冬。僕はきみの傍に、

3P−鬼が来たりて−[1-1]
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 冬の冷気にかじかむ両手を口元で擦り合わせながら、息を吐きかけつつ夕闇に染まる住宅街の静かな路地を、桃也は自宅方面へと歩いていた。
 ポツポツと道沿いに並ぶ街灯はすでに灯っていたが、完全に沈みきらない太陽が街を紅く染めていて、あまり街灯が役に立っているようには見えない。
 それでも、あと数分もして闇が濃くなれば、青い灯りが道しるべとなって夜を歩く人々に少しの安堵を与えるのだろう。
 ところが、その街灯のひとつがちかちかと点滅しているのに気づいて、ふと桃也は足を止めた。
 青は人を落ち着かせる効果があると言われているが、イルミネーションやネオンでもなければ静かな住宅街で見かけることのない、青色の点滅に桃也は不穏な何かが胸の奥を過ぎっていくのを感じた。
 だが、それはただの意味のない考えだと、桃也は自分自身の気を紛らわすように苦笑して、再び歩きかけようとした、その時――
「ぅわ」
 桃也の正面から強い突風が吹いてきて、マフラーを吹き飛ばされないよう咄嗟に両手で押さえながら、桃也はこの冷たい風が行き過ぎるのを待った。
 風はまるで桃也の全身を撫でるように一周すると、またどこへともなく吹き退って行ったようだった。
 突風がやんだことを知って桃也は、風の強さに閉じていた目を開けると思わず絶句した。
 ついさっきまで紅い薄闇が広がっていた路地の、もうどこにも陽の名残はなくなり、夜の闇が続く中で青い灯りだけがポツポツと闇を切り取って道を示している。点滅していたはずの街灯も、今は静かに灯ってアスファルトを青白く照らしていた。
 それが、目を閉じる前の光景とあまりにも違って、桃也は言いようのない不安に心がざわつくのを止められなかった。ギュッと肩に掛けた鞄のヒモを両手で握りしめると、自宅までの残りの距離を全速力で走った。
 五分ほど走ると自分の家が見えてきて、不安が広がる桃也の胸に安堵の光が射した。桃也は勢い余って音を立てながら自宅の門に手をかけると、門の前で白い息を吐きながら呼吸を整えた。
(我ながら情けない――)
 桃也は内心で自嘲した。
 もう成人を迎えようという自分が、夜道に怯えて走り出すなど、と。
 だが、それは幼い頃からの桃也の、特質とも言うべきものが関係していて仕方のないことだった。
 闇を怖がる気持ちはほとんどの人間が持っているものだが、桃也の場合はそれだけではない。時折、その闇の中に何かが見えることがあるのだ。
 「見ない」と意識していれば大抵は見えないのだが、ふとぼんやりとしているそのちょっとした隙を狙うように “それ” は現れて桃也を脅かした。
 いつ頃から見えるようになったのか覚えてはいないが、小学校に上がる前からすでに “それ” は見えて、それまではただの闇だったものが深く、そして濃くなり、いつでも桃也を飲み込もうと手を広げていた。
「桃也くん、こんばんはっ!」
「っ!?」
 突然うしろから声がかかって、あやうく桃也は悲鳴を上げそうになった。
 それでも悲鳴は寸でのところで飲み込むことはできたが、驚いた拍子に体が震えて、その震えが腕を伝い掴んでいた門を再び鳴らした。
 慌てて振り返ると向かいの家に住む女性――五十歳は超えているだろうと思われる主婦で名前を矢田慶子という――が、矢田家の門の向こうに立っていた。
 中背で太っているとまでは行かないが、些か恰幅のいい中年主婦は、相手の心情も構わずといったような笑みを浮かべて桃也を手招きする。
 桃也は驚いてしまった恥ずかしさに、つい照れ笑いを浮かべながら「こんばんは」と挨拶を返すと、手招きされるまま近づいて行く。
「おれに何か……?」
 仕事柄、時間外でも近所の住民から声をかけられることが多い桃也は、また何か頼みごとでもできたかと思ったのだが。
「いやね、あの画家さんのことなんだけど」
 聞いた途端、桃也は内心で「そっちか」と呟いた。
「貴嶺さんですか?」
 言いながら視線を左方へやるが、近所とはいえここからでは見えない。
 ゆるやかにカーブする道沿いの、矢田家から五軒ほど先に「青園」と表札が掲げられた家はある。ただ五軒先と言っても、ぴったり連なっているわけではないので、近くではあるものの実際歩いて行くと予想していたよりは遠い、ということになるのだった。
 家は少々古さを感じさせられるような日本家屋で、家自体はそれほど大きくはないが広めの庭もあり、手入れが行き届いていれば立派な外観になりそうなのだが、住んでいるのが男一人だとそうもいかない。
 四、五年前までは老夫婦が暮らしていたが、老いて二人だけで暮らすのが大変になったのだろう、家族のもとへ引っ越したようだった。それと入れ替わるようにして二十代の若い青年が引っ越してきて、表札の名前が替えられることはなかったので老夫婦の親族なのだろうと近所の住民は納得した。
 青年は引っ越してきてからずっと家に閉じこもっているのか姿が見えず、二週間ほどして初めて近所の主婦が彼の姿を目撃し、話しかけてやっと青年が絵を仕事にしている画家だと知った――と、桃也は聞かされていた。
「そう、その画家さんなんだけどね、ほら、隣の柴さんが言ってたんだけど、どうも昨日の朝に出かけてから帰ってないそうなのよ」
「はぁ」
 「またですか」とはさすがに口にしなかったが、桃也は今に始まったことじゃないよなと、特に驚いたり心配したりはしなかった。
 画家である貴嶺は家に閉じこもることも多かったが、何日か外出して帰ってこないことも多かった。聞くと外で絵を描いたり、かつて師事していた恩師の元へ行ったり、展示を見に行ったり――と、それなりに活動的なこともしているということだった。
 なので、何日か家を空けることはそれほど珍しいことじゃない。
 ちなみに「隣の柴さん」とは、貴嶺の家の隣に住む柴家のやはり主婦のことだ。
「そのぉ、きっとそのうち帰ってくると思いますよ」
 よくあることだから心配しなくてもいいんじゃないかと言う代わりに、桃也は控え目に進言してみたのだが、それで彼女が引き下がるわけはなかった。
「私もそう思ったんだけど、今日近所のスーパーに行ったら八鳥の奥さんとバッタリ会って話し込んじゃってね〜、もう気がついたら三十分も経ってんのよ〜」
 「八鳥」とは「はっとり」と読む。
 同じ町内に住んでいる主婦だが、ここより少し東にある丹木山(にぎやま)の麓に近いところに家がある。
 丹木山は標高が低い低山だが、今桃也が立っている場所から東を向けば、その頂を見ることはできた。
「それでね、その奥さんが言ってたんだけど、その画家さんが昨日の朝に丹木山へ入って行くのを見たっていうのよ〜」
「丹木山に……?」
 主婦の口から丹木山の名を聞いて、初めて桃也の胸に不安が過ぎった。
 丹木山は低山なので、登山というより軽いハイキングとして入っていく者が多い。あるいは野生動物を観察するために入っていく者もいるようだ。道はあまり整備されていないが、それでも道を大きくはずれなければ危険な山だという認識はない。
 もちろん危険がないわけではないが、桃也が感じた不安はもう少し別のところにあった。
 そんな桃也の不安を煽るように、主婦は眉をひそめ声のトーンを落とすと続けた。
「そうなのよ。あの山はほら、不吉な言い伝えがあるでしょう。この辺の人たちは知ってるから、昼間に入ることはあっても夜はね……。でも、あの人がもし丹木山から帰って来てないんだとしたら、ねぇ」
 心配でしょう、と街灯に照らされて青く浮かび上がる主婦の顔さえ不吉な予感を示しているように見えて、桃也は居ても立ってもいられなくなった。
「あ、あの、おれ貴嶺さん家に行ってみます!」
 主婦にそう言って桃也は五軒先の青園家へ走り出した。その背中へ主婦の声が追ってくる。
「お願いね〜。何かあったら言ってちょーだいね」
 走りながら「はい!」と返事をして桃也は、何もありませんようにと祈ると、すぐに見えてきた青園家の門へ駆け込んだ。
 門から玄関へ向かう途中、見える範囲で家の明かりを確認したが、一階二階ともどこの部屋にも電気がついているようには見えなかった。
 念のためにインターホンを押してから、鞄から合鍵を取り出すと玄関の鍵を開けて、いつも貴嶺がいるはずの玄関入ってすぐ左手にある部屋の戸をあけた。
 しかし、そこには誰の姿も、影すらもない。
 桃也は家すべての部屋の電気をつけていきながら貴嶺の姿を探したが、家のどこにも貴嶺は居なかった。
(やっぱり山に入ったまま、帰って来てないのかも……)
 胸に広がる不安の影が、徐々に色濃くなっていく。
 不吉な言い伝えはともかく、もし谷や川に落ちてしまっていたら。そのせいで怪我をして動けなくなっていたら。
(助けに行かなきゃ)
 内心で決意したあとで、警察に通報するべきかとふと思ったが、丹木山で遭難しているという確証もなかったので、桃也はとりあえず自分で探してみてからだと考え、一端自宅へ戻ると荷物を置き懐中電灯を持って丹木山へ向かった。
 貴嶺がいるはずの丹木山は低山で、その標高は291mと低く、目を引くような史跡や景観もないので、訪れる者はほとんどいない。そのためかコースを指し示すものはなく、ただ何度か踏み入って付けられたような道が、斜面に沿って蛇行してあるだけだった。
 そんな淋しげな山でも、物好きな者が来ては軽いハイキングを楽しんで行くわけだが、来る者の大半はよその町の人間で、丹木山周辺に住む矢申町、成犬町、大雉町の人間はあまり進んで入ろうとはしない。入ろうとする者がいるとすれば、それは最近その町に来たばかりの新参者で、丹木山周辺に伝わる話を聞かされていないからだろう。
 そう、丹木山には不吉な言い伝えがある。
 現在の正式名称は「丹木山」とされ、その由来も読んで字のごとく山の地面が赤土で、秋には赤土と同じように木々が紅葉する、その景観が見事なことから「丹木山」と付けられた――と言われている。
 だが、昔から丹木山周辺に住む者たちは、その由来を頭から信じてはいない。そして、その山を陰ではこう呼んでいる。
――鬼喰山。
 これも読んで字のごとく「鬼が喰う山」、「おにぐいやま」と言い、不用意に山の奥へ入ってしまうと山に棲みついている鬼に喰われてしまう、という言い伝えがあった。
 この呼び方がなまって「にぐいやま」、「にぎやま」、「丹木山」となったのではと言われている。
 さらに言えば、山の赤土も鬼に喰われた人間の血が染み込んだからだ、という話まである。
 もちろん、最近になって誰かが行方不明になったとか、鬼に食われたらしい人間の死体があったとか、そういう事はないようだったが山に入って夜になってしまうと道に迷う者が増え、やっとの思いで帰ってきた者は口々に「妙な声を聞いた」とか「怖ろしいものを見た」などと言って怯えた様子を見せるのだった。
 実のところ桃也も幼い頃、丹木山に入って迷ったことがあった。
 桃也が山に入ったのはまだ明るい時刻だったが、泣きながら山の中を彷徨っていたことだけは覚えている。その後、いつの間にか桃也は山の麓に倒れ気を失っていた。麓の近くに住んでいた住民に発見され、病院で両親と祖父に会うことができたが、一体どうしたんだと訊かれても桃也は答えられなかった。
 山に迷ってからの記憶がほとんど無くなっていたためだった。
 桃也の後頭部には何かで打ったような痕があったので、医師は「何かにぶつかった衝撃で記憶が飛んだのかも知れない」と言ったが、桃也が山で迷子になり記憶を失ったという話を聞いた住民は、「きっと何かとんでもなく怖いものを見たんだ」と口々に囁きあった。
 その後、桃也は祖父から丹木山に関する言い伝えを聞かされ、「もう二度と近づくんじゃない」ときつく何度も言い聞かせられた。
 そんなことがあってから今日まで、桃也は一度も丹木山に足を踏み入れたことはなかったのだが――。
(今はそんなこと、言ってる場合じゃないよな)
 山道を懐中電灯で照らし入口に足を踏み入れて、桃也は怯える心を奮い立たせると、吸い込まれそうなほど深い闇に向かって貴嶺の名を呼んだ。
 どこかで動けなくなっているとしたら、桃也の呼びかけに応えて居場所を教えてくれるはずだが――しかし、もし気絶していたら? 最悪、死んでしまっていたら?
 闇に目を凝らしながら、そんな考えが脳裏を過ぎると同時に思い出したくない光景が瞼の裏に蘇って、桃也は冷たい映像を振り払うように首を振った。
(大丈夫だ。おれはまだ何も見てない、何も)
 自分を励ましながら、地面や草木の間に貴嶺がいた痕跡がないか必死に探す。
 だが、あまりにも闇が濃くて、懐中電灯の頼りない明かりだけで探すのには限界があった。見える範囲の狭さに、桃也は次第に苛立ちを覚えて、それが焦りや不安と綯い交ぜになると、情けないと思いつつも泣きそうになった。
「貴嶺さんっ! 返事して下さいっ!」
 桃也は溢れそうになる感情を紛らわすように叫ぶと耳を澄ませた。しかし、それでも木々の沈黙しか返って来ないと知ると、思わず足がその場で止まってしまう。
 冷たい風が頬を打って、桃也は鼻を啜りながら目元に手をやると、かじかんで感覚のない指先が氷のように冷たく感じた。気がつくと懐中電灯を握りしめていた手も、その形のまま凍ってしまったように錯覚するほど感覚がない。
 思い出したように寒さを感じて震えると、桃也はジャケットのファスナーを上げ、マフラーも顎まで上げると再び歩き始めようとした。
「っ!?」
 桃也が一歩踏み出した直後、傍の草陰から草を弾く音をさせて、白い小さな何かが飛び出してきた。
 桃也は声もなく驚きその場で硬直する。いつも暗闇の中で見る “あれ” だと思ったのだ。自分の隙を突いてまた出てきたのだと。
 桃也は恐る恐る懐中電灯を、その白い何かに向けた。すると――
「なんだ……猫か」
 青白い明かりの中に姿を現したのは白猫だった。闇の中ではおぼろげに見えたそれも、明かりの中ではくっきりと闇を切り取ったかのように真っ白で、明かりを反射してかともすると毛並みが輝いて見えた。
 桃也の目の前に座って、こちらを見上げてくる猫の目も白に近いブルーの色をしている。
 自然と桃也は微笑んでしゃがみ込むと、物怖じしない猫の頭を優しく撫でた。
「お前、野良か? この山に棲んでんの?」
 答えを期待しての問いかけではないし、当然、猫もニャーとしか鳴かない。桃也は小さくため息をついて、大人しく撫でられている猫を見つめた。
「貴嶺さんの居場所を知ってたら教えて欲しいんだけど……無理だよな」
 言いながら、自分で言っていることがおかしいと自覚して桃也は苦笑した。
 ところが、その桃也の言葉に応えるように再び猫が鳴き、身を翻ししなやかな動作で道の先へ歩いていく。そして、途中で止まると桃也を振り返ってまた鳴くのだ。
 もしかして、どこかへ――貴嶺のいる場所へ案内してくれるのだろうかと、桃也は期待を胸に猫のあとをついて行くことにした。
 猫は軽やかな仕草で険しい山道を難なく登り、少し先へ行っては立ち止まって桃也が追いつくのを待ち、桃也が追いつくとまた少し先へ行って――それを繰り返し桃也をどこかへと導こうとしていた。
 相変わらず闇は濃く桃也の行く手を阻もうとするが、猫が傍にいると思うと不思議と桃也は怖くなかった。
 どれくらいかそうやって猫のあとについて山の奥へ入って行くと、山道を外れた先に明かりが見えた。明かりに気づいた桃也は思わず足を止めて、闇の中にあるその明かりが何の明かりなのかと、じっと目を凝らした。
 桃也が持っているような懐中電灯の頼りない明かりではない。懐中電灯よりももっと確かなもので、そのため人の心に安心感を与える明かりだ。
(――家?)
 仄かにオレンジがかった明かりは、部屋の電灯によく使われる暖か味のあるもので、木々の合間からどうやらそれが四角い形に切り取られているらしいということがわかった。
(こんな所に家が建ってるのか?)
 桃也は不審に思った。
 標高が高い山ではないから山小屋というわけではないだろう。もし人家ならば山を、あるいは山の一部を誰か個人が所有しているということになるが、そんな話は聞いたことがない。
 近隣の町では「鬼喰山」などという言い伝えが広まっているので、誰かがこの山に住んでいるとなれば、そういう話は広まりそうなものである。
 そこまで考えて桃也は先ほどとは違う恐怖を覚えて震えた。
 貴嶺が山のどこかで息絶えている、それも怖ろしいことだったが、丹木山には鬼が棲んでいるということが目の前の光景そのままだとしたら、桃也は今まさに鬼の住処を見つけてしまったということになる、それも怖ろしいことだった。
 子供の頃、祖父に言い聞かされた鬼喰山の言い伝えがそのまま真実であると、成長した桃也は頭から信じているわけではないが、子供の頃に植えつけられた先入観と、桃也自身も山に迷い記憶喪失になったという体験があって、完全に鬼の存在を否定できる自信がない。
 あの明かりを無視するべきか、あるいはこのまま引き返すべきか、山の斜面に立ち止まったまま考え込む桃也の耳に、遠くから猫の鳴く声が聴こえてハッと我に返る。
 慌てて道の先を懐中電灯で照らして猫の姿を探すが、遠くから鳴き声がしたということは当然近くにはいないということになる。
 どうも猫はあの明かりの方へ向かっているようだが、そこに棲んでいるのが鬼だとしたら猫が危ない。桃也は咄嗟にそう考えると意を決して足を踏み出した。
 明かりの元は思ったほど遠くはなく、少し斜面を登っただけで建物の様子が見てとれた。闇に慣れていた桃也の目には、薄ぼんやりとではあるが建物の外観が見えて、それが意外にも古くないと感じた。
 “鬼の住処” を想像して、桃也の頭の中にこうだという確固としたものはなかったが、“言い伝え” “昔話” という印象から鬼の住処として家があるなら、江戸時代以前のものなんじゃないかと予想していた。だが、目の前にあるのはせいぜい大正か昭和初期の小さな日本家屋だ。
 ただし造りの年代はともかく、長い時間を経てきた家だろうという印象はある。触れられるほど近くに寄ると、屋根瓦も所々落ちて無残に屋根板の肌が剥き出しになり、木造の壁も表面が朽ち剥がれ落ちてかなり傷んでいるようだった。
 しげしげと観察しながら玄関に向かうと、引き戸が20cmほど開いていてオレンジがかった電灯の明かりが四角く漏れているのが分かり、そこから猫が家の中へ入ったのだろうということが予測された。
 桃也は逡巡したが、猫を助けるにしても住人がどんな人物か確認するにしても、とりあえず隙間から覗いて様子を窺ってみようと思った。
 可能な限り足音を立てないように玄関前まで移動し、ゆっくりと体を傾けると隙間から明るい家の中を覗き見た。
 電灯の中に浮かび上がった部屋には、L字型の土間があり左手奥は炊事場になっているようだった。その土間を仕切る引き戸は開け放されて、囲炉裏のある居間が広く見えていた。居間の奥と右手側にも引き戸があったが、そちらは開いていないので何があるか分からない。
 とりあえず、隙間から見える範囲には猫の姿も人の姿もないようだった。
(ここに猫がいないんなら――)
「どこに行ったんだろう……」
 部屋の隅から隅まで眺めながら、無意識に桃也がそう呟きをもらしたその時、
「誰だっ!!」
怒鳴り声とともに勢いよく玄関の戸が開き男が現れた。
「ぅうわっ!?」
 いないと思っていた人間が突然目の前に現れて、思わず桃也は驚きその場に尻餅をついた。その姿勢のまま呆然と見上げると、大男とも言えるほど背の高い男が立ちはだかって桃也を見下ろしていた。
 歳は二十代後半くらいだろうか。長身で引き締まった体躯は逞しく、一重の鋭く力強い目、血のように赤い瞳、そして同じように強い赤味を帯びた髪が、日本人離れというよりは人間離れした雰囲気を漂わせている。
 遠慮なく桃也を見下ろす傲慢な態度は、それだけ強さと自信の表れだろうか。
(……あれ?)
 そんな男を見上げていると、ふと桃也は既視感に襲われた。ずっと昔にも同じようなことがなかっただろうかと、咄嗟に記憶を探るがそれは分からなかった。だが、確かに桃也は過去に同じように大男に見下ろされたような気がしたのだ。しかも今、桃也の目の前にいる大男にだ。
 それはいつだっただろうか、それとも気のせいだろうか、そう考えながら呆けていると、見つめていた男の唇の端が吊り上がった。笑んだのだ。
「臆病なのは変わらずか?」
 男の言葉に桃也はさらに目を見開いた。男は桃也のことを知っているらしい。それなら既視感があるのも納得だが、しかし桃也の頭の中には男と会ったという記憶がない。
「おれを知ってる、んですか?」
 言ったあとで過去に会ったことがあるなら、見た目が人間離れしているとしてもやはり普通の人間なんじゃないかと桃也は思った。もし、目の前にいる男が人間ではなく妖怪の類なら、昔に会った時点で無事では済むまいと。
 しかし、思ったあとでハッとしてもう一度男の姿を上から下まで観察する。頭に角もない、口の端に牙も見えない、手の爪も尖っていない――鬼と言えるような特徴はとくに見当たらなかった。もちろん寅のパンツもはいてはいない。現代風の服で上は赤銅色のVネックセーターに、下は黒のデニムという格好だ。
 桃也の言葉に今度は男が驚いたようだった。僅かに右の眉を吊り上げる。
「覚えてないのか」
 次の瞬間、不思議なことが起こった。
 男の赤い目が、左の目だけ白く変色したのだ。さらに、
『あれのせいではないのか? ほら、封印を解いたときに後ろに転がって気絶していただろう』
「え? え??」
 声は確かに目の前の男から発せられたものだが、その声質は明らかに先ほどと異なるもので、つまりは別人のもののように桃也は聴こえた。
 さっきまでは力強く野太い声だったはずが、今聴こえた声は滑らかで涼やかな声をしている。
「そういえばそうだったな」
 と、これは野太い声。やはり同じ口から別々の声が出ているとしか思えない。
 片目だけが変色したことも含めて、桃也は信じられない事態に問い質すことも忘れ、ただただ呆然とするだけだった。
「しかし――」
 自失する桃也の視界に、ぬっと男の大きな手が伸びてくるのが見え、あっと思う間もなく二の腕を掴まれ引っ張られると強引に立たされた。
「この俺のことを忘れるとは、いい度胸だ。お仕置きが必要だな」
 腕を掴んだまま再び男が笑んで、桃也の背筋にひやりとしたものが走った。
 桃也ははじめて自分が危険な状態にあるのだと認識したが、時はすでに遅かったのだった。


 数分後、桃也は一言では説明しようのない状況にいた。桃也自身に現状を尋ねたとしても、本人すら理解できずにいるのだから答えられるはずもない。
 場所から言えば、丹木山の山中にある古ぼけた平屋の、居間の右手にある戸の向こう――おそらく寝室だろう――その部屋に桃也はいる。寝室だろうとは言っても寝具はない。おまけに明かりもついていない。
 桃也の状態はどうだろうか。
 ジャケットとマフラーを剥ぎ取られ、おまけに両手両脚を布紐で縛られていた。猿轡はされていないが、状況が状況だけに桃也は怖ろしくて声も出ない。
 桃也を縛り部屋に閉じ込めたのはもちろん、玄関先に現れた大男だ。桃也が呆然としている間に素早い動作で縛り上げてしまった。そして、「準備が出来るまでここで待て」と言って男は戸の向こうに消えていった。
 事ここに至って桃也は、もうあれは鬼に違いないとほぼ確信していたが、しかし男が桃也のことを知っていたということがどうも桃也には引っかかってしまい、そのせいでまだどこかで大丈夫なんじゃないかと楽観する気持ちもあった。
 壁を背にぎこちなく座った格好で桃也は、いっそ夢か幻覚ならいいのにと思いながら、戸の隙間から漏れる細い明かりを見つめた。
 その戸の向こうでは男が言っていた何かの準備が進められているのだろうか。時折、物音と男の独り言が聞こえる。
 いや、独り言ではないのかも知れない。
 桃也は先ほど目撃した不可解な現象を思い出した。
 目の前には一人の男の姿しかなかったはずが、男の左目が赤から白へと変わった直後、男の口からそれまでの男の声とはまったく異なる、別の男の声がしたのだ。
 腹話術で会話する趣味があるのでなければ、あれは一体どういうことなのだろうか。
 そして、やはり桃也には男の姿や様子に既視感を覚えて仕方ない。
 桃也は次第に大きくなる欲求に逆らえず、そっと床に寝転がって芋虫のように這うと、居間と寝室を隔てる戸の隙間から向こうを覗き見た。
 細い隙間に男の手元の辺りしか見えなかったが、男は自分の前に置かれた箱から何やら取り出してはぶつぶつと呟いているようだった。桃也が耳を澄ませると、やはり2種類の声で会話をするのが聴こえた。
「やっとこれを使える日が来たな、シロ」
『ふん、お前はそんなに楽しみにしていたのか? それと、その呼び方はよせと何度も言ってる。いい加減やめろ』
「悪いな。見たまんまなもんで」
 男は肩を揺らして笑ったあとで、再び箱から何かを取り出す。
「荒縄か。お前が好きそうなやつだな」
『それはお前だろう、セッキ。私はこちらの方がいい』
 そう言って左手が箱から取り出したのは、赤くて大きい蝋燭だった。
「だが、それも緊縛と一緒でなければ面白くないだろう」
『確かにな』
 口々に言い合いながら箱から出てくる品々を、桃也は今まで見たことはなかったが、それが如何わしいものであるということは十九年生きてきた知識でも充分に知れた。
 だが、そうと分かったところで男の行動が理解できるとは限らない。一体男はあれらを使って何をしようというのだろうか?
(あいつは鬼だろ? 角の牙もないけど鬼だろ? 鬼は人間を喰うんじゃなかったのか? こう……肉を引き千切って血を啜り、それから骨をしゃぶって――)
 そこまで想像して桃也は胸の辺りがムカムカするのを感じた。
 桃也が生々しい想像に気を取られていると、戸の向こうの気配が動いていることに気づくのが遅れ、はっとして視線を戻したときにはすでに男の足が間近に見えていた。そして、しまったと思う間もなく戸が勢いよく開き、居間の明かりが逆光となって男の影が再び桃也の前に立ちはだかった。
 慌てて桃也は体の上下を反転させると、体を左右に捻るという不恰好な仕草で後退ったが、それにぴったり合わせるように男も詰め寄ってきた。
 怯えつつも桃也が見上げると、薄暗がりの中で桃也を見下ろしながら男が鋭い歯を見せて微笑むのが見えた。
「さて、始めるとしようか」
「まっ、ま、待ってくれっ!」
 桃也は咄嗟に縛られた両手を前に突き出して訴えた。
 何をされるのかはよく分からないが、こんな状況でされることと言えば決して喜べるものではないことくらい桃也にも分かる。
 思いとどまってくれれば嬉しいが、そう簡単に行かないのが世の常だろうと、桃也は必死にただ逃げることだけを考えた。
「待てだと。馬鹿を言うな。今までどれだけ――」
「その、悪いんだけど、おれ、吐きそう」
「……」
 桃也の訴えに男はしばし考え、ひとつ舌打ちをすると「仕方ねぇ」と言って桃也を立たせた。
「それと、ついでにトイレもしたいから紐を取って、くれないか」
 男を見上げてさらに桃也が頼むと、やはり男は考え込んだが渋々といった様子で頷いた。
「いいだろう。だが、逃げようなんて考えるなよ。痛い目をみたくなかったらな」
「わ、わかった……」
 男の凄みに怯え桃也が何度も頷くと両手両脚の紐が解かれた。
『ま、そっちの趣味はないからね』
 ふと、紐を解きながら男が、もうひとつの声で呟くのが聴こえたが、桃也は必死にそれを聞き流した。
 自由になった両手をさする桃也の腕を掴み、男が寝室から居間に出た。今度は居間の奥にある戸を開くと短い廊下が現れ、その奥の戸の前まで連れて行かれた。どうやらそこがトイレのようだった。
「いいか、もう一度言う。逃げようなんて考えるんじゃねぇぞ」
 男は言って桃也がまた頷くのを見ると、トイレの戸を開けて入るよう促した。
 トイレは当然のように和式で、オレンジ色の強い電球の明かりに浮かび上がったのは、木の床の真ん中に四角く穴を開けただけのそれだった。
 和式の、それも汲みとり式のトイレを使ったことがないわけではないが、ここまで古いものを見たことがなくて桃也は思わず戸惑ってしまう。だが、うろたえてばかりはいられなかった。
 視線を感じて振り返れば、開いたままの戸から男の姿が見える。
「恥ずかしいから閉めてくれよ」
 遠慮がちに、それでもはっきりとそう言うと、男はまた舌打ちをして戸を閉めた。
 これで妙な物音を立てなければ少しの間は大丈夫だ、そう心中で確認すると桃也はトイレの中を見回して、逃げられそうな箇所がないか探した。探したと言って、入ったときから視界には入っていた。向かいの壁に小さな窓がある。小さくはあったが桃也程度の中肉中背の体躯なら問題はなさそうだった。
 しかし、そこから逃げたと言ってすぐに見つかれば、きっとあっという間に追いつかれてしまうに違いない。何かで戸を開かないようにしたとしても、それに気づかれてしまえばお終いだ。
 「まだか」とノックと共に聴こえる男の声に、「もう少し待ってくれ」と桃也は腕組みしながら応えて、ふとズボンの後ろポケットに突っ込んだ財布の存在を思い出した。さらに言えば、財布の中身を、だが。
(そうだ、これ――)
 財布を開くと数枚のお札に紛れて、明らかにお金ではない札(ふだ)が入っていた。
 お札よりは柔らかい和紙でできており、桃也には読めない字で何かが書かれていたが、素人目から見ると護符そのもののように見えた。それが三枚ある。
 数日前、貴嶺に「念のために持っておけ」と言われて貰ったのだが、その貴嶺も札は近所の寺の “若坊主” からもらったと言っていた。
 この札が役立ってくれるかも知れないと、桃也は一枚を取り出して顔の前まで持ってくると、札に向かって頭を下げて願った。
(どうか助けてくださいっ!)
 その声が聴こえたわけではないだろうが、さっきより強く戸が叩かれて男の怒鳴り声がした。
「おいっ、まだか!」
 焦った桃也が何か答えようと口を開いた、その時――
『もう少しだ』
そう答えたのは今桃也が持っている札だった。しかも、その声は確かに桃也の声だった。
「何をしてんだ、ったく」
『大のほうだ』
(おいっ)
 札の返答に思わず内心で突っ込んだ桃也だが、これは時間稼ぎになると思って札を床に置くとそっと窓へ向かった。
 音を立てないように窓を開け、なるべく体をぶつけないように外へ滑り出て、足音をさせないように地面に着地した。そして、枯葉や枝を踏みしめる音をさせないように、逸る気持ちを抑えつつゆっくりと一歩一歩進む。
 季節は冬で枯葉の多い時期だが、家の周辺に木々が生えていないせいか思ったほど乾いた葉の音はしなかった。しかしそれも数歩だけで、3mほど家から遠ざかると落ち葉は増えて、どんなにゆっくり歩いても音がしてしまう。
 だが、ここまでくれば大丈夫だと、桃也は切り替えるとそこから脱兎のごとく走った。ジャケットとマフラーは取られたが、靴を脱がされなかったのは幸いだった。枯葉や枯れ枝と石だらけの山の斜面を走るには、靴がなければ決してできることではなかっただろう。
 すでに山道の存在など桃也の頭にはなく、ただひたすらに下る方向に降りられる箇所を見つけて下る、それだけだった。
 ところが、数分もしないうちに背後の闇から男の声が追ってきた。
「まぁ〜てぇ〜!!」
 肝がつぶれるほどのドスの効いた声に、桃也は走りながら震えた。あまりに怖ろしくてすぐには後ろを振り返ることもできない。
 男の足は相当速いのか、あるいは山の斜面の走り方を心得ているのか、もしくは鬼だからか、桃也との距離はあっというまに縮まって、男の気配がもうすぐそこまで近づいてきていた。
 桃也は走りながら再び札を取り出すと、「助けて!」と念じて後ろに放った。
 すると、少し間を置いて後ろにたくさんの人の気配が発生したを感じて、桃也は足は止めないまま何気なく振り返った。見るとあらゆる種類の美女が群がって男の前に立ちはだかろうとしていた。
 思ってもみなかった光景に桃也は思わず足をもつれさせて、危うく転がるところだった。
(あんなものに鬼が引っかかるのか?)
 つい疑問に思って立ち止まると、桃也は男がどうするのか見届けようとした。世の男なら誰しも引っかかりそうなものだが、相手は鬼なわけだし引っかかるわけがない、そう半信半疑で見ていた桃也だが――
「おう、美女の群れとはまた」
 男は下品な笑みを浮かべると、美女の群れの前で立ち止まって、すり寄ってくる女を掻き抱いた。
(引っかかるのか……)
 男が幻の美女に現を抜かしている間、桃也は再び距離を広げるべく走り出した。そんなに高い山ではないし、それほど高く登ったつもりもないので、麓の家々の明かりが見えてもいいはずだが、桃也がそれを確認する前に男の気配がまた迫ってきた。
「お〜の〜れ〜、よくも騙したなぁ〜!!」
 どうやら美女の群れはすぐに消えてしまったらしい。
(騙される方がおかしいっての!)
 走って息を乱しながら、桃也は最後の一枚を「今度はもっとまともなのを頼む」と祈って放った。また少しの間があって、やはり先ほどと同じように後ろで人の気配が増えた。
(また美女の群れか?)
 そう思って振り返ると、桃也の予想は半分外れていた。群れではあったが美女ではなかった。今度は美男の群れが、男の行く手を阻もうとしている。
(んなの無理に決まって――)
 ところがだった。
「今度は男か。望むところだ!」
「引っかかんのかよ!」
 今度こそ声に出して桃也は突っ込んだのだった。
 しかし悠長なことばかりもしてられない。美女の群れはすぐに消えたようだし、美男の群れも長くはもたないだろう。桃也は少しでも距離を広げようと再び山の斜面を走った。
 とは言え、麓はもう近かったらしい。幾許もしないうちに桃也は麓に出ることができた。しかも偶然にだろうか、出たところは先ほど桃也が使った札を作った “若坊主” のいる寺院の近くだった。
 少し離れたところには、まばらに家々の明かりが見えるが、それだけでも桃也の心を落ち着かせるに充分で、挫けそうになる気持ちを奮い立たせると寺院へ走った。
 寺院の名は鬼治寺(きちじ)といい、開かれたのは約500年前とそれほど歴史はない。規模も小さく山の麓にひっそりと建ち、檀家にのみ門は開かれている――とは言え、丹木山周辺の町に古くから住む住民のほとんどは檀家と言っても過言ではないかも知れない。
 理由は寺院の名に起因する。
 寺院の名の由来は読んで字の如くで、寺院を開いた人物が丹木山に棲む鬼を治めたことから付けられた。
 ただ、鬼を完全に退治したわけではなく、山のどこかに封印しただけなのだが、鬼に怯えていた人々にしてみれば封印しただけでも嬉しかったに違いない。その後、鬼を封印した者は山の麓に寺院を建て、鬼が再び地上に出て来ないよう見守る役目も担うようになったという。
 ちなみに、今その役目を担っているのは鷺島紫穏という男で、二十代後半という若くして住職となった “若坊主” である。
 山の緩やかな斜面に沿うように連なる石段を登り、門をくぐると目の前に本堂が現れるが、桃也の目指す先は本堂の向かって右にある庫裏、つまり住職やその家族が住む場所になっている建物だ。
 少々年代を感じさせる木造の家には些か不釣合いなインターホンを押して、尚且つ玄関の戸を何度も叩いて桃也は家の主を呼んだ。
「鷺島さん! 鷺島さん!」
 しかし桃也の呼びかけに応答はなく、返ってくる沈黙がまるで人の居ないことを表しているようだった。それでも、この夕飯時という時間に誰もいないのはおかしいと、桃也はきっと誰かがいると確信するというよりは祈る思いで、今度は玄関の戸に手をかけた。
 すると、いとも簡単に戸は開いて桃也を中へ招き入れたのだった。
 玄関を入ると奥へ続く廊下と二階へ上がる階段が見えた。とりあえず一階から見て回ることにして、鷺島の名を呼びながら居間、食堂、台所、風呂場と覗いていくが、どういうわけか誰の姿も見当たらない。
 玄関の鍵が開いていたのだから留守というわけはないだろう。となれば二階に居るのだろうかと、桃也は廊下に戻って階段を登った。
 二階は二部屋あった。どっちかに居るのだろうかと一番手近にあった戸に手をかけたとき、その戸の向こうから僅かにくぐもったような人声が聴こえ、桃也はやっと確信を持って戸を開けた。
「すみません、鷺島さん! おれ、助けて――」
 ところが、戸を開けて中の様子を見た途端、桃也は固まった。
 部屋の奥にあるベッドに寝転がる男と、その男の腰元に顔を埋めて一心不乱に何かをしている青年の姿が、明るい電灯のもとしっかりと桃也の目に飛び込んできたのだ。
 桃也が入って来たことに別段慌てるようすもなく、なお泰然として微笑すら浮かべながらベッドに寝転がっている二十代後半のこの男が鷺島紫穏で、桃也も貴嶺と一緒のときに二度ほどだが会ったことはある。
 紫穏は早くに亡くなった父親のあとを継ぐため若くして住職となったが、周辺住民の評判は悪くない。とくに色白で細面の美男子なので女性の受けが良かった。ただ、一般的な僧侶らしからない有髪は、頭の固い者から見れば多少不審に思われることはあるようだ。
 桃也自身、二度しか会ったことがなかったので、そんな住民の評判を鵜呑みにするしかなかったのだが、今目の前の光景を見てしまっては紫穏の評価を修正しなければならないようだ。
 一方、紫穏の腰にしがみついて、桃也が現れたのも構わず手と頭を動かし続けている青年は、いつ頃からかは分からないがこの鬼治寺に住み雑務をこなす僧で、紫穏の弟子ということになるはずだ。
 しかし、この状況を見てしまったあとでは、ただの弟子だとは考えにくい。
「す、すすっ、すみませんっ!!」
 桃也は慌てて謝ると戸を閉めた。
 閉めたあとで、だが何しにここへ来たのかを思い出し、鬼治寺から早々に離れてしまうわけにはいかず桃也は立ち往生してしまった。今のところ男が寺の中まで追ってくる様子はないが、再び寺を出てしまうと今度こそ完全に捕まってしまうに違いない。
 桃也は今更ながらに戸をノックして、開けないまま呼びかけた。
「あの、鷺島さん、その、おれ、助けて欲しくてですね――」
 すでに手遅れな気がするものの、相手に気を遣って戸越しに声をかけた桃也だったが、そんな気遣いを無下にするような言葉が戸の向こうから返ってきた。
「そこで話されても聴こえんよ。入りなさい」
 ごく穏やかな口調でとんでもないことを言う。男同士で親しくしているところを、他人に見られても平気だと言うのだろうか。
 それでも、聞いてもらわないことには桃也も困るわけで、勇気を振り絞ると再び戸の取っ手に手をかけた。恐る恐る戸を開けて、なるべくベッドの方を見ないように気をつけながら部屋の中に入ったが、そんな桃也の視界の端に青年が紫穏のズボンを直すのが見えて安堵した。
 どうやら行為はやめてくれたらしいと桃也が安心して紫穏を見ると、先ほどと変わらない涼しげな顔で桃也に視線を返してくる。
「貴嶺の近所に住んでた子だね。確か桃也くんだったっけ。数えるほどしか会ったことはないが、こんな礼節に欠ける子ではなかったと思ったんだが――どうやら、よほどのことがあるらしい」
 ベッドに脇を下に横になって、立てた右腕で頭を支えるような格好をしながら、紫穏は悠然と桃也に話しかけてくる。その紫穏を、ズボンを直し終えた青年が物欲しげな顔で見上げ、
「紫穏さま……」
「ああ、月嗚(つきお)。悪いが続きは夕食が終わってからだ。食事の用意を頼むよ」
 紫穏の指示に、名残惜しそうにしながらも「わかりました」と言って青年は部屋を出て行った。出て行く間際、桃也に鋭い一瞥を投げたが、これは威嚇されたのだろうかと思うと桃也は戸惑った。そんな桃也にも紫穏は軽く謝罪する。
「悪いね。月嗚は私にぞっこんなんだ」
 たとえ本当にそうだったとしても、何のてらいもなく言ってみせる紫穏の様子に、やはり桃也はたじろぎ返す言葉が見当たらない。
 困ったような桃也を見て面白そうに笑ったあとで、紫穏の方から話を振ってきた。
「それで、きみは私に何の用があるのかな? 助けて欲しいとか言っていたようだが」
 訊かれてやっと桃也は目的を――というよりは、自分が置かれた状況を思い出し、丹木山であった出来事を話した。
 貴嶺を探して丹木山に入ると家を見つけたこと。玄関を覗いていると男が現れたこと。男の髪と目は赤かったが途中で左目だけが白くなり、さらに声も二人分聴こえたこと。その男にいきなり縛られて、何か変なことをさせられそうになったこと。そこから、貴嶺にもらった札で逃げてきたこと。
 大体を話し終えると桃也は、顔の前で手を合わせて紫穏を拝んだ。
「助けてください! きっとあれは丹木山に封印されてた鬼なんだ。あの鬼を封印したのは鷺島さんのご先祖様でしょう? 鷺島さんならきっと――」
 だが、紫穏は目を閉じて困ったように眉根を寄せた。ベッドに横になって肘をつく格好は、ともするとそのまま眠ってしまうんじゃないかと桃也を心配させたが、すぐに目を開け肘をついた手に頭を乗せるのをやめると、僅かに上半身を起こして「無理だな」といとも簡単に言うのだった。
「え? 今なんて……」
「だから、無理だよ」
 問い返す桃也に、やはりあっさりと言い切る紫穏。
 あまりにも無情な言葉に、桃也は思わずその場にくず折れた。座り込み床に手を付いて項垂れる。
 しかし、簡単には諦められない。
「じ、じゃあ、あの、さっきのおフダ、貴嶺さんが鷺島さんからもらったっていう三枚のおフダ、あれをまた作ってもらえませんか?」
 すると、紫穏が短く笑い声を上げた。
「あの札使ったんだっけね。どうだった? 昔話みたいで面白かっただろう?」
 そう言ってまた笑う紫穏を、桃也は恨めしげな視線で見つめた。桃也にとってみれば笑いごとではない。
 半眼で見つめられて紫穏は笑うのをやめると左の肩をすくめて見せた。
「あの程度なら作ってあげてもいいが、それじゃあ意味がないんじゃないか? 追いつかれたらそれで終わりだろう?」
「じゃあ、鬼が近寄らないようなのを……」
「ふむ。作ってやってもいいがタダじゃあ、ね」
 鬼喰山の言い伝えが本当なら命に関わるようなことを、この男は金を出すなら助けてやると言うのだ。貴嶺の友人だと言うから多少気を遣った物言いをしてきたのにと、桃也は怒りを抑えるように両手に握りこぶしを作る。
 それでも、桃也は怒りを押し止めて喰いしばった歯の間から問うた。
「いくら、ですか?」
 桃也の怒りが分かっていないはずはないのに、変わらず紫穏は薄い笑みすら浮かべながら答えた。
「悪いけど、あの鬼を退けるほどのものとなると、アルバイトのきみにはちょっと払えないだろうね」
 結局、助けてくれそうもない紫穏の態度に、さすがの桃也も頭に血が上って怒鳴りかけたが、それよりも早く紫穏が「ただし」とあとを続けた。
「ただし、金を払う代わりにあることをさせてくれたら、タダで作ってもいい」
「あること?」
「そう。きみを抱かせてくれたら」
 期待をした分、絶望と怒りは大きかった。桃也は顔を真っ赤にすると、憎憎しげに笑みを浮かべる紫穏を睨みつけた。
「どいつもこいつも――そもそも、あの鬼の封印が解けないように見守るのが鬼治寺の住職の役目なんじゃないのか!? それなのに、むざむざ鬼を解放しておきながら、だっ、抱かせてくれたらって、ちょっとおかしいんじゃないか!? 本当はそんな力ないんだろう! だからそんなことを言うんだろ!」
 そこまで一息に怒鳴ってから、桃也は「そうだ」と何かに思い至った。
「先におフダでも護符でも何でもいいからください。それで鬼を退けることができたら、考えてもいい」
 桃也がひとしきり怒鳴っている間、笑みを消して真顔に戻っていた紫穏が、桃也の提案を聞いてしばらく考え込んだ。何か思い巡らしているようだが、当然桃也には紫穏が何を考えているのか分かるはずもない。
 長い間考え込んで、待つ間に桃也の怒りがほぼ収まりきったころ、紫穏はゆっくりとベッドの上に半身を起こすと桃也に鋭い視線を投げかけた。
「そこまで言うなら一枚、札をあげよう。だが、なぜ鬼がきみに執着するのか、よく考えることだ」
「え?」
 思いも寄らない紫穏の言葉に、咄嗟に桃也は反問の声を上げたが、紫穏はそれには答えず「札をやるから玄関で待ちなさい」と言って、桃也の返事も待たずに部屋を出て行ってしまった。
 ひとり部屋に残された桃也は、言い知れぬわだかまりが胸の内に広がるのを覚え、それと比例するかのように動悸が速くなるのを感じるのだった。
 言われたとおり玄関で待っていると、紫穏は玄関の外から現れた。どうやら本堂から札を取ってきたらしく、手には約束の札が一枚あった。もしかしたら、今しがた書いたばかりのものなのかも知れない。開いた玄関の戸の隙間から吹き込む風に乗って墨の匂いが微かに漂う。
「いいね。文字を書いている方を鬼に見せるんだよ」
 文字を書いている方とは言っても、墨汁が裏にまで染みて咄嗟にはどちらが表かは分からない。しかも書かれている文字は相変わらず桃也にはさっぱり読めない。ただ、文字の傾き具合や細かい部分をよくよく見れば、どちらが表になるのかは桃也にも分かった。
 紫穏の言葉に疑問は残ったものの、今は礼を言って桃也は帰路につくことにした。
 とりあえずこの札で今晩を乗り切ることだけを桃也は考えることにした。鬼なら夜に力を増して朝になれば弱くなるに違いない。朝になって今後どうするかを改めて考えよう。紫穏がくれたこの札がずっと使えればいいが、どうもあの男のことを完全に信用することはできないし。
(それに、貴嶺さんのこともある)
 そう、桃也は貴嶺のことを忘れていたわけではなかった。
 もしかしたら、まだ丹木山にいて動けないでいるのかも知れないと思うと、桃也は心配で仕方なかった。それでも、もう一度これから山に入ろうという気にはなれず、不甲斐ない自分を情けなく思いながらも、朝になったらまた捜しに行こうと心に決めて、今はとにかく自分の家に帰り着くことを目指した。
 再び住宅街を自宅方面へ足早に行くと、また肌を刺すような突風が桃也を襲った。思わず立ち止まって目を閉じながら、そういえば仕事帰りに突風に見舞われたのも、ちょうどこの辺りだったと桃也は思い出していた。
 その時はジャケットとマフラーを着けていたことを思い出し、今更ながらに身を切るような冷たさを感じて、桃也は自分で自分の腕を抱くと身震いした。
 そして、突風が過ぎ去ったのを感じて目を開くと、桃也はその光景に息を呑んで立ち尽くした。
 仕事の帰りだったときとは逆に、さっきまで普通に灯っていた街灯のひとつが点滅していたのだ。
 何かが暗示されるようなその光景に、桃也は寒さのせいではない別の震えが指先から全身へと広がっていくのを感じた。
 どれくらいか、そうやって立ち尽くしていた桃也だったが、その点滅する青い灯りの中にいつのまにか影が浮き上がっているのに気づいて、桃也は声のない悲鳴を上げた。
 大きな影は桃也の方に近づくにつれてはっきりとなり、丹木山で出会った男の姿を見せた。暗い闇の中にあって、なお男の目は赤くはっきりと見えるのが不気味だった。
「もう寺から出てきたか。意外に早かったな」
 桃也が鬼治寺に逃げ込んだのを男は知っていたらしい。それでも、寺院の中まで追ってこなかったのは、やはり鬼だからだろうか。そう思うと寺院の中で夜が明けるのを待った方が良かったかも知れないと桃也は後悔したが、今更言っても仕方のないことだった。
 男の言葉に、つい今しがた紫穏から貰った札の存在を思い出して、桃也はずっと右手に握っていたそれを男に突きつけた。
「ち、近づくなっ! お、お前なんか、怖く、ないんだからなっ!」
 虚勢を張る声が震えていまいち勢いに欠けるが、男が一瞬足を止めたのを見て札の効果があったのかと桃也は喜んだ。ところが、桃也が掲げた札をしげしげと眺めていた男は、ふっと笑みをこぼすとあっという間に桃也の傍まで来て、その札を取り上げ丸めて捨ててしまった。
「なんのつもりか知らねぇが」
『詐欺師の言葉を鵜呑みにすると痛い目に遭うよ、桃也』
「え?」
 あまりの展開に事態が飲み込めず、呆然と男の赤と白の目を見上げていた桃也だが、見つめているうちに意識が遠のいて、そこからの僅かな記憶がなくなってしまう。
 次に意識を取り戻したとき、桃也は冷風のない真っ暗な部屋の中にいた。しかも暗がりの中でも分かるほどとても見覚えのある部屋模様で、まるで長く恋しく思っていた――自分の部屋のベッドの上だった。
 もしかしたら途中から、あるいは最初から夢だったのかと思いながら桃也は半身を起こそうとし、両手首の違和感を覚えてギョッとした。見ればまた両手が荒縄で縛られている。慌てて視線を彷徨わせると、桃也の腰に跨るようにして男が――丹木山で会った男がいた。
「なんでおれの部屋? なんで縛られてんの? なんでお前がいるんだよ!」
 いつもの変わりない自分の部屋、そこは自分だけの安心できる空間のはずが、いつもとは違う男に迫られ縛られているという状況に、桃也は激しく動揺して思わず叫んでいた。
 情けないと知りながらも目の端に涙が滲んでくるのを止められないでいる。
 それでも毅然とした態度を貫こうと、涙を抑えながら桃也は男を睨み上げていたが、ふと男の上半身が迫ってきて咄嗟に桃也は目を閉じてしまった。怯えてしまったことを恥ずかしく思いながら、慌てて目を開いてもう一度見上げると、男の体がすぐそこまで迫って桃也の上に覆いかぶさっていた。
 間近で見る男の目は赤く、それ自体が鈍く発光しているように見え、そのことが不思議でつい桃也は見入ってしまう。
 赤い目も桃也の目を見つめながら、その男の口が開く。
「オレは鬼だからな。鬼は常に人間を陥れるために在る」
「鬼、だから……?」
 だから桃也にこんな酷いことをするというのだろうか。それでは理屈は通っても納得はできない。
 桃也が眉をしかめると、再び男の左目が白く変色していき同じ口から別の男の声がした。先ほどの力強い声とは違う流れるような涼しげな声だった。
『それでは答えになってはいまいよ。だが桃也、私たちの存在理由は人間の闇にある。闇は常に光を好み引き寄せられる。我々と桃也が出会ったのも引き寄せられたからなのだよ』
「引き寄せられて……?」
 その時、つい今しがた紫穏に言われたことを桃也は思い出した。
――なぜ鬼がきみに執着するのか、よく考えることだ
 では、桃也が男に追われるのは何か因縁めいたものがあると言うのだろうか。
 そしてもうひとつ、丹木山で男と出会ったときに既視感を覚えたことも桃也は思い出していた。
 既視感が気のせいでないのなら、本当に過去どこかでこの男と桃也は出会っているということになる。
 だが、もう一つの涼しげな声に、先に疑問を投げかけたのは初めの男の声だった。
「それではまるで俺がこいつに惚れてるみたいじゃないか」
 少し照れともとれるような言い方に、無意識に桃也の表情から硬さがなくなる。
 縛られてベッドに押し倒されているような状況なのに、何か自分は勘違いをしているんじゃないかというような不思議な感覚を桃也は覚えていた。
 桃也が何かに引っかかっている間も声の会話は続いた。
『“みたい” じゃない。そうだと言っているのだ。私もお前も桃也に惹かれたことは確かだろう』
「まったく貴様は軽い、言葉が軽い。 俺たちは鬼なのだぞ」
『だからどうした。鬼だからといって素直になって何が悪い。それにお前は乱暴すぎるのだ。これじゃあ十五年前と何も変わらないだろう』
 どうやら何か言い合いが始まったようだが、どちらの言葉も同じ男から発せられるせいで、傍から見ていると滑稽で仕方ない。
 自分の上で言い争いをはじめた男を、少々呆れながらも桃也は興味深く見上げていた。
「ふん、どう言われようが俺は俺だ。お前のように空中でふわふわと漂っているような生き方はしないさ、シロ」
『私の今の名前はハクロだと何度も言っているだろう!』
(ハクロ?)
「そういやシロは嫌なんだったな。じゃあ、ハイカラにホワイトはどうだ? 格好いいだろ?」
『セッキ! お前いい加減にしないと私にも考えがあるぞ!』
(セッキ?)
 すると、窓も開いていないのに風が巻き起こり、桃也はその冷たさに思わず首をすくめていたが、目の前で男の姿形が変わっていくのを見て驚愕した。
 切れ長の鋭い目は柔らかさを持ち、少々鷲鼻のようなしっかりした鼻は筋の通ったすっきりした形になり、大きい口に厚い唇だったそれは薄く形のいい唇になり、そして赤がかった髪は次第に変色して白く染まっていった。もちろん赤い右の瞳も白色に変わっている。
 初めの赤髪赤目の男が野性味のある容姿なら、今目の前にいる白髪白目の男は理知的な容姿だと言える。
 だが、それよりも何よりも桃也は、男のもう一つの顔を見た瞬間、頭の中の何かが弾けるのを感じて、気がつくと縛られた手で男を指差し叫んでいた。
「あーっ! あなたはっ!」
 突然の桃也の叫びに、白髪白目の男は一瞬黙って桃也が自分をさす指を眺めていたが、桃也が何かを思い出したらしいと知って笑みをこぼした。
「そうか桃也、思い出したんだね。私の姿を見て思い出したということは、桃也の思い出の中にはセッキよりも私の方が印象に強く残っていたのだろうね」
 愛しげに桃也の頬を撫でながら男が言うと、今度は右の目だけが赤くなって力強い男の声が悪態をついた。
『ふんっ、偶然に決まってるだろう。お前は何でもかんでも自分の都合のいいように解釈をするな』
「お前こそ黙っているがいい。そもそもお前は――」
 再び口喧嘩を始める二人――二人と言っていいのだろう――をよそに、桃也の意識は過去へ遡っていた。
 幼い頃、丹木山で迷子になり気がついたら意識を失って、山の麓に倒れていた経験が桃也にはあったが、迷ったあとから麓に倒れるまでの記憶を桃也は失っていた。
 どう頑張っても思い出すことができず、医者は頭を打った衝撃でその前後の記憶を失くしただけだろうと言っていた。打った頭の傷自体は大したことはなく、怖い思いをしたのだろうから無理に思い出さなくてもいいと両親に言われ、それからは気にすることもなく山で迷子になったこと自体を忘れていることも多かった。
 だが、赤髪赤目の男と白髪白目の男の姿を見て、桃也はその失っていた記憶を思い出した。
 あの時、山に迷った不安と恐怖に泣いていると、どこからともなく声が聴こえて気がつくと傍に赤髪赤目の大男がいた。人が居たと安心する間もなく、その大男の姿が透けていることに気づいて、怯えた桃也は一度そこから逃げ出していた。
 しかし、逃げたところで迷子なのには変わりなく、桃也はもう一度大男が現れた場所へ戻った。すると男は一人増えて二人になっていて、その新たに現れた二人目の男の容姿が白髪白目であった。
 男らは不思議なことを言っていた。
――悪い男に騙され、呪いをかけられてこの様な姿になってしまったのだよ
――俺たちはこの岩の下に閉じ込められている。だからこの岩を退かしたいんだが、手伝ってくれないか
 そして男らの言うまま、幼かった桃也は何の疑いもなく、傍にあった岩に巻かれていた縄を引き千切った。
 ところが、勢い余って後ろに転がって頭を打ち、そこから桃也の意識は途切れた。その後、男らがどうなったのか、どのようにして岩から出てきたのか、桃也には分からないがあの時の男らが、今目の前にいる男と同一人物なのだろうということは分かる。
 さらに言えば男らは疑いようもなく鬼で、丹木山に封印されていた鬼が彼らで、その封印を解いてしまったのは誰でもない、桃也自身だったのだ。
 そういえば、記憶を失くしていたため桃也は鬼が解放されたのは自分のせいだと気づかないまま、紫穏に鬼の封印が解かれた責任を押し付けるようなことを言ってしまっている。それを思い出して桃也は自責の念にかられた。
 もしかしたら、紫穏はすべてをわかった上で桃也を冷たくあしらったのかも知れない。
 また、幼い頃に会ったことがあるという記憶を取り戻して、桃也は自分の上で未だ言い争う彼らを怖がっていたことが馬鹿らしくなってきた。
 二人は鬼だと言うが、幼い桃也を決して山の中に放置はしなかったし、今だって問答無用で襲ってくることはない。
(それならそうと言ってくれればおれだって――)
 紫穏が知っていることがあるならそれを話してくれれば、あるいは二人が昔に自分と会ったことを話してくれれば、こんなに右往左往しなかったかも知れないし、怖がる必要もなかったのかも知れない。
 貴嶺がまだ山中にいるかも知れないというのに、回りくどいことをする大人たちの言動にもどかしさを覚え、同時に緊張が解けて張り詰めていた気が緩んだこともあったのだろう。様々な感情が入り乱れて桃也は溢れる涙を我慢することができなかった。
 縛られている両手で顔を隠すように声を押し殺して泣いていると、桃也の上で言い争っていた二人の声が止んだ。
「桃也」
 囁くように名を呼ばれ、少々冷たいと感じる男の手が顔を覆う桃也の手を優しく退けた。真正面から、しかも間近で泣いた顔を見られるのが恥ずかしくて、桃也が男から顔を逸らそうとするが、それを押し留めるように男の左手が桃也の頬に触れる。
「ごめんよ、怖かったよね。私も悪ふざけをしすぎた。許してくれ」
 男の謝罪に驚いた桃也だが、
『ふん、何を謝ることがある。何度も言うが俺たちは鬼なのだぞ』
 もう一人の声が苛立たしそうに割って入る。しかし、白髪の男はそれを無視する形で続けた。
「セッキはこの通り捻くれ者だけど、本当は反省してるんだ。桃也が我々のことを忘れてしまっていたから、それでセッキはふてくされたのだよ」
『シロっ!』
「だけど、これだけは信じて欲しい。私たちは確かに桃也に――」
 ふいにそこで男の声が途切れて、桃也はハッと目を見張った。
 一瞬のうちに両目が赤く染まったかと思うと、今度は暖かい風が吹いて白髪白目の男から再び赤髪赤目の男の姿へと変わったのだ。
「あ……」
 桃也の記憶の中にある男の姿と――体が透けていないことと服装以外――何も変わらないことに気づいて桃也は思わず声を漏らした。
 だが、確かに口調は今も昔も変わらなくても、ぶっきらぼうな態度の中に見え隠れする優しさを、今の桃也なら間違いなく感じることができる。
 頬に触れる男の左手が優しく撫でていくのは、果たして今現れている男のものなのだろうか。
「セッ、キ……?」
 無意識に桃也が男に呼びかけると、頬を撫でていく手が一瞬震えたように桃也は感じた。
 今ならもしかして自分の問いかけに答えてくれるかも知れない、そう思って桃也が口を開きかけたとき、見つめていた男の目の赤味が増した気がした。まるで赤く発光するみたいに色が鮮やかになっていく。
 そして、それに反比例するように桃也の意識が薄れて、ついには瞼を開けていられなくなった。重い瞼を閉じ、目を瞑ったとたん眠りに落ちて桃也はもう夢の中にいた。
 夢の中はまだ景色のない闇だったが、桃也はその闇を怖いとは思わなかった。
 次第に闇が白んでいく中で、桃也は微かに男らの声を聴いた。
――まったく、お前ときたら本当に天邪鬼だよね
――放っておけ。余計なお世話だ

2010.09.19

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