『災いは、突如としてやってくる』───そんな言葉の意味を三蔵が心の
底から実感したのは、とあるうららかな土曜の昼下がりのことだった。
その日揃って休みを取ることの出来た三蔵と悟空は、心置きなく寝坊をして
からのんびりとブランチを取り、食後のコーヒーを楽しんでいた…のだが。
『ピンポーン』と高らかに響いたチャイムの音が、来訪者の存在を二人に告げ
る。三蔵と悟空は訝しげな表情で、互いに顔を見合わせた。
煩わしい人付き合いを嫌う三蔵の家を訪ねる者は少ない。ごく親しい友人もく
しは宅配便やフードデリバリーの業者ぐらいが精々である。そして悟浄や八戒
がこの時間帯に訪ねてくる可能性は、まずない。(観音に至ってはその限りで
はないが、そもそも彼女は律義にチャイムを鳴らしたりしない。勝手に玄関の
ドアを開けては我が物顔で入ってくるのだ。)
「何だろ…荷物でも届いたのかな?いいよ、俺が出る。」
小首をを傾げつつ椅子から立ち上がった悟空が玄関へと向かう。パタパタとい
う小走りの足音に続いて、ドアロックを外す音が三蔵の耳に届いた。
そして。
「うわぁーーっ!!」
どう考えても相手が宅配業者だとは思えぬ悟空の叫び声が、ダイニングまで届
く。サッと顔色を変えた三蔵は、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、玄関へと
走った。
「オイッ、どうし…」
「どうした」と声をかけようとした三蔵が、視界に飛び込んできた光景に言葉
を失う。三蔵のすぐ目の前には、見知らぬ男に抱きしめられ、焦った様子で手
足をバタつかせている悟空の姿があった。
「…オイそこの変質者、五体満足でいたけりゃ今すぐその手を離せ。」
三蔵の周りの温度が一気に氷点下まで下がったのが悟空にはわかる。普通の人
間ならその目で一睨みされた途端、這う這うの体で逃げ出しているだろう。
しかし男は悟空を腕の中に抱き込んだまま「フン」と馬鹿にしきった眼差しを
三蔵に向けた。
「藪から棒に変質者呼ばわりとは甚だ失敬な男だな。そっちこそ、一体何様の
つもりだ。」
「ンだと…」
ふてぶてしいまでに開き直った態度を見せる男に、三蔵が更なる迫力で怒鳴り
返そうとした、その時。
間に割って入った悟空の発した言葉は、あまりに予想外のものだった。
「焔、いきなりそんな言い方失礼だろ。」
「悟…空…?」
呆気に取られた表情で、三蔵は悟空をみつめる。今の悟空の一言に、三蔵は軽
いショックを覚えていた。その口ぶりから察するに、どうやら目の前の不遜極
まりない男は全く通りすがりの変質者ではなく、悟空の顔見知りであるらしい。
そして三蔵がショックを受けた理由は、悟空が自分ではなく男の方を先に窘め
たことにあった。
このように自分の知り合い同士が諍いを起こした場合、人は自分に近しいと
感じている相手の方を窘めるものだ。つまり悟空は、三蔵よりもあちらの胡散
臭い男の方により気持ちを許しているということになる。
そしてよくよく見てみれば、悟空は照れ臭そうに頬を染めて手足をバタつか
せてはいるものの、本気で男の手を引き剥がそうとはしていない。最初に叫ん
だのは単純に驚いたからであり、今こうしてベタベタとまとわりつかれている
こと自体は、悟空にとって許容範囲であるらしい。
「えっと…ゴメンな、三蔵。焔、この人は玄奘三蔵さん。俺が今、一緒に暮ら
してる人。」
少々険悪なムードになった場の空気を少しでも和らげようと、悟空は二人を交
互に見遣りながら、男に三蔵のことを紹介する。男の方から改めて三蔵を振り
返った悟空は、未だ幼さを残すその顔に、何処か困ったような苦笑いを滲ませ
た。
「紹介するな。こっちは神城焔。俺の……兄貴。」
その瞬間、三蔵は常に平静を旨とする彼らしくもない、完全に意表を突かれた
表情で紫の瞳を見開いた。目の前の男はより一層尊大な態度でこちらを睨み、
悟空は「へへッ」と誤魔化し笑いに近い表情を浮かべている。
『オレノ アニキ』
たった今悟空の口から聞かされた衝撃の一言が、三蔵の頭の中で繰り返し
谺する。
(……何だと───!?)
穏やかな午後の陽射しが燦々と降り注ぐリビングのソファーで、『不愉快極
まりない』と言わんばかりの顔をした二人の男は、テーブルを挟む形で向かい
合っていた。
(兄貴だぁ?今まで一言だってそんな話聞いてねーぞっ…大体、母親と二人の
母子家庭だったって言ってなかったか!?しかもこの男、ひとかけらだって悟
空と似てるところなんかねぇじゃねーかっ)
向かいのソファーに偉そうな態度でどっかりと腰を下ろしている男──
焔は、かなり整った顔立ちをしているものの、頭から足先までザッと通し
て見ても全く悟空と似たところはない。強いて挙げるなら、その瞳の色ぐ
らいだろうか。これがまた一風変わっていて、焔の瞳の色は片方が深い蒼、
もう片方が悟空と同じ金色だった。
三蔵がつらつらとそんなことを考えているうちに、改めてコーヒーを淹れ
直した悟空が「お待たせー」と言い、ソファーへ歩み寄ってきた。
「悟空」
トレーに乗せたカップをテーブルへと移した悟空を、焔が『当然』と言った呼
び方で自らの方へと招く。悟空は特に反抗することもなく、チョコンと焔の隣
りに腰を下ろした。
もし人の目に心の温度というものが見えるのなら、三蔵の背後には南極並み
のブリザードが吹き荒れていたに違いない。しかし焔は三蔵の憤りなど歯牙に
もかけない様子で、悟空の頬に手を伸ばした。
「少し痩せたんじゃないのか?」
焔の指先が、労わるようにそっと頬のラインを辿る。悟空はくすぐったそうに
笑いながら、小さく肩を竦めた。
「背が伸びたからそう感じるだけだって。焔の方こそ、ちゃんと飯食ってる?
ちょっと目を離すと、すぐ平気で一食抜いたりするからなぁ。」
奇妙な空気だなと、三蔵は思う。幾ら兄弟とはいえ、悟空が見知らぬ男に馴れ
馴れしくベタベタされているのを目の前で見せられるのは、それはもうムカッ
腹の立つ光景なのだが、同時に二人の間に流れる空気に、三蔵は何とも表し難
い違和感を覚えていた。
悟空は明らかに、目の前の男を甘やかしている。他の誰にわからなくとも、
三蔵にはそれがわかる。おおよその見た目から判断して、この焔という男は、
悟空より五つ歳上の自分よりも更に、二~三程度上といったところだろう。
それだけの年齢差のある相手を歳下の方が甘やかしているという光景は、三蔵
の目にはひどく珍妙に映った。
「心配しなくとも、きちんと食事は取っている。何しろ適当にしているとお前
に言いつけるぞと、うるさい奴らがいるんでな。」
「アハハ。そういえば、是音達は一緒に帰ってきてんの?」
「まさか。三人で帰国したら現地の仕事が回らなくなってしまうだろう。今回
は完全なる個人休暇だ。」
「え…焔、日本で仕事があるついでに寄ったんじゃないの?」
心底驚いた様子の悟空の反応に、焔は「全くお前は…」と溜め息混じりに呟き
ながら、丸い額にコツンと軽く拳を当てた。
「この世界でたった一人の大切な弟から、何の前触れもなく『引っ越しました。
一緒に暮らしてる人がいます。』なんて知らせが届いて、心配しない兄が何処
にいると思うんだ。」
渋い表情を露わにしての焔からの言葉に、悟空の口から「あ…」という声が漏
れる。
「…詳しいこと全然知らせなくて…ゴメンなさい。」
飼い主に注意されてしまった小犬のように、悟空はシュン…と項垂れてしまう。
悟空をみつめる焔の瞳の色がフッと和らぎ、長い指先が小さなこげ茶の頭を優
しく撫でた。
「とりあえず元気にやっているのはわかったから、まぁいい。今回は二週間休
暇を取っているから、じっくり様子を見ることも出来るし…純粋で世間知らず
のお前が、どんな馬の骨に騙されているとも限らないからな。」
そう言ってチラリと三蔵を見遣る焔の視線は、これっぽっちも信用ならない不
審人物へと向けられるのと同等の冷ややかさである。スゥ…ッと紫の瞳を眇め
た三蔵の口からは「…ンだと」と、地を這うような重低音の声が絞り出された。
「ほ…焔、もう本家には挨拶に行った?」
明らかに憤っている三蔵の様子にヒクリと喉を引き攣らせながら、悟空が話題
を逸らす。焔はあからさまに関心が無いといった反応で、軽く首を振った。
「いや。あくまで俺はお前に会いに来たんだからな…第一俺が顔を見せたとこ
ろで、あちらはどうということもあるまい。」
「ダメだって、そんなの。久しぶりに帰国した焔が会いに来てくれたら、お母
さんだって嬉しいに決まってるじゃないか。親孝行は出来るうちにしときなよ
…な?」
淡々とした口調でぞんざいに言い捨てる焔に対し、悟空は真剣な表情で言い募
る。そんな二人のやり取りを聞いていた三蔵は、悟空の発したある一言を耳に
した途端、怪訝そうに柳眉を寄せた。
一方、悟空にズイと詰め寄られる形となった焔は、如何にも渋々といった表
情で軽く肩を竦めてみせた。
「お前にそう言われては、返す言葉がないな…仕方ない、一応顔だけは見せる
とするか。」
「焔…」
焔の言葉に、悟空の顔がパッと明るく輝く。焔はソファーから立ち上がり、穏
やかな笑みを返した。
「面倒なことは早めに済ませるに限る。早速行ってくるとしよう。」
「そうすれば明日からは、お前のことだけに時間を使えるからな」と顔を覗き
込んできた焔に、同じく立ち上がった悟空は少々困ったような苦笑いを返した。
二人きりにさせるのはどうにも癪で、不本意ながら三蔵も悟空と共に玄関に
立って焔を見送る。焔は胸の内から溢れ出す愛しさを抑えきれないといった眼
差しを悟空に向け、柔らかな仕草で前髪をクシャリと撫でてから「また明日」
と言い残し去って行った。
「…あの変態は、本当にお前の兄貴なのか?」
忌々しげにその背中を見送った三蔵が、先刻同様の地を這うような声音で問い
かける。三蔵を振り返った悟空は、平素の彼らしからぬ何とも微妙な笑みを返
した。
「正真正銘、本物の兄貴だよ。但し……半分だけ、ね。」
悟空の答えに、三蔵は『やはり』という思いを強くした。焔との会話で何気な
く悟空が漏らした「本家」「お母さん」という言葉。物心ついた頃には既に母
一人子一人だった悟空の家庭。そこから導き出される一つの推論。
───おそらく二人は同じ男性を父に持つ異母兄弟なのだ。会話の内容から察
するに、焔は正妻から生まれた嫡男であり、悟空の母は所謂ところの『日陰の
身』という立場だったのだろう。複雑な表情を見せる三蔵に、「三蔵が想像し
てるほど大したことじゃないんだよ」と、悟空は小さく笑った。
「焔の家は旧華族の流れを汲むとかいう名門で、俺達の親父っていうのはそこ
に婿養子として入った人らしいんだよね。つまりその家のお嬢様だった焔のお
母さんと結婚して、家を継いだってわけ。」
再びリビングに戻ってから、悟空は三蔵に自分と焔の関係について話し始めた。
それぞれが置かれた状況を理解した三蔵は、心の中で深く納得をしていた。
名門の家に婿養子として入った二人の父親。それはほぼ間違いなく、家の発
展の為だけの結婚だったと思われる。その後に悟空の母と出逢い、悟空が生ま
れた。しかし彼らの父の立場では、悟空を正式の子として認知することはまま
ならなかったのだろう。そのことを充分過ぎるほど理解していた悟空の母は、
女手一つで悟空を育てたのだ。
「そんなんだから、俺は一度も自分の親父に会ったことなかったし、焔の家の
方も俺達のことは全然知らなかったんだけど…俺が十歳ぐらいの頃に親父が死
んで、その時俺達のことを初めて知った焔が、ある日訪ねてきたんだ。」
父の生前、悟空の母が一切の経済的援助を受けていなかったことを知った焔は
「不自由な思いをさせて申し訳なかった」と深く頭を下げ、自分に出来ること
があれば何でも言ってほしいと申し出た。しかし悟空の母は、静かに首を横に
振ったという。
『この子を育てるにあたって、そちら様には一切ご迷惑をおかけしないと決め
たのは私自身ですから。どうぞ頭を下げたりなさらないで下さい。』
『もしお願いが出来るのでしたら…またお時間がある時にでも、訪ねてやって
下さいな。こんな立派なお兄さんが出来たら、この子も喜びます。』
それ以来焔は折を見て孫家を訪れるようになり、一見奇妙ではあるが不思議
と和やかな、家族ぐるみの付き合いが始まったのだという。
「焔はこんなに歳の離れてる俺とも面倒がらずによく遊んでくれたし、色んな
所にも連れてってくれた。母さんとも仲が良くて、本当の家族みたいだった…
母さんが死んじゃった時も、凄く親身になってくれて…俺はまだ子供だったか
ら、葬式の面倒なこととか、全部焔がやってくれたんだ。母さんは周りの反対
を押し切って俺を産むって決めた時に家を出ちゃったから、そういう時に頼れ
る親類なんて全然いなくてさ…あの時焔が一緒にいてくれて、すげぇ心強かっ
たな…。」
思い出を辿る金の瞳には、幸せの記憶への懐かしさの中に、おそらく一生消え
ることのない寂しさが入り混じっている。いつもより大人びたその横顔をみつ
める三蔵は、ようやく得心がいった様子で「なるほど、そういことか」と心の
中で呟いた。
おそらく悟空にとってあの焔という男は、自分にとっての観音に近い存在な
のだ。時として『本気でコイツの息の根を止めてやりたい』と思っても、自分
があの破天荒な伯母を嫌いきれないように、悟空もまた、あの兄からの煩わし
いまでの過度な愛情を拒むことが出来ないのだろう。
「焔はいつまで経っても俺のことを『ほっとけない小さい弟』って思ってるみ
たいで、万事があの調子だから、三蔵にも迷惑かけることがあるかもしれない
けど…俺もなるべく注意するし、少しの間のことだから…よろしく頼むな?」
「な?」と繰り返し念を押しながら上目遣いで顔を覗き込まれ、三蔵は半分あ
きらめにも似た表情で長い溜め息を吐き出した。
「なるべく期待に沿えるよう、努力はしてみる…が、」
「何?」
「たとえ兄貴だって聞かされてても、他の男がお前にベタベタしてるのはやっ
ぱりムカつく。」
一瞬きょとんとした表情になった悟空は、すぐに小さく笑って三蔵の肩に頭を
乗せた。
「そうだね…俺だってもしも突然、三蔵の本当のお姉さんだって人が現れたと
して、楽しそうにあれこれ三蔵の世話を焼いてるのを見たら…ムカッとくると
思う。」
今度は三蔵が不意を突かれる番だった。紫の瞳を軽く見開いた三蔵の頬に、悟
空はクスリと笑いながら軽いキスを送った。
「神城焔?あぁ、知ってるぜ。神城グループの跡取息子だろ?母親は元華族の
血筋とかいうのが自慢の鼻もちならないオバハンだが、息子の方は人当たりも
如才ない、中々の切れ者だな…確か今は、ヨーロッパ方面の事業を全面的に任
されてるって聞いたが。」
後日。三蔵は観音にそれとなく焔のことを聞いてみた。昔からの格式ある家を
現在も保持し続けているということは、それなりの事業等を展開しているのだ
ろうと考えたからだ。そして三蔵の推察どおり、焔は財界では『まだ若いが将
来有望な後継者』と評価されているらしい…尤も三蔵からすれば、不愉快極ま
りない変質者でしかないのだが。
「何だお前、近々神城と商談でもすんのか?」
「いや、別にそういうわけじゃねぇんだが…」
平素の彼らしくもなく中途半端に言葉を濁す三蔵に、観音は「フーン?」と言
いながら片眉を上げてみせた。
「まぁ何か交渉する予定でもあるんなら、精々気をつけろよ。一見穏やかそう
な面してて、ありゃ相当な喰わせ者だぞ?」
何処か面白がっている風に、観音がニヤリと笑う。三蔵は「今それ身を持って
イヤというほど体験しているところだ」と言い出したいのを、喉元ギリギリで
堪えていた。
また、同じ日。出先からの帰りの駅前で、三蔵は偶然にもバイトに向かう途
中の那托と出会った。
「あー…焔さんね。うん、覚えてるよ。悟空の遠縁の人だろ?俺も何度か一緒
に遊んだことあるし。」
流石に一番古い付き合いの幼馴染みである那托は、焔のことを知っていた。し
かしその彼をもってしても、焔の存在は『遠縁の親類』と紹介されていたよう
だ。どうやら焔サイドの人間以外で、二人が兄弟であることを知っているのは
三蔵一人らしい。
「悟空のお袋さんが亡くなった時さ…まぁ色々事情があったんだろうけど、親
類で葬式に来たのって、あの人だけでさ。悟空は色々すげぇ心細かったと思う
から、かなり焔さんを頼りにしてたと思う。」
当時の記憶を辿る那托は、少々複雑な表情を覗かせる。如何に聡明で利発な彼
であっても、悟空と同じ中学生という立場では力になれることも限られていた
のだろう。僅か十五歳にして一人になった親友を傍らで見守りながら、随分と
歯痒い思いもあったに違いない。
三蔵の表情の変化に気付いた那托は、場の空気を変えるように一つ息を吐き
出してから笑ってみせた。
「ただあの人さぁ、歳も結構離れてるから、とにかく可愛くて仕方なかったん
だろうけど…ちょっと悟空に対して過保護すぎるところがあったな。悟空本人
は苦笑いしながら納得してたみたいだけど。」
「いい人だとは思うけど、ちょっと変わってるよな」と肩を竦めながら、那托
は小さな苦笑いを零す。一方、微かに顔を引き攣らせた三蔵はといえば、まさ
か那托相手に怒鳴りつけるわけにもいかず、口を開いてしまわぬよう、懸命に
奥歯を噛みしめていた。
(ちょっと変わってるなんて次元の問題じゃねぇ、アレは完全に変質者の領域
だろーがっ!!)
それは血を吐かんばかりの、三蔵の心からの叫びであった。
とにかくあの日突然けたたましく乗り込んできてからというもの、焔は悟空
にほぼまとわりつきどおしなのである。
朝一番で滞在先のホテルからやって来てはあつかましくも朝食を共にし、出
勤する悟空と共に出て行く。無論昼は悟空の勤めている店でランチを取り、夜
は悟空が仕事を終えた頃を見計らって迎えに行き、家まで送ってきては図々し
く上がり込んで、悟空が「おやすみ」とようやく不承不承と帰って行くといっ
た具合だ。(当初焔は泊まる気満々だったらしいが、そこは悟空が宥めすかし
て説得し、どうにか回避に至ったらしい。)
今更言うまでもなく、三蔵と悟空は職種も違えば勤務形態も全く違う。その
二人が落ち着いて向かい合えるのは、出勤前の朝食の時間と、帰宅してから就
寝するまでの間ぐらいだ。その限られた貴重な時間をことごとく邪魔されては、
元々大して気が長い方でもない三蔵の忍耐力は、最早限界突破寸前であった。
「悟空、次の休みはいつになる?」
その夜も日付が変わるまでしっかりと居座っていた焔が、帰る間際になってか
らふと悟空に問いかけた。
「ん?確か、木曜だったと思うけど…」
「そうか。ではその日に、お袋殿の墓参りに行こう。もう随分と無沙汰をして
いるからな。」
小首を傾げながら答える悟空に、焔が静かに笑いかける。焔の言葉に悟空は
パッと瞳を輝かせ、二人のやり取りをすぐ横で聞いていた三蔵はハッとした表
情で短く息を詰めた。
「うん。焔が来てくれたら、母さんきっと喜ぶよ。」
「当日は花を沢山買って…お袋殿が好きだった和菓子も持参するとしよう。」
うんうんと大きく頷く悟空は、子供のような屈託のない笑顔を焔に向けている。
焔は満足げに左右色違いの目を細め、小さなこげ茶の頭をフワリと撫でた。
「ではまた明日。」
「おやすみ。帰り道、気を付けてな。」
ドアの向こうへと消える焔の背中を見送った後、悟空はクルリと傍らに立つ三
蔵を振り返った。
「三蔵…どうかした?」
焔と会話をしながらも、三蔵の微妙な気配の変化に悟空は気付いていた。数瞬
何かを言いあぐねているような表情を見せていた三蔵は、やがて「スマン」と
俯きがちに呟いた。
「え…ちょっ、何で三蔵が突然謝ってんの?」
予想だにしなかった三蔵の反応に、悟空は焦り気味に問いを重ねる。悟空へと
視線を戻した三蔵は、気まずさと申し訳なさとが入り混じったような表情を浮
かべていた。
「…流石に今度の木曜は無理だが、次にお前が墓参りに行く時には、俺も休み
を合わせて必ず一緒に行く。」
(あ…)
甚だ一般常識に欠けていることを露呈してしまったようで何とも情けない話だ
が、焔の口から『墓参り』の一言が出るまで、三蔵の中では一片たりともその
発想が浮かんだことはなかったのである。
───無論、それには三蔵なりの理由があったのだが。
これまで見たことがないくらい恐縮した様子を見せる三蔵に、悟空はかなり
驚きながらも小さく笑ってみせた。
「そんな深刻なカオして気にすることじゃないって。ウチの母さんの墓、少し
遠いんだ。母さんは海が好きだったからって、焔が海の見える霊園を探してく
れて…だから実を言うと、俺も年に数えるぐらいしか行けてないんだよ。」
『男の子ってそういうところが冷たいのよね』ってムクれてそうだけどと、悟
空は苦笑いと共に頭を掻く。
「大体、それを言ったらお互い様だって。俺だってまだ一度も三蔵のお義父さ
んのお墓に挨拶行ってないし…」
そこまで言いかけた悟空が、ふと口を噤む。これまで三蔵の口からその類の話
題が一切上がった覚えが無いことに、ようやく気付いたからである。悟空が何
を思っているのか察した三蔵は、何とも表し難い、苦い笑みを返した。
「…亡くなってから初めて知ったんだが、義父は地方の旧家の出身でな…それ
まで会ったこともない親類縁者とやらがズカズカ踏み込んできて、俺にこう告
げたんだ。『戸籍でそうなっている以上仕方がないので、こちらで残した財産
に関してはお前にくれてやる。但し今後一切お前は本家とは関わりのない人間
だし、墓前を訪れることも許さない』…ってな。」
「え…」
「何処の誰とも知れない捨て子風情に、金の無心でもされたら困るとでも思っ
たんじゃねーの」と、三蔵は乾いた笑みを漏らす。当時まだ少年だった三蔵が
受けたあまりに酷い仕打ちに、悟空は遣る瀬無い思いで唇を強く噛んだ。
「俺の意思なんて何一つ関係のないまま、遺骨も位牌も全部持っていかれて…
だけどその時、ババァが言ったんだ。」
『形だけを取り繕いたがるような馬鹿げた奴らには、骨でも何でもくれてやれ。
それが手元に残らなくたって、お前のアイツに対する思いは何一つ変わんねぇ
だろ。』
いつもどおりの調子できっぱりと言い切った観音は、口角を上げ艶やかに笑っ
ていたという。
「それ以来俺は位牌とか墓とかってものに全く拘りを持たなくなったんだが…
普通はやっぱり違うもんな。今まで全く気付けなくて、悪かった。」
再び悟空に謝意を示した三蔵が、紫の瞳を軽く見開く。泣き出したいような、
笑い出したいような表情を未だ幼さを残す顔に刻んだ悟空は、大切な大切な宝
物のように、三蔵を精一杯抱きしめた。
三蔵の肩口に頭を預け、悟空は「お義父さんの心はいつだって、三蔵と一緒
にいるよ」と呟きを落とす。三蔵は「あぁ…そうだな。」と答えながら柔らか
なその髪に顔を埋め、腕の中の小柄な身体を静かに抱きしめ返した。
そして迎えた木曜日。いつもどおり会社へと出勤する三蔵を送り出してから、
悟空は焔と共に亡き母の眠る霊園へと向かった。
その日は爽やかな晴天で、少し高台にある霊園からは、穏やかな光を湛える
青く美しい海が見えた。掃き掃除をし、花を飾り、水を供え、線香を手向けて。
久しぶりに焔と二人で訪れた母の墓前で、悟空は静かに両手を合わせる。すぐ
隣りで同じように手を合わせていた焔の口から深い溜め息が漏れたのを聞いた
悟空は、閉じていた瞼を開き、焔を振り返った。
「焔…どうしたの?」
悟空の問いかけに、焔は「俺は自分が情けない」とぼそりと呟く。焔もまた墓
前に合わせていた手を下ろし、不思議そうな顔で自分を見上げている悟空の方
を振り返った。
「俺はお前の幸せの為には如何なる尽力も惜しまないと、亡きお袋殿に誓った。
お前にはいつの日か、純粋で真っ直ぐなお前に相応しい、素直で心根の優しい
女性と幸せになってほしいと心から願っていた。それがよりにもよって、あん
な男とは…」
そこで言葉を途切れさせた焔は、口を噤んでしまう。僅かに金の瞳を開いた悟
空は、すぐに小さな苦笑いを焔に返した。
「そう…だね。たぶん焔が感じているとおり、確かに三蔵は無愛想で取っ付き
にくくて、話の仕方も素っ気ないし、とてもじゃないけど『素直で親しみやす
い』って感じからは程遠いと思う。」
一度言葉を切った悟空は、改めて正面から焔をみつめ返した。
「でもね…どんな些細なことでも、絶対に都合のいい言葉で誤魔化したりしな
い、心のキレイな人だよ。俺が、家族以外で『一緒にいたい』って心から思っ
た、初めての人。途中で何にも相談しなかったのは、悪かったって思ってる…
でも、焔にはわかってほしい。三蔵と一緒に歩いていくことに、俺の幸せの意
味はあるんだ。」
真っ直ぐな光を放つ金の瞳には、怖れも迷いもない。焔は何か眩しいものでも
見るように、左右の色の異なる目を細めた。
「色々心配してくれてありがとう…大好きだよ、焔。たとえこの先何があって
も、焔は俺にとってたった一人の、かけがえのない家族だから。」
焔に笑いかける悟空の瞳は、同じ血で繋がった家族への慈しみに満ちている。
焔は腕を伸ばし、自分よりはるかに小さな身体をそっと胸元に抱き寄せた。
「…それがお前の決めた答えなら、これ以上は何も言うまい。」
深く静かな焔の声が、悟空の耳に届く。悟空は焔の胸に顔を埋めたまま、もう
一度「ありがとう」と繰り返した。
墓参りを終えた二人はドライブを兼ねてのんびり海岸線を廻り、途中で買い
物をしながら家へと戻ってきた。
コーヒーを淹れて一息ついてから、夕飯の仕度を始める。この日悟空が選ん
だメニューは餃子と八宝菜に五目炒飯。こまめに指先を動かして餃子を包んで
いく悟空の姿を、焔は傍らで椅子に座って眺めていた。
「上手いものだな。」
「へ?あぁ、こんなの慣れだって。ちょっとやれば誰でも出来るようになるよ
…もしよかったら、焔も一緒にやってみる?」
興味深げな視線を手元に注いでいる焔へと、悟空が声をかける。その言葉に促
されて立ち上がった焔は餃子の皮を手に取り、みようみまねで具を包み始めた。
「こんな感じか?」
「うんとね、もうちょっと具が少ない方が包みやすいかも…そうそう、そんな
感じ。上手く出来てるよ。」
焔と自分の手元を見比べつつ、悟空がウンウンと頷く。こんなちょっとしたこ
とでも誉められれば悪い気はしないようで、焔はせっせと餃子を作っていった。
「…やっぱり焔の方が手先が器用なんだな。ほんの何個か作っただけなのに、
焔の作ったやつのが形がキレイだもん。」
「そうか?」
「うん。上手だよ。」
「…オイ」
言葉のやり取りだけを聞いていると、一体何処のバカップルだと思わずツッコ
ミを入れたくなるような二人の会話に、氷点直下の一声が割って入る。驚いた
様子で顔を上げた悟空は、キッチンカウンターを挟んだ向こう側で仁王立ちに
なっている相手へニッコリと笑いかけた。
「お帰り三蔵。今日は早かったね。」
平素と変わらぬのんびりした調子で三蔵を迎える悟空には、三蔵が憤っている
理由がわかっていないらしい。おそらく悟空からすれば今の状態は『兄弟仲睦
まじく夕飯の仕度をしている図』以外の何物でもないのだろう。それはそれと
して、三蔵も百歩譲って納得しないでもない。
だが。しかし。
何故に二人で餃子を包むのに、背中から腕を回す必要があるのだ。
仮にも家主である自分が帰ってきてなお、悟空を背中から抱きこむ体勢のまま
平然としている目の前の男が、悟空の血縁でさえなければ。すぐさま胸倉を掴
んでギリギリ締め上げてやりたいと、三蔵は切に願う。
そんな三蔵の胸中での葛藤など知る由もない悟空が「あっ」と声を上げる。
「餃子の皮、足りなかった。ちょっと買いに行ってくる。」
「わざわざ買い足しにまで行かなくても、今作った量で充分じゃないのか。」
「ダメダメ。三人で食うんだから、いっぱいあった方がいいじゃん。どうせ店
まですぐだから、行ってくるよ。」
焔の腕の中から抜け出した悟空が、戸棚の引出しから小銭入れを取り出す。
「もう辺りも暗いから、車に気を付けるんだぞ。」
「ハイハイ。じゃあいってきます。三蔵も、もうちょっと待っててな。」
幼い子供に向けるような注意を促す焔に、悟空は苦笑いを浮かべながらも頷い
てみせる。三蔵にも軽く手を振った悟空は、足早に近くのスーパーへと出かけ
て行った。
「…そこまで大事な弟なら、何で黙ったまま一人暮らしの貧乏生活をさせてた
んだ。」
悟空の足音が遠ざかって暫く経った頃。スーツ姿のままダイニングテーブルの
椅子に腰を下ろした三蔵が、ふと焔に問いかけた。
それは初めて焔が現れて以来ずっと、三蔵の心底に存在し続けた最大の疑問
だった。これほど闇雲に溺愛している悟空が、バイトの掛け持ちでようやく生
活していた事実を知らないはずはない。ならば何故、それを承知していながら
この男は何の手立ても下さなかったのだろう。
餃子を包んでいた手を洗いタオルで拭き終えた焔は、剣呑な眼差しで三蔵を
見下ろした。
「何の事情も知りもせず、わかった風な口をきくな。仕方がないだろう…それ
が亡きお袋殿との、最後の約束だったからだ。」
いよいよ悟空の母がもう長くはないと悟った際、焔は一人残されることとなる
悟空への援助を約束した。しかし悟空の母は、それを良しとはしなかったとい
う。
『大丈夫ですよ。あの子はちゃんと、自分一人の足で立てる子です。お金を出
して頂くことは、結果的にあの子の為にならないでしょう…私がいなくなって
も、同じ血の繋がった家族がいる…それだけで充分なんです。どうかお金の面
でなく、あの子の心を支えてやって下さい…よろしくお願いします。』
「亡きお袋殿の遺志と、住み慣れた処で暮らしていきたいという悟空の意見を
尊重して、俺はこれまで一切余計な手出しも口出しもしなかった。その結果が、
まさか貴様のような男に愛してやまない大切な弟を奪われるとは…」
額に手を当て、焔は深く長い溜め息を吐き出す。あまりの言われように柳眉を
吊り上げた三蔵が「テメェ…」と焔を睨み上げる。三蔵の視線など物ともせず
にクシャリと前髪を掻き上げた焔は「しかし」と言葉を繋げた。
「貴様といることに幸せの意味があるのだとまで言われては、最早どうにもな
らん。」
完全に不意を突かれた表情で、三蔵が瞠目する。対する焔はまさしく苦虫を噛
み潰したような顔で、口をへの字に曲げていた。
二人の間に、暫し沈黙が落ちる。三蔵は愛飲の煙草に火を点け、ゆっくりと
紫煙を吐き出した。
「…俺は自分の親を知らない。何の縁もゆかりも無い俺を我が子同然に慈しみ
育ててくれた義父を亡くした時、もう二度と同じように心を開いて向き合える
相手には巡り逢えないだろうと思っていた。何に心を動かされることもない、
空っぽな毎日を繰り返しているだけの俺の前に…ある日、あいつが現れた。」
悟空との今日までの思い出を辿る三蔵の紫の瞳は、凪いた水面のような静かな
色を宿していた。
「あの手放しの笑顔が、惜しみなく与えられる温かさが、何もなかった俺の世
界を根こそぎから変えていった…俺にとっても、あいつの存在なしでの幸せは
ありえない。」
おそらく出会ってから初めて、三蔵は正面から焔を見据えた。焔は『不本意な
ことこの上ない』といった表情で「フン」とそっぽを向いた。
「勘違いをするな。断っておくが、貴様のことを全面的に認めると言ったわけ
ではないぞ。」
「こっちだって別にテメェの許しを乞いたいなんざ思っちゃいねぇよ。」
三蔵もまた、いつもどおりの仏頂面で紫煙をくゆらせる。と、その時。
「ただいまー、レジ混んでたから時間かかって…って、アレ…?」
玄関から勢いよく駆け込んできた悟空が、不可思議そうな顔で小首を傾げる。
「何か…二人、仲良くなってる…?」
「 「 誰 が だ !? 」 」
悟空がふと漏らした一言を、三蔵と焔は異口同音で力一杯否定する。しかし悟
空はといえば、それは嬉しそうに上機嫌の笑顔をふりまいた。
「だって、さっきまでと全然空気違うもん。」
この後、二人がどれほど「違う」と繰り返しても、悟空は「わかってるから」
と言いたげな顔でにこやかに笑うばかりだった。
「焔はさ…俺がどうこうって言うよりも、母さんのこともひっくるめた『俺ん
ち』そのものが好きだったんだと思う。」
憎まれ口を叩き合いながらも、それまでよりずっと和やかな夕食を終え、焔が
帰っていった後。悟空はぽつりと三蔵に告げた。
「前にも話したけど、焔の両親ていうのは完全な家の為の結婚でさ…焔のお母
さんは最初っから親父のことを完璧に下に見てたみたいだから、所謂普通の家
族の団欒なんてものは全然無くて…だから焔は俺んちのあの狭いアパートで、
一緒に夕飯の買い物に行ったり、同じ鍋をみんなで囲んだりっていうどうって
ことのないことが、凄く楽しかったんだと思う。」
思い出を語る横顔は、ひどく穏やかでいつもより大人びて見える。ようやく三
蔵は全てを納得出来た気がした。
本当の両親から愛を得られず、家庭の温もりを知らずに育った青年。それを
誰よりもわかっていたからこそ、悟空の母は本来なら憎んでも当然の立場であ
る焔を暖かく迎え入れ、そんな母親を間近で見ていたからこそ、悟空もまた過
剰なまでの焔の愛情表現を受け入れてきたのだ。
最初に感じた『甘やかしている』という空気は、決して三蔵の気のせいでは
なかった。焔が本当の母親から得られなかった家族の愛情を、悟空は亡くなっ
た母親と共に与えてきたのである。つまりは『兄に甘える弟』よりも『息子を
甘やかす母親』の感覚に近いわけなのだから、いくら三蔵が目くじらを立てた
ところで、悟空の反応が鈍いのは致し方ない。
フゥ…ッと溜め息を吐き出した三蔵が、悟空の肩を抱き寄せる。
「俺からすれば、あの野郎はクソうるせぇ邪魔者でしかないが…お前が一番つ
らかった時を支えた人間だってことは紛れも無い事実だからな。こればっかり
は認めなきゃ仕方がねぇ。」
三蔵の口から零れた、彼なりの精一杯の譲歩の言葉に、悟空の金の瞳に穏やか
な笑みが滲む。
自分から三蔵の首に腕を回した悟空は、愛しい恋人に心からのキスを送った。
それから二日が過ぎた土曜日のこと。昼の便でヨーロッパへと帰る焔を見
送る為、三蔵と悟空は空港に来ていた。
「じゃあ元気でな。何か相談事があったらいつでも言うんだぞ。」
「うん。焔の方こそ、仕事は程々にして、身体に気を付けてな。」
悟空と別れの挨拶を交わす焔が、両肩にそっと手を置く。大きく頷く悟空に柔
らかな眼差しを向けた後、焔は悟空の一歩後ろの位置に立つ三蔵を見遣った。
「もう一度言っておくが、決して貴様のことを全面的に認めたわけではないか
らな。もし悟空が泣くような結果になったら、俺はどんな手段を用いてでも、
貴様をこの世から抹殺するぞ。」
「ゴチャゴチャうるせーんだよ。テメェの方こそ、いつまでもイイ歳して弟に
ベタベタまとまりついてんじゃねぇ。俺から言わせれば、テメェなんざ犯罪者
ギリギリのラインだ。」
多少相互理解が深まったとはいえ、やはり完全和平への道は険しいらしい。
それともこんな風に直接本音をぶつけ合えるようになっただけ、事態は進展し
たということなのだろうか。悟空は少々ぎこちない笑顔で「ほ、焔…そろそろ
出国ゲートに行かないと…」と促した。
「あぁ、そうだな…と、一つ忘れていた。」
悟空の言葉に相槌を打った焔が、不意にヒョイと身を屈める…と、
「…っ!!」
小さな唇に掠める程度のキスを落とした焔は、満足げな笑みを口許に刻んで踵
を返した。
「バカ焔っ、もう子供じゃないんだからいい加減やめろって言ってんだろ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る悟空に手を振りながら「幾つになろうとお前は可愛い
弟のままだよ」と笑った焔は、軽やかな足取りで出国ゲートへと消えて行った。
「…ったくもう…ア…アレ…?三…蔵…?」
拗ねたように唇を尖らせて三蔵を振り返った悟空の顔が、そのまま固まる。
秀麗なその顔に表情を出すことなく、三蔵が深く静かに憤っていることに気付
いてしまったからである。
「…一つだけ訊く。お前が言う『家族』の範疇には、あの変態も含むのか。」
「ちょ…三蔵、何言ってんの…?」
地の底から響いてくるようなその声の威圧感に、悟空が無意識に後退る。
一方、三蔵の脳裏では出逢った頃の悟空とのとある会話が甦っていた。
初めて三蔵がキスをしかけた日。悟空は確かこう言ったのだ。『家族以外で
は初めて』だと。あの時三蔵は何の疑問もなく、それは亡くなった母親のこと
を差しているのだと思っていた。しかしつい先刻の悟空の反応を見るに、焔の
アレは一度や二度のことではないらしい。
じりっと後退った悟空の身体を力任せに引き寄せる。悟空が驚きの声を上げ
る間もなく、三蔵は半ば強引にその唇を塞いだ。
「さっ…や…ん…っ…」
三蔵がしかけたのは挨拶代わりの軽いものではなく、くぐもった濡れた音が内
側に響く明らかなディープキスである。
一方的に翻弄される形となった悟空は、ぐったりとしながらも懸命に目の前の
横暴極まりない男を睨みつけた。
「こんな人が大勢歩いてる場所で、いきなり何すんだよ…っ!!」
しかし三蔵はそんな怒りなど物ともせず、完全に目の据わった状態で悟空を見
下ろした。
「何すんだ、だと…?消毒及びマーキングに決まってんだろ。」
一瞬呆気に取られた悟空が反論する前に、三蔵は有無を言わさず腕の中の身体
を力一杯抱きすくめた。
「あの変態野郎、覚えてろ…二度とウチの敷居を跨がせねぇからなーっ!!」
三蔵の魂の雄叫びは、真昼間の国際空港ターミナルに轟き渡ったのであった。
HAPPY END…?
《戯れ言》
あー、何だか無性に長かった!いつにもましてとんでもなくバカ話でしたが、
楽しんで頂けたのなら幸いです。
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