とある平日の夕方のこと。悟空は山ほどの買い物袋を下げて、三蔵のマンショ
ンへと向かっていた。飲食店に勤めている悟空は、当然のことながら世間一般
的な勤めのように、土日が休みというわけにはいかない。その代わりに従業員
同士で調整をしながら、交代で休みを取っているのである。今日は夕食の仕度
をして、三蔵の帰りを待つつもりでいた。不意打ちで驚かせようと思い、三蔵
にはまだ連絡を入れていない。準備万端になったら夕食を食べずに帰ってくる
ようメールを送ろうと、そんなことを考えながら悟空は弾むような足取りで通
い慣れた道を進んで行った。
エレベーターで最上階に到着し、先日の誕生日に彼から手渡された鍵を取り出
す。鍵穴に差し込んだ時のあまりの手応えの無さに、悟空が小首を傾げた。
(…開いてる?)
時間はまだ5時少し前。何か特別の事情でもない限り、三蔵がこんな時間に帰
宅していることはありえない。鍵をしまい慎重な手つきでドアを開けた悟空の
視界に飛び込んできたのは───一人暮らしの男性の玄関には似つかわしくな
い、優に10センチはヒールのありそうな、シンプルでいながら趣味の良さを
感じさせるデザインのパンプス。数瞬の間、怪訝そうに眉を顰めてそれを凝視
していた悟空だったが、やがて意を決したように大きく息を吐き出してから、
自らも靴を脱いでリビングへと向かった。
いつもなら三蔵が新聞を開いているソファーには、先刻の靴の主らしい一人の
女性の姿があった。スリットの入ったスカートから覗く、スラリとした長い脚
を組み、ゆったりと煙草を吹かしている。非常に華やかな顔立ちの、正に『妖
艶』という印象がピッタリの女性だった。悟空の手元で買い物袋がガサリと音
を立てる。それに気付いた女性が視線を上げ、こちらを振り返った。
「…よぉ。」
如何にも『落ち着いた大人の女性』といった声の持ち主は、その印象からは想
像もつかない大らかな挨拶をしてみせた。咄嗟にペコリと頭を下げた悟空に、
女性は小さく笑った。
「とりあえず、荷物そっちに置いてきたらどうだ?それだけ持ってりゃ流石に
重たいだろ。」
手入れの行き届いた華やかな色の爪が、キッチンを指差す。悟空はその言葉ど
おりに様々な食材の入った袋をキッチンのカウンターへと置いた。再びリビン
グに戻った悟空はソファーに座ろうとはせず、女性の傍らに立ってその口を開
いた。
「…玄関の鍵開けたのって、あんた?」
「そうだよ。どんなにあいつがマヌケでも、鍵を掛け忘れたまま出かけちまう
ことはねぇだろ。」
鮮やかなルージュに彩られた唇が、僅かに笑みを形作る。まるで遠慮のないそ
の物言いは、三蔵との親密度の深さを如実に物語っていた。
「何でココの鍵、持ってるの?」
「ずいぶんと正面切って不粋なことを訊くヤツだな…女が男の部屋の鍵を持っ
てる理由なんてモンは、そう幾つもないんじゃねーの?」
余分な言葉を一切省いていきなり核心を突いてきた悟空に、女性は何処か面白
がっているような苦笑いを返した。弄ぶように燻らせていた煙草を灰皿の上で
揉み消し、女性は悟空の正面へと体の向きを直す。強烈な意思の力を感じさせ
る涼しげな瞳が、真っ直ぐに悟空を見上げてきた。
「あいつの女だからに決まってんだろ。健気に夕飯の仕度にまで来てるっての
に、可哀相になぁ…都合のいいトコだけ取られて、騙されてんだよ、お前。」
艶やかな口許が、ゆうるりと笑う。ほんの少し金の瞳を眇めた悟空は、ゆっく
りと大きな瞬きを一つしてから、静かに首を横に振った。
「違うよ…三蔵は絶対に、そんなことはしない。」
明らかに挑発を仕掛けてきている女性の言葉に、悟空は不安げな表情を見せる
ことも衝動的に憤ることもなく、目の前の相手をみつめ返した。
「あんたが何でそんな言い方すんのかわかんないけど…他に鍵を持ってる人が
いるのに、俺にも鍵を渡すなんて無神経なことを三蔵はしないし、もし後から
そういう人ができたんなら、ちゃんと自分の口から俺に話してくれる。確かに
ぶっきらぼうで、言葉が足りないことも沢山あるけど…でも三蔵は、そういう
人の気持ちの踏みにじり方は絶対にしない。だから嘘をついてるのは…あんた
の方だ。」
不器用ながらも一つ一つ丁寧に言葉を繋いでいく声は、虚勢を張っている様子
はなく、あくまで真摯で。悟空はカケラも臆することのない眼差しを彼女に向
けた。
全く意表を突かれたように軽く瞠目してみせた女性は、次の瞬間「アハハ」と
思いきりよく声を上げて笑った。
「そうきたか…面白いチビだなぁ、お前。」
「ハ…?」
「気に入ったっつってんだよ、孫悟空。」
予想外のリアクションに呆気に取られている悟空の顔を覗き込むようにして、
女性はニヤリと笑ってみせた。
「…?何で俺の名前、知ってんの?」
「知らないワケねーだろ、何たってオレ様は…」
彼女が何かを言いかけたところで、突然玄関から『バターンッ!』という派手
な音が響き渡った。
「お…?どうやら真打ちのお出ましのようだぞ。」
どうにもおかしくて堪らないといった様子で、女性は口許に拳をあててククッ
と笑った。
「ババァッ!テメェまた勝手にヒトの部屋の合鍵作りやがったな!?」
怒りを露わにしたけたたましい足音を立てて、これ以上はないくらいの不機嫌
のオーラを全身から出しまくっている三蔵がリビングに駆け込んできた。
「…たった一人の甥ッ子の暮らしぶりが心配でならない、オレ様の尊い愛情が
わからないとは…全く了見の狭い男だなぁ、お前は。」
普通の人間なら震え上がってしまう三蔵の睨みを物ともせず、実に飄々とした
態度で彼女は答えを返す。きょとん…とした表情で、悟空はその視線を三蔵か
ら傍らの女性へと戻した。
「甥ッ子…?三蔵の…オバさん…?」
軽い困惑を含んだ悟空の呟きに、彼女がチラリと目線を上げた。
「小僧、一度目は許してやる…だが、次からはきっちりと『観音のお姉様』と
呼びな。二度目は問答無用ではっ倒すぞ…?」
圧倒的な迫力を伴った壮絶な笑みを向けられて、悟空は気圧されたようにコク
コクと首を縦に振る。彼女───観音は「よし」と大きく頷き返した。
「ところで…こんな時間に帰ってこられるほど、お前の勤め先は暇があり余っ
てんのか?そんなグータラ社員のいる商社に貸すビルはねぇぞ。」
時計の針は5時半を少し廻ったところ。確かに通常の三蔵の仕事量から考えれ
ば、こんな早い時間に帰宅することはまず『絶対』と言っていいくらいない。
三蔵はキッと音のしそうな視線を観音に向けた。
「フザケんなっ、テメェが秘書にも何も言わずにバックレたって聞いたから、
嫌な予感がしてとりあえず戻ってきたんだよっっ」
「あの…『貸すビル』って…?」
「あぁ、そういや話の途中だったな。お前がバイト代もらってた清掃会社も、
お前がせっせと掃除してたあのビルも…アレはどっちもオレのモンだ。」
「えっ…えーーっっ!!」
完全に驚愕しきった表情で大きく口を開けたままの悟空の反応に、観音は満足
げにニンマリと笑った。
「ンな話はどうだっていいんだよ、ババァ、テメェいい加減に帰りやがれっ」
一方的にやり込められどおしで怒りの収まらぬ三蔵が、観音に怒鳴り散らす。
観音は茶化したような仕草で軽く肩を竦めてみせてから、ソファーから立ち上
がった。
「せっかく不法侵入を果たしたんだから、嫌がらせの一つや二つや三つくらい
はしていきたかったんだけどな…まぁ思いもかけず、チビの顔を間近で見るこ
とも出来たし…今日はこのぐらいにしとくか。」
観音の言葉にようやくハッと我に返った悟空が、咄嗟に彼女のスーツの袖口を
掴んだ。
「あ、あのさ!俺これから夕飯作るんだけど…よかったら一緒にどうかな?」
おおよそ『心温まる』とは言い難い、容赦も手加減もない二人の会話。でも、
だからこそ、その繋がりは決して表面的なものではなく本物だとわかる。この
人は間違いなく、三蔵の「大切な人」なのだ。
懸命な表情でこちらを見上げてくる悟空の様子に、観音の涼しげな目許にそれ
までの悪戯めいたものとは色合いの異なる笑みが滲む。子供のように袖口を掴
んでいる悟空の手を、彼女は軽くポンポン…とあやすように叩いた。
「ありがとな。だがこのビシッとしたヴィジュアルからもわかるとおり、オレ
様は多忙を極める実業家でな。悪ィが今回は遠慮させてもらう…おぉそうだ、
お前今、コックの見習いみたいなことやってんだろ?だったら今度、オレん家
にメシ作りに来てくれよ。」
「テメェ、何勝手に話進めてんだよっ…悟空、こんなババァのたわ言を真に受
けてんじゃねーぞ」
幼い頃から散々思い知らされてきたことだが、一体どれほどの情報網を持ち、
何を何処まで把握しているのやら…身内ながら、つくづく喰えない女である。
しかしそんな三蔵の言葉も虚しく、悟空は満面の笑みで観音の瞳を覗き込んだ。
「うん、じゃあ今度三蔵と二人で遊びに行くな…?やっぱメシはみんなで一緒
に食った方が楽しいもんな。」
屈託のカケラもない笑顔を正面から向けられて、観音は何処か眩しげに目を細
める。が、それはほんの刹那のことで、次の瞬間には「フーン」などと呟きな
がら、チラリと三蔵に意味ありげな視線を送った。
「…ンだよ」
「いや…案外お前の物事の見定め方は、悪くないと思ってな。確かにこのチビ
は、お前が今まで適当に喰い散らかしてきた、適当な女共とは違うようだ。」
「~~~っ、余計なお世話だっっ」
誉めとも貶しとも判じ難い観音の言葉に、三蔵は実に苦々しい表情で声を荒げ
る。観音は明らかに面白がっている様子を隠そうともせず、その視線を悟空へ
と戻した。
「…こんなヤローでも、亡き弟が大切に育てた一人息子だからな…まぁ、精々
上手くやってくれ。」
茶化すような口調とは裏腹に、三蔵のことを語るその瞳の色は暖かい。悟空は
三蔵と亡父との間に血の繋がりがないことを聞いている。ということは当然、
この伯母と三蔵もまた、血縁上は赤の他人なわけで。それでも二人の間には、
そんなつまらない理屈を飛び越えるに充分な『何か』が確かに存在するのだと、
はっきりと悟空は感じ取っていた。
「うん…」
少しはにかみがちな表情で、けれどしっかりと悟空が頷く。観音は艶やかな笑
みでそれに応え、小さな顎にヒョイと指をかけた。
「え…?」
疑問を口にする間も与えられず、色鮮やかな唇に、しっとりと包み込むように
口付けられる。それは『挨拶代わり』などと言った軽いニュアンスのものでは
なく、はっきりと濡れた音が周りに響く、強烈なディープキスだった。
「…っ!!」
あまりの展開に完全に茫然自失となっていた三蔵が正気を取り戻し、手にして
いた書類ケースを放り出す。三蔵の腕が二人を引き剥がそうとするより僅かに
早く、観音は悟空を解放した。
「またな。」
『楽しくて仕方がない』としか言い表しようのない、とびきりの笑顔を二人に
向け、踊るような優雅な足取りで観音はリビングを後にした。
「クソババァ~~~…二度と来んなっっ!!」
既に見えなくなった背中に、三蔵が精一杯の悪態を投げつける。そのすぐ後に
玄関先から「ハハハハ」と爽快感溢れる笑い声が響いた。
「言っとくが、鍵付け替えるなんて無駄なあがきすんなよ?オレ様に不可能は
ねぇんだからな。」
軽やかな口調での忠告が付け加えられた後、パタン…と玄関のドアが閉まる音
がリビングまで届く。それとほぼ同時に一気に脱力した悟空が、ヘナヘナと床
に座り込んだ。
「…ビックリした…」
零れ落ちそうなくらい目を見開いたまま、ぽつりと悟空が呟く。そのタイミン
グを見計らっていたかのように、こげ茶色の頭に全く容赦の無い力一杯のゲン
コツが炸裂した。
「痛ってーーーっっ!!何で俺が殴られなきゃなんないんだよ!?」
「ウルセェッッ!!何をあっさりとババァに唇奪われてんだテメェは!?」
驚きも覚めやらぬうちに突然ゲンコツを食らわされ、悟空は半分涙目で三蔵を
睨みつける。そんな悟空の怒りを遥かに凌駕する勢いで、三蔵は悟空の胸ぐら
を掴んだ。
「しょーがないだろ!?突然だったんだか…」
悟空の反論は最後まで言い終わる前に、三蔵の唇によって封じられた。
「…んっ…ぅ…」
これまた針の先ほどの手加減もなしに、散々に口腔を嬲られる。正に『徹底的
に痕跡を消し去る』と言わんばかりに、三蔵の舌が傍若無人に口内を舐め上げ
ていった。
「~~~っ、いきなり何すんだよ、バカッッ!!」
「『殺菌消毒』だ。いつまでもあのババァの名残なんぞ、そのままにしとける
かよ。」
手の甲でグイッと口許を拭いながらの悟空の非難の声に、三蔵がしれっとした
表情で答える。ある種の開き直りにも近い三蔵の態度に、悟空は「う~っ」と
唸り声を上げながら、上目遣いにじと…っと彼を睨んだ。
「ちょっ…もう『消毒』は終わったんだろ!?」
再び顔を寄せてきた三蔵の肩を、悟空が押し戻そうとする。悟空の抵抗を物と
もせず、三蔵は小さな耳朶を軽く甘噛みした。
「フン…『消毒』が終わったんだから、次は『口直し』に決まってんだろ。」
「やっ…仕事、戻るんじゃなかったのかよっ?」
「ヤメだヤメ…お前が来てるってわかって、わざわざ仕事になんか戻るか。残
りは明日廻しだ。」
三蔵のその一言に、なおも抗う素振りを見せていた悟空の手がピタリと止まり、
未だあどけなさを残す丸い頬がほのかに染まった。
「そーゆーことサラッと言うのって…ズリィ…でも、やっぱ待って?俺、夕飯
作りに来たんだから。」
…そっちこそ、そんな表情でたどたどしく言葉を繋いでから、小首を傾げつつ
「な?」などと同意を求めてくるのは反則だろうと、三蔵としては心の中で密
かに突っ込まずにはいられない。結局三蔵は、額に小さなキスを一つ落とした
だけで悟空を解放した。
『口直し』は食事の後でも遅くはない…などとこっそり思いながら。
…そして。悟空特製の夕食に舌鼓を打ち、シャワーを終えた後。
三蔵曰く『口直し』の甘いキスを交わしながら寝室のドアをくぐった悟空が、
不意に足を止めた。
「…コレ、何…?」
何とも間の抜けた声での悟空の呟きに、そちらへ目線を向けた三蔵の表情が、
そのまま固まった。
スタイリッシュなデザインで統一された三蔵の寝室に置かれた、ダブルサイズ
のベッド。平素ならば、落ち着いたアイボリーのカバーが掛けられているはず
のその上には───朱色の地に鶴や亀の模様が染め抜かれ、金糸で目にも鮮や
かな刺繍の施された、まるでふた昔前の嫁入り道具のような絢爛豪華な布団が
堂々と、鎮座していた。しかもご丁寧なことに、シーツも枕カバーも同じ柄の
物に替えられている念の入れようである。
数瞬の金縛りから正気に返った三蔵が、ドタドタと派手な足音と共にベッドに
駆け寄り、枕元に置かれた一枚の便箋を手に取った。
『ようやく遅い春の訪れたお前に、オレ様からの心づくしのプレゼントだ。
有難く頂戴しろよ。』
(…あのババァ…いつかぜってーー、コロスッッ…)
達筆な文字で綴られた手紙を震える手でグシャリと握り潰し、何とも物騒な決
心を胸中で固めた三蔵であった─────。
…HappyEnd?
《戯れ言》
そんなワケでして今回は、本筋から少し寄り道?をしたサイド・ストーリーの
ようなモノになりました。しかし私…どうしてこんなにアノ御方のことが好き
なんでしょうか…?この人出るとホントに、自分でも笑えるくらいサクサクと
筆が進みました(笑)
この話考えた当初は二人でチューのトコで終わりだったんです。でも終盤の辺
り書いている時にフッとこのオチが浮かびまして…こうなりました(笑)
アレですね、嫌がらせの為には金と手間を惜しまないタイプというか…自分の
身内にこういう人がいたら困りますね、やっぱり(苦笑)。
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