深い森の中で男の子の泣き声が響いている。
年端もいかない子が泣きながら森を彷徨っているようだった。
どうやら道に迷ってしまったらしい。
「やれやれ、やっと人らしい者が現れたと思えば」
「まだ童ではないか」
ふと、どこからともなく男らの声がする。
辺りに姿は見えないが、あえて言うとすれば声は地の底から聴こえてくるようだった。
そのふたつの声が会話を続ける。
「どうする」
「どうすると言って、この好機を逃すわけにはいくまい?」
「しかし、急にこの姿を現せば童は驚いて逃げるかも知れん」
「ふむ、ではどうすると言うのだ」
「そうだな。先ずは俺に任せてもらおう」
そこで声が途絶えた。
代わって男の子の泣き声が大きくなる。男らの声がする方へ近づいて来たようだった。
少しして自分よりも背の高い草を掻き分けて男の子が現れた。泣き声の印象のままに、まだ幼い子だった。年のころなら五歳くらいだろうか。
その様な格好でどうやって前を見ているのか、目元に両手を当てながらとぼとぼと歩いてくる。泣き疲れているのか声は先ほどよりも落ち着いていたが、今度は時折しゃっくりなどをしていた。
「おい、童。何を泣いている」
男の子が大きな岩の傍まで来たとき、姿のない男の声が再びどこからともなく聴こえてきた。
声をかけられた男の子は驚き、文字通り飛び上がると慌てて顔を上げて辺りを見回した。だが、どこにも声の主らしき姿は見当たらない。
「……だれ? どこにいるの?」
男の子は怯えながらも幼い声で誰何した。驚いたせいか、すでに涙は引っ込んでいるようだが、今度は姿のない声が怖いのかまた泣き出しそうな顔をしている。
「姿を見せてやってもいいが、逃げないと約束しろ」
「セッキ、そんな言い方では元も子もないぞ」
男の言い方に黙っていられなかったのか、もう一人の姿なき声が割って入った。
さらに驚いた男の子は目を皿のようにして、その場でぐるぐると体を回転させながら周囲に視線を走らせるが、やはり誰の姿もない。
「見ろ。相手はこんな童なのだぞ」
「いいから黙っていろ。姿を見せなければ、こいつはずっと回ったままだぞ」
「確かにそうだが」
「童、今から姿を見せてやるから、絶対に逃げないと約束しろ、いいな」
少々目が回ったらしく回転するのを止めた男の子だったが、未だに首を巡らせて不思議な顔をしながらもコクンと頷いた。
途端、今までそよとも吹かなかった風が立ち、辺りの草や木々の葉をざわめかせた。
風は熱いと言っても良いほど温かいものだった。その温かい風に頬を打たれて、何気なく男の子が風の吹いてきた方に視線をやると、そこにひとりの男の姿が出現していた。
近くにあった岩にもたれるような格好で、首を限界まで上げなければ頭が見えないほどに背の高い男だった。少なくとも今の男の子にとっては大男だ。
さらに言えば逞しい体躯をしており、着物の端から見える腕や脚は見事なほど太い。そして力強い目は血のように赤く、髪も同じように強い赤味を帯びている。
ただ、珍しいのはそれだけではなかっただろう。男が着ている服が男の子にとってみると不思議だったに違いない。洋服が一般的になった現代では珍しい和服の長着である。
いつの間にか現れた男を不思議そうに観察していた男の子は、ふとあることに気づいて再び目を見開き驚愕した。
男の体は透けて背後の岩や木々が体越しに見えていたのだ。
男の子はすでに“幽霊”という概念を持っていたようだった。
「おばけっ……!」
そう小さく悲鳴を上げると、現れた時とは対照的な素早い動きで来た道を戻って行ってしまった。
「おいっ! 逃げるなっ!」
慌てて男が怒鳴るが、もう男の子の姿はない。
「だから言っただろう? あんな言い方では逃げるのも無理はない」
再び風が起こった。赤い目と髪を持つ男が現れた時とは反対に、凍えるほど冷たい風が再び草や木々の葉を揺らして二人目の男の姿が出現した。
上背は先に現れた男と変わらないが、体格は逞しくはあるもののすっきりと細く、その涼しげな目は奇妙なほど白い。やはり髪も同じように白く、陰が差す具合によっては銀色にも灰色にも見えるかも知れない。
着ているものは先に現れた男と同じ長着である。
白い目と髪を持つ男は冷ややかな視線を隣に向けると、
「セッキ、お前のせいだからな」
と赤い目と髪を持つ男――セッキを睨め付けた。
だが、セッキは詰られて反省する様子もなく相手を睨み返すと言った。
「そうは言うがシロ、あれ以外にどう言えというのだ」
「他に言い方は幾らでもあっただろう。それに、その呼び方はやめろ」
「ではハクロよ、お前ならどうした」
訊かれて白い目と髪を持つ男――ハクロは顎に手をやって考える仕草をした。
「そうだな。先ずは敵ではないということを説明しただろうな」
「敵ではないと? そんなことを説明してどうする。俺たちが人間の敵だというのは変わらないだろうが」
セッキはその場にあぐらをかくと岩に凭れて腕を組んだ。
不貞腐れているらしいセッキを、蔑むように見下ろすとハクロはため息をつく。
「セッキ、お前は相変わらず頭が回らないな」
「なんだとっ!」
「嘘も方便というだろう。ここから出るためには、相手に嘘をつくのもひとつの手だと言っているのだ。何より相手は純粋無垢な童だ。信じ込ませるのは簡単というもの」
「ふん、そう言うお前は相変わらずさもしい奴だな」
「なにっ!」
ハクロが声を上げると同時に、生い茂った草が揺れて音を立てた。思わず二人ともそちらへ顔を向けるが、草が揺れているだけで何の姿も見えなかった。
しかし風はもう吹いていない。何よりも草の揺れた範囲が狭く、風で揺れたのではないとわかった。
動物である可能性もあっただろうが、しばらく考えてからセッキは口を開いた。
「そこに居るのか、童。居るのだったら今度はお前が姿を現せ。俺はこの通り姿を見せてやったのだからな」
再び草が揺れた。揺れただけだったが、そこに男の子が居るのは確かだと男らは思ったに違いない。互いに目を見交わし、それ以上は何も言わずに男の子が現れるのを待った。
すると、思いのほか早く男の子が草を掻き分けて再び姿を現した。泣いてはいないが、やはり今にも泣き出しそうな顔で上目遣いに男らを窺いつつ、それでもしっかりとした足取りで寄ってくる。
先ほどは居なかったはずのハクロを、また観察しながら体が透けていることも男の子は確認したようだった。
青ざめた顔をして、三メートルほど距離を取ると男の子は立ち止まり、消え入りそうな声で言った。
「おじさん、たち……ゆうれいなの?」
男の子の問いかけに男らの顔が険しくなったのは、幽霊だと言われたからではないのは当然かも知れない。
「おじさん……」
「……まぁ、童から見れば私たちはおじさんだろう。それに、見た目以上に年は食っているのだしな」
ハクロの言う見た目で言えば、男らの年齢は二十代半ばから後半に見える。普通なら「お兄さん」と言われても良い年齢だが、男の子から見れば「おじさん」なのだ。
男らの顔色が変わったことに男の子が怯え後ずさるのを見て、セッキはそれ以上そのことに拘ることはやめたらしい、気を取り直すとハクロを見上げた。
「それで、どう言うのだ?」
訊かれてハクロは少しの間考えると男の子の問いに優しく答えた。
「私たちは今、事情があってこのような姿をしているが幽霊ではない。悪い男に騙され、呪いをかけられてこの様な姿になってしまったのだよ」
「呪いねぇ……」
そう疑わしそうに呟いたのはセッキだったが、どうやら男の子は信じたようだった。セッキのような威圧的な口調ではなく、柔らかな物言いが男の子の心を掴んだらしい。
「おじさんたち、ゆうれいじゃないの?」
「信じるのか、お前」
意外そうな顔をしてそう言うセッキをハクロが睨みつけた。
「いいからお前は黙っていろ。――ところで童、私たちのことは名前で呼べ。私はハクロ、こいつはセッキだ、今のところな」
「? ハクロ、さん? セッキ、さん?」
首をかしげながらも名前を繰り返しつつ、大人びるように敬称を付ける男の子にハクロは笑いかけると言った。
「“さん”はいらない。呼び捨てで構わないよ」
「お前の名は――」
「セッキ」
「名は、何という。教えてくれ」
威圧的な態度を窘められて、不承不承ながらも言い方を改めるセッキを、また首をかしげながら見つめつつ男の子は
「とうや」
と名乗った。
「“とうや”か。何と書く」
「もも、に――」
“や”を言葉で説明できなかったのか、男の子は指で空に文字を書いた。当然、セッキからは逆だったがそれでも解ったらしい。
「ふん、桃に也で桃也か」
それはセッキの独り言だったが、男の子――桃也はコクリと頷いた。
「桃也か、良い名だな」
ハクロがそう言って微笑むと、また桃也はコクリと頷き、そして笑みを見せた。初めて見せた笑みは愛らしく、ハクロもセッキさえも少しの間桃也を見つめた。
ふいに訪れた沈黙に桃也は戸惑い笑みを引っ込めたが、それでも男らはじっと桃也を見つめ続けた。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはセッキだった。
「ハクロよ。今何を考えた」
「ふん、不愉快ではあるがお前と同じことだろうな、セッキよ」
互いに視線を合わせると不敵な笑みを浮かべた。
そしてまた桃也に視線を戻すと口々に言い合いを始める。
「なかなかに俺好みだ」
「将来は良い男になりそうだ。だがまだ幼すぎるな」
「ああ。そうだな、二十くらいが俺は好みだ」
「ふむ、私はもう少し若くてもいいが、まぁそれくらいが妥当か」
「あと十五年ほどか? 待ちどおしいな」
「そうだな。だが、ここから出られないと意味はないぞ」
「確かに。――桃也」
意味のわからない会話に呆然としていた桃也だったが、ふいに名を呼ばれて素直にセッキの方を見ると、セッキは座ったまま自分の後ろにある岩を指して言った。
「俺たちはこの岩の下に閉じ込められている。だからこの岩を退かしたいんだが、手伝ってくれないか。どうせお前は森に迷って泣いていたのだろう。俺たちがここから出ることが出来れば、お前を家に帰してやることもできるぞ」
今までのセッキの様子から考えて、かなり物言いに気を遣っているようだったが、まだ幼い桃也にその変化するところの奇妙さはわからないだろう。純粋にセッキの言葉をそのまま受け入れると少し考えたようだった。そして問いかける。
「わるい人に、とじこめられたの?」
「ああ、そうだ」
「どうしてとじこめられたの?」
「どうしてだと?」
途端に困った顔をするセッキ。そのあとをハクロが受け継ぐ。
「理由なんてないんだ、桃也。相手は悪者なのだからね。それで桃也、この岩に結び付けられてる縄を解いて欲しいんだ」
言われて岩を見ると、確かに細い縄が幾重にも巻かれていた。
「この縄が取れたら私たちは解放される」
「このなわをとったらいいの?」
「ああ、そうだ。この経典を編み込まれた疎ましい縄が取れれば俺たちは自由だ」
「セッキ」
再びハクロが諌めるも、セッキは肩をすくめて見せた。
「どうせ解りはしない。それに、そういう態度を取れば余計に怪しまれるのじゃないか?」
「……まぁ、いい。桃也、そういうことだ。この縄を取ってくれないか」
ハクロの頼みを聞いて桃也はまた少しだけ考えたが、コクリと頷くと岩に近づいた。
「よし、頼むぞ」
セッキの言葉を背に受けながら、桃也は一番下の縄に手をかけた。
かなり古い縄のようで汚れが酷く、外にあったせいか傷みも激しかったが、しかし幼い子供には手に余るほどの強度は持っていた。思い切り引っ張っても、ただしなるように伸びるだけで一向に切れる気配はない。
「やはり子供には無理ではないのか?」
顔を真っ赤にして引っ張る桃也を見ながらハクロが呟くが、セッキはまったく諦めていないようだった。
「無理ではない、大丈夫だ」
「しかし、何か道具を持って来た方がいいのではないか?」
「馬鹿か。例え一旦家に帰ったとして、再びここへ来れるとも限らんだろう」
「それはそうだが――」
「大丈夫だ。縄はもうすでにかなり傷んでいる。出来ないことはない。頑張れ!」
セッキに励まされて、さらに桃也は力強く引っ張った。すると、ぶつというような音を立てて縄が千切れ、解けた縄が地面に落ちた。だが、同時に引っ張る力を受け止めていた縄が切れたことで、桃也は勢いのまま後ろに転がってしまった。
そうして、勢いよく転がったせいで後ろに一回転し、頭を打ったのか桃也は気絶してしまったようだった。
しかし男らの姿はもうそこにない。代わりに岩がごそりと動くと、大きな音を立てて横に倒れ、岩の下に隠されていた大穴が現れた。そこから一本の腕が伸び、穴の縁を掴むと今度は男の姿が現れた。
年のころなら二十代半ばから後半の精悍な顔立ちに、鋭い目の色は血のように赤く髪も赤味を帯びている。もちろん体は透けていない実体だ。
「うむ、久しぶりの実感だな」
男は――セッキは立ち上がるとそう言って大きく伸びをした。
だが次の瞬間、不思議なことが起こった。
セッキの目と髪の色が徐々に変化し、ついにはすべて白く染まりきると顔立ちさえも変わってハクロの姿になった。
ハクロも外界に出たことを実感するように辺りを見回し大きく息をするが、視界に桃也が倒れているのを見ると眉をしかめる。桃也の傍へ行くと膝をついて顔を覗きこみ、気絶しているだけだとわかると息をついた。そして今は姿のないセッキを責める。
「セッキ、お前が無理をさせるからだぞ」
すると、さっと右の目だけが赤く染まる。
「大丈夫だ、大事ない」
そう同じ口から別の声が――もちろんセッキの声だが――した。
「それよりどれくらいぶりだ、外の世界は」
「さて。百年――いや、もっとか?」
「大分変わっているようだな」
「楽しみだよ。国を見て周るのに十年ほどかけてみるのもいい」
ハクロは言いながら桃也の体を両手に抱き上げた。
やはり片目を赤く染め、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「面白い。その頃には桃也も良い男になっているだろうよ」
ハクロ――セッキ?――は桃也を抱えたまま森の中を進んだ。
行き先は山の麓のようだった。
数時間後、麓に倒れている桃也を近所の住人が発見した。
しかし、それ以後の男らの行き先は不明であるが、そのような存在があったことなど誰も知るよしもない。男らに会った桃也でさえも、頭を打った衝撃でか男らのことを覚えてはいなかった。
目が覚めて両親に何があったのか訊ねられても、桃也はついに何も思い出せなかった。
そして、それから話は約十五年ほど先へと進む――。