の言葉に従い貴嶺はダイニングへ、鬼は二階へと上がって行った。
ホッと安堵した桃也だが貴嶺に続いてダイニングに入ると、貴嶺の説教が待っていた。
「桃也くん、きみは分かってるのか。鬼を家に入れるということがどういうことか」
「え、っと……」
「人の目があるからと言うけど、昨日も言ったが鬼は桃也くんが止めろと言えば止めるはずだ。きみの強い意思があればね」
「でも――本当にそうなんでしょうか」
「ああ、この予想はそれほど大きく外れてはいないと思う。桃也くんの意思を無視できるなら、何も猫の姿で窓を引っかいて開けてもらうのを待つなんてことせず、鬼なんだから鍵やドアを壊すなりして中に入るんじゃないか」
「あ……」
「そうしない、できないってことは、やはり鬼には制限がかかってるとしか考えられないだろう」
「そう、ですね」
桃也は意思の弱さを叱られたようで思わず俯いてしまう。貴嶺の言うとおり強い意思で鬼にNOを突きつければ、家に上げてしまったり、あまつさえキスを許してしまうこともなかったのかも知れない。
そもそも、一昨日山の中で鬼に出会ったときに何らかの形で戦うなり拒絶するなりしていれば、こんな中途半端なことにはならなかったのかも知れない。せめて貴嶺に相談などしなければ、こうして貴嶺に迷惑をかけることもなかっただろう。
さらに言えば、十五年ほど前に丹木山に入らなければ鬼と出会うこともなかったはずで――。
つい考え込んでいると貴嶺が大きく息を吐くのが聞こえて、桃也が顔を上げると貴嶺の表情が僅かに和らいでいた。
「ま、過ぎてしまったことは仕方ない。だけど、次からは気をつけるんだ」
「はい」
「なるべくなら、きみの家にあまり鬼を入れたくないからね」
そういう貴嶺の表情がまた微妙に沈む。貴嶺が気にかける先は桃也を通り越してその先に向いていることを桃也は敏感に感じ取った。
「大真叔父さんの家だから、ですか?」
だが、その問いに貴嶺は桃也から視線を逸らしただけで答えることはしなかった。
お茶を入れるためか電気ケトルに水を入れながら、貴嶺は強引に話を変えた。
「部屋の片付けを手伝うんだって?」
「あ、はい」
「二階の部屋ふたつともだから、一日で終わらないだろうけど」
「ふたつともですか?」
桃也は思わず声を上げた。
一階には客間用の部屋を除いて三部屋あり、そのうちひとつが寝室用として残り二部屋が貴嶺の趣味兼仕事部屋として使われている。部屋の広さは八畳で二階の部屋も八畳だろうと桃也は予想している。
確かに一人で住むには充分すぎる広さだから、その内の二部屋を与えたところでとくに不便はないのだろうけども、とはいえ何の義理もない鬼に二部屋を与えるのは破格とも言える。
桃也の驚きは伝わったようだったが、貴嶺は別段表情を変えることなく淡々と続けた。
「今までも物置程度にしか使ってなかったからな。荷物はほとんど一階に下ろしてるけど、ずっと締め切ってたし掃除とかしてないから、まずは掃除をした方がいいだろうな」
「はぁ、そうですか……」
普段の仕事内容とあまり変わらないことに桃也は「休みのはずなのにな」と肩を落とした。
料理を貴嶺に渡すと桃也は二階に向かう。途中でくの字に曲がった階段を登ると短い廊下があり、右側に部屋が二つ並んでいる。戸は廊下の手前側と奥側にあったが、廊下の突き当たりに見える戸はトイレだろう、小窓が付いていた。
部屋の戸は二つとも開かれていて、廊下が外のように寒いのは部屋の窓を開けて換気をしているからか。
手前の部屋を覗くと八畳の洋室で、元は物置だったらしいが今は鬼のものだろうダンボールや家具で溢れている。洋室に入って隣の部屋の方を見ると、部屋同士繋がっているようで全開の引き戸の向こうに和室が見えた。やはりそちらも八畳ある。
「やっと来たか」
和室にいた鬼が桃也に気づいて少し苛立たしげに息をついた。
「何を話してたんだ?」
「ちょっと……説教されただけだ」
鬼のことで説教されていたのに、なぜその鬼が苛立ちを見せるのだと、桃也は理不尽な思いを感じて口を尖らせた。
「ふん、貴嶺という男はお前の叔父に何か義理立てしてるようだが、お前だってもう子供じゃない。自分の問題は自分で解決できるさ。なぁ?」
問われて桃也は返事に窮した。
桃也自身、子供扱いされることを良しとは思っていないし、鬼の件で紫穏に助けを求めたものの貴嶺には求めたつもりはなかった。ただ、鬼に見せた御札のことやなんかで、貴嶺から紫穏に聞いて欲しいとは言ったが。
それでも、鬼の問題を自分で解決するということは、鬼をどのように拒絶するのか、あるいは受け止めるのかそれを決めなければいけないということで、鬼はどうやら桃也に好意を持っているようだが、その想いに答えを出すというのはどうも告白の返事を考えているようでもあり、そう思うと桃也は素直に頷けなかった。
「……貴嶺さんは別におれを子供扱いしてるわけじゃない。叔父さんに恩があるから返したいと思ってるだけだ」
「そのことだが」
答えをはぐらかしたつもりが、なぜだかそのはぐらかした桃也の言葉に鬼が喰い付いてきた。
「貴嶺がお前の叔父に恩義があると思うようになったのはなぜだ。何があった」
「何がって……あの、おれの想像だけど――」
桃也は叔父の大真と貴嶺が出会ったきっかけを話した。貴嶺が寝食を忘れ絵を描くことに没頭して倒れ、そのままだったら死んでいたかも知れないところを近所の人が気づき事なきを得たことや、その後、大真が貴嶺の世話を引き受けたことなど、大真や近所の住人からの又聞きではあったがそのままを鬼に話した。
「倒れて病院まで付き添ったのも叔父さんで、それから度々貴嶺さんのこと気にかけるようにしてたんだってさ。叔父さんはお節介だと思われてないかなって心配してたけど、貴嶺さんはたぶん恩があると思ってるんだろうって――」
ふと、鬼が考え込んでいるのに気づいて桃也は言葉を切った。桃也が黙ったことに気づいたのかどうなのか、鬼が徐に口を開く。
「本当にそれだけで俺からお前を助けようとするか?」
「え?」
「あいつは寺の坊主の知り合いだろう。護符を持ってるということは俺の存在を予め聞いていたに違いない。加えて俺が猫からこの姿に変わるのを見ている。ハクロに変わるところもな」
「ああ……」
「つまり、俺が鬼だということは確信しているはずだ。尋常ならざる力を持つ鬼だと、な。なのに、その俺が邪魔するなら殺すぞと脅しても引かなかった。とくに血の繋がりがあるわけでもないお前を助けるために、だ」
「……」
「だが、お前が大真という男の甥で、大真に恩があるからお前を助けると言う。口ぶりではそんな感じだったが――本当は違うんじゃないか?」
「違うって、他に理由があるってことか?」
桃也の問いかけに、鬼は赤い目を真っ直ぐ桃也に向けて答えた。
「ああ、ふたつ可能性がある。貴嶺がお前を好きだという可能性と、貴嶺がお前の叔父を好きだという可能性だ」
鬼の飛躍する見解に桃也は「まさか!」と声を上げそうになったが、その一方で至極納得する自分もいて、その二つの感情のせめぎ合いに言葉がでなかった。
確かに考えられなくはなかった。
以前、助けられた恩があると言ったって、実際に倒れた貴嶺を見つけたのは近所の主婦で大真ではないし、大真がやったことと言えば病院に付き添ったことと、たまに貴嶺の様子を見に行ったりするだけだ。それでも恩に感じることはあっても、身を挺して大真の甥を助けたりなんてするだろうか。
桃也自身に対してもそうだ。桃也も時々大真の代わりに料理を作って持っていったりもしたが、それだけで命を犠牲にするほどの恩を感じるだろうか。
桃也はその答えを得ようと、貴嶺を自分に置き換えて考えてみようとした。
「おれならどうするかな……」
だが、思わず呟いた言葉に鬼が待ったをかけた。
「馬鹿か。お前に置き換えてみたところで意味があるか」
「え、なんで?」
桃也の問いに赤い鬼は一瞬言いよどんだが、鬼の左目が白く変化して白い鬼の声が答えた。
『桃也なら、たとえ相手がどんなに悪い人間でも助けようとするだろうからね。そこに好きだ嫌いだの感情は持ち込まないはずだよ』
「そう、かな?」
「そうかな、だぁ? 自覚もねぇのか」
『桃也は掛け値なしに優しいから、人を助けたり優しくしたりすることに下心がないんだよ。だから自覚がないとも言えるかも知れないね』
桃也は自分が持ち上げられすぎているということに恥ずかしさを覚えて顔を赤くした。自分はそこまでいい人間じゃないと否定しようとしたが、それよりも先に会話が進んでしまう。
「ともかくだ。お前に置き換えず貴嶺になったつもりで考えろ」
「……貴嶺さんになったつもりで?」
鬼の言うまま桃也は貴嶺になりきろうと想像力を働かせた。
貴嶺はご近所付き合いを基本的にしない。挨拶をされたら返す程度だが、突っ込んだ話をしてもあまり返してくれないと近所の人が話していた。倒れたのを見つけてくれた人にだって、数日後たまたま家の前で顔を合わせたときに礼を言ったくらいだ。
桃也が時々大真の代わりをするようになっても、合鍵を渡されただけでどこかへ遠出するときに予め連絡をくれたり、メモを残してくれたり、そういうことは一切なかった。
また、大真が家にいて大真を訪ねてくる以外に、大真の家に貴嶺が来ることもない。
(そうだな、貴嶺さんって人に無関心すぎるのかも)
内心でそう呟いたとき、必然的に紫穏の言葉を思い出した。
『あれが芸術以外のことに無頓着なのは桃也くんも知っているだろう?』
『あいつは男に抱かれることにも頓着しなかったわけだ。そういう奴なんだよ』
(そうか、絵以外のことに無関心なんだ)
だから芸術生活を守るために紫穏に抱かれることも厭わなかった。
(だとしたら、多少お世話をしたくらいで今の生活を投げ出すようなことはしないかも知れない。もし何か行動を起こすとしたら、鷺島さんのところへ行くようアドバイスするか、貴嶺さん自身が行って助力を頼むか――)
「答えは出たか?」
「あ、ああ……」
しかし、そうだとして鬼は二つの可能性を提示したが、桃也はそのひとつの可能性は限りなくゼロに近いことを知っていた。
「だとしたら、貴嶺さんが好きなのはおれじゃない。叔父さんだ」
桃也の答えが意外だったのか、鬼が片方の眉を上げて「ほう」と呟いた。
「なぜそう思う」
「まぁ、考えてみればいろいろ思い当たっただけだけど、おれより叔父さんとの方が早く知り合ってるし、同じ芸術家だからよく話が合うのか貴嶺さんが叔父さんを訪ねて家に来ることはあったし、たまに叔父さんを誘って展示会とか行ったりしてるらしいし」
「ほう、知り合う早さは関係ないと思うが、意外にも積極的だな」
「それに、後から知ったんだけどおれが叔父さんの代わりに貴嶺さんの家に様子を見に行ったりすると、おれの仕事先にその分の代金を払ったりしてたらしいんだ」
桃也の説明に何を思ったのか、鬼が真顔で桃也を見つめ、
「――お前、仕事してたのか」
「してるよ! 失礼なこと言うな」
思わず顔を赤くして声を上げる桃也に、鬼が再度問う。
「何の仕事だ」
「……なんでも屋」
話がそれていることに気づきつつ、下手に隠そうとすると詮索されるかも知れないと思い桃也は渋々答えた。
「なんでも屋か。それって本当に何でもするのか?」
「ああ、そうだよ。如何わしいこと以外はね!」
鬼に妙なことを言われないうちに牽制しておいてから、桃也は話をもとに戻した。
「とにかく、貴嶺さんはおれに対しては借りを作りたくないって思ってることは確かだよ」
『だけど、だからと言って桃也を好きじゃないとは言えないんじゃないかな』
「え、そう?」
「だな。好きな奴の給料の足しになるっつーんなら払うって考え方もある」
「そ、そうか……」
再び考え込んだ桃也に鬼が話をまとめにかかった。
「ま、とりあえず二つの可能性が出てきたわけだ。お前の話だけ聞けば確かに貴嶺はお前の叔父が好きそうだが、二股という可能性もあるしな」
「なっ! 貴嶺さんがそんなことするわけないだろ!」
『わからないよ、桃也。芸術家は変態が多いと言うしね。もしかして、桃也と叔父とは似てるところがあるんじゃないか。だとしたら二人まとめて、とか思ってるかも知れないね』
「な――なっ」
あまりのことに言葉を失っていた桃也だが、ふと鬼がこちらへ近づいてきているのに気づいて焦る。
「もしそうなら、あいつは俺のライバルか」
不穏な空気を感じ桃也は本能的に後退るが、ダンボールに躓いて床に尻餅をついてしまった。その隙を逃さず鬼が距離をつめて桃也の傍にしゃがみ込み、桃也の脚の間に自分の膝を割り込ませた。
「あ、あのさ……なんでそういちいち迫ってくるんだよ」
意味ありげな笑みを浮かべて見下ろす鬼を、上目遣いに睨みつけながら詰る桃也。だが、鬼はそれを受け流すと上体を桃也へと寄せ、それから逃れようと上体を後ろに引いた桃也の背が別のダンボールに当たる。慌てて桃也は鬼を思いとどまらせようと言い募る。
「だ、大体、おれは嫌だっつってるだろ! これ以上やったら――」
「これ以上やったら? 坊主に頼んで退治してもらうか? それとも、また封印するか?」
「――……」
『言っておくが、あの詐欺師にやられるくらいなら、私は桃也をさらって遠くへ逃げるよ』
「あ、あのなぁ――」
「だが、そうだな。お前の手にかかって死ねるなら――」
『私は本望だよ』
「……」
「ま、お前にやられる前に俺がお前をいただくけどな」
ついに鬼の息が感じられるほど間近に迫り、
「ばっ! お前、ここがどこだか分かってるのか? 人ン家だぞ!」
「今は俺の部屋だ」
鬼が顔を斜めに傾けたのを見て桃也は目を瞑ってしまった。その瞬間、
「いいや、お前は居候の身だ。だからお前の部屋じゃない。俺の家だ」
「たっ、たたっ、貴嶺さんっ!!」
いつの間にか部屋の入口に貴嶺の姿があり、冷めた視線で桃也と鬼を見下ろしていた。貴嶺に見られたと知り、桃也は顔を赤くし体中から汗が噴出すのを感じた。その一方で鬼は舌打ちして貴嶺を睨みつけている。
「俺の家でそういうことをするなら、こっちにも考えがある」
「ふん、ただの人間に何ができる」
「俺には無理だが、紫穏に札をもらってこの家中に貼る。そうしたらお前はこの家から出ることは出来なくなるぞ。桃也も一切ここには近づけない」
「……」
「貴嶺さん……」
貴嶺の言葉に鬼は黙ってしまったが、桃也は桃也で複雑な思いを抱えてしまう。
鬼も近づきたくないと思うほど効果のある紫穏の護符を貴嶺は持っているが、それを貰うのに貴嶺は紫穏に五回も抱かれたという。桃也自身も護符をくれと頼むと「抱かせろ」と言われた。
鬼を家の中に封印できるような札をくれと言うと、やはり同じように体を要求してくるに違いない。それでも紫穏から札を貰おうという意思があるなら早く言って欲しいと桃也は思ってしまったが、思ってしまったあとで貴嶺の犠牲を要求している自分の考えに自分で幻滅してしまったりもする。
また、たとえ鬼を牽制する嘘だったとしても、口に出してしまうと「じゃあやってみろ」と言われてしまう可能性もあるし、言ったことを実行しなければならない事態に陥ってしまうかも知れない。ということは、少なからず紫穏に頼んで紫穏の交換条件を飲むという覚悟を持っているということになる。
(いや、貴嶺さんの場合、覚悟っていうより手段のひとつなんだ。おれみたいに体を要求されることに何の抵抗もないんだろうな)
貴嶺の脅しを本気と取ったのかはわからないが、鬼はもう一度舌打ちすると桃也から離れた。鬼は立ち上がってまた貴嶺を睨みつけているが、桃也は安堵と貴嶺に見られた恥ずかしさでへたり込んだまま座っていた。
その桃也を見下ろし、
「階段下の収納に掃除道具があるから、それを使ってくれ」
どうやらそれを貴嶺は伝えるために来たらしいが、去り際にひと言付け加えるのも忘れなかった。
「それから、俺のことは詮索するな」
淡々とした口調の中に冷たい感情を感じて、桃也は咄嗟に謝ることもできなかった。
階段を降りていく貴嶺の足音を聴きながら、ただただ申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。そんな桃也を少しの間見下ろしていた鬼が、不機嫌そうな表情で口を開く。
「お前、あいつに悪いとか思ってないだろうな」
「……思ってるに決まってるだろ!」
言って桃也は立ち上がると鬼の目を見返した。
「誰にだって詮索されたくないことはあるだろ」
だが、鬼はフンと鼻を鳴らすと苛立ちを混ぜた笑みを浮かべた。
「あいつは俺とお前の関係に口出ししてんだぞ。その理由を探るのが詮索なのか?」
「お前とおれの関係って……でも、それだって詮索ってことにはなるだろ。それにお前は鬼だし――」
その言葉に鬼が鋭い一瞥を投げて来て、桃也は一瞬身を竦ませたが鬼はそれ以上、この件に関しては何も言わなかった。
少しの間、居心地の悪い沈黙が部屋を満たしたかと思うと、窓から吹き込む風とは別の冷たい空気が部屋の中で発生し、桃也がその冷たさに一瞬目を閉じている間に鬼が赤から白に代わっていた。
白い鬼は桃也を振り返ると柔らかい笑みを見せた。
「掃除を手伝ってくれるんだろう。道具を取ってきてくれないか」
「あ、う、うん」
桃也は自分でもよく分からない焦りに、慌てて部屋を出ようとしてダンボールに躓いて転んだ。
転んだ恥ずかしさを必死に取り繕いながら、桃也は忙しなく部屋を出て行った。そのあとで一人になった鬼がひとつため息を吐く。
「適度な隙を見せつつも警戒心が強いとは、私たちには酷だなセッキ」
その呟きに返事はなかったが、もしかしたら頭の中では赤い鬼が何かを言ったのかも知れない。少しして鬼が苦笑いを見せた。