その年の夏───三蔵は大学受験を控えた高校三年生、悟空は小学校を卒業し、
中学一年生になっていた。健康が取り得で平素は厳しい真冬でも滅多に風邪を
引かない悟空が、何と八月の最中に夏風邪を引いてしまった。高熱に浮かされ
苦しげな呼吸を繰り返す悟空を、三蔵は常にない甲斐甲斐しさで看病していた。
「ゴメン…な…面倒…かけちゃって…」
熱で潤みを帯びた瞳で三蔵を見上げながら、悟空は荒い息の中、謝意の言葉を
口にする。三蔵は淡々とした表情で、温くなってしまった保冷枕を新しい物に
替えた。
「好き好んで体調を崩すヤツはいねぇんだからしょーがねぇだろ。茹だった頭
でつまんねぇこと考えてんじゃねーよ。」
ぶっきらぼうな返答とは裏腹に、額の汗を拭ってくれる手は優しくて。丸い金
の瞳には淡い笑みが浮かぶ。しかしそれと同時に、余計な手間を取らせて三蔵
の時間を奪ってしまっていることを、心から申し訳なくも思った。
「俺さ…一人で大丈夫だから…お兄ちゃん…予備校、行って…?」
高校三年の夏休みとなれば、言うまでもなく受験生にとっては最も大切な時期
である。多分に漏れず三蔵も複数の夏期講習の講座を申し込んでいたが、悟空
が風邪で寝込んでからはその一切を休み、悟空の部屋にある学習机で自主学習
を続けていた。普段の元気のよさからはおよそかけ離れた掠れ気味の声で、そ
れでも悟空は精一杯言葉を繋ぐ。三蔵が今度ははっきりと、不機嫌も露わに眉
根を寄せた。
「病人がつまんねぇこと考えるなっつったばっかだろーが…行ってねぇ分は自
分でそれなりにやってるから問題ねぇよ。それともお前は、自分の兄貴が少し
予備校を休んだくらいで大学に受からないような腑抜けだと思ってんのか?」
少々きつめの声での問いかけに、悟空はおぼつかない動作ながら懸命に首を横
に振る。
「だったら」
「余計な気回してないで、大人しく寝てろ」という言葉と共に、クシャリと前
髪を撫でられる。そのまま緩やかな動きで繰り返し髪を梳かれるうちに、悟空
の瞼はゆっくりと閉じられていった。
いつもは常人離れした食欲を見せている悟空だが、高熱が続いている現在の状
況では、さしもの彼も水分を摂るのがやっとで。そんな弟が少しでも滋養のあ
る物を口に出来るようにと考えた三蔵は、近所の洋菓子店で林檎を丸ごと使っ
た本格的なシャーベットを買ってきた。これなら口当たりもよく食べ易いし、
果物の栄養も摂れるのでいいだろうと思ったのだ。
横になっている悟空の口許へとスプーンを運び、シャーベットを食べさせ始め
た三蔵だったのだが……数回繰り返した後、神妙な面持ちでその手を止めた。
悟空は大人しく差し出されるままにそれを口にしていたのだが、どうやら喉の
痛みのせいで飲み込む動作がつらいらしい。コクンと小さな喉が上下する度に、
あどけない顔には微かに苦痛の色が滲んでいた。
「喉…つらいのか?」
「ヘーキ…だよ?冷たくて…美味しいし…」
気遣わしげに問いかけられ、悟空は気丈に笑って答える。彼の為にと思い買っ
てきた物だが、つらそうに顔を歪める姿は見ていて痛々しい。しかしせっかく
「美味しい」と言って食欲を見せているのだから、もう止せというのも随分な
話だ。さてどうしたものかと、シャーベットをのせた皿を手にしたまま三蔵は
思案を巡らせる。数瞬の間を置いて一つの考えに至ったらしい三蔵が、スプー
ンで掬ったシャーベットを己の口に入れた。
「…?」
きょとんとした表情でそれを見上げていた悟空の眼前に、秀麗な兄の顔が近付
く。悟空が驚きの声を上げようとしたのと、唇が塞がれたのはほぼ同時だった。
「…ん…」
薄く開かれた唇の間から、表面が少し柔らかくなったシャーベットが悟空の口
へと滑り込む。悟空がそれをコクン…と飲み込んだのを確認してから、三蔵は
唇を離した。口内の熱で柔らかくなった分、飲み込むのが楽になったのだろう。
その表情には先刻のようにつらそうな様子は見受けられない。一人短く頷いた
三蔵が再び同じ動作を繰り返し唇を寄せようとすると、悟空は弱々しいながら
も、両腕で三蔵の肩を押し止めた。高熱の為膜を張ったように潤んだ金の瞳が
三蔵を見上げ、むずがる子供のように首を振った。
「…うつ…る…」
口移しで食べさせられているということへの戸惑いや、その相手が同性の兄で
あるという嫌悪感ではなく、悟空が真っ先に口にしたのは、三蔵に風邪をうつ
してしまうことへの憂慮で。一瞬だけ軽く瞠目してみせた三蔵は、日頃の仏頂
面からは想像がつかないくらい、緩やかに微笑った。
「大丈夫だ…お前は何も心配しなくていい。」
今口内にあった分は既に溶けてしまったため、シャーベットを口に含み直して
顔を伏せてきた三蔵を、悟空は尚も押し返そうとする。その頼りなげな両腕を
シーツの上に縫い止めることで易々と抵抗を封じた三蔵は、悟空が呼びかけよ
うとする前にその唇を塞いだ。
「…ぅ…っ」
何度か繰り返すうちに悟空の姿勢から拒絶の色は消えていき、小さな唇を自ら
薄く開くことで、三蔵から与えられる行為を受け入れた。
どれほど同じ動作を続けただろうか。一匙毎の量はごく僅かでも、回数を重ね
ていくことで林檎を丸ごと器にしたシャーベットの中味も終わりに近付きつつ
あった。最後の一匙を底から掬い、唇越しに悟空の口内へと滑り込ませる。細
い喉が小さく上下するのを見届けてから、三蔵はベッドの脇に備えたテーブル
へと皿を置いた。悟空が水分以外の物をこれだけ摂取したのは数日ぶりのこと
だったので、三蔵は密かに安堵の息を漏らした。
悟空の方へ向き直った三蔵が、その唇が何か言葉を紡ごうとしていることに気
付く。ほとんど声にならない呟きを拾い上げようと、三蔵は顔を傾けて、すぐ
傍まで耳を寄せた。ほとんど吐息だけの囁きが、三蔵の耳に届く。
『…もっ…と…』
少し暗めの紫の瞳に、忙しなく浅い息を継ぐ幼い弟の顔が映る。
淡く滲んだ金の瞳。なだらかなラインを描く丸い頬。そして……
内側からの熱で薄らと色付いた、あどけない唇。
次の刹那───三蔵は明らかな意思を持って、徐に唇を重ねた。
そこにはもう、悟空の喉を潤す為の甘い林檎の味はなかった。
「…ふ…ぅ…」
胸の奥から突き上げる衝動のままに、幼い舌を絡め取る。高熱で意識が朦朧と
している悟空は、三蔵に翻弄されるがまま、くぐもった声を漏らす。おそらく
は今なされていることの意味すら、わかっていないに違いない。それでも三蔵
は貪欲なまでの執拗さで、熱を帯びた悟空の口内を侵した。
悟空が息苦しさを感じているのを察して、三蔵はようやく小さな唇を解放する。
霞がかかったように朧げな金の瞳が、不可思議そうに三蔵を見上げた。
「な…に…?」
ようやくそれだけを口にした悟空の眦に浮かんだ雫を、三蔵はそっと舌で掬い
取る。そのまま目許にあやすような口づけを送り「少し眠れ」と静かな囁きを
落とす。久々に長く起きていて疲れたのだろう、程なくして金の瞳はゆうるり
と閉じられ、規則正しい寝息が聞こえてきた。
改めて見下ろした寝顔は、いとけないばかりで。しかしあの瞬間───自分は
はっきりと、この弟に情欲を抱いたのだ。そして一度意識してしまえば、目の
前の相手はもう二度と、それまでの只々愛らしかっただけの存在には戻らない。
ひどく苦い自嘲の笑みを口許に刻んだ三蔵は、何かの儀式のように恭しい仕草
で、悟空の額にそっと口づけを落とした。
その日の夜を境にして悟空の熱は徐々に下がっていき、次の朝には高熱という
状況は脱していた。このぐらいの容態になれば一人で寝かせておいても大丈夫
だろうと判断した三蔵は、今日から再び夏期講習に行くことを悟空に告げた。
悟空は薄い夏掛け布団から目許だけを覗かせて「うん…」と答えた。
「どうした…?」
見上げてくる瞳には嫌悪感や軽蔑の色は見られない。熱に浮かされている状態
でまともに意識があったとは思えないが、あの最後の口づけを、彼は覚えてい
るのだろうか。暫くモジモジとしていた悟空だったが、やがて「だって…」と
口を開いた。
「俺…喉が痛くて上手く食べられなくて、結局口移しで食べさせてもらって…
何か親鳥に甘やかされてるヒナみたいで…すっげぇカッコ悪ィ…」
気恥ずかしさとバツの悪さが半々に混じったような表情で、ほんのり頬を染め
ながら、悟空は不器用に言葉を繋ぐ。甘えてエサをねだる雛と、それに応える
親鳥。やはり彼の中で自分との関係は、そういう認識のものらしい。三蔵の口
許に、何とも微妙な笑みが浮かぶ。
それならそれでもいい───まだ『今』は。
「仕方ねぇだろ…『不可抗力』ってやつだ、あんま気にすんな。じゃあ行って
くるからな。ちょっと熱が下がったからって、フラフラ歩いたりしないで大人
しく寝てろよ。」
「わかってるってば…いってらっしゃい。」
ようやく布団から顔を出した悟空が、小さく手を振る。三蔵は不意に身を屈め、
悟空の耳元に顔を埋めた。
「痛ぅ…っ!な…に…?」
三蔵の顔が離れた途端、悟空は顔を顰めて耳の下辺りを手でおさえる。三蔵は
吐息がかかるほど間近で僅かに口角を上げてみせた。
「お前のサル頭だと、口約束だけじゃすぐ忘れちまうからな…まじないみたい
なモンだ。」
「何だよそれっ、すぐ人のことサル頭とか言ってさ」
不満丸出しでプゥ…ッと膨らませた頬に、三蔵は宥めるような軽いキスを送っ
てから立ち上がる。
「だからぁ、そうやってすぐ子供扱いすんなよなっ」と、悟空は顔を真っ赤に
して怒り出した。
「ギャーギャー喚くなよ…ちゃんと大人しくしてたら、駅前のケーキ屋でお前
の好きなプリン、買ってきてやる。」
「ホントに?そしたら俺、プリンアラモードがいいな。イチゴとかメロンとか
のってるヤツ。」
子供扱いするなと怒った次の瞬間には、好きなプリンの話で目を輝かせている。
三蔵はやれやれといった調子で肩を竦め「了解」と答えた。三蔵がドアを開け
出て行く寸前で、悟空がもう一度「いってらっしゃい」と声をかける。振り向
けば、満面の笑みで手を振る悟空の頼りなげな項には、先刻三蔵が咲かせた唐
紅の花が鮮やかに色づいていた。
門を出た三蔵が、ふと背後を仰ぎ見る。
紫の瞳に映るのは、亡き父が家族の為に建てた家。
元々人付き合いが苦手な三蔵は、ほとんど他人を家に入れたことはない。
しかし、これからは。
絶対に誰も入り込ませないし、見せる隙間すら与えない。
こうして気付いてしまった以上、もう誰にもやらない。
この家は、自分と彼だけの『幸せの家』であり続けるのだ。
暫しの間自宅を見上げていた三蔵がクルリと踵を返し、駅に向かい歩き出す。
今日から仕切り直しの夏期講習。少しぐらいの遅れは、すぐに取り戻す。
無駄な足踏みなどしている暇はない。必ず志望大学に合格し、就職して…
誰からも認められる人間になってみせる。どんな努力も惜しみはしない。
二人だけの閉じられた幸せを、守る為なら───。
一歩一歩力強く足を踏み出す三蔵の横顔には、凪いた水面のようにこの上なく
静かな笑みが刻まれていた───。
…END.
《戯れ言》
オンラインとしては久々の兄弟モノ。この話が一番過去ということになります
ね…しかし兄貴の壊れっぷりが一番激しい気がするのは何故でしょう(苦笑)
今回のタイトル、意味はまんま「引き金」もしくは「誘発」。本当は「発露」
というタイトルにしたかったんですけどね…どうにもピンとくる英語をみつけ
られませんで。ちょっと迷ってコレに決めました。
いつもの如くひたすら閉じた話ですが、楽しんで頂けたなら幸いです…。
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