俺と三蔵が初めてまともに顔を合わせたのは、俺が小学校に入学する春のこと。
五つ歳上の三蔵は、六年生になっていた。
俺達は正真正銘の兄弟である。でも外見も性格も、それこそまるっきり逆の遺
伝子パターンが受け継がれたんじゃないかってくらい、全く似ているところは
ない。「本当に不思議なものですよねぇ」って、父さんはよく笑ってたけど。
元々あまり丈夫でなかったらしい母さんは、俺を産むのと同時に死んだ。だか
ら俺は母さんのことは覚えていない。男一人で働きながら赤ん坊を育てるのは
無理だろうという話し合いの結果、俺は小学校に上がるまで母方のばあちゃん
の家で育てられた。時折り父さんは会いに来てくれたけど、三蔵が一緒に来た
記憶はない。「お兄ちゃんはね、余所のおうちが苦手なんですよ」って、父さ
んは困ったように笑ってた。その言葉に嘘がなかったことは、実際会ってみて
わかったけれど…でも本当のところは、突然母親が死んでしまったこととか、
それと引き換えのように俺が生まれたこととか、三蔵には受け止めきれないこ
とが沢山あって、父さんはたぶんそれを月日が解決してくれるのを待っていた
んだと思う。
そして六年が過ぎて───父さんは二人の家へと俺を引き取った。
初めて会った『お兄ちゃん』は、ぶっきらぼうでつっけんどんで愛想のカケラ
もなくて、テレビやマンガで見た『お兄ちゃん』とは大分違ってた。でも……
毎日を一緒に過ごすうちに、俺にも少しずつ三蔵の性格がわかるようになって
いった。父さんのように目に見え易い優しさとは違って、とても不器用なもの
だったけれど、それでも三蔵は俺に優しかった。男三人で、俺達は結構うまく
やっていた。
残念ながらその幸せな時間も、長くは続かなかったけど。
ある日突然、父さんは事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。三蔵が十五歳、
俺が十歳の時だった。よほど肉親の縁が薄いらしい俺達は、とうとう二人きり
になった。それでも良心的な親類には恵まれていたようで、流石に二人いっぺ
んには無理でも、バラバラでなら俺達を引き取るという話は幾つも出た。だが
三蔵は「二人でやっていけるから」と、それを全て断った。特に俺への情が強
かったばあちゃんは最後まで粘ってたらしいけど、三蔵は頑として首を縦には
振らなかった。俺はまだ子供だったからその辺りは全然わからなかったけど、
家が持ち家だったことや、父さんがそれなりの貯蓄をしていたこと、保険金が
下りたこと、事故の賠償金が入ったことで、俺達が暮らしていくのに金銭的な
問題はなかったらしい。結局は三蔵が成人するまで財産管理は弁護士さんに任
せるということで、俺達は二人だけの生活を始めた。
どんなにお金の不自由がないといっても、子供二人で日々の細々としたことを
こなすのはやっぱり大変で。まだ十歳の俺に出来ることは限られていたから、
そのほとんどを三蔵が負担する結果となった。
学校から帰って、家のことをやって、俺の面倒をみて、それから勉強をして…
おそらくあの頃の三蔵は、ほとんど自分の為に使える時間なんてなかったと思
う。家政婦さんを頼むくらいの余裕はあったんだろうけど、三蔵は他人を家に
入れることを嫌った。友達と遊びに行くことも出来なくて、ただでさえ人付き
合いの苦手な三蔵は、益々一人になった。
『やっぱ俺…ばあちゃんのトコに行った方がいい?』
二人での生活が三ヶ月を過ぎた頃、俺は三蔵に言った。三蔵は不機嫌丸出しの
顔で俺を睨んだ。
『何だそりゃ…テメェは俺と二人が不満なのか』
『ちが…そうじゃないけどっ…これじゃお兄ちゃん、友達と遊びにも行けない
じゃん…』
俯いてしまった俺の頭を、三蔵は乱暴な手つきでクシャリと撫でた。
『ンなこたぁどうだっていいんだよ。つまんねぇコト気にすんな…お前がいな
くなるよりは、いい…』
ぽつりと落とされた不器用な一言は、泣きそうなくらいあったかくて。
俺がこの話をすることは、二度となかった。
その代わりに俺も、なるべく三蔵に協力するように努力した。二人でやってい
こうと言ってくれた三蔵の負担を、少しでも軽くしたいと思ったから。中学に
上がっても部活には入らず、家のことを優先にした。三蔵と比べれば友達と遊
ぶこともそれなりにあったけど、それでも家で三蔵といる時間の方が圧倒的に
長かった。
そうやって二人で生活を支え合いながら───気が付けば八年が経とうとして
いた。
学校から帰宅して夕飯の支度をしていた悟空の耳に、玄関のチャイムの音が届
いた。家事の手を止め小走りで玄関へと向かった悟空が扉を開けると、門の前
に見慣れぬ二人の青年が立っていた。
「突然にすみません。玄奘三蔵さんのお宅はこちらでしょうか?」
翡翠色の瞳をした青年が、穏やかな声音で話し掛けてくる。悟空がコクリと頷
くと、青年は如何にも人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、手にしていた紙袋
を差し出した。
「僕達は大学のゼミの後輩で、彼は沙悟浄、僕は猪八戒といいます。先日就職
活動用の資料をお借りしまして、それをお返しに来ました。」
「その為に、わざわざ…?」
「いやー、コレが結構な重さだからさぁ、外で返すのも悪いかと思って、お宅
までお伺いしたワケよ。」
悟空の疑問に、傍らの赤みがかった長髪の青年が気さくな口調で答えた。悟空
は戸惑いながらも、門を開けた。
「あ、あの…よかったら上がって。そろそろ会社から戻ると思うから。」
少々ぎこちない笑みと共に、悟空は二人を家へと招いたのだった。
「しかし三蔵にこんな可愛らしい弟さんがいるなんて、知りませんでしたよ…
もう結構な付き合いになるんですけどね。」
二人にコーヒーを勧め、向かい合う形で腰を下ろした悟空に八戒が語る。八戒
のその言葉に、悟空は何処か困ったような苦笑いを返した。
「三蔵、あんまり自分のこと話さないから…俺も三蔵にこんな親しい友達がい
るって、知らなかった…」
悟空が記憶する限り、父の生前も含め三蔵が友達を家に招いたことはない。
そもそも三蔵は社交的な方ではないし、親しみやすい性格とも言い難い。その
為さしたる疑問もなく、三蔵には親しい友人という存在はいないのだと思って
いた。悟空自身は親しいといえる友も何人かはいたが。やはり友達を家に呼ん
だことはほとんどない。三蔵は他人を家に入れること自体を嫌っていたから、
自然とそうなってしまったのだ。そういう意味ではこうして人を家に上げても
てなしている状況は、非常に稀なことと言えた。
「ナニ?お宅ではお兄ちゃんのコト呼び捨てなんだ?アイツってばそーゆーの
うるさくない?」
悟浄の何気ない問い掛けに、カップへと伸ばしかけた悟空の手が一瞬止まる。
少しの間を置いて、悟空は伏し目がちに微笑った。
「もっと小さい時は『お兄ちゃん』て呼んでたんだけど…もうそんな歳でもな
いし。三蔵は、他の人にはそのテのことにうるさいんだ…?」
逆にそう問い返された悟浄は、軽く腕組みをして「う~ん」と考える仕草をし
てみせた。
「…つーかさ、ヒトのことなんざ知ったこっちゃねぇっつーか、取り付く島が
ねぇっつーか…だから俺らみたく大らかな性格じゃないと、話し掛けることも
できねぇのよ。そんなヤツが仏頂面で座ってるだけなのに、合コンで一人勝ち
みたいな状況になるからムカつくんだよなぁ~…」
「ヘェ…三蔵、合コンとか行ったことあるんだ…」
悟浄の不満の声に、悟空が意外そうに目を瞬かせる。八戒は苦笑いと共に軽く
首を振った。
「本当に義理で渋々…って感じで、2~3回程度ですよ。ゼミの飲み会なんか
でも、一次会でサッと帰っちゃってましたしね。ご両親はいないって聞いてま
したんで、いつも不思議だったんですけど…今日やっと納得しました。弟さん
一人で留守番じゃ、心配ですもんね。」
気遣いを感じさせる八戒の言葉に、悟空の表情は一層伏し目がちになった。
「もう…そんなこと気にする必要ないのにね。」
ぽつりと落とされた呟きの後、玄関から扉を開ける音が響いた。チャイムを鳴
らさずに家に入ってくる人物は、当然一人しかいない。廊下を歩いてくる足音
に、悟空は彼の不機嫌を感じ取った。
バタン!と勢いよくリビングのドアが開けられ、スーツ姿の三蔵が入ってくる。
ネクタイを緩めながら、三蔵はソファーに並んで座る二人に、ジロリときつい
視線を向けた。
「靴の主はテメェらか…何しにきやがった?」
「三蔵っ、いきなりそんな言い方…」
およそ友人への挨拶とは思えない開口一番での一言に、悟空が焦った表情で腰
を浮かす。しかし八戒はさして気にした様子もなく、ニッコリと笑って口を開
いた。
「どうもお邪魔しています。先日お借りした資料を、お返しに伺いました。」
「重くて大変だろうからって、わざわざ持ってきてくれたんだよ。」
「そりゃご苦労なこったな…で、他に用件はあるのか?」
悟空のフォローにも、三蔵のけんもほろろな態度は変わらない。悟浄はおどけ
た仕草で肩を竦めてみせた。
「三蔵サマってば相変わらず素っ気無いのね~、久々に可愛い後輩が顔を見せ
たってのに。」
「そうだよ三蔵ってば…とりあえず、着替えてきて座ったら?あの俺、ちょっ
と外に出てくるから…」
自分がいては話も弾むまいと判断した悟空が席を立ち、玄関へ向かおうとする。
悟空の背中越しに腕を回した三蔵は、その小柄な身体をヒョイと引き戻した。
「余計な気を回してんじゃねーよ。お前、夕飯の支度の途中だろうが。」
「そう、だけど…もう大体出来てるから、帰ってからでも間に合うし」
「いいんですよ。こうして本人にご挨拶もできたことですし、僕らはこの辺で
お暇します。」
「え、でも…」
「ホラ、先輩ってばお疲れみたいだしさ。今日はコレで退散しとくわ。」
あまりに不躾な三蔵の対応に、悟空は申し訳なさそうな表情で口篭もる。しか
し八戒と悟浄は『こんなことには慣れている』といった様子で、笑顔のまま立
ち上がった。三蔵の態度は相変わらずだったが、悟空は玄関へ向かう二人の後
に慌てて続いた。
「せっかく来てくれたのに、ゴメン。」
門まで二人を見送りについて来た悟空は、ペコリと頭を下げた。
「気にしないで下さい、突然伺ったのは僕らの勝手ですし。どうもお邪魔しま
した。」
「そうそう、あの人ってば年中あんな感じじゃん?今更ムカついたりしないっ
て。コーヒーごちそうさん。じゃあ、バイバイ。」
不器用ながらも精一杯の謝意を示す悟空に笑って応えた二人は、軽く手を振っ
てから住宅街の通りを歩き出した。
「しかし驚きましたねぇ…あの人って大概仏頂面ですけど、あんまり感情の起
伏って見せないじゃないですか。それがまぁ思いっきり『誰の許しを得てドカ
ドカ土足で踏み込んでやがるんだ』ってカオしてましたよ。」
フゥ…ッと細い息を吐き出してから、八戒がしみじみとした口調で語る。悟浄
は「同感」とでも言いたげに小さな苦笑いを浮かべた。
「歳の離れた弟がいるなんて、今までコレッぽっちも聞いたことなかったもん
なぁ…アイツってば、何気にブラコン?」
「『何気に』じゃなく『相当な』の間違いでしょう…まぁ確かに、素直で可愛
らしい感じの子でしたけどね。」
静かな声で呟いた八戒は、既に他の住宅に紛れて見えなくなってしまった二人
の家を振り返った。
悟空がリビングに戻ると既に着替えに行ったらしく、三蔵の姿はなかった。悟
空は短い溜め息を一つついてからカップを片付け、夕食の支度に戻った。
「何で機嫌悪いの…?」
数分後のこと。背後に三蔵の気配を察した悟空が、振り返らぬまま問い掛ける。
三蔵は悟空の身体を抱き込むように両腕を回し、後ろから肩口に顎をのせた。
「お前がホイホイ他人を家に上げたから。」
「他人て…三蔵の友達だろ?」
何処かスネているような三蔵の物言いがおかしくて、悟空が微かに笑みを漏ら
す。三蔵は小さな耳に唇を押し当てた。
「だから、『他人』だろ。」
息を吹き込むように囁きを落とされて、腕の中の身体がピクリと震える。その
反応に気を良くした様子で、三蔵は耳朶を軽く甘噛みした。
「さんぞ…っ、まだ支度の途中なんだから…っ」
「別にヤメろなんて言ってねぇだろ?そのまま続けりゃいいじゃねーか。」
困惑気味の悟空の声に、明らかに面白がっている口調で答えた三蔵は、耳元か
ら項へそっと唇を滑らせる。前に回されたイタズラな手が、スルリとシャツの
内側に入り込んだ。
「…っ」
自分より少し体温の低い手が肌をなぞっていく感触に、思わず悟空が息を詰め
る。それを充分承知しながら、なおも三蔵の手は止まらなかった。
「…三蔵…意地、悪い…」
じれったいほど緩やかな愛撫に、とうとう悟空が音を上げる。三蔵は吐息だけ
でクスリと笑ってから、悟空の身体をこちらへ向かせた。
淡い潤みを含んだ金の瞳が、三蔵を見上げる。薄く開かれた唇に、三蔵は噛み
つくように口付けた───。
高校に上がる直前の春休み───三蔵が二十歳、悟空が十五歳のある夜を境に、
二人は世界中で自分達だけの秘密を持った。
それが世間で呼ぶところの『過ち』というものだとわかってはいたけれど。
不意打ちのように抱き竦められた腕の熱さを、悟空は拒もうとは思わなかった。
父を亡くして以来、二人で互いを支え合ってきた。当時の悟空の世界は、圧倒
的に三蔵で占められていた。三蔵以上に好きだと思える存在も、三蔵以上に大
切だと思える存在も、悟空にはいなかった。それが三蔵の望むものなら、譬え
どんな形の繋がりであろうと構わなかったのだ。
それ以来───悟空は三蔵を『兄』と呼ぶことをやめた。
週末のこと。悟空は珍しく学校帰りのまま街を歩いていた。いつもは夕食の仕
度の為に家へと直行の悟空だが、この日は三蔵が職場の宴会に参加するという
ことで、その必要がなかったのである。友達の買い物に付き合った後、夕食用
の弁当を買った悟空は、車道を挟んだ反対側の歩道に三蔵の姿をみつけた。
おそらくこれから店へと向かうのだろうスーツ姿の一群の中に、三蔵はいた。
(あ…)
似たような色合いの中にポツポツと見える鮮やかな色彩。三蔵のいる部署は大
半が男性だと聞いていたが、それでも何名か女性社員もいるらしい。その中の
一人が、すぐ横を歩く三蔵に、熱心に話し掛けている。三蔵は不機嫌を露わに
することもなく、静かな表情で適当に相槌を打っているようだった。
(なーんだ…結構上手くやってんじゃん…)
家での三蔵は、会社のことなどほとんど話さない。無論三蔵とて立派な社会人
なのだから、それなりに波風を立てぬようにしているのだろうとは思っていた。
だが仕事上はそうでも、一歩会社を出れば声を掛け合う人などいないのではな
いかと想像していたのだが…どうやら悟空の思い込みが強すぎたらしい。こう
して目の当たりにした彼は、それなりに人の輪の中にとけ込んでいる。
その事実にホッとする反面、道路の向こう側に向けられているその眼差しは、
何とも複雑な色を帯びていた。
家に帰った悟空は一人黙々と買ってきた弁当を食べ、風呂から上がった後大し
て見る気もないテレビをつけてソファーに寝そべっていた。画面の向こうで湧
き上がる空々しい笑い声が響く中、悟空はあてどもない考えを巡らせながら天
井を見上げていた。
いつの間にか自分達は
お互いの食事の心配をしなくても済むようになって
大抵のことは自分一人で出来るようになって
次第に手助けし合うことも減って
暗黙のうちに各々が都合の付く時に当番をこなすようになって
二人で一緒に家にいる必要もなくなった
二人きりで閉じられた幸せの家
そんなものはもうとうになくなっていたのだ
見慣れた天井を金の瞳に映していた悟空は、その瞼をゆっくりと閉じた。
何か重いものが上からのしかかってくる気配を感じ、悟空がゆるゆると目を開
く。どうやら少しうたた寝をしてしまったらしい。
「こんな寝方してると風邪引くぞ。」
静かな声と共に鼻先にキスを落とされる。悟空は眉を顰めて「酒臭い…」と呟
きながら、三蔵の身体を軽く押し返した。
「早かったね…たまには二次会とか行ってくればいいのに。」
「バーカ、義理で仕方なく行ってるモンを、何でそこまで付き合わなきゃなん
ねぇんだ。」
衿元をくつろげながら、如何にも不本意そうな表情で三蔵が答える。これまで
の悟空は、三蔵の言葉を額面どおりに受け取ってきた。確かに三蔵は人付き合
いが得手な方ではなかったから、何の疑問も持たなかった。だが。
『弟さん一人で留守番じゃ、心配ですもんね』
悟空の脳裏に、先日の八戒の言葉が甦る。思い返してみれば、そうだったのか
もしれない。こちらが勝手に思い込んでいたほど、三蔵にとって人との集いは
苦痛なものではなくて、時には盛り上がって楽しんでいても、単純に悟空への
気遣いから早めに帰宅していただけなのかもしれない。
「悟空…?」
黙り込んだままの悟空の前髪を、三蔵の手がクシャリと撫でる。悟空は三蔵を
安心させるように首を横に振った。
「何でもないよ…ちょっと寝ボケてただけ。酔ってないなら、風呂入ったら?
まだ俺が出てからそんなに経ってないから、いい湯だと思うよ。」
ソファーから身を起こし、悟空は笑顔で三蔵を促す。三蔵は「そうだな」と頷
いてリビングから出て行った。
ドアの向こうへ消えた後ろ姿を、悟空はぼんやりとみつめていた。
風呂上りの三蔵が洗い髪をタオルで拭きながら、悟空の横に腰を下ろす。当た
り前のように引き寄せられて、悟空は三蔵の肩に頭を預ける形になる。まだほ
の温かい肌に頬を寄せ、悟空は暫し穏やかな時間に身を委ねた。
「なぁ…三蔵?」
何か話を切り出すように悟空が呼びかける。三蔵はこげ茶色の髪を緩く梳き、
悟空に話の続きを促した。悟空は躊躇いがちな表情で再び口を開いた。
「俺さぁ…進路、就職にしたじゃん?」
悟空は現在高校三年生、来春からの進路を決定する岐路に立っている。「お前
を大学に行かせるくらいの余裕はあるから」との三蔵の言葉に、悟空は首を縦
には振らなかった。決して勉強が好きではない自分が、さしたる目的も無く大
学に行っても意味はないと思ったからだ。三蔵は秀才で、国立大学にストレー
トで入った。だから三蔵自身は大学進学に際し大した出費をしていない。しか
しどう考えても悟空に同じ芸当は無理だし、そうなれば結局無駄な出費をする
のは避けられない。ならば就職をして少しでも早く自活できるようにした方が
いいと思ったのだ。如何に亡き父がそれなりの遺産を残してくれたとは言って
も、それとて無限にあるわけではないのだから。
「でさ…勿論すぐには無理なんだけど、給料もらえるようになって、ある程度
金が貯まったら…そしたら俺、この家を出ようと思うんだ───。」
悟空の髪を繰り返し梳いていた三蔵の手が、止まった。明らかに周りの空気が
変わったことを承知しながら、悟空は更に話を続けた。
「…俺も仕事するようになれば、お互いの生活ペースも変わるしさ…別々に暮
らせば、相手が待ってるとか気にすることないし…第一さ、いつまでもこんな
でかいコブがくっついてちゃ、三蔵、家に彼女も呼べないじゃん…」
「テメェ…ソレ本気で言ってんのか」
精一杯明るい風を装っている悟空に対して、三蔵の声は硬く冷たい。それでも
悟空は臆することなく静かに微笑った。
「今はそうじゃなくても…いつかはそういう時も来るよ。」
そしてその『いつか』は、おそらくさほど遠いことではない。ならばこれを一
つの良い区切りとして、二人は離れた方がいいのだ。
まだ自分がこうして笑って、話を切り出すことのできるうちに。
「…っ!?」
次の刹那、悟空は声を上げる間も与えられずに、一切容赦の無い力でソファー
の上に抑えつけられた。頭を強く打ち付けた衝撃に、悟空が反射的に目を瞑る。
上から抑え込む形で自分を見下ろしているであろう三蔵の口から発せられる一
言を、悟空は目を閉じたまま待った。それが嘲笑でも怒号でも、ありのままに
受け入れようと思っていた。
二人の間に、沈黙が落ちた。一向に三蔵からの反応がないことを訝り、悟空が
ギュッと力を入れて閉じていた瞼をおずおずと開く。その瞳に映った三蔵の顔
に浮かんでいた表情は嘲りでも憤りでもなく、深い色を宿した紫の瞳は、ただ
真っ直ぐに悟空をみつめていた。
「…話せよ。」
ひどく静かな声で、三蔵はぽつりと言った。
「お前が何をどう考えてんのか、ちゃんと話せ。でないと俺には、何が不安で
お前がこんな風にもがいてんのかわかんねぇ。」
「あっ…」
三蔵の言葉に、悟空の中で張り詰めていた『何か』がプツリと途切れる。この
まま瞳を合わせていることがつらくて、眼前で腕を重ねるようにして、悟空は
目許を覆い隠してしまった。
「この間あの人達が家に来て…俺は三蔵に『お前』『アイツ』って言い合える
ような友達がいたなんて知らなくて…三蔵がつっけんどんな言い方しても二人
は全然怒ってなくて…この人達は本当の友達なんだなって、そう思った。つい
さっきさ…俺、三蔵が会社の人と歩いてるの見たんだ。隣りを歩いてた女の人
が三蔵に話しかけてて…何話してたのかはわかんないけど、面倒そうなカオも
しないで、三蔵ちゃんと返事してた。俺さ…三蔵は人といるのが苦手って勝手
に思ってたから、どっちもビックリして…でもそれは間違いなく、三蔵にとっ
ていいことなのに…俺、笑えなかった。笑って『よかった』って思えなかった。
こんなのオカシイよっ…三蔵に心を許せる友達がいることも、会社の人と上手
くやってることも、本当なら嬉しいって思うのが当たり前なのに…そう思えな
い俺は、どう考えたって間違ってる…このままいったら俺…三蔵が他の誰と幸
せになるのも許せなくなる……っっ」
ぽつぽつと落とされた呟きは、最後には血の滲むような心の叫びに変わった。
感情の高まりから戦慄く唇に、三蔵はそっと触れるだけのキスを送った。
「…腕どけて、顔見せろ。」
「イヤだ…今の俺きっと、すっげぇ身勝手でイヤなカオしてる…だから、イヤ
だ。」
あくまで静かな三蔵の声に、悟空は顔を隠したまま首を振る。無防備に晒され
た腕の内側に、三蔵は戯れのように軽く歯を立てた。
「イヤなカオ、見せろよ…それも全部ひっくるめて、俺のモンだ。」
決して無理強いではなく、三蔵は柔らかな動作で悟空の腕を解く。奥から覗い
た金の瞳は、今にも泣き出しそうな潤みを帯びていた。
「…間違ってることは、幸せじゃねぇのか…?」
不意に零れた三蔵の問い掛けに、悟空が瞠目する。三蔵は視線を逸らすことを
許さない強さで、正面から悟空を見据えた。
「…少なくとも俺は、そうは思わない…だからお前は幾らでも身勝手を言って
いいし、俺をがんじがらめにしてもいいんだ…俺は、お前以外との幸せはいら
ない。」
「さん…ぞ…」
堪えきれなかったように、金の瞳から大粒の涙が零れる。未だあどけなさを色
濃く残す丸い頬を伝っていく雫を、三蔵はそっと唇で掬い取る。その口許には、
これ以上はないくらいの満足げな笑みが刻まれていた。
『お兄ちゃん…?』
全くものおじせずにこちらを覗き込んできた、零れ落ちそうな丸い瞳
素っ気無く頷いてやれば その表情は次の瞬間、満面の笑顔に変わった
呼びかけてくる明るい声 いつでも真っ直ぐに見上げてくるひたむきな眼差し
はにかみがちに笑い身を寄せてきた小さな身体の この上なく甘い温もり
一体始まりはいつだったのか 自分でもはっきりとはわからない…だが
この『想い』を自覚した時───それは既にどうにもならない『恋』だった
想いを抱え続けていた二十歳の春 身体を開くことの意味すら知らない存在を
半ば無理やりこの腕に閉じこめたのは 抑えきれなかった己のエゴ
この眼差しが新しい世界へ向けられてしまわないうちに
澱みのない瞳が自分以外の者を映してしまわないうちに
外を垣間見る隙間すら その世界から奪った
二人きりで閉じられた幸せの家
それは自らが意図的に作り上げたものだったのだ
頼りない腕が肩へと回され、しがみつくように三蔵の身体を抱き寄せる。
三蔵はゆうるりと微笑い、小さな嗚咽を漏らす唇に、何度も何度も柔らかな口
づけを送り続けた。
進むことも戻ることも適わない二人の亜幸福は、何処までも甘かった。
苦しい恋の羽の下
少しだけ息をしながら
どうしようかと考えた
どうしてこんなに世界が
せまくなってしまったのだろう
すべての考えがみんな
彼へと向かっていく
銀色夏生 『苦しい恋』
…END.
《戯れ言》
そんなワケでして、おそらく最初で最後の(?)「兄弟モノ」でございました。
今回の話はアンケートでの、風河サマのご意見を参考に書き出したのですが…
おそらくリクエストした方の読みたかったモノとは似ても似つかぬ物になって
しまった自覚はアリまくりです(汗)どうしても私が自分の書きやすいように
書くと、こういう感じになってしまうのデスネ(苦笑)
いや…私は好き放題書いて結構楽しかったですけど(←開き直りかい)
そして真に勝手ながら、この話は風河サマに奉げてしまいます(笑)
どうもありがとうございましたm(_ _)m
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