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『瞬く星の名前』 by Riko
その日三蔵は大学の友人である八戒に会う為、彼のバイト先へと向かっていた。 というのも、何故か三蔵の財布が彼の荷物に紛れ込んでいたらしく、自分は夜 までバイト先を離れられないので、急ぎならこちらに取りに来てほしいとの連 絡を受けた為である。 (…ったく、面倒臭ぇなぁ…) 他の物なら明日大学で会った時に受け取っても構わないが、財布となれば流石 にそういうわけにもいかない。三蔵は不本意この上ない表情で舌打ちを漏らし ながら、電話で教えられた道順を黙々と歩いていた。 慣れない道のりで何度か足を止めながらも、ようやく三蔵は目的の建物に到着 した。将来福祉関係の仕事に就くことを希望している八戒は、様々な事情を持 つ子供が生活を共にしている施設でアルバイトをしている。元来他人と必要以 上に関わることが嫌いで、ましてや子供など大が付くほど嫌いな三蔵からすれ ば物好きとしか言いようがないが、彼は彼なりにこのバイトを楽しんで続けて いるらしい。少々年季の入った建物をまじまじと眺めた後、三蔵は目の前の門 をくぐったのだった。 玄関で来客用のスリッパに履き替え、部屋の表示を確認しながら廊下を歩く三 蔵の耳に、パタパタパタ…という忙しない足音が届く。間近になった足音は次 の瞬間『ドン!』という衝撃に変わり、三蔵は減速することなく自分の背中に 突進してきた相手を振り返った。 『何処に目をつけてやがる』と言わんばかりに、自分よりかなり下の位置にあ るこげ茶の小さな頭をジロリと睨みつけた三蔵が、ハッと息を詰める。焦った 様子で顔を上げた相手の瞳は、瞼に覆われたままだった。 「ゴ、ゴメンなさい…どっかケガとかしてない?」 ペコリと頭を下げて謝罪の言葉を口にした相手に、三蔵は短く「いや」とだけ 答える。目の前の少年は、ここで生活をしている子供の一人なのだろう。全体 的に小柄な印象だが、中学生くらいだろうか。 「お客さん、誰かに用事?」 「あぁ。ここでアルバイトをしている猪八戒に…」 少年の問い掛けに三蔵が八戒の名を出すと、その表情は途端に警戒心のカケラ もない笑顔に変わった。 「八戒先生の友達?八戒先生だったらコッチだよ。」 そう言った少年は問答無用で三蔵の腕を掴み、そのまま手を引いて歩き出す。 一瞬面食らった三蔵だったが、何も口に出すことはなく大人しく手を引かれる まま、少年の案内に付き従うことにした。 「何故俺が外からの客だとわかった?」 一緒に歩きながら三蔵が素朴な疑問を口にする。少年は「あぁ」と軽く笑った。 「一言だけだったけど、聞き慣れない声だったし…それと、結構はっきり煙草 の匂いがしたから。」 「ウチの先生、誰も煙草吸わないんだよ」と、少年は再び小さく笑った。なる ほど視覚に頼ることが出来ない分、彼のような障害を持つ者は限られた情報を フルに活用して状況を把握しているのだと、三蔵は胸中で密かに感心していた。 「八戒先生、お客さん連れて来たよー」 横引きの戸をガラッと開け、少年は室内の八戒へと大きな声で呼びかける。机 から目線を上げた八戒は椅子から立ち上がり、戸口に立つ二人へと歩み寄った。 「いらっしゃい三蔵。おやまぁ、悟空が連れて来てくれたんですか?わざわざ ご苦労様でしたね。」 無愛想な三蔵とは対照的な、如何にも人あたりの良さそうな笑みを浮かべて近 付いてきた八戒が、少年───悟空に手を握られている三蔵の姿を目の当たり にし、微かに驚きの表情を滲ませる。八戒の表情の変化を見て取りながらも、 三蔵は敢えて仏頂面のままそっぽを向いた。 「俺が廊下を走っててぶつかっちゃったんだ」と、悟空は小さく肩を竦めてみ せる。軽い苦笑いを浮かべた八戒は、上着のポケットから何かを取り出した。 「気を付けて下さいよ。はい、じゃあこれはお客さんを案内してくれたお駄賃 です。」 ポケットから取り出した物を、悟空の空いている方の手へと握らせる。それは 何種類かのカラフルなキャンディーだった。 「サンキュー八戒先生。じゃあ俺行くね、どうぞごゆっくり。」 手の中のキャンディーをギュッと握って確かめ、笑顔で八戒に礼を述べた悟空 は、三蔵にも一言声をかけてからパタパタと小走りに去って行った。 「立ち話も何ですから奥へどうぞ。コーヒーくらい出しますよ。」 小さくなっていく悟空の背中へと見るともなしに視線を向けていた三蔵に、八 戒が声をかける。三蔵は短く頷き、教務室へと足を踏み入れた。 「ここにいるのは単に親がいない子供だけじゃないのか?」 差し出されたカップを受け取りながら、三蔵が八戒に問い掛ける。八戒は自ら の分のカップを手に、三蔵と向かい合う形で腰を下ろした。 「悟空のことですか?あの子は今中学三年生なんですけど、一年生の時に家族 で事故に遭って両親を亡くし、本人は視力を失ったそうです。でもそんな過去 を抱えているとは思えないくらい、明るくて前向きな子ですよ。中途の失明は 何かと苦労も多かったと思いますが…元来努力家なんでしょうね。今では日常 生活のほとんどのことを一人でこなしてますよ。」 八戒の説明に三蔵は「そうか」とだけ答え、カップに口をつける。八戒は自ら もカップに口をつけながら、小さく笑ってみせた。 「珍しいですね。貴方が見知らぬ他人、それも全くの初対面の相手に関心を持 つなんて…気に入りましたか?」 「何でいきなりそういう話になるんだ。」 「だって貴方、無闇に人にさわられるのをはっきり嫌がってるじゃないですか。 僕や悟浄とだって最低限の接触しかしないし。それを仏頂面ながらも大人しく 手を引かれてやって来たんですから、驚きもしますよ。」 「…しょうがねぇだろ。目の見えない相手なら、さわって確認するより他ねぇ んだから。」 八戒の言葉に無愛想極まりない口調で答えながらも、それだけがあの少年の手 を振り払わなかった理由ではないことに三蔵は気付いていた。 本来の三蔵は相手が誰であろうと、気に入らなければ一切容赦などしない性格 だ。たとえ目が見えていなかろうが、不愉快に感じればその場で伸ばされた手 を払い落としていただろう。しかし不思議とあの少年からはいきなりくだけた 調子で話し掛けられても、当たり前のように手を握られても、少しも不快感を 覚えなかった。 胸中で思いを巡らせている様子の三蔵へとチラリと視線を投げ、八戒は僅かに 口角を上げた。 「…まぁそういうことにしておきましょうか。あぁそうそう、肝心の物を渡し ませんとね。」 そう言って手元へと鞄を手繰り寄せた八戒は、三蔵がここを訪れるそもそもの 原因となった彼の財布を取り出した。 八戒から財布を受け取った三蔵は話もそこそこに席を立った。当初の目的さえ 果たせば、それ以上の長居は無用である。玄関で再び靴に履き替え表へと出た 三蔵の耳に、明るい笑い声が届く。振り返れば視線の先には、施設で飼ってい るとおぼしき犬と戯れる悟空の姿があった。 「オイ」 ぶっきらぼうな調子で声をかければ、律義にこちらへと顔を向けてきた。 「アレ、もう帰るの?早いね。」 「ヤツから受け取る物を取りに来ただけだからな。」 そう答えた三蔵は悟空の方へと歩み寄り、そのすぐ横で自らも身を屈めた。 「お前、事故で家族を亡くしたそうだな…俺も十三の時に、義父を事故で亡く したんだ。」 三蔵が隣りに来たことを声の近さで悟った悟空が、その一言に表情を変える。 瞼の下に瞳が隠れたままでもこれだけはっきり表情の変化が見られるのなら、 その瞳が光を放っていた時にはさぞかし表情が豊かだったのだろうと、三蔵は ふとそんなことを思った。 「そっか…世の中には、似たような経験をしてる人っているんだな。だったら あんたも、こういう施設にいたことあるの?」 「いや…すぐに義父の姉にあたる人物に引き取られた。もっともあのババァは 年中仕事でバタバタしてたから『一緒に暮らしている』というより『たまたま 活動の拠点が同じ』って感じに近かったけどな。」 全くの初対面である少年に対して、ごく自然に過去の経緯を語っているこの状 況が、三蔵は我ながら何とも不思議だった。三蔵は自身の境遇を殊更隠し立て したことはないが、ベラベラと吹聴して回るタイプでもない。こんな風にして 自分の方から誰かに話したのは、おそらく初めてのことだった。 「ヘェ…でもやっぱ、そーゆー時に身内の人がいるって心強いよ。ウチなんて ロクに親戚もいなくてさ…尤も、これじゃ親戚がいたって誰も引き取るのなん てゴメンだったと思うけど。」 軽い苦笑いを零す悟空の受け答えはあくまで自然で、世間を斜めに見て皮肉っ ている調子も、自らを哀れんでいる様子もない。このちっぽけな少年は内面に とてつもない魂の強さを秘めていると、三蔵は直感的にそう思った。義父を亡 くした直後の己を顧みるに、とてもではないがこれほど真っ直ぐに自分を取り 巻く世界と向き合うことは出来ていなかったと思う。 ふと玄関の方から幼い声が聞こえてきた。どうやら同じ施設の子供が悟空を呼 んでいるらしい。それを区切りとするように、三蔵は身を起こして立ち上がっ た。 「そろそろ行く。邪魔したな。」 「あ、ううん。気を付けてな、バイバイ。」 三蔵の気配を察した悟空が視線を上げ、屈託のない笑顔で手を振ってみせる。 悟空には見えていないと承知しながら、三蔵も短く手を振り返した。 ───こうして、二人の最初の出会いは終わった。 その週末の日曜日。三蔵は再び先日の施設へと向かっていた。一度通った道な ので、今度は迷うことなく辿り着くことが出来た。 乗ってきた愛車のエンジンを切り、門の前で停車する。躊躇うことなく中へと 入っていけば、先日と同じように犬と戯れる小さな背中が三蔵の視界に入った。 「悟空」 少し強めの声で呼びかけると、こげ茶の頭がピクリと震える。立ち上がりこち らを振り返った幼さを色濃く残す顔には、明らかな驚きの色が浮かんでいた。 「えと…三蔵…さん、だっけ…?今日は八戒先生来てないけど…」 「別にヤツがいなかろうが関係ねーよ。今日はお前に用があって来たんだ。」 「俺…に?何で…?」 「お前、今日暇か?」 戸惑いを隠せぬ様子で小首を傾げる悟空に、三蔵は至って淡々としたペースで 話を続ける。悟空は訝しげな表情のまま、それでもコクリと頷いた。三蔵は悟 空の元へ歩み寄り、その背中をポンと軽く叩いた。 「よし、出かけるぞ。誰かに許可を取ったりしなきゃいけねぇのか?」 「え…うん、外出は先生に断らないと…」 状況が把握出来ず口篭もる悟空に「わかった」と短く答えた三蔵が、そのまま 悟空の腕を掴んで歩き出そうとする。悟空は今度こそはっきりと困惑した表情 で後退った。 「ちょっ、ちょっと待ってよ、何でいきなりそんなこと…」 「俺がお前と出かけてみたいと思ったからだ。それ以外に何か理由が必要なの か?」 くるりと振り返り簡潔に答えた三蔵の声音は驚くほど真摯で、悟空は二の句を 告げなくなる。それ以上反論がないことを了承と受け取ったのか、三蔵は「行 くぞ」と告げて再び歩き出した。 いきなり現れて悟空を連れて外出したいと告げた三蔵に、施設の関係者はあり ありと不審の色を浮かべていたが、八戒の友人である旨を説明すると様子は一 変し、悟空と二人笑顔で送り出された。持つべきものは外面の良い友人などと 思いつつ、三蔵は無事悟空を連れ出すことに成功したのだった。 「コレ被れ」 必要最低限の一言と共に、頭全体をすっぽり覆う物を被せられる。輪郭を確か めるようにツルツルとした表面を掌で辿ると、それがヘルメットであることが わかった。 「あ、あの、三蔵さん…」 「『さん』は要らねぇ。」 躊躇いがちに呼びかけてきた悟空に、三蔵は素気ない口調で敬称は不要である と答える。しかし悟空は驚きの表情で首を振った。 「だって八戒先生の友達ってことは、俺より全然歳上じゃん。そーゆーワケに いかないよ。」 「チビが知った風な口きいてんじゃねーよ。テメェにさん付けなんかされたら むず痒くて気色悪ィって言ってんだ、何か文句あんのか。」 本来三蔵は他人との間に常に一定の距離を保っており、ごく親しい友人以外で 彼の名を呼び捨てする者はほとんどいない。しかし何故か目の前の少年には、 空々しくさん付けなどされたくないと思う自分がいて。暫し逡巡の表情を見せ ていた悟空がやがて「三…蔵…?」とたどたどしく呟く。三蔵は「それでいい んだよ」と、ヘルメットの上から悟空の頭をポンと叩いた。 「あのさ…もしかして、バイク乗るの?」 「もしかしなくてもそうだ。しっかりつかまっとけよ。」 シートの後部に悟空を座らせ、腰に腕を回すよう促す。三蔵はアクセルを吹か し、二人を乗せた愛車を発進させた。 「俺、バイクに乗せてもらったのって初めてだけど、気持ちいいんだなぁ…何 つーか、風と一緒に走ってるみたいな…」 昼食を取る為に入ったファーストフード店で、悟空は初めてバイクに乗った感 想を興奮気味の声で三蔵に伝える。三蔵の返答は「そうか」というだけの素気 ないものだったが、内心小さな満足感を覚えていた。大学生になって四輪の免 許を取得して以来、三蔵の移動手段は専ら車になっていたのだが、車窓の向こ うを流れていく景色を目で追うことが出来ない悟空には、ただ車に乗っている だけというのはつまらないだろうと思ったのだ。空気の流れを体感することを 楽しいと感じられたのなら、わざわざバイクを引っ張り出した意味があったと いうものだ。平素の三蔵は他人の思惑など歯牙にもかけないタイプだが、悟空 をバイクに乗せたら果たしてどんな感想を持つだろうと興味が湧いたし、これ ほど手放しの笑顔で「気持ちよかった」と言われれば、コレも中々悪くはない と思った。全くの他人にここまで自分から関わりを持ったのは、三蔵の人生の 中でもおそらく初めてのことだった。 その後はどうということもない話が続いた。三蔵は八戒と友人になった経緯や 大学生活等について語り、悟空は施設での暮らしぶりや現在盲学校に通ってい ること、将来は何か資格を取れるような仕事に就きたいと思っていることなど を話した。 「俺は見えないからわかんないけど、たぶん三蔵は凄いハンサムなんだな。」 すっかりお互いに打ち解けた頃、悟空は不意に思いもかけないことを口にした。 三蔵が怪訝そうに眉根を寄せ「何故そう思う?」と問えば、悟空は「だって」 と答えながらクスリと笑った。 「席の横を通り過ぎてく女の人が『わぁー』とか『キャー』とか小さく言って るの聞こえるもん。」 「こーゆーのって、気配だけの方が却ってはっきりわかるんだよ」と、悟空が 更に笑う。三蔵はこの時、何故目の前の少年と自分でも驚くほどすんなりと馴 染むことが出来たのかがようやくわかった。 自身はどうということもないと思っているが、三蔵は擦れ違った十人中十人が 振り返るほど秀麗な面差しをしている。その容姿故に、彼の周囲に擦り寄って くるのは見当違いな特別視をする者か、やたらと媚びへつらう者の二種類に大 別されることが多い。しかしこの少年はそのどちらにも属さない。 笑うのも話すのも何もかもが限りなく自然で、こうして向かい合っていてひど く心地がよいのだ。 閉ざされた瞳が実体のある物を映さない分、その心には偽りのない本質のみが 映るのだろうか。 無邪気にハンバーガーを頬張るあどけない顔をみつめながら、三蔵はそんなこ とを考えていた。 それから三蔵は定期的に悟空を誘い、外へと連れ出すようになった。目の見え ない彼にも楽しむことの出来るよう三蔵が選んだ行き先は、様々な花の香りに 満ちた植物園だったり、手で触ることの出来る彫刻を展示してある美術館だっ たり、熱気溢れるコンサートだったりした。その都度素直に驚き、素直に喜び、 可能な範囲で精一杯楽しんでいる悟空は、ひとかけらの打算もない満面の笑顔 と、惜しみのない感謝の言葉とを三蔵に向けた。三蔵は本質的に一人静かに過 ごすのを好み、休日にわざわざ人の集まる場所へ出かけるなど冗談ではないと いうタイプである。しかし悟空が「楽しい」と笑えば、次はどんな処に連れて 行こうか、そうしたら彼はどんな反応を示すだろうかと考えている自分がいて。 しかしその変化は、三蔵自身にとっても決して不快なものではなかった。 「三蔵ってさ、変わってるよね。俺みたいなのと一緒に出かけたら面倒なだけ なのに。」 ある出先での昼食後。悟空がふと漏らした一言に、三蔵は煙草を燻らせながら 「ハァ?」と、彼にしては少々間の抜けた声を上げた。 「別に…確かに行き先はお前も一緒にわかるものを考えながら選んじゃいるが、 それ以外は格別お前に気を遣ったことなんかねーし。動く前に一言説明すれば 済むだけのことだろ。」 素気ない口調ながらも、三蔵は全く面倒とは感じていないことを悟空に伝える。 実際悟空は状況がわかりさえすれば大概のことは一人でこなせたから、三蔵は ほぼ最低限の説明と補助しかしていない。如何にも三蔵らしい物言いに、悟空 は小さく笑った。 「フツーの人はそれが面倒臭いから、俺と出かけるの嫌がるんだよ。」 「やっぱり三蔵って変わってるよ」と、何がそれほどおかしいのか悟空は尚も 笑った。三蔵は決して悟空を気遣って思ってもいないことを言ったわけではな い。もっと正確に言えば、面倒どころか三蔵にとって悟空といることはひどく 楽なのだ。悟空は常に本当に自分が思っていることしか口にしないし、三蔵の 機嫌を損ねまいと顔色を窺ったりもしない。全てがあるがままの自然体で、何 一つ嘘がない。この心地よさに比べたら、少しくらい余計に説明したり手を引 くぐらいの手間は取るに足らぬことなのだ。 まだこの時点での三蔵は、自らの胸の内に湧き上がりつつある感情の正体を知 らぬままだった。 そんな風にして二人で過ごす時間を重ねていったある日のこと。三蔵は悟空を 連れて季節はずれの海に来ていた。初めは戸惑っている様子の悟空だったが、 人気のない砂浜を走ったり、波打ち際で海水に触れたりしているうちに、あど けない顔にはいつもどおりの笑みが零れるようになっていた。 ひとしきりはしゃいだ後。砂浜に並んで腰を下ろし心地よい汐風に吹かれてい ると、悟空が静かに口を開いた。 「俺さ…見えなくなってから海に来たのって、これが初めてなんだよね。『海 なんて見えなかったら意味ねーじゃん』て思ってたし、周りの人もたぶんそう 思ってたから、俺を海に連れて来る人なんていなかった。だけどさ…海の色が わかんなくたって、風の匂いとか、砂の感触とか、水の冷たさとか…目で見る 以外だって『海を感じる』ことは、幾らだって出来るんだよな。今まで知らな かった。」 そこで一度言葉を切った悟空は、三蔵がいるとおぼしき方を振り返った。 「でもきっとこれって、一人じゃわからなかったと思う。三蔵はさ、『どうせ 見えないんだからわかんない』とか『可哀相だから気を遣ってやらなきゃ』と か、そーゆーこと全然関係なく俺を色んな処に連れてってくれただろ?だから 俺も、自分は自分なりの楽しみ方をすればいいんだって思えるようになったん だ…青い色が見えなくても海は楽しいんだって感じられたのは、三蔵のお陰だ よ…ありがとうな。」 悟空はそう言い、いつもより大人びた笑みを三蔵に向けた。 次の瞬間、三蔵はほとんど考える間もなく行動を起こしていた。 「───…っ」 悟空がピクリと肩を震わせ、息を詰める。掠める程度に触れて離れていった唇 は、それでも微かな煙草の苦味と確かな熱を悟空の唇に残した。 「…今の…何…?」 微かに震える声でぽつりと落とされた呟き。悟空をみつめる三蔵の眼差しは、 至って静かだった。 「わからなかったか…?じゃあもう一回だ。」 三蔵は淡々とそう言い、今度は明確な意思を持ってその唇に触れた。 「ん…っ」 今の今までぼんやりとしか掴めなかった『何か』がようやくはっきり見えたと、 三蔵はそんな風に感じていた。今こうして触れている相手は『どうでもいい他 人の一人』ではなく『他の誰とも引き換えに出来ない唯一人』だったのだ。 おそらくは初めて出会ったあの日、屈託のカケラもない笑顔で手を繋がれた時 から、ずっと。 「さん…ぞ…やめ…」 いつもの彼からは想像出来ないくらい弱々しい声が途切れ途切れの言葉を繋ぎ、 懸命に三蔵の身体を押し戻そうとする。それ以上無理強いをすることなく唇を 離した三蔵は、柔らかな仕草で悟空の前髪を梳いた。 「イヤだったか…?」 あくまで穏やかな三蔵の問い掛けに、悟空はゆるゆると首を振った。 「イヤじゃ…ない…けど…困る…」 ぽつりぽつりと呟きを落とし、悟空は顔を俯かせてしまう。『困る』という悟 空の一言に、三蔵は僅かに瞳を眇めた。 「今は…さ…『時々』だから、三蔵は俺のこと、大して面倒じゃないと思って るかもしんない。でもそれが『沢山』になったら、どうやったって三蔵の感じ 方も変わってくると思う…三蔵が疲れて、嫌になって、いつか俺の処に来なく なったとして…それでも俺の向き合ってる現実は変わらないし、俺の『明日』 はその先もずっと続いていくから。だからその時、俺が自分で自分を支えらん ないくらい三蔵でいっぱいになっちゃうのは…困るんだ。」 予想だにしなかった悟空の言葉に、三蔵は思わず瞠目する。決して開かれるこ とのないその瞳は、驚愕するほど冷静に『その先の現実』を見据えている。 二人の間に、苦い沈黙が落ちた。 数分の間を置いて、悟空が顔を上げた。その横顔には、何とも表し難い複雑な 笑みが滲んでいた。 「…こういう気まずい時だってさ…『ここから一人で帰る』って言えたらいい のに…普通だったらそんな簡単なことですら、俺には出来ない。」 「…っ」 無意識に息を呑んだ気配を察したのか、悟空は「そういうことだよ」と、もう 一度微かに笑った。 帰りの道のりは、ずっと二人ともが黙り込んだままだった。いつもどおり門の 前でバイクを降りた悟空は、はっきりとした口調で「さようなら」と三蔵に告 げた。かけるべき言葉をみつけられないまま、三蔵は遠ざかっていく頼りなげ な背中を見送ったのだった。 その日を境にして、日曜毎にあった三蔵の訪れはぱったりとなくなった。寂し くないと言えば嘘になるが、ああいう成り行きになってしまった以上、当然と いえば当然の結果だろうと悟空は受け止めていた。 問われるまでもなく、悟空は三蔵のことを特別な意味で好きだった。上辺だけ の善意でなく、過剰な親切心を押し付けるでもなく、只々あるがままに自分と いう存在を受け入れ一緒にいてくれた三蔵は、他の誰とも比べようのない唯一 人の人だった。だがそういう自分の気持ちと、彼に本来引き受ける必要のない 荷を共に背負えというのは別の話だ。 今は少し胸が痛んでも、いつかは思い出に出来る。あれほど自然に自分に接し てくれる人が世の中にはいるのだとわかっただけでも、この出会いには意味が あったのだと思う。 「悟空、近頃三蔵に会いました?このことろ妙に忙しくしてるみたいで、大学 でも全然捕まらないんですよ。何か聞いてないですか?」 ある日ふと、八戒が悟空にそう問い掛けた。八戒は三蔵と悟空の双方から話を 聞いており、二人が定期的に会っていることを知っていた。なので最近ロクに 顔を合わせる機会もないほど多忙そうにしている三蔵について、悟空なら何か 聞いているのではないかと思ったのだ。しかし八戒の予想とは裏腹に、悟空は 何処か困ったような薄い笑みを浮かべただけだった。 「ううん…八戒先生が捕まえられないほど忙しいなら、尚のこと俺のトコには 来ないよ。」 小さな唇から零れた呟きは、幼さを残す横顔には不似合いなくらい寂しげで。 八戒の翡翠色の瞳に微妙な翳が落ちたことを、悟空は知る由もなかった。 それから更に暫くが過ぎたある日曜の昼下がり。八戒が悟空を訪ねてきた。 八戒のアルバイトが平日のみであることを承知している悟空が不思議そうに問 うと、今日は別件だと八戒は笑った。 「これから特に用事がなかったら、少し僕に付き合ってもらえませんか?たま には二人でドライブもいいでしょう。」 「うん…?別にいいけど…」 戸惑いがちの悟空を助手席に乗せ、八戒は玄関前に乗りつけた愛車を発進させ た。 施設から三十分ほど走らせたところで車を停め、八戒は悟空に車から降りるよ う促した。一体何処に連れて来られたのか全くわからないまま、悟空はシート ベルトを外しドアを開けた。 「八戒先生…ここって何処?」 少しでも周囲の気配を感じ取ろうと、車を降りた悟空は視線を巡らせるかのよ うに首を動かす。どうやら施設のある住宅街よりも、自然の多い場所のようだ。 風に揺れる木々の葉のざわめきや緑の匂い、時折り聞こえる小鳥のさえずりが 悟空にそれを教えていた。 「さぁ…何しろ僕も頼まれただけなんで、よく知らないんですよね。」 「頼まれたって…誰に?」 何気ない口調での八戒の返答に悟空が更に問い掛けた、その時。 「オイ」 暫く聞いていなかった、しかし充分過ぎるほ記憶に残っている愛想のカケラも ない声が、悟空の鼓膜を震わせる。刹那ビクリと動きを止めた悟空が、ぎこち ない動作で声の方を振り返った。 「三…蔵…」 「約束どおり連れて来ましたよ。じゃあ僕は行きますね…三蔵、ちゃんと後で 送り届けて下さいよ?」 悟空の困惑をキレイに無視した八戒は、一分の隙もない笑顔で三蔵に念を押し てから踵を返した。 「え…ちょっ、ちょっと待ってよ、八戒先生っ」 悟空の必死の呼びかけも虚しく、八戒の愛車のエンジン音が遠ざかっていく。 後には途方に暮れて立ち尽くす悟空が残された。 「いつまでボーっとしてんだよ、行くぞ。」 有無を言わさず悟空の手を取った三蔵が、そのままスタスタと歩き出す。悟空 はわけもわからぬまま、半ば三蔵に引き摺られる形で足を進めて行った。 数メートル進んだところでドアを開ける音が聞こえ「靴脱ぐぞ」と三蔵が声を かけてきたことで、建物の中に入ったらしいことがわかった。 「あ…」 室内を歩く悟空の口から、無意識のうちに声が上がる。どうやら自分が今入っ ているのは個人の家らしいが、明らかに『普通の家』ではない。壁には手摺り が付いており廊下の幅も広く、気になるような段差もほとんどない。 「ここって…何?」 躊躇いがちに問う悟空の手を一度離した三蔵は、正面から向き合うようにして その両肩に自らの手を置いた。 「俺とお前が暮らす家だ。中々思うような物件がみつからなくて時間がかかっ ちまったけどな。まぁ色々踏まなきゃなんねぇ手続きもあるだろうから、実際 ここに移るのは、お前が今の学校を卒業してからってことになるだろうが。」 「え…」 聞けばこの家の元の主は、車椅子で生活をしていた祖母の為に特別注文でこの 家を建てたのだと言う。バリアフリーの概念を元に建てられた全体がほぼ平面 に近い家は、悟空にとっても暮らしやすいだろうと三蔵は考えたのだった。 「な…に言ってんだよ、三蔵には自分の家があるじゃんかっ」 「俺の家は売りに出した。その金をここの購入資金に充てたんだ。」 明らかに動揺している悟空に対し、三蔵は何処までも冷静に答える。しかし三 蔵の返答を聞いて悟空の動揺は益々大きくなった。 「売りに出したって…何でそんなことするんだよっ、三蔵の家は死んだお義父 さんが遺してくれた物だろ!?」 三蔵の亡き義父が本当の父親ではないこと、しかし深い愛情を持って彼を育て てくれたこと、現在三蔵が暮らしている家は二人で過ごした思い出の家である ことを、悟空は三蔵から聞いて知っていた。 我が事のように声を荒げて憤っている悟空の小柄な身体を、三蔵はフワリと腕 の中に抱き込んだ。 「さ…」 「何でだと?わかりきったこと訊いてんじゃねーよバカ。『昔の懐かしい思い 出』より、お前と生きてく『これから』のが欲しいからに決まってんだろ。」 一切の惑いのない気持ちを真正面からぶつけられて、悟空が大きく全身を震わ せる。何かを確かめるように、三蔵の胸からおずおずと悟空が顔を上げた。 「さん…ぞ…?」 茫然としている悟空を真っ直ぐに見下ろして、三蔵は徐に口を開いた。 「俺の覚悟が座ってないって見縊られてムカッ腹が立ったから、テメェが逃げ を決め込めないように先手を打ったんだよ。もうこれ以上ゴチャゴチャした屁 理屈は聞かねーぞ。」 「だっ…て…」 「だってじゃねぇ。逃がさねぇって言ってんだから、テメェもいい加減覚悟を 決めろ。」 倣岸なまでの力強さで言い放たれた一言と共に、息も出来ないくらい抱きしめ られて。 悟空の丸い頬を、一筋の涙がスゥー…ッと伝っていった。 「ガキみてぇにボロボロ泣いてんじゃねーよ、ベソかきザル…」 「ベソかきザルとか言うな…っ」 子供をあやすように背中を撫でながら揶揄されて、悟空が泣き顔のまま精一杯 の反論をする。驚くほど柔らかな笑みを秀麗な目許に滲ませた三蔵は、腕の中 の誰より愛しい存在へと、とびきりの甘いキスを送った。 「俺さぁ…嘘つくなって言われるかもしんないけど、初めて三蔵に会った時、 『眩しい』って思ったんだ。見えてないのにそんなのわかるわけないじゃない かって思うけど…でもさ、『あぁ、この人眩しいな』って、本当に思ったんだ。 今考えたら三蔵は俺にとっての『お星様』で、だから『眩しい』って感じたん だな…きっと。」 「星…?」 訝しげに問い返す三蔵に、悟空はこの上なく幸せそうに笑った。 願いを掛ける 瞬く星の名前 それは唯一人、かけがえのない『あなた』─────。 …END. 《戯れ言》 110011HIT・柴わんこ様のリクエスト。リクの内容は『目の見えない悟空 が三蔵と出会う』というものでした。つまりは「三蔵のあのヴィジュアル抜き でも恋心は芽生えるか?」ということだったワケで。出会うきっかけさえ思い つけば、話を考えること自体はさほど難しくなかったんですが…何が一番キツ かったと言って『悟空の表情の変化に目の描写が一切使えない』ということに 尽きるでしょうか(苦笑)ラスト、めでたく悟空の目が見えるようになる…と いうところまで書いた方がいいのかな?とも思ったんですが、そこまでご都合 主義だと韓流ドラマか昼メロになっちゃうんで(笑)敢えてそのままお終いと しました。この後はそれぞれにご自由に想像して頂ければ…ハイ。 おそらく期待してらした物と大きくかけ離れてしまった予感アリアリですが、 この話を柴様に奉げさせて頂きます。リクエストありがとうございました。 楽しんでいただけましたのならポチっとお願いしますv
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