世界中の誰にも知られてはならない秘密を抱えた二人の暮らしは、その後至っ
て穏やかに流れていた。そもそも二人は初めから二人きりだったし、日々の生
活は家のことを中心に回っていたので、その変化は言うなれば『特別な時間』
が少し増えたようなものだと、悟空はそんな風に感じていた。四月から高校生
活が始まり、明るく物怖じしない性格の悟空は、大した時間もかからず周囲に
馴染んでいったが、新しい環境も新しい友達も、悟空の根本的な部分を変える
には至らなかった。
悟空にとっての無二であり、絶対であり、核となっている存在は『三蔵』で、
悟空の中での世界の区分けは『自分』と『三蔵』と『その他の人』だった。
幼くして両親を失った悟空は元々そういう傾向が強かったが、あの春の夜を境
にして、それはより一層強固なものとなっていた。
そうするうちに月日は移り過ぎ、季節は厳しい冬を迎えていた───。
「玄奘君じゃない?」
ある日曜のこと。近所の大型スーパーに買出しに来ていた三蔵と悟空の耳に、
そんな呼びかけが届いた。悟空が声の方を振り返ると、一人の女性がショッピ
ングカートを押しながらこちらへと歩み寄ってくるのが目に入った。
「やっぱり玄奘君…こんな所で会うなんて意外ね。そちらは?」
女性の問いかけに、三蔵は「弟だ」と短く答える。突然の成り行きに戸惑いな
がらも、悟空は「こんにちは」と小さく頭を下げた。
「ご両親がいないって噂は聞いてたけど、ちゃんとスーパーで買い物したりす
るのね。大学でのクールな玄奘君からは想像もつかなかったわ。」
どうやら彼女は三蔵の大学での知り合いのようである。明瞭な話し方をする、
華やかな雰囲気の女性だった。
「でも男二人じゃ、簡単な物ばかりで済ませちゃってるんじゃない?たまには
温かい手料理が恋しくなるでしょう。」
「ねぇ?」といきなり会話をこちらへ振られ、悟空は暫し言葉を詰まらせた。
「あ…でも、三…兄貴は、結構料理出来るんで…」
「あら。ちゃんとお兄さんを立てるなんて、健気な弟さんね。」
たどたどしく言葉を繋ぐ悟空に、女性はにこやかに笑いかける。悟空は口を噤
み、微妙に視線を逸らした。
視線を逸らす寸前に瞳に映り込んだ、三蔵の肩に何気なく置かれた手入れの行
き届いた美しい指先が、瞼の奥で残像のようにちらついた。
「何かさっきからイラついてないか?」
帰りの道すがら。傍らを歩く悟空へチラリと視線を送りながら、三蔵が口を開
く。悟空は別段表情を変えることもなく「別に」とだけ答えた。
「もしかしてお前、妬いてんのか?」
「ちっ、違うよ、そーゆーんじゃないって…」
明らかに面白がっているのがわかる三蔵の物言いに、悟空が弾かれたように顔
を上げ懸命に反論する。しかし三蔵の口角は緩やかに上がったままだった。
「そんな面して『違う』っつっても、説得力に欠けるな。」
おそらく悟空以外の者ではわからないであろう微かな変化だったが、三蔵はい
つにないくらいの上機嫌だった。平素の悟空はまず恥じらいや世間体の方が先
に立ち、三蔵への気持ちを二人きり以外の場面では滅多に表に出すことがない。
気安く他人に触れられることは大が付くほど嫌いな三蔵だったが、こんな悟空
の表情を垣間見られたことで、馴れ馴れしく肩に手をかけてきた先刻の女の無
神経さを帳消しにしてやってもいいとまで思った。
不意に三蔵が身を屈める。不本意そうな表情で小さく尖らせた唇に、三蔵は軽
く音を立てて戯れめいたキスを落とした。
「バッ…誰かに見られたらどうすんだよっっ」
両手に袋を提げている為抵抗の出来なかった悟空が、真っ赤になって怒り出す。
三蔵は何処吹く風というしれっとした様子で、軽く肩を竦めてみせた。
「他に誰も歩いてねーよ。それに」
「誰に見られても俺は困んねぇし」と、三蔵は悟空の耳元に囁きを落とす。瞠
目してこちらをみつめ返す悟空の目許に、三蔵は幼い子をあやすようなキスを
送った。一方、悟空の胸中はひどく複雑だった。
(ヤキモチ…?違う、そんな単純なことじゃなくて……)
それから数日後のこと。その日は昼過ぎから雪になるという天気予報が当たり、
午後の授業が終わる頃には外は薄らと白く染まっていた。
掃除当番を終え昇降口へと歩いてきた悟空が、ふと足を止める。視線の先には
途方に暮れた様子で空を見上げる少女の姿があった。
「どうしたの?」
下駄箱から靴を取り出しながら悟空が声をかける。少し驚いた表情で振り返っ
た少女は、声をかけたのが悟空だとわかると困ったような苦笑いをその顔に浮
かべた。
「悟空君…置き傘がしてあったはずなんだけど、探しても見当たらなくて。誰
かに持っていかれちゃったかなぁ…」
少女は悟空と同じく掃除当番で残っていたクラスメイトの一人だった。この日
悟空は日直にも当たっていたので、職員室に日誌を提出に行って更に遅くなっ
たのだが、彼女はその間自分の置き傘を探していたらしい。
「よかったら送ってこうか?…って言っても、俺の傘もそんな大きくないから、
大して役に立たないかもしんないけど。」
靴を履き替え終えた悟空が、手にしていた傘を軽く上げてみせる。悟空の申し
出に少女は躊躇いがちに小さく首を振った。
「でも…寒いのに遠回りになっちゃうし。」
「ヘーキヘーキ。この雪ん中を傘ナシで帰ったら、カンペキ風邪ひくって。」
申し訳なさそうに遠慮する少女に、悟空は屈託なく「な?」と笑いかける。
やがて少女ははにかみがちにコクリと頷き「ありがとう…」と答えた。
「悟空君、時間大丈夫?」
深々と雪の降る道を並んで歩いている途中で、彼女が不意に問い掛ける。悟空
は不思議そうな顔で「どうして?」と訊き返した。
「悟空君ていつも割と帰るの早いでしょ?だから沢山バイトでもしてるのかと
思って。」
少女の素朴な疑問に、悟空は「あぁ」と合点のいった様子で相槌を打つ。どう
やら彼女は悟空の家庭事情を知らないらしい。
「バイトはしてないんだけどさ…俺んちって兄貴と二人暮らしだから、家の中
のことを当番でやってるんだ。」
「え…あ、あの…お母さんは…?」
「ウチ、両親とも俺が子供の頃に死んじゃったから。」
悟空は至って普通の調子で受け答えをしていたが、思いも寄らなかった事実を
聞かされる形となった少女は、深く項垂れ込んでしまった。
「ご…ごめんなさい…全然知らなかったもんだから、無神経に色々聞いちゃっ
て…」
おそらく今彼女の胸中は、悟空に対する罪悪感でいっぱいなのだろう。悟空は
なるべく穏やかな声を出すよう意識して「俺ちっとも気にしてないから、そん
な落ち込むことないよ」と答えた。
その後彼女の家に着くまでは、ぽつぽつとした短いやり取りが続いた。玄関に
到着し「ありがとう」と頭を下げた少女は、悟空が「じゃあ」と挨拶するのと
同時にパッと顔を上げた。
「あ、あの…」
「ん?何?」
少女の呼びかけに、踵を返して立ち去ろうとしていた悟空が振り返る。暫し逡
巡の表情を見せていた彼女は、意を決したようにその口を開いた。
「もし何か力になれるようなことがあったら、いつでも言ってね。」
正面から向けられた眼差しは、純粋な厚意に満ち溢れている。ほんの刹那沈黙
した悟空は、「サンキュ」と小さく微笑った。
アスファルトを白く染める雪をサクサクと踏みしめながら帰路を辿ってきた悟
空が自宅に近付く。ふと傘の中から目線を上げた悟空の瞳に、ありえないはず
の光景が映った。
「三蔵…!?」
足を滑らせぬよう注意して歩いていたことなどすっかり忘れて、駆け足で玄関
に向かう。玄関の軒下には、両手をポケットに突っ込み、マフラーに半分顔を
埋めた状態で佇む三蔵の姿があった。
「何やってんだよっ、こんな雪ん中で…」
「…今日に限って、鍵持って出るの忘れた。」
三蔵のコートに積もった雪をパタパタと払いながら声を荒げる悟空に、三蔵は
マフラーに覆われた口許からボソリと呟きを落とす。こんな悪天候の日にたま
たま家の鍵を忘れてしまった三蔵は、こうしてじっと悟空の帰宅を待っていた
らしい。
「バカッ、ケータイに連絡くれればよかったのに…」
急いで玄関の鍵を開けながら、悟空は軽く唇を噛む。悟空の性格からいって、
あの状況で知らんぷりをすることはとても出来なかったけれど。少女を送り遠
回りした時間を、悟空は激しく悔いた。
ようやく家の中に入り三蔵の方へ向き直った悟空は、肩に腕を回しその身体を
引き寄せた。
「冷た…」
自らの熱を分け与えようとでもするように、悟空は三蔵の両頬に唇を押し当て
る。自分がいつもどおりの時間に戻って来ていれば、これほど寒い思いをさせ
ずに済んだのに…と思うと、悟空の胸の痛みはより一層深いものになった。
「とにかく早く温まらないと…すぐ風呂入った方がいいよ。」
そう言って風呂の支度に向かおうとする悟空の身体を、今度は三蔵が引き寄せ
る。悟空が抗議の声を上げる前に、三蔵は目の前の小さな唇を塞いだ。
「ん…っ…ぅ…」
有無を言わさず舌の根が痺れるような本気の接吻を仕掛けられ、悟空の薄い肩
が小さく震える。精一杯胸を押し戻して逃れようとしても、三蔵はそれを許さ
なかった。
「ちょ…さん…ぞ…っ、早くしなきゃ、風邪ひいちゃう…って…」
唇が僅かに離れた合間に悟空が懸命に言い募るが、三蔵は一向に腕を緩める気
配はない。途方に暮れた表情で三蔵を見上げた悟空は、未だ冷えたままの唇を
軽く甘噛みした。
「そしたら…俺も一緒に入るから。そうしよう…な?」
勢いよく降り注ぐシャワーの湯と、そこから立ち上る湯気が、冷えきった身体
に染み渡っていく。
全身を包み込むように流れていく温かな雨に打たれながら、二人は飽くること
なく互いを求め合った。
最早悟空は三蔵を拒もうとはしない。寧ろいつにない迷いのなさで、口づけを
ねだり、甘い声を零し、ほんの僅かの隙間すら厭うように四肢を絡め合う。
「三…蔵…さん…ぞ…」
熱に浮かされたように唯一つの名を繰り返し呼びながら、悟空の脳裏では先日
スーパーで会った女性と先刻のクラスメイトの少女から向けられた言葉が巡っ
ていた。
『でも男二人じゃ、簡単な物ばかりで済ませちゃってるんじゃない?たまには
温かい手料理が恋しくなるでしょう。』
うるさい
『あら。ちゃんとお兄さんを立てるなんて、健気な弟さんね。』
うるさい
『ご…ごめんなさい…全然知らなかったもんだから、無神経に色々聞いちゃっ
て…』
うるさい
『もし何か力になれることがあったら、いつでも言ってね。』
うるさい
うるさい うるさい うるさい
如何にもわかったようなフリして 知った風な口きくな
『気の毒に思ってます』ってカオして ズカズカ踏み込んでくるな
俺達は幸せなんだ
二人で互いの手を取り合って 二人で互いを支え合って
今のままで充分幸せなんだ 他の『何か』なんて要らないんだ
たとえそれが二人の中にしかない、幻の楽園だとしても───…
すっかり消耗し、熱気でのぼせたことも相まって足下がおぼつかなくなった悟
空を抱え、三蔵が寝室へと運ぶ。余計な負担をかけぬようそっとベッドに下ろ
し、そのまま立ち去ろうとした三蔵の腕を、悟空が掴んだ。
「もうちょっと一緒にいて。」
淡い潤みを残した金の瞳が、三蔵を見上げる。口許にほんの微かな笑みを上ら
せた三蔵は、自らも悟空の傍らに身を横たえ、頼りなげな身体をそっと腕の中
に抱き込んだ。
今はもう少しだけ この手を離さないでいて
たぶん他の誰よりも ちゃんとわかっているから
この二人だけの『幸せの家』が
いつか砂のように崩れてしまう日がやって来ることを
音もなく降り積もる雪の気配を感じながら、三蔵の肩口に頭を預け、悟空は静
かに瞼を閉じた───。
ともに生きるのが喜びだから
ともに老いるのも喜びだ
ともに老いるのが喜びなら
ともに死ぬのも喜びだろう
その幸運に恵まれぬかもしれないという不安に
夜ごと責めさいなまれながらも
谷川俊太郎『ともに』
…END.
《戯れ言》
150001hit・kiyora様のリクエストにお応えしての兄弟モノでした。関東で
珍しくまとまった雪の降った日にふと思いついた話。最初ちょっとタイトルで
迷ってまして…『Utopia』というのは、皆様ご存じのとおり『理想郷』という
意味なんですが、これを広辞苑で引いてみましたら「元はギリシャ語で『何処
にもない場所』の意」って書いてあったんですね。この一行を見た途端、一発
で決まりました。いつにも増して壊れっぷりの激しい話になってしまいました
が、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
kiyora様、リクエストありがとうございました。
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